フォーラム終了

いよいよ@niftyのフォーラム廃止が決まった。来年の三月末。サークル、マイデスク機能も一緒。

最近とあるwebフォーラムを覗いたところ、マネジャーのブログは気を吐いていたが掲示板は幽霊屋敷。

あの掲示板は、最新投稿がトップにくるので話の流れを追いにくい、中途半端に形成されるコメントツリーは話の流れを追うのにほとんど役に立たない、引用符が論理行の頭にしかつかないので、整形していない文は引用されても区別しにくい等等の問題を抱えていた。したがって使われなくなっても驚くには値しない。フォーラム安楽死のための毒薬だったのではないかと言いたくもなる。

もっとも掲示板には決定版はないようだ。だが2ちゃんねる型(スレッドフローティング式)が広まってきているように見えるのは、やはり時間順に読みたいという欲求があるのではないか。あれにいくつかの改良(タイトル、空上げ制限、スレッド間リンクなど)を加えれば、結構使い勝手の良い代物になったろう。

掲示板機能にのみ利用減少の原因を求めるのは妥当ではないにしても、後手後手の一つの象徴に思えてならない。

もっともトラックバックの付け方の混乱(スパム的トラックバックやリンクされているのにトラックバック返し等)を見ると、少しくらいシステムを整備しても読みやすい意見交換は難しいかもしれない。そもそも論理的な文章は愚か、自分の感情が伝わるような文章すら書けない人が多い。それはまぁ表現の自由な訳だが。

有象無象の中から読むに値するものを選び出すシステムが有効に機能するためには、一発言一ファイルに収束する?

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ネチケットは死語か

ニフティのワープロ・パソコン通信サービスの終了で感傷的になって、テクノラティで「ニフティサーブ」とか「パソコン通信」を検索してみた。さすがに思い出を語る人が多い。(私も簡単なエントリーを投稿しようとしたところ、サーバがエラーを返すばかりで受付けないので意地になって保存ボタンを連打したころ...同じものが8つも登録されていました。全部テクノラティに拾われています。blogからは焦って削除しましたが、お目汚し失礼>テクノラティ利用者各位)

さて、感傷ついでに「バイオフォーラム」も検索してみた。今では別のバイオフォーラムの方が多くヒットする。しかし長期滞米研究者ネットワークに「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残し、バイオフォーラムは死んでネチケットを残す、」とあるのを見つけてびっくり。

どなたかはわからないが、こういう評価もあるのだ。「研究者のネットワーク化のはしり」の方が格好いいけれど。

そういえば管見の範囲なれど、古くからの「ワープロ・パソコン通信」を知る人が、繰り言のように昨今の無法地帯化を嘆くのを目にする。だが、古いネチケットの中には時代に合わないものもあるし、利用者が多様化した現在では一つの規律で統一するのも無理だ(当時でも無理があった)。

とはいえ、たとえば酒席の愚痴で聞いた臨床医のメーリングリストの惨状では、誰もが不幸になっている。いい歳をした大人が、世間では先生と敬われている医師が、ネット厨房顔負けの泥仕合。才能の無駄遣い。なんとかできないものだろうか。淘汰されて、まともなところへ収束されて行けば良いが、崩壊して、まともなところへ流れ込んで、そこも混乱させるおそれがあるから放置は恐い。

思い起こせば、前世紀にあっても「ネチケットなんて」という意見はあった。今に始まった話ではない。


かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。(コヘレトの言葉 / 1章 9節)

ということは、遡れば印刷技術が普及した時にも似たような混乱はあったのだろうか。庶民が文盲ならば、その劣情に訴える赤新聞なんて商売にならなかった訳だし。海賊版の横行があってはじめて著作権は意味を持ってくる。

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リソースなくしてリサーチ無し、リサーチなくしてリソース無し

NBRP(ナショナルバイオリソースプロジェクト)のシンポジウム「バイオリソースとライフサイエンス研究最前線」に参加した。

基調講演は遺伝研においてマウスの系統保存事業を推進してきた森脇和郎と、リソース利用者代表として本庶佑という大物二本立て。

業務の都合で午後になって参加した文科省職員が「森脇先生は“研究者は敵だ”とおっしゃったでしょうか」と心配していたが、リソース事業は今の日本では「業績」にならないから敬遠され、しかも予算は奪い合う相手だから、対立してもおかしくはない。だが、「リソース(材料)なくしてリサーチ(研究)無し」。そもそも材料が入手できなければ研究は始められない。また自分で作出した場合でも、それを維持し、請求があれば分譲しなければならないから、その負担は研究者にとって大きい(かつて論文に載せた材料の分譲は研究者の仁義であったが、今や不正疑惑への身の証としても材料保存は必須になっている)。だからリソース事業は研究者にとって利益なのだ。

