2016/10/20

「シン・ゴジラ」への違和感3つ

もうそろそろネタバレしても良いですよね?

しばらく前のことだが、「シン・ゴジラ」を観た。評判に違わぬ面白さで、ことに〈水ドン〉のシーンでの「まずは君が落ち着け」に、嗚呼!ネットで流行っていたのはこれであったかと感動。ゴジラの出番が少ないという不満の声もあるらしいが、作り物というのは詳細に見せたらボロが出るもの。着ぐるみ怪獣は子供騙しの域を脱しにくいし、CGを過信すればそれは落とし穴に。だから、巨大不明生物災害対策に奔走する人々を中心に据えたのは正解だろう。それゆえに全身からの破壊光ビームはむしろ〈やり過ぎ〉に感じた(爆撃機に対抗したり首相の乗ったヘリを撃墜したりするには旧来の火炎放射では無理であるが)

いかにも派閥順送りで就任したような農水大臣が臨時総理に祀り上げられ、「ラーメン伸びちゃったよ」と昼行灯っぷりを発揮していたかと思うと、「生活があるんだ。簡単に避難なんて言ってほしくない。」と生活者の姿勢を見せ、国連安保理の介入を遅らせるのにフランスに働きかける離れ業を成功させる(実務は官僚が担い、この人がしたことといえば事が済んでから駐日フランス大使に深々と礼をすることだけみたいだが)のも見物。

恋愛とか家族愛みたいなものを排除したというのも評判だが、これまた映画によく出る、権威を笠に着て主人公の邪魔をしたあげく、あっさり殺される(いわゆるフラグの立った分かりやすい悪人が出てこないのも良い。あれは図式的過ぎる。

そんな「シン・ゴジラ」なのだが、納得がいかないというか、違和感を覚える点が3つある。

まず造形。太腿は小錦関みたいだし、尾はワオキツネザルのように長い。はっきりいって長すぎないだろうか。

次に、なぜ血が固まると凍るのか。放熱機構が停止したら過熱するはずで、メルトダウンしたゴジラが親指を立てながら溶岩の中をアルゼンチンに向かって沈んでいく姿こそふさわしいラストではないか! この2つはゴジラという架空の生物の設定に関することなので突っ込んでも仕方が無いとも言えるし、もしかしたら劇中で言及されていたのを見逃した可能性もある。だからもう一回見てからにしようかと思っていたら、なんと日経サイエンス12月号が「シン・ゴジラの科学」を取り上げるという。これは期待。

3番目は自衛隊の攻撃が全弾命中とは精度良すぎないだろうかという点。むかし、第十雄洋丸事件というのがありまして、最初の砲撃で沈めることができなかったのは当初の射撃は「第十雄洋丸」の側面を破壊して浸水を促すとともに、積み荷のナフサやLPGを燃やすのが目的だったとはいえ、魚雷攻撃は1本が不発(ウンともスンとも云わないまま海底へ)、もう1本は目標の下を潜り抜けてはるか彼方でこれまた海底へ(残り2本は命中したものの沈没には至らず)という不始末。停まっている船すら沈められないのかと散々の評判だったとかすかに記憶する。もちろん時代は変わり、技術も進化したからありえない話ではないのだが、やはり引っかかる。

そして大好評の無人新幹線爆弾と無人在来線爆弾。架線が切れていても電車は走るのかなぁ。脚に命中したということはゴジラは線路上に乗っていたわけで、当然架線なんてぶった切られていると思うのだが。それともあれは命中ではなくて、無線誘導か何かによる近接爆発だったのだろうか。日経サイエンスに登場する専門家は「極限環境の生物学及び海洋生物学」「放射線生物学」「深海生物生態学」なので、これの解明は期待薄。

えっ、「4つある」って? それはアレ、お約束ですよ(ビグルス枢機卿を演じるテリー・ジョーンズの姿を思い出に)

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2015/09/22

コンサート会場でCDを売るのは催眠商法?

「怪しい情報に騙されないための思考法」というテーマのサイエンスカフェに参加したところ、終盤で講師が自著を紹介し、参加者がメモる様子を見てから、これが催眠商法の手口と諌めた話を書いた。

講演のテクニックとして見事と感心する一方で、「いや、買うときは冷静に考えますよ」という反感も覚えた。そんなことをいったら、コンサート帰りにCDを買うのだってカモられたことになってしまう。購入するのは演奏の興奮覚めやらぬ時だし、「サイン入り」と煽られるし、握手してくれると行列ができていれば並んでしまうのが人情だし。しかし、それが悪徳商法と規制されることはないし、規制が好ましいこととも思わない。

催眠商法についての行政の説明を見てみよう。


  1. 商品説明会や安売りセールを名目に人を集め

  2. 初めのうちは欲しい人に手を上げさせ日用品や食料品を無料で配り

  3. 会場内を熱狂的な雰囲気に盛り上げ

  4. 最後に高額な商品(市価より高額)を買わせようとする

コンサートの場合、3番目の熱狂的な雰囲気こそ当てはまるけれど、集まった人は当初からその音楽や演奏家目的で、チケットを購入しおり、そのうえ売値も市価と同じなので、催眠商法には当てはまるまい(もっとも公演中に壇上から「この還元なんとか水で体調良好」と商品のステマをしてロビーで売っていれば催眠商法の疑いあり)

繰り返すと、1)高額商品の販売を目的としながら、2)そのことを表に出さず、3)無料配布等で興奮状態にして、4)高額商品購入を申し込まざるをえない状態に追い込むのが催眠商法。売っている商品は価値がないか、あっても価格に見合わないことが多いけれど、それは本質的ではない。たとえ有用なものであろうとも、判断力を低下させてから購入させるのは悪徳商法(酔客に酒や料理を勧めるのはどうなのかというのは一瞬迷うが、常識的な限度を超えればボッタクリである)

というわけで、会の講師紹介に著書が挙げられていて、書籍販売は主目的ではなく(人数分の書籍を持ち込んでいたら怪しいが、現物はなかった)、購入するかどうかを判断する時間的余裕を与えていたから催眠商法ではなく、われわれも引っかかったと叱られるいわれはない(という自尊心に振り回されてはいけない)。しかし、とても印象深かった。

