キニーネは劇薬か?
専門外の人は毒薬・劇薬と毒物・劇物を区別しない(区別できない)ことが多いように思う。毒薬・劇薬というのは薬事法で決められるもので、簡単にいえば毒性による医薬品の分類。一方、毒物・劇物というのは毒物及び劇物取締法で定められているもので、その定義は「この法律で「毒物」とは、別表第一に掲げる物であつて、医薬品及び医薬部外品以外のものをいう」(同法第二条)である。「医薬品及び医薬部外品以外のもの」がポイント。ちなみに毒薬の定義は「毒性が強いものとして厚生労働大臣が薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて指定する医薬品(以下「毒薬」という。)」(薬事法第四十四条)。
同じ物質でも医薬品であれば毒薬(劇薬)、医薬品以外であれば毒物(劇物)になる。たとえば塩酸(濃度10%超)は、医薬品として販売されるものは劇薬であり、それ以外の洗浄用などは劇物となる。今()で濃度について注記したが、危険性がなくなるまで希釈したら毒薬(毒物)ではなくなる。リン酸ジヒドロコデインという物質は、麻薬でありかつ劇薬であるけれど、1日に使う量の中に50mg以下しか含まれないシロップ剤は普通薬、つまり薬局薬店で匿名で購入できる(その手軽さのため未成年者による乱用が問題になったこともある)。トイレの洗浄剤には塩酸、自動車用鉛バッテリーには硫酸、インクジェットプリンタのインクには苛性カリ、マッチの頭薬には塩素酸カリなどと、単品であれば劇物になる物質が使われているけれど、希釈されているため製品は法規制を受けない。もし「毒性があるならどんな濃度でも規制しなければいけない」となったら、カフェイン(劇薬)を含むからコーヒーも茶も購入するたびに身分証を提示しなければならなくなるし、飲用規制の意味を持たせるために1日に飲んだ量を記帳しなければならなくなってしまうかもしれない(それを簡単に行うスマートホン用アプリが販売されたりして)。
ここまでを整理すると。
- 毒薬・劇薬、毒物・劇物はそれぞれ別の法律によって定義されている
- 成分単体としては規制を受ける物質でも、製品中の含有量が少なければ普通物扱いになることがある
毒という言葉は日常的には比喩として用いられることがあり、それが厳密な定義を必要とする法律上の理解との齟齬を生んでいるのかもしれない。
キニーネは劇薬か
光り輝く飲み物というtogetterまとめ(紫外線を当てると蛍光が見える飲み物を列挙した楽しい読み物)を読んでいたら「日本国内じゃキニーネは劇物指定」という記述があった。すかさず「キニーネは劇物ではないでしょう。」とコメントしたところ(ストリキニーネと混同してない?と助け舟を出したのに)、「劇薬の様ですね」と斜め上のコメント。
そこであらためて薬事法施行規則の別表第三に載っていないことを指摘。ダメ押しでファイザー株式会社の製品詳細の「規制区分」には「処方せん医薬品」としか記載されていないことも書き加える(他の薬品で、劇薬であればここに記述されることを確認済み)。
その人はこれで納得されたようだが、気になって「キニーネ 劇薬」で検索すると1670件ヒットした。最初のページを見るとほとんどが「トニックウォーターには本来キニーネを入れるのだが、日本では劇薬指定なので云々」というもの。どうも「親亀コケたら皆コケた」の観。wikipediaにも2011年4月13日 (水) 12:43時点における版から「日本では、劇薬に指定されている。」という記述が唐突に。しかし巷に広がったのはこれより前のようなので、wikipediaは患者0号ではない模様。
これに限らず昔の飲み物には恐ろしげなエピソードがけっこうあります。かつてのコカコーラにはコカインが入っていた、というのが有名どころでしょうか。などと書いているブログもあるが(「これ」とはキニーネの話)、それを言ったらコーヒーはどうなるのだ、と。カフェインは劇薬だ。すまし汁はどうなるのだ、食塩も大量に摂れば死ぬことがある。DHMOはどうなるのだ...
コカ茶はコカインを含むために日本では規制対象だが、南米では普通に販売されている。工場で作られた(らしい)ティーバッグになっていて普通の商店で売っていたので問題はないと勘違いした(事実の錯誤)日本人が土産に持ち帰り、税関でも見過ごされ、それをもらって話の種にと飲んでからアワワとなったことがある。といっても薬が効いてきたわけではなくて、「なんてことないねー」と笑ってから、調べてみたら非合法と知って「警察に知られたら検挙される、アワワのワ」という次第。ちなみにもう公訴時効です。
毒薬・劇薬は人体に有用だから医薬品
毒薬・劇薬と聞くと「恐い」と拒否感を顕にする人がいる。健全な反応ではあるけれど、「物」ではなくて「薬」となっている点に思いを馳せてほしい(毒物・劇物も人体にこそ使用しないけれど、有用な物質なので使用を前提に法律で規制されている)。
子宮頚がんワクチンが劇薬であることを問題視する人もいるらしいが、ワクチンはすべて劇薬指定。致死量の観点からは(ワクチンを打ちすぎて死んだという話は寡聞にして知らないので)普通薬でも構わないような気がするけれど、おそらく使用量と過剰投与で副作用の出る量との差が小さいなどの理由があるのだろう(「おおむね以下の基準」という点に注意)。あるいは多人数に接種するので、副作用の現れる率が普通医薬品並であっても発症が不可避という視点だろうか(これは公衆の放射線防護にも通じるような)。
毒物・劇物の指定は結構恣意的
恣意的だなどというと叱られるかもしれない(辞書的な意味で「恣意的」が正しいかは実は微妙)が、大学の実験室で3年生(専門課程に入ったばかりで素人同然)にも使わせていたようなありふれた物質が、悪用された事件(傷害目的で給湯ポットに混入された)の続発をきっかけに毒物指定されたことがある(毒物及び劇物取締法の別表第一に記載されていないので変だなと思ったら、別表第一第二十八号の規定で毒物及び劇物指定令で指定されていた...政令のほうが法律よりは機動性があるからね)。正常性のバイアスと言われるだろうけど、釈然としない。
なお、毒性が強くても産業上使用されることない物質は毒物にも劇物にも指定されない。それは規制する意味が無いから(それに対して、免疫系は存在しない物質にも対応する、というのが大野乾博士の講演の掴みだったな...と意味のない知識の披露)。また新規物質の場合、指定が間に合わないことがある。罰則のある法律なので、罪刑法定主義の立場から曖昧な指定は許されない。これは危険ドラッグ取り締まりでも問題になっている通り。
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