ここまでは子供でもわかる理屈(大人になると総論賛成各論反対に)。凡人と違うのは「リサーチなくしてリソース無し」と開発事業に駒を進めていること。生物の多様性を見くびると誤った結論に安住する危険がある(そういえばヒトゲノム計画で「誰のゲノムを分析するのか」はどう解決したのだろうか)。

「リサーチの予算を少しで良いからリソースに割いて」と慎ましく要望されていたが、リサーチグラントがないなら、科研費からはオーバーヘッドとして一律拠出するくらいしてはいかが>文科省殿

おっとその前に、省庁間の軋轢があるような指摘がありましたが、その解決が先でしょう。利用者としては何省の事業かは重要ではない筈。

話は変わるが、情報公開サイトは24のリソース(中核機関)を提示しているものの、「並べただけ」つまり縦割り的という印象がある。たとえばヒトの高次神経活動を研究使用とする人はニホンザルに直行してしまうのではないか。まぁ、マウスやラットにも注意を払うとは思うが、ショウジョウバエやゼブラフィッシュはどうだろう(ナルコレプシーのゼブラフィッシュには正直驚きましたよ)。目的に応じて適切なリソースを紹介するような機能はあるのだろうか。ある市役所の案内図を思い出してしまった。役所を訪れる市民は「〜〜の用事は何課に行ったら良いのか、その課はどこにあるのか」を知りたいのに提供されているのは「一階の案内図はこちら、二階の案内図はこちら...」形式。利用者の視点になってない。



会場で、バイオフォーラムのアクティブであったMさんを発見。相変わらずお元気の様子だが、頭髪がすっかり白くなっていたのにはびっくり。歳月のせいばかりではなくご苦労もされているのでしょう。

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セミナー「科学者の論文捏造事件の背景とその防止策」

セミナー「科学者の論文捏造事件の背景とその防止策」に行ってきた。

まずは黒川清日本学術会議議長のアジテーション。(公式サイトという http://www.kiyoshikurokawa.com/ のリンク先は少なくともMacでは表示できません。上記のリンク先は「民間医局」で、そこのフレームからDr.Kiyoshi Kurokawaを見る仕組みになっている。) 

捏造などの不正が罷り通るのは研究室が縦社会で教授を批判ができる雰囲気が無いからだ、と。打開策の第一は他流試合の推奨、つまり学部生を同じ研究室の院生にしない...という話を聞いていて、生化学若い研究者の会夏の学校で同趣旨の提言をした事を思い出した。

ただ、これは「ニワトリが先か卵が先か」。学生が動かないから閉鎖的で澱んだ研究室になるのか、排他的な文化が蔓延しているから賢明な学生は動こうとしないのか。

そうすると次の提言である「駆け込み寺」は即効性が期待できる。あるいは『目安箱」でも良いだろう。もっとも本物の目安箱は記名式で役人の面前で投票するもので、それを嫌った投げ文が多く吉宗を怒らせた、と読んだ覚えがある。

面白いのは、判例を積み重ねるコモンロー方式の方が柔軟に対応できるという指摘。完璧な不正防止対策を作ろうと手をこまねいているより、まず主要な部分を抑え、雑魚は後から追い詰めるというのは賢い方法だ。

続いて浅島誠副議長が講演。正副議長がそろって出席という事は学術会議として不正問題を重視していると言う事だろう。それは言うべき事を、言うべき時に、言うべき人が言う大切さを率先垂範しているようだ。

学術会議としては「科学なんて所詮は」という冷笑的不信感の蔓延を恐れている。しかしせっかく信じてもらってもそれを科学者側が裏切っては台無し。科学者の横断的なコミュニティの必要性を訴えていた。