催眠のキモは考える時間を与えないことであろう(荒っぽい業者は、カモが正気に帰っていても態度を豹変させて購入を迫るそうだが)。また値段を数万円程度にすることで「ま、いっかぁ」という気にさせる業者もいるらしい。今後はスマホを使わせてオンラインで申し込ませる手口にも注意が必要だ(クーリングオフが難しい)。サクラがその場でネット購入し、それを「さすが奥さん」とおだて上げ、おまけの一つも出したら釣られる人続出だろう。会場では品切れにして欠乏感を煽るかもしれない。とはいえ業者が白に近いグレーゾーンを攻めてきたら第三者は口を出せない。乗せられやすい人は自重を。

ところで挙げられた2冊について書名を書いていなかった。『なぜ疑似科学を信じるのか: 思い込みが生みだすニセの科学 (DOJIN選書)』と『「自分だまし」の心理学(Amazonアフィリエイトへのリンクを張りましたのでゆっくりとご検討を)。会の案内には他にも書名があがっていた。興味のある方は著者名で検索を。

「私は騙されない」という人も


最後に。催眠商法の現場に行っても自分は大丈夫という人はいるでしょう。慣れた人ならばもらえる物だけもらって帰ることもできるでしょう。標的にされた場合と違い、「騙されないと自信のある人ほど危ない」は必ずしも当てはまらない。

しかし、あなたはその場を盛り上げ、被害者の判断力を低下させる共犯者になっている。あなたが逃げきることで、逃げ切れなかった人たちが餌食になる。

頒布会そのものを台無しにするならば話は別だが、会場に入ること、その場にいること、手を上げること、物をもらうこと、そのすべてがおとりしての役割を果たしかねないということを理解してほしい。

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2015/02/25

献血ルームの近藤本、その後

甲府市の献血ルームGrapeの休憩室に近藤誠の『がん法治療法のすすめ』が置いてあった件。やはり気になるので山梨県赤十字血液センターに問い合わせてみた。

先日(2014年12月)にGrapeにて献血をしたところ、休憩室の書棚に近藤誠『がん法治療法のすすめ』がありました。

1)日本赤十字は「がん放置療法」をがん患者に推奨するのでしょうか?
2)近藤誠の、がん検診否定論に同調するのでしょうか?
3)献血ルームで献血者に供覧される書籍選定に何らかのルールはあるのでしょうか?(検閲を要求するものではありません)
4)標準医療を否定する書籍を供覧させることをどのようにお考えでしょうか。

その場で責任者に質すべきだったという負い目から、問い合わせが遅くなってしまいましたが、よろしくご回答のほどお願いいたします。

これに対しては直ぐに返事が来た。内容を公開することの了解を得ていないので骨子を述べると、当該書は寄贈されたものらしい(献血ルームで購入したものではない)、持ち込まれる書籍の内容は精査していなかった、今後は個人からの書籍寄贈は受けない方向で検討する。

明言はしていないが撤去したという手応え(受付カウンターに近いテーブルだったので、Grapeに行く機会のある人は確かめてほしい)。しかし、今後は書籍の寄贈は受け付けないというのはやや過剰反応に思えた。

だが、落ち着いて考えると、自らが購入する場合の選書と持ち込まれた書籍の判定とでは労力がまるで違う。前者はホワイトリスト、後者はブラックリスト。ホワイトリストに漏れがあっても別に大きな問題にはならないが、ブラックリストに載るべき本をうっかり受け入れたら大変なことに。今回は医学関係の書で、かなり有名、というよりは医療関係者の間では悪名高いと思われる近藤本であったので、「赤十字ともあろうものが、その目は節穴かー!」といきり立ってしまったが、世の中で評価の分かれる書籍は医療系に限らない。すべての分野において最新の完全なブラックリストを用意することなど不可能。広告掲載にすら抗議の来るような書籍をもし献血ルームに並べてしまったら、と考えれば玉石混交の持ち込みを敬遠するのも無理のない話。

ただ、図書館でさえその自由を守るのが難しくなりつつある時代に、「不適切な書籍を置くなー」という陣取り合戦に献血ルームを巻き込んでしまいかねない行動だったかも、という苦い思いはある。無難な線というところだろう、献血ルームではコミックを置くところが多いけれど、『美味しんぼ』なんか置くな vs.『そばもん』や『いちえふ』なんか置くなみたいなクレーム応酬が勃発したら申し訳ない。

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2014/12/31

献血ルーム巡り3(栃木県・うつのみや大通り献血ルーム)

なかなか仕事が決まらないため、暇つぶしと社会貢献を兼ねて始めた献血ルーム巡り。次は栃木県制覇を目指す。

うつのみや大通り献血ルーム


山梨県コンプリートから2週間を過ぎた12月下旬、今度は栃木県のうつのみや大通り献血ルームへ出かけた。またしても乗用車。そしてこちらは12時から昼休みに入るのに、渋滞に捕まったり道を間違えたりしているうちにタイムアウト。予定を変更して食事と給油を先行(なぜか給油しようと思うとGSが見当たらなくなり、おかげで時間調整には困らなかった)。14時少し前に立体駐車場に車を入れて通用口から入って受け付けへ。

表通りに面した入り口
表通りに面した入り口は分かりやすい。

表通りに出された「旅人献血大歓迎」の看板「旅人献血」なる看板が出ていて、県外からの献血者を歓迎していた(栃木県民は献血をしないのか、なんていう人もいるけど、キャンペーンで県外から人を呼び込めれば地元でお金を落としていく経済効果も期待できるから悪いアイデアではないと思う)
「いちごけんけつちゃん」クリアファイル。裏には関東甲信越のご当地けんけつちゃんが勢揃いこれが記念品の一つ「いちごけんけつちゃん」クリアファイル。裏には関東甲信越のご当地けんけつちゃんが勢揃いしている。
バスケットボールチームTochigi Brexなどスポーツ選手の写真を配した「栃木プロスポーツメモ用紙」もうひとつの記念品は4種類のメモパッドがセットになった「栃木プロスポーツメモ用紙」。TOCHIGI BREX(バスケ)、宇都宮BLITZEN(自転車)、ICE BUCKS(アイスホッケー)、TSC(サッカー)と、すみません、全部知りませんでした。