しかし学術会議ではその機能を担えないだろう。学会でさえ、総会は委任状で成り立っている有様。ICTの利用はどうだろう。ニフティに作られたバイオフォーラムは見事に消滅した。匿名掲示板では2ちゃんねる化するだろうから真面目な議論は難しい(なにせ、正式な不正告発でも40%は意趣返しなど不純な動機に基づくという調査があるというのだから)。そこで残された希望はblogとSNSとなろうが、野次馬根性は旺盛なくせに、自分の持っている情報はなるべくオープンにしたくないという人たち、あるいは日本人は他人と異なる意見を書けないというNYから帰ってきた社長が指摘する壁が控えている。同一性と匿名性の保証を両立させられれば多少前進はするだろうが、1日は24時間(=駄文に目を通す暇は無い)という制約はなかなか超えられまい。

3番目は山崎茂明愛知淑徳大学教授による「何故、論文捏造事件が起こるのか? その背景と防止策」。

まず、なぜ不正行為が問題となるのかという根本的な問題提起。答えは、研究は個人的営為に止まらず、その成果は公共財であり、水や食品の安全性と同様に知識や情報の質もチェックされなければならないから。科学も公衆衛生の対象である、と。

それからUSAの研究不正史を概観し、公正を司る機関Office of Research Integrity(ORI)が警察ではなく教育・啓蒙活動をしている事を紹介。「なぜ起こるのか」はよくわからなかったが、「どう防ぐか」の答えはあったと思う。不正疑惑への対処システムの無い組織はNIHの研究助成を受けられないというのも効果的。

続いて理研(2004年に不正事件発覚)の土肥義治理事が理研における不正疑惑への対応方針を説明。理研は不正行為を捏造(Fabrication)・改竄(Falsification)・盗用(Plagiarism)のいわゆるFFPに限定しているが、その対応方針は会場の弁護士から how to まで触れられた素晴らしいものとお墨付き。監査・コンプライアンス室の室長は専任というのも力の入れようがうかがわれる。

企業側から協和発酵バイオフロンティア研究所の中野洋文リサーチフェローが独自の研究日誌を紹介。不正はいけないいけないと言われたら暗く萎縮するけれど、不正のできないシステムにすれば伸び伸びと研究できる、と。しかもこのノートはUSAでの特許紛争を勝利に導いた、つまり研究者にとっても利益のある方法。異動が激しい中にあってしっかりと伝承されているらしい。着想から考察まですべて書くことが指示され、貼付けたデータには割り印と第三者の確認サインまで行われている。だが、感熱紙の出力は退色するし、いざ裁判という時に署名者が証言台に立ってくれないとかえって揉めないだろうか(毎回異なる署名では偽造疑惑に反論できないが、毎回同じ人物だと癒着疑惑が)。

研究ノートとしては後からの書き加えは重要だろう(特に着想や研究計画)。だが証拠価値からすればそれは御法度。また筆記具の指定があるのかなど、もう少し詳しく聞きたい気も。ちなみに科挙の採点では、不正を防ぐために採点段階毎に使用する墨の色が違っていて答案や採点の書き換えを防いでいたという(宮崎市定「科挙 中国の試験地獄」による)。

ちなみにこのブルーノートは会社のものであり、書き終わったものは研究所の地下書庫に保管されているという。

ノートに書き込めないデジタルデータは記憶媒体に収めて公証人役場で封印する。これも先発明主義への対抗。(しかし、将来取り出したところで再生する機器が残っているのか心配。たとえばMOとか5インチFDは絶滅危惧種。1.2Mはもう絶滅? また媒体によっては時間経過でデータが消失するおそれがある。)

最後にパネルディスカッション。まず竹岡弁護士がコメント。
1)大切なのは責任の分界(その人に問うべきは何の責任かを明確にし、曖昧な総懺悔を許さない)
2)手続きの公正さ(デュープロセス)を守ること
3)予防法は具体的に(「教育をしましょう」は「どういう教育」がなければ意味が無い。)

続いて社員のインサイダー取引で揺れる日経の宮田編集長が4つの問題提起。
1)不正が起こる背景はなにか
2)調査・検証はどのように行うか
3)ペナルティーはどうするか
4)予防策はどのように

実は不正が起こる背景はよくわからない。醜聞が最近連発したのでなんとなく近年の傾向のように思ってしまうが、古くはN線とか、ちょっと下ったところでもカンメラー事件、近い所ではイルメンゼー疑惑(これは疑惑止まり)、常温核融合事件なんてのもあった。この時間的空間的な広がりをしっかり把握しないと、局所的な事象、たとえば国立大学の独立法人化に目を奪われてしまうだろう(先生方のご苦労はお察し申し上げます)。

親会社(ルーセント)の業績悪化がベル研の捏造事件の原因かもしれないが、研究費を削られながらも正直に研究を続けている人が圧倒的多数(の筈)だし、研究費を獲ってしまった事で引っ込みがつかなくなっての捏造もあるだろう。

また捏造・改竄と盗用は本質的に異なる。前者は虚偽だから事実によって覆される。論文稼ぎには使えるが、ロイヤルティを取って世界にお披露目したら一発で化けの皮がはがれてしまう。


調査・検証は(捜査の)素人には重荷だろう。しかし研究上の不正は研究者でなければ見抜きにくい。といって、研究上の不正だから適正手続きを保証しなくて良いとはならない。不正を憎む気持ちを悪用して、競争者を讒訴して追い落とそうとする輩が出るかもしれない。疑われるだけでもダメージは大きい。だから被疑者の権利保護と手続きの透明性確保(公開原則)の両立を図らなければならない。

同僚研究者であっても「結果の不正」は見抜くのが難しいというのが土肥理事の見解。確かに本気で再現実験をしようと思ったら同レベル以上の専門家を動員し同じ条件で行う必要がある。しかも再現性が無いといっても、「たまたまうまくいった」可能性は否定できない。さらに本人も見落としている重要因子があって、それがないために再現できないのかもしれない。

それに対して「プロセスの不正」であれば、実験ノート等の精査で判定できる(言い換えると、そこまでしっかり捏造されたら解明は困難)。きちんとした研究ノートをつけない人には辛い時代が来ますね。ん、小さいけれどビジネスチャンス?

処罰となるともっと難しい。ORIが不正を認定した場合に「研究助成の自発的辞退(Voluntary Exclusion Agreement)」へ署名させるだけで、あとはそれぞれの研究コミュニティに委ねているのはうまいやり方だ。不正の定義自体が様々(FFPに限定するところと「重大な逸脱」も含めるところと)だし、既存の規制での処分(研究許可や助成金の取消など)でも対応できるから。

そうした苦労を考えれば、不正を予防する方がはるかに効率的だ。だが、ここはややもすると抽象的精神論に流れがち。教育云々はどうしてもそうなる。不正行為は研究者の自殺だと叩き込もうとしたところで「これくらいは」「バレなければ」「誰にも迷惑をかけなければ」「ウソも方便」には馬耳東風。

まず「なにが不正か」をしっかりと共通認識にしなければならない。精製できたことを確認するために電気泳動にかけた。マイナーバンドが見えたので「もう一晩脱色しよう」はやっぱり改竄ですよね。「それは何故いけないのか」も重要。科学的成果は公共財だから紛い物を混ぜてはいけないというのは正論だが、「はぁ?」という研究者もいると思う。そして「どれくらいいけない事か」が理解されなければ不正は絶えない。

ここで思い出すのは企業で研究をしていたときの事。上層部を喜ばせられるような結果を出せずに悩んでいた頃、学会で大学院の先輩と会い、夕食を共にしながら近況報告をしつつ冗談まじりに「データを粉飾したくなりますよ」と言うと、真顔で「それは絶対にやってはダメだ」と怒られた。おそらく、こういう小さな教育指導の積み重ねが全体の品質を保っているのだろう。(念のため付け加えておくと、もし立場が逆であったら「それは自分の首を絞める事になるよ」と忠告しただろう)

閑話休題。NIH流に研究費を断つのは有効だとしても、政府を含め日本の助成機関がそこまで毅然とした対応をするだろうか。制度を作れば守るのが官僚の美点だが、入り口のところで骨抜きになってしまう気がする(敗者復活戦の機会を与えるとかなんとか)。それに不正をする動機のない地方小短大にまでコンプライアンス室の設置を義務づけたら、それは体の良いいじめだ(いやいや、就職難から取りあえず職を得た若手が主流への復帰を目指して不正をするかもしれない...)。

面白かったのは、不正をした研究室は共通して雰囲気が暗い、という土肥理事の指摘。つまり闊達な相互批判のないところ、教授の専制支配に室員が萎縮しているようなところには不正が芽生えやすいということか。



追記:公式報告はBTJジャーナルの第三号に掲載(PDFで無料提供)。

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よみがえる悪夢

mixi内で「自分の書いたcgiが、利用規約無視の著作権表示抹消状態で使用されているのを発見」という相談というか報告。件のフォームを見ると、確かにソースにはその人が著作権者である旨の記載があり、不法改造は明瞭。