さて、受け付けが終わると、腕に紙のタグ。通し番号(?)が振られていて26。無線の呼び出し機ではなく館内放送で呼び出されるのはレトロな雰囲気。待合室兼休憩室のインターネットコーナーに血圧の自動測定器はあったけれど、これは利用者サービスらしく、プリント出力はなし。血圧は問診医が測定。そしてここでも1年以内の予防接種で悩まれる(話が前後してしまうが、この後アップする熊谷駅献血ルーム参照)。 採血イスは11台あり、うち2台は全血専用の模様。ここも靴を履いたまま。靴を履いたままでタオルを掛けられるとレッグクロス運動はしにくいのよね(そういばレッグクロス運動の案内はなかった)。テレビはいつも見ないのでさっさと消したが、ここのモニタは少し大きく(13インチ)て、それは自慢の一つみたい。 終了少し前には看護師さんが注文を聞いて飲み物を持ってきてくれた。これは初めての体験。また、あのぶっとい採血針を(よそでは「抜きます」と宣言してから慎重に抜くのに)アッという間もなく抜かれたのにも驚いた。

県外からの初献血ということなので、終わると上記の記念品を渡されるとともにアンケートを依頼された。汚い字でごちゃごちゃ書いたことを反省し、後でツイッターアカウント宛に清書したものを送った。

きっかけ:その他(献血ルーム巡りの一環)
意見・要望:表通りに面していて入りやすい造りだと思います(ビルの上階というルームも多い)。
できれば昼休みなしでお願いしたい(12時に間に合わず時間調整することに)。
モニタにTwitterアカウントが貼ってあったが、携帯を切っていては控えられない。
いろいろな献血ルームを巡っていると、微妙な差があって面白い。スタッフの皆さんもプライベートで他県のルームに行ってみては?(実行済みでしたら失礼)。

昼休みを取るなとかブラックな要求に見えるけれど、実際ノンストップでできているルームもあるわけで...とはいえ複数の問診医をそろえる必要があるなどハードルは低くない。ひっきりなしに来るならともかく午後になっても献血者が2名という状況では人員増強は困難か。もっとも私が行った日は1時間のうちに10人も来る盛況ぶりだったが。

宇都宮でお買い物


終わってから近所に書店はないかと尋ねると、ドン・キホーテの上階か宇都宮パルコの8階にあるという。ドンキは見つけられなかったので(後で地図を見たら、パルコより遠くにあった)、パルコにある紀伊國屋書店へ行き『知ろうとすること。』と『水危機 ほんとうの話』を購入。20日に会った知人(2児の母)が、放射能のことを気にしているのに福島県の乳幼児をホールボディーカウンターで精密に測定しても汚染は見出されないことをご存じないことに危機感を覚えて献本を決意(『水危機』は自分用)。あれば『いちから聞きたい放射線のほんとう』も買いたかったが、駐車場の時間(献血ルームでくれた駐車サービス券は余裕が30分ほど)が気になってじっくりと探せず(自動車をパルコの駐車場に移していれば、ゆっくりと探すことができた...と気付いたのはレジで「駐車券はご入用ですか?」と聞かれて)。ともあれ、昼食をけちって地域経済にあまり貢献しなかった埋め合わせは完了。次回、栃木県血液センターに行けば栃木県はコンプリート!


(珍しく年内に投函した年賀状に「12月26日の宇都宮遠征から無事帰還できているならば元日にはブログ(http://ow.ly/GpQMq)が更新されて近況とか新年の抱負みたいなことが書かれていることでしょう。」と書いて、無事帰ってきたものの抱負は未だ用意できず。どうする?!)

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2014/11/03

「いいね!」を押すような読書

以前のエントリーで言及した、Facebookで「いいね!」をつけるような読書について、菅谷さんのインタビュー記事が公開されている。

USAの教師は9歳の少女(の母親)に対して、その読書が「登場人物や場面が自分の考え方や境遇と近いことに共通項を見いだして読んだり、内容に共感するだけにとどまって」おり、こういう読み方をしていると(読書という)「せっかくの新しい学びの機会を生かせない」と注意する。それでは「世界が広がらないですし、学びが限られてしまう」とも。

なぜ、そのような読書が必要なのか。

人間は道具や機械によって肉体的限界を超えた仕事をこなせるようになった。それによって飢餓を免れ、文明を発達させてこられた。もちろん「2001年宇宙の旅」の冒頭に描かれたように、争いが取っ組み合いから大規模な殺し合いにエスカレートするといった副作用もあったけれど、現代人は機械を概ね使いこなしている。

コンピュータの発達によって、頭脳労働においても似た変化が起きている。馬車や人力車が自動車に取って代わられた時に「機械に人間の仕事を奪われる」と嘆いた人は少数だった。車夫や馬喰は運転手や整備工に、それが無理でも道路工夫といった「新しい技術がもたらした新しい仕事」に就くことができたけれど、馬に新しい仕事が与えられることはなかった(「渚にて」に描かれたような石油枯渇時代が来れば話は別だろうが)。そして「車にその役目を追われた馬の運命こそが、今後我々が辿ることになる運命そのもの」という危機感が広がりつつあるのが現代。『コンピュータが仕事を奪う』というそのものズバリのタイトルの書もある。

かつては「コンピュータにはできない、人間にしかできない仕事がある」と素朴に信じられてきた。しかし残念ながらその領域はどんどん狭まっているようだ。ちなみのこの著者は「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを率いている。このロボットが代ゼミ模試に挑戦し、「国公立大学4校を含む470余りの大学で「合格率80%以上」を示すA判定」を受けている。まだ偏差値47なので平均以下ではあるが、〈ロボット以下〉の受験生も多数いる状況。今はまだ「だーから私大ブンケーは」と偏見を頼りに安穏としている人も、そう遠くないうちに「代ゼミ模試で人間の能力は測れない」などと言い出すようになるだろう。

訓練を積んだ専門家でなければ難しいと思われていた病理診断でコンピュータのほうが人間の精度を超えたという話もある。まだコンピュータは直接関与はしていないが、データ分析を駆使することで杜氏のいない日本酒造りに成功した酒蔵もある。

現在の高給取りの仕事ほど、熱心にコンピュータへの置き換えが研究されるだろう。24時間週7日、休まず働きミスも少なく、そのうえ賃金を要求しないわけだから(なんといっても忠実である、良くも悪くも)

「これはコンピュータにはできないから」という仕事も安心はできない。コンピュータに仕事を奪われ、他に特技もない人間があふれるようになれば、そういう仕事でも確実に賃金は下がる(Amazonが運営するメカニカルタルクは「人間には簡単だがコンピュータには難しい作業」による小遣い稼ぎをクラウドで斡旋している)

このような未来がユートピアになるかディストピアになるかは、ひとえに政治の力にかかってくる。無定見に人間の仕事を奪っていけば、あふれる失業者や低賃金労働者によって社会は不安定化するだろう。かといって人間の仕事を守るためにコンピュータを規制すれば、貪欲にコンピュータ化を進めた国に経済的に支配されてしまうだろう。打ち壊し運動は敗北する。

そして、民主主義社会においては、賢明な政治家が活躍するためには有権者もまた(それなりに)賢明であることが要求される。もしあなたに政治的な指導者になるつもりがなかったとしても、こうした問題を知らなかったら、選挙で投票するときに、どうやって賢明な選択ができるでしょうかというわけである。

好物をつまみ食いするような読書だけでは賢い有権者になるのは難しい。もちろん、それは子供に限った話ではない。

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2014/04/13

『いちから聞きたい放射線のほんとう』

著者ご本人が書く書く詐欺とおっしゃっていた放射線のやさしい本が3月に刊行された。

小峰公子(私は存じ上げないが、日本のミュージシャン、歌手、作詞家だそうである)が質問をし、それに菊池誠(大阪大学教授)が答えるという体裁で、22のテーマについて解説している。

挿絵はおかざき真里。小峰さんは「女子のこころをぎゅうっとつかんで離さないおかざき真里さんのステキな絵」と書いているけれど、私はおかざきさんというと電球をまず思い出す。w(しかし、あのタッチを予想して開くと裏切られます)

ところどころに変な間違い(たとえばこれとかこれもあるけれど、物理の時間は眠かったと述懐する小峰さんの疑問を中心に説明を進めているので、高校物理なんて忘れたどころか習ったかどうかも定かではないという人にも取っ付きやすいだろう。

むしろ高校レベルの理科ならマスターした人間には、周期表の意味とかで感心されると、「なるほど、この3年間、話が通じなかったわけだ」と逆の意味で目から鱗が落ちる思い。多くの人はたとえば「セシウムの吸収を抑えるには農地にカリウムを撒けば」とか聞いても周期表とは結びつかず、なんか難しいカタカナが飛び交ってるくらいに思っていたのか。「セシウムの沸点は670℃だから焼却炉で気体になる」なんて、アルカリ金属の性質を知っている人間なら吹き出すような知ったかぶりが大手を振って拡散するわけだ。驚いたことに、念のため検索したら今年の3月になってもなおキーフレーズ「セシウムの沸点 641℃」「ゴミ焼却場 約850℃」なんて書いている人がいた。しかも4月からは大学の准教授。ご丁寧に沸点も間違えている。ところがこういうことを「あなた、たまたま忘れているだけでしょ」というつもりで指摘すると「知識をひけらかす人は嫌い」みたいな斜め上からの反応が返ってくる。「アルカリ金属」なんてまた難しい言葉を持ち出して煙にまこうとしている!と本気で怒っていたのか。

先日、『リスク理論入門』を再読していたところ、「どんなに小さいリスクであっても,便益が全くないならばあえてそれをとる必要はない。」とか「ある人がリスク対策に1日1,000円支払っていたとして,「だから,もう1,000円払えるはずだ」という議論は成り立たない。」というフレーズが目に飛び込んできた。東京電力1F事故後、幸いにも今回は汚染が比較的軽微(今も避難生活を強いられている方には大変失礼な表現なのだが、いくつもの僥倖が重なって、想定できる最悪の汚染より軽くすんでいるのは事実)で済んだにもかかわらず、到底受け入れ難い汚染を被ったかのように主張する人々がいる。その人達にも三分の理はある。いかに軽微であろうと(ここで注意したいのは、声高なのは福島県からの避難者よりも、東京など遠隔地の消費者あるいはそれを代弁しようとする人々であり、問題にされている〈汚染〉は、たとえば食品なら国が定めた安全基準100Bq/kgをはるかに下回る水準であること)、それは全く便益のない、進んで引き受ける義理のないリスクであり、天然物により人体が約6500ベクレルの放射能を持っているからと言って、新たに放射能を取り入れなければならないいわれはない。

しかしながら、では放射性セシウムを1ベクレル(Bq)でも取り入れたら癒しがたい傷を負うのかというと、それも大袈裟だし、事実に反する。それについて本書ではこう書いている(p.116)。


セシウム137なら、ざっと7万5000ベクレル食べると預託実効線量が1ミリシーベルトだと思っておけばいいよ

基準ぎりぎり(100Bq/kg)の食品なら750kg食べてようやく到達できる量。実際に市場に出回っている農産物ははるかに汚染が少ないので、その数倍から数十倍を食べなければ7万5000ベクレルにはならない。それだけ食べてもなお、一般に便益のない被曝として許容されている年間1ミリシーベルトに収まってしまう(ちなみに日本人の平均コメ消費量は年間60kg以下。なお、100Bq/kgという基準値はストロンチウムがセシウムの1/10あるという仮定で決められているし、セシウムも134と137の合計など計算の根拠が異なる)

「だから,もう1,000円払えるはずだ」なんて乱暴なことは誰も言っていない。この比喩で言えば6500円のリスクが6510円になったようなもの。「だから大したことはない」は、加害者(東京電力)が言ったら非難に値するけれど、第一に文句をいう権利があるのは農地を汚染された生産者であり、必死の努力で汚染農産物の市場流通を食い止めた関係者。...というようなことは本書には書いてないから間違えて出版社へ文句を言わないように。

閑話休題。共著者の小峰公子さんは郡山市にご両親の住まいがあったので、除染にも立ち会っている。決して安全圏から高みの見物で思いつきの質問をしているわけではない。シンチレーションカウンターを手に、庭の表土を規定の5cm剥いでも測定値が下がらないので「あと1センチ削ってみて」と頼んでやってもらったところ「ぐっと下がった」という経験をお持ち(p.174)。世の中には測定をしないで無闇に恐がり見当はずれな〈対策〉をとっている人もいるが、今は自治体でも線量計の無料貸し出しをしているのだから、心配ならまず測ること。よく「放射能は目に見えず、味も匂いもしないから」と恐がる人がいるけれど、適切な測定機器があればこれくらい見つけやすいものもない(特にγ線を出すセシウムのような核種は)。微量測定に使われる放射免疫測定(ラジオイムノアッセイ)は放射能を利用するゆえ感度が高く、開発者はノーベル賞をとっている。

...というような知識はなくても読みやすいことでしょう。自分が当たり前と思っていたことを、それを知らない人に説明するというのは実に難しい。菊池さんが小峰さんの質問力を讃えていたように、いじけず臆せず問い続けたことで、今までの解説書に満足できなかった人の理解の緒になったのではないかと思う。ツイッターでの感想の一部はtogetterにまとめられている。