それでフト思い出したのがニフティサーブ時代の著作権トラブル。ニフティに対して「バイオフォーラムのライブラリにある日本語変換用辞書は当社の製品のパクリの疑い」というクレームがあり、調べてみると相手の言う通り動かぬ証拠が。

ところが登録者に質してみると、なんと別フォーラムにあった「フリーの辞書」を活用したものだと言う。結果的に著作権侵害はしているものの善意の第三者。その先はニフティと当該フォーラムのマネジャーに委ねたので仔細は覚えていないが、世の中には図々しい、困った人もいるものだ。それ以上に恐いのは、「フリーです。みんなで活用してください」と提供されたものもうかうかと信用できないという、会員相互の信頼に影が差したこと。

世紀が変わった今では「ウソをウソと見抜けない人は」と公然と語られる時代。そういえば、話は少し違うが、ベクターに長年登録されていたソフトに作者によってトロイの木馬がしこまれていることがわかって騒ぎになったのは昨年の事だったか。こうなると何を信じて良いのやら。

とりあえず件のcgi作者には、最初から喧嘩腰に臨んで振り上げた拳のやり場に困る事がないよう忠告した。

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亡くなっていた月田承一郎さん

朝日新聞夕刊の「惜別」を見て息を飲む。京都大学の月田承一郎教授が昨年12月に、がんのため逝去していたという。

思い出される事は多々あるけれど、とても書き出せない。

まだ52歳。2月16日に偲ぶ会が開かれるとの事。

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そしてフォーラムは衰退した

トラックバックの方法について論争が起きている。トラックバックをかける時に、相手の記事への言及やリンクは必要か、というもの。

実はブログがはやり出してしばらくした頃から、言及リンク無しのトラックバックに対して、「スパムトラックバック」「アクセス乞食」といった罵声が投げつけられて局地戦は起きていたようだが、大手ISPであるライブドアが「2006年から元記事へのリンクの無いトラックバックはシステム的に排除」という仕様を導入すると発表して蜂の巣を突いたような騒ぎに。(同じ仕様は先に「はてなダイアリー」で実装済みだが)

言及リンクは必要とするうちの一派は、自らを「言及リンク文化圏」と名付け、リンク不要派を「関連仲間文化圏」「ごあいさつ文化圏」「spam文化圏」と分類している

文化の違いなのだから、黒白つけるわけにはいかない、という縮小均衡路線らしい。折伏するのは諦めたから、こっちの領土に踏み込まないで、という悲鳴にも聞こえる。(この分類自体、議論の余地はあるのだが、それはさておき。)

そして互いにトラックバックについてのポリシーを明記して尊重すれば、というところに落とし所が求められているようだ。

しかし検索エンジンからの直リンクを辿ってくる人に、サイトポリシーを読まれるように提示するのは至難の技。(それに「法三章」よろしく大まかな方針を示して良識に委ねるという人と、その良識が信じられなくなったからと細かく規定する人とに分かれるのは必至で、前者には想定外の「迷惑」行為が、後者には「何様のつもり」「学級委員か」といった非難そして稚拙な素人規則にありがちな相互矛盾や隙間を衝くイヤガラセが寄せられるだろう。)

これで思い出されるのは、@niftyのフォーラムにおけるローカルルールの敗退。結論から言えば、主宰者が利用者を制御するのはまず無理。制御に成功すればアクセスが伸びない。

バイオフォーラム(FBIO:墓碑銘)は、「仕事に生かす」「そのための実名主義」を掲げ、バイオ研究者のためのネットワークを目指した。だが趣味・遊びとしての利用が主流で匿名全盛のパソコン通信の中にあって、主観的には最小限の「約束事」すら守られず、運営者は次第に口やかましいだけの舎監に成り下がる事を強いられた。衆寡敵せずと諦め、母数が増えたのなら少数精鋭でと構えたときには頼みのアクティブユーザは小姑がおらず自由度の高いインターネットに羽ばたいて行った後。利用が臨界点を下回れば冷えこむ一方。そして2004年に閉鎖された。

ノルマは無いから細々としたアクセスでも結構、というブロガーもいるだろう。しかし新しいビジターからの刺激を受けないで品質を維持する事は難しい。誰からも刺激受けず、誰にも刺激を与えない。そして数年経って飽きたところで廃墟化。趣味のブログならそれも良かろう。だが、インターネットに公開したのは「つながり」を求めての事ではないのか。