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2013/06/23

酵素補説

togetterに「はたらけ!酵素ちゃん ~酵素物語 その6~」という素晴らしいまとめがあります。酵素学の門外漢である主婦が、「酵素飲料」とか「酵素ダイエット」とかのあやしい酵素にだまされないための解説絵本を書こうと思い立った。

ラフを一読して、「ここは押さえておいてほしい」と思った点をいくつか。

酵素には種類がたくさんある


酵素の相手は、基本的に一酵素につき一種類。デンプンを消化する酵素はタンパク質を消化できない(基質特異性)。また同じ反応を司る酵素にも〈兄弟〉がいて、性質に違いがある(ある酵素はアルカリ性でよく働き、別の酵素は同じ反応を中性でより促進する)。生息環境の異なる生物(たとえば大腸菌とヒト)間で酵素が異なることは容易に想像できるが、同じ生物種の体内でも働き方が異なる酵素が存在することがある(イソ酵素/アイソザイム)。

酵素ダイエットとか酵素飲料とかにコロッと ***Deleted for the Courtesy Reasons*** な人は、おそらくここを理解していない。細菌飲料といえば分かるだろうか。乳酸菌飲料なら人体に有益だけれども、大腸菌飲料とかコレラ菌飲料を飲みたいとは思わないはずだ。ましてや「お腹で活き活き」を謳っているならば!(医学史では有名なお話の一つに、コレラの原因を巡る論争がある。コッホが発見した「コレラ菌」はコレラの原因ではないとするペッテンコッファーは培養コレラ菌を飲むという人体実験を行った。彼自身は下痢だけで済んだが、弟子の中には危うく死にかけた者もいる。)

酵素は基本的に6種類


前のエントリーでEC番号(酵素番号)を説明するとき割愛してしまったのだが、酵素は司る反応によって大きく6つに分類される。

酸化還元酵素
基質(酵素が働きかける相手)を酸化したり還元したり。例としては酒を代謝するアルコールデヒドロゲナーゼ。

転移酵素
基質の構造の一部を別の基質へ移す。例としてはリン酸基を移すキナーゼ。

加水分解酵素
水と反応させながら化学結合を切って基質を分解する。例としては消化酵素のペプシン。

脱離酵素
脱離反応や付加反応をと言ってもピンと来ないでしょうなぁ。別名は除去付加酵素。例も適当な酵素が思い浮かばない。

異性化酵素
分子内の反応を進める。例としてはアミノ酸のL体をD体にかえるラセマーゼ。
合成酵素
ATP(アデノシン三リン酸)を使って複数の基質を結合する。例としては切れたDNAを修復するDNAリガーゼ。

上記のまとめで登場する「ロミエット」が登場するのは、脱離酵素(リアーゼ)と合成酵素(シンテターゼ)が媒介する反応。これが〈結婚〉させる反応。〈重婚〉になるのを防ぎたいなら(ytambeさんが挙げている)グルクロン酸抱合は好例。

〈離婚〉に相当するのは加水分解酵素。〈変身〉は酸化還元、転移、異性化か。

酵素は基質と結合する


絵解きする場合に描く必要はないけれど、酵素は基質とくっつくことで反応を進めるということは頭に入れておいた方が良い。ここを押さえていると基質特異性とかKm値とか酵素の阻害とかも理解しやすい(と思う)

酵素は壊れる


酵素は触媒であり、触媒は化学反応の前後で変化しないと定義されている。つまり反応が進んでも酵素が比例して減ることはない。

とはいえ酵素のほとんどはタンパク質なので、徐々に壊れていくし、熱や極端なpH、泡などによって構造が崩れ(変性)、機能しなくなってしまう。食事などで外から与えられた酵素が働かないと考えられるのは、次の理由による。


  1. 調理の過程で壊れる(加熱でも壊れるし、泡立てるとそれだけでタンパク質は構造が崩れる。また細胞が壊れると掃除屋である分解酵素群の封印が解かれ、目的とする酵素も破壊されてしまう)

  2. 胃酸で変性してしまう

  3. 胃や腸で消化されてしまう

  4. 目的の場所に到達しない(胃腸での変性や消化を免れてもタンパク質がそのまま吸収されることは少ない。また血中に入ったところで目的の組織や細胞内に選択的に入る可能性は極めて低い。)

さらに細胞内には変性したタンパク質(酵素)を元に戻す機能があり、またpHも安定しているので細胞外よりも酵素は壊れにくい。その点でも外部から加えた酵素は分が悪い。

なお、微生物の中には高温の温泉や低温高圧の深海底のような極端な環境で生育するものがいて、それらが利用する酵素には高温や強酸性/強アルカリ性でも壊れずに働くものがある。また普通の酵素は働かない低温で作用するものもある。しかし、これらは普通の食材には含まれていないだろう。

酵素は働く時と場所が決まっている


前にも触れたように、酵素(群)は生体内の至る所で働いている。何かを作る酵素がいれば、それを壊す酵素もいる。それらが勝手に働けば、生命は維持できない。たとえば急性膵炎は、小腸に分泌されてから働くべき消化酵素が、働くべきでない膵臓内で勝手に働き出して膵臓自身を消化してしまうために起きる。

また多くの場合、酵素が司る反応は複数が協調的に進んでいる。たとえばタンパク質の合成を考えると、1)DNAの読み取りとRNAの合成、2)RNAの読み取り、3)アミノ酸の結合、4)折りたたみと輸送、がシンクロしていなければ、原料が不足したり中間産物が溢れたりしてうまくいかない。「食べ過ぎたから消化酵素を飲む」で済むような単純な例は少ないのである。

合成されたばかりのタンパク質は、アミノ酸がつながっただけのヒモなので、そのままでは働かない。しかるべき構造に折りたたまれて初めて機能するようになる。またタンパク質の中には金属イオンやタンパク質以外の低分子(補酵素)と結合することで機能するようになるものもある。鉄はヘモグロビンに必要であるし、ビタミンB群は補酵素として機能している。

なお、酵素の働きを制御する方法としては、使うときに合成し用が済んだら分解するほかに、ストッパー(インヒビター/阻害剤)を外したり付けたりする、完成一歩手前の状態(プロザイム/前駆酵素/前酵素)で蓄積しておいて、短時間で一斉に完成させるなどのやり方がある。

前述の急性膵炎は、スタンバってる消化酵素(の前酵素)に誤った「それ、ここで働け」という合図が送られてしまうことで起きる。

続きを読む "酵素補説"

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2013/05/23

本を出したことのある人への3つの質問

自著であれ編集であれ、市販本を出したことのある人への3つの質問。一応選択肢も用意しましたが、自由記述回答も歓迎。

1.新刊を購入しない人が読むのをどう思いますか
図書館で借りて読む人もいれば、古書店で購入して読む人もいる。それを収入機会の損失と捉えて歓迎しない旨を表明する人もいますが、いかがですか。
a)ブックオフに売った奴も、それを買う奴も許せない
b)貧乏学生ならともかく、そうでなければケチるなと言いたい
c)読んでくれればそれだけでもありがたい

2.古書店で売られるのはいやですか
自分の本が古書店(amazonマーケットプレイスなどを含む)で売られていたらどう思いますか。
a)新刊書店に並ぶよう増刷しろ(買う奴は復刊ドットコムに依頼しろ)コノヤローと思う
b)できれば新刊を買って欲しいので刊行後1年、できれば版元品切れになるまではやめて欲しい
c)より多くの人に読まれる機会となるので構わない

3.稀覯本とゾッキ本、どちらになるのを望みますか
版元品切れ増刷なし(いわゆる絶版)になった本の古書店での価格が定価以上になっていたらどう思いますか。逆に100円均一のワゴンに入っていたら、あるいはamazonで1円になっていたらどうでしょう。どちらがより好ましいでしょうか。
a)儲けらしい儲けが出ないなら許せるので二束三文希望
b)価値が認めらているということなので高値希望(ゴソゴソ、著者買取り分があったら私も出品しよう)
c)裁断されたり焼却されたりするよりはましなので関知せず

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2013/05/03

放射能の解説本を書いてみようと思う

原発事故以来おびただしい数の関連本が出版された。だが、それによって考えをかえた人はどれほどいるだろうか? 自分の考えと反する本を読もうとする人はインテリだ(インテリにもピンからキリまであって、せっかく異論を読んでも悪意でねじ曲げた解釈をする人もいる)。大抵の人は意識しているかどうかは別にして、自分の感覚に合う本を選ぶのではないか。不安を覚えている人は危険を強調するものを、もう大丈夫と思う人は冷静さを前面に出した本を。選択を誤ったと感じたら、そこで閉じてしまい〈もっとちゃんとした本〉を探し求める。軽度の青い鳥症候群。

私の立場は、すでに書いた通り、放射能汚染は恐ろしい。しかし、今回の事故の影響は幸いなことに健康被害が出るほどではないというもの。実際、2年経ってみても、人がバタバタ死ぬどころか、病気らしい病気も出てきていない。「いやいや、これからだ」(って2年前から言ってないか?という突っ込みはさておき)と言う人はいるけれど、それはまるで「避難した私の判断は間違いだったというのですか」という悲鳴のように聞こえる。この人達の取り越し苦労を除きたい、というよりは「そろそろ現実に戻っておとなしくなってくれ」というのが第一の願望。一方、だからといって「原発事故なんて大したことはない」「放射能恐れるに足らず」というのは明らかに間違っている。「有害なレベルの被曝は回避できる政治的な知恵を備えてほしい」というのが第二の願望。

この願望を叶えるような書籍は可能だろうか。すでに何人かの人が「理詰めではない放射能の解説本」を執筆しているという噂は聞いている。理屈を追っていけば、現状は危機から程遠いという結論に行きつくので、自尊心を傷つけられた人は理詰めの説明を拒んでしまうから。

当初は私も数式を使わない(自分が不得意だし)、たとえ話を多用した解説を書いてみようと思った。だが、章立てを考えた段階で「これは嫌われる」と直感した。「おめーらはバカ」「バカには分かんないだろうから結論だけ覚えろ」臭プンプンになりそうなので。

そこで次の段階として、開き直って「どーしてわかんねーんだよ」という苛立ちをまとめてみてはと発想をかえた。これなら遠慮なしに思い切りよく書けるし、一部のクラスタには大受けする。そして「こういう説明は受け入れられませんよ」とすればいきなり実用書。サブタイトルとして「「どうして妻は放射能を理解しないのか」とお嘆きの男たちへ」というのも考えた。だが、これも問題がある。

一般には妻(というよりは母)の方が夫よりも神経質で危険を過大視していると考えられがちだが、それは本当か? 実は男性の中にも理屈を拒み、危機を渇望するかのような人々は存在する。中には別の思惑で動いている人もいるかも知れないが、いわゆる危機煽り有名人にも(あえて名前は挙げないが)多くの男性がいる。ネットでも見かけたし、現物に遭遇したことも二度。一方で、日本分析化学会が会誌での緊急連載「放射能・放射線を正しく理解する」のトリに起用したのは理化学研究所の女性研究者。先日参加した講座「放射能と健康」の講師を務めた大学教授も女性(質疑応答で〈定番〉の「内部被曝と外部被曝は...」「低線量被曝の影響は...」「天然の放射能と人工の放射能は...」「事故の影響を小さく見せようと...」と食い下がったのは男性)。また「福島のエートス」の代表も女性。「感情的で理屈が通じないのは女」というのは誤解に満ちた偏見。

それでも「この説明は嫌われる」というコンセプトは気に入ったので残したい。あえて正面から「ここが気に入らないんでしょ?」と切り込めば、「気持ちに寄り添う」「感情を尊重する」という美名のもとにグズグズに癒合してしまった ***Deleted for the Courtesy Reasons*** の轍を踏むこともあるまい。

そして感情を尊重するならば、エア御用と誹られながらも丁寧な説明を繰り返してきた人々が抱いたであろう「なんでそんな不合理なことを信じられるの?」という不快感(これは慎重に隠蔽されてきたと思う)も取り上げるべきだと思い至った。

「危険厨」「安全厨」という不毛な罵り合い終結への道は、双方が「なぜ自分の主張が理解されないのか」を省みるところから開かれるのではないだろうか。

「〜厨」とはネットスラングで、語源は「中学生坊主/中学生坊や」→「中坊」→「厨房」。幼稚な主張を粋がって開陳する様を嘲った言葉。その発展形として「特定の立場に固執する」と罵倒する多様な「〜厨」が生まれた。「危険厨」「安全厨」は東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所事故の評価をめぐって2011年に生まれ、危険厨は「メルトダウンだ、4000人死んだ、東京も危ないから避難しろ、日本はお終いだ」等と主張した人々へ、安全厨は専らそれらは誇大であると批判した(何の心配もないと主張した人は管見の範囲ではいない)人々へ投げつけられた。