だから、世間一般からかけ離れた「うちのポリシーは」路線は素人にはお勧めできない。無人島に王国を作り上げて何が楽しい? 他者との接触に伴う不快さを受け入れられないならば、才能のある少数を除いて、早晩消滅してしまうだろう。

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シンポジウム「ポスト・ビッグファーマ時代へ」

シンポジウムの案内をもらった。面白そうなので許可を得て転載。

マーシャ・エンジェル著『ビッグ・ファーマ:製薬会社の真実』 邦訳刊行記念シンポジウム    ポスト・ビッグファーマ時代へ−危機に瀕する医学研究と製薬ビジネスの将来−

主催:篠原出版新社

『ニューイングランド医学雑誌』(NEJM)前編集長マーシャ・エンジェル氏の著書『製薬会社の真実』(原題:The Truth about the drug companies)は、世界中に激震を走らせている。「患者中心の医療」実現の手段としての「エビデンスに基づく医療(EBM)」が普及して久しいが、そのエビデンス自体が、世界をリードするアメリカ製薬業界のマーケティング戦略によって歪められてしまっていることを、世界中の一流医学雑誌編集長らが警告し始めているのである。その筆頭が、エンジェル氏である。巨大製薬企業の支配する医学研究の信頼性は地に堕ちてしまった。
では、医療提供者は、患者は、何を信じればよいのか? 日本の製薬業界に未来はあるのか? 医薬ジャーナリズムは何を伝えるべきなのか?
わが国では、きらびやかにバイオ・ビジネスの成果が報じられる一方、医療費削減へと大きく舵が切られ、混合診療解禁、医薬品の自由価格化、産学連携など、アメリカ型の医療制度が導入されつつある。「ビッグ・ファーマ」の手の内が明かされてしまった今日、日本の製薬企業と、医療提供者、患者、そして医薬ジャーナリズムの、より良き関係を創りあげるため、「ポスト・ビッグファーマ時代」の医薬品戦略を語り合う企画としたい。

日 時:2006年1月29日(日)14:00〜〜17:00(受付開始13:30) 
会 場:東京ガーデンパレス 2階「錦の間」(定員100名)
(東京都文京区湯島1-7-5 TEL:03-3813-6211 )

主な内容
●基調講演:福島 雅典 氏(京都大学医学部教授)
●特別講演:
「日本の製薬産業の現状と課題」
山辺日出男氏(日本製薬工業協会 専務理事)
●パネルディスカッション:
「日本の製薬企業:本当のところはどうなのか?」
福島氏と山辺氏との対話
●監訳者からのプレゼンテーション
「ポスト・ビッグファーマの医薬品戦略とジャーナリズム」
栗原千絵子(監訳者、コントローラー委員会、科学技術文明研究所)
「用薬の妙:いのちを活かす薬・こころに沁みる薬」
 斉尾武郎(監訳者、フジ虎ノ門健康増進センター)

・参加費:1,000円  
・参加申込:メール(info@shinoharashinsha.co.jp)か、
FAX(03-3816-5314)にて、
1月20日(金)までにお願いいたします。

*本シンポジウムの記録は、篠原出版新社『患者のための医療』に掲載される予定です。
会場からの発言は、匿名(本人の承諾あれば実名)で掲載される可能性があります。

連絡先:〒113-0034 東京都文京区湯島2-4-9 MDビル
株式会社 篠原出版新社 電話 03-3816-5311  FAX 03-3816-5314

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「昆虫の図鑑、青臭い恋愛小説、心と遺伝子(+同性愛)」

というタイトルでジュンク堂トークセッションが開かれる。14日(土曜日)19時から。雌に関心を示さない少女奪え、もといショウジョウバエ(♂)が採れたので「サトリ(悟り)」と名付けて解析した所、なんと雌じゃなくて雄にすり寄る事が判明した、という話が出るのだろうな。これを最初に聞いたのはかれこれ?年前。今は研究がだいぶ進んでいる事でしょう。鳥和え酢申し込み。

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mixiはじめました

冷やし中華ははじめてませんが、mixiを始めました。

招待制というのを尊重し、gmailのように「招待してよ」とお願いすることもなく待っていましたら、招待状が届きましたので参加した次第。(招待してくれたのはNIFTY SERVE の某フォーラムでの知己)

しかし、正直言って迷路ですね。「コミュニティ」と「トピック」の構造を理解しないまま書き込んで赤面。

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