というわけで「今すぐ避難したい。0ベクレルの食材を食べたい。」と怯えている人にも目を通してもらえる薄い本(だらだら書いても読んではくれまい)を構想している。

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2013/02/15

『中の人などいない』の人びと

母方の菩提寺が谷中にある。昨秋、祖母の法事に参列した際、日暮里駅の書店で見つけたのが本書。その時は「定収入ないもんね」と買わなかったけれど、心を入れ替え、24日に開く講演会「ふくしまの話を聞こう2」の会場下見をした帰りに、同じリブロecute日暮里店で購入してきた。

ツイッターをやっている、あるいは関心のある人ならNHK_PR(NHK広報局)のことは知っているだろう。「N(中の)H(人など)K(いない)」なんてゆるいツイートで人気を博している。その人が副題「@NHK広報のツイートはなぜゆるい?」という本を出した。


「生協の白石さん」と同じで、NHK_PR(1号)はどんな人?という興味がわくが、実に慎重に伏せられている。オフ会にも出られているというから、会ったことのある人はそれなりにいるのだろうが、読者には謎。もしかすると女性かも、という推測もしているが、テキストから書き手の性別を判断するのは現代では難しい。それでも猫舌なのでウーロン茶をホットとアイスを同時に注文して混ぜてから飲む、なんてツイートを彷彿とさせる行動をされることが分かる。

他にも変わった人達が登場する。12月の後半なのに、「まだ黒いTシャツに黒いジャケットという、大胆なのか季節を間違えたのかわからないような格好」のYさん。「翻訳文のような話し方」をし「高級なスーツを安物に見せかけるという、なかなかマネのできない着こなし術を持つ」Kさん。部下を呼びつけておいて「ほら来た来た。飛んで火に入る夏の虫だな、わははは」と笑う課長。いずれもNHKの中の人で、NHKの印象がガラリと、というかガラガラと音を立てて変わる。

あとがきによれば、これらの人物は事実に基づく創作で、現実の人間と一対一で対応はしていないそうだが、まー、一筋縄ではいかない人達がいることが分かる。その変わり種トップの無機質なKさん(打ち合わせコーナーでのコーヒーを巡るやりとりはまるで漫才)が突然人間味を見せる。

あなたは何も心配をする必要はありません。あなたは正しいことをしたのです

3月11日の東日本大震災に際し、ある中学生が「被災地は停電していてテレビの情報が伝わらないが、スマートホンならネットを見られる」と気づき、NHKのテレビ放送をUstreamに流した(こういう事を咄嗟に思いつき、実行できるのだからデジタルネイティブという呼び名は誇張とは言えない)。これはNHKの著作権を侵害する行為だが、そのことを知らされたNHK_PRは躊躇いながらも拡散する。後に人口に膾炙する「私の独断なので、あとで責任は取ります」は、その時に添えられた(本書によればそんな格好よく大見得を切ったわけではないそうだが)。そしてKさんは、後追いながら手早く正式なネット配信の準備を整えると、広報の用意を指示するとともに上記のように決断を讃えたのだ。

この部分も創作だろうか? それでも構わない。官僚的と言われるNHKの中でも人情は枯れていない、それで十分だ。

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2013/02/09

有機栽培というブランドの価値があらわになった

私は農学部の出身ではあるけれど、農芸化学という農業実務とはやや離れた分野であったせいか有機農法というものに憧憬をいだいていた。あるいは青年にありがちな、「正統派に与しないことへの陶酔」もあったかもしれない(科学から逸脱しなかったのは幸いである)。農薬化学の教授は、種子殺菌に水銀剤を使うと味が良くなるとか成長が良くなるとか(もう詳細は覚えていない)言って、反農薬の風潮には軽侮を示しつつ無視。それに軽く反発してこっちも単位だけは頂戴するという態度で卒業(作用機作とかそういう話だから別に節を曲げる必要もない...が、ちゃんと話を聴くべきであった。)

しかしながら、2011年の3月以降、有機農法大好きで農薬や化学肥料は嫌いであろう人達(なんと呼ぶべきであろうか)の無残な壊れっぷりを目の当たりにし、それ以前から遺伝子組換え体やEMの評価で疎遠になっていたこともあり、「あの人達の主張はすべて再吟味が必要」ということで有機農法には相当懐疑的になってしまっている。

というわけで、「どうすれば「みんなで決める」ことができるのか?(『みんなで決めた「安心」のかたち——ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』(亜紀書房)刊行記念イベント)に参加して、渡された自然農園レインボーファミリーの資料に有機農法で頑張ってます的なことが書いてあるのを見て、開始を待つ間、裏に次のような走り書き。

もう少し酷い事故だったらどうするんだろう?
「自給のふり」というフレーズが浮かんだ。
ある種のぜいたく、オーバースペックではないか。

もう少し酷いというのは、20Bq/kgなんて言っていたら食べるものがなくなるような汚染をもたらす事故。ただし100Bq/kgという国の基準はぎりぎり超えないので、基準を信頼すれば食べるものには事欠かず、おそらく健康被害は生じない。少量の放射性セシウムも拒否する人は伯夷叔斉のように飢えて死ぬ道を選ぶのか(事故前に作られた缶詰や冷凍食品で生活するには相当の経済力が必要になるだろう)

自給の振りというのは、化学肥料や農薬抜きでの生産量では、おそらく現存の人口を維持できないということ。日本に限ってみたところで、全稲作農家が有機栽培に踏み切れば米不足に陥る。一部の人間がロハスな生活を満喫するためには、その他大勢は化学肥料と農薬で育った作物で命を繋ぐ必要がある。物の価値が分からぬ人間に、無意味に手間の掛かったものを高額で売りつけているとも解釈できるが、金にあかして〈良い食べ物〉を独占する姿はかなり醜悪だ。

ある種の贅沢というのもそれを指している。本当にそんな手間をかけただけの価値はあるのだろうか?という疑問。

そういう暗い気持ちでトークセッションの始まりを待った。スピーカーの一人、五十嵐泰正さんが「「My農家を作ろう」方式の放射能測定がもたらしたもの」の中でとんでもない間違い(指摘に応じて現在は修正済み)を書いていたことも影響している。20Bq/kgという自主基準も、数値だけ聞くと「なんだかなぁ」(これは次の「地産地消のためのセカンドオピニオン」まで読めば諒解できる値)

しかし、実際にトークが始まってみるとそれらは杞憂だった。第二部では農薬・化学肥料抜きでは食料供給は支えられない旨の発言もあり、とても常識的な展開。そしてとても参考になった。

なかでも、事故直後の不安でいっぱいな状況ならいざしらず、1年経ち2年経ち、計測結果も蓄積してきたにもかかわらず、相変わらず0ベクレルでなければ一口でも食べたら病気になると言わんばかりに忌避している人たちがいるけれど、そういう人たちを「自分たちが相手にする対象ではない」と言い切ったところに感心(それではどんな人が対象なのかというと、「柏という地元を愛する人」)。これは民間団体だからできたことで、少数派へも目配りしなければいけない行政ではとても(部局を限定すれば可能かもしれないが)できない。

行政にはできないことをやる以上、「行政をせっつく運動」にならなかったのが成功の要因だろうか。せっつく運動はともすれば外部に悪者を設定する運動になりやすい。そして人を攻撃していても前には進まないことが多い。そういう不毛さを回避したのは立派。

ただ、柏を離れた概論のところで述べられた「震災は隠されていた問題を顕在化させた」という指摘はその通りだし、大きな原因である人口減少が進行する時代を迎えてコミュニティのコンパクト化を進めるのは合理的選択だとは思うけれど、これも外部の人間があれこれ指図することはできない反面、広域(地域間)での調整も必要で、いくら〈地域のみんなで決めたこと〉であっても通らないことが多々出てくるだろう。これは難しい問題。

さて、事故後、二回の収穫を経て、農産物に放射性セシウムが取り込まれる条件が見えてきた。端的に言えば、土壌が強く放射能に汚染されていても、そこからとれる農産物を安全にする目安が得られている。きめ細かい測定をしている柏はもちろん、抜き取り調査をしている福島県産にしても、危険なほど汚染されたものが市場に出回る蓋然性はとても低い。そうなるとむしろ他県産だからと測定されていない農産物とどちらがより安全だろうか? にもかかわらず福島県産であるというそれだけの理由での忌避に正当性は認められるだろうか? もちろん心配な人が産地を選択するのは個人の自由だ。だが公に福島産農産物を非難し、たとえば店頭からの撤去を求めるような行動に出れば、それは不合理で反社会的なものとして指弾される時期が近付いているように感じる。そしてそういった〈市民の不安〉を尊重するあまり科学を蔑ろにするような擁護を続けてきた人達にも批判が向けられるようになるだろう。このあたり五十嵐さんは歯切れ悪く語ったけれど、私の脳裏には幾人もの人文・社会系の知識人の名前が浮かんだ。辛辣な予想を述べるならば、そうなった暁には「放射能が怖かったんだから仕方がない」と、追い詰められた外国人排斥派と同じロジックを持ち出して破産する者続出であろう(そんな浅ましい弁解が出ないことを切に願う)

(「同じロジック」というところを理解しない人はいるだろうか? いるだろうな...)

このトークイベントには「ふくしまの話を聞こう」を主催する福島おうえん勉強会のナカイ代表も参加されていた。なんと第一部についてはツダっていたようなので、そのツイートも参考にされたい(いま当日のツイートを朝の分から見ると、ほかにも興味深いツイートが。これとか)

第二部も愉快だった。遠藤哲夫さんを見て「もしかして船瀬俊介みたいな人?」と警戒したのもつかの間、「地域作りの運動をアートとか文化でやろうというのはあんまり信じてなくて」とかおっしゃる。相手をする五十嵐さんも、購買におけるストーリー作りを評して、はじめは胡散臭く思っていたが、ストーリー込みで消費するのも結構〈アリ〉なのではないか「GDPって、こうやって増やすものじゃないかな」と会場を笑わせる。

(ストーリーを付与されると味が良くなる件については、以前「私たちは騙されている、のだろうか」で触れた。しかし一言居士として付け加えるならば、どんな名産を使いどんな名人の手によって料理されたものであっても処刑前の最後の食事であれば、とても喉を通らない代物になるだろう。食事のシチュエーションも大事。その意味で「Hunger is the best sauce(空腹は最高のソース)」も誤りで、楽しい仲間こそが最高のソースではないだろうか。ツイッターで「ごはんたべたい同士を発見します」なんてお遊びが流行るのもむべなるかな。)

日本の食を実際に支えているのは化学肥料と農薬と認める発言があったのは前述の通りだが、どうも無農薬・有機栽培の虚構性を暗黙の了解にしているようにも感じられた。

その虚構も楽しむためのフィクションであれば有益であるのだが、「健康のためなら死んでも良い」と揶揄される執着に結びつくと笑ってもいられない。福島県の飯舘村がつとに有名だが、有機農業に取り組み、都会への直販に活路を見出そうとしていた農家は多い。ところが営農が難しくなった福島第一原発近辺はさておき、ほとんど汚染のなかった東北地方の有機栽培農家も事故後は注文が途絶えてしまったという。もともと有機栽培にこだわるような消費者は放射能にも人一倍敏感なのだから当然といえば当然なのだが、検査をしてほとんどあるいは全く放射性セシウムが検出されなくても、その人達は戻ってこない。手許のメモには「無農薬フリークに依存する危険性か」などと皮肉な走り書きがあるけれど、生産者は消費者のことを志を同じくする仲間だと思っていたのに、遠くの消費者は農家が仲間だとは思っていなかったという悲劇。この〈裏切り〉を農家はどう思っているだろうか。

と、第一部の後の「〈柏産柏消〉セッション!」での笠原秀樹さん自然農園・レインボーファミリーの発言、「農業は自由でいいですよ。矛盾なく生きられる。嫌な客には「お前に食わせる野菜はない」と言える。」がとても意味深に響いてくる。


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2012/10/11

電子学術論文誌の広告戦略

電子書籍(電子雑誌)の広告について、差し替えが可能なこと、閲覧数に応じて料金をかえられることを以前に指摘した(今度こそ来るか電子出版の時代(「電子書籍の衝撃」)」や「(電子)書籍がタダになる可能性」)。

現実は逆で、たとえば「原発事故から1年半で見えてきた放射能汚染の“正体”」を特集した週刊ダイヤモンド(9/15号)の電子版を購入したところ、広告がことごとく白ページになっており、表示エラーと誤認させるような素敵な作りになっている。

その後、東日本大震災に伴う原発事故の影響から門外漢も医学論文などを参照することが増えたのを見て、現在では次のように考えている。

・念頭においていたのはnatureのような学術論文雑誌(学会誌を含む)
・販売は1論文ずつで、それに広告を付随させる
・ダウンロード型でもウェブ閲覧型でも対応
・広告の内容は、利益相反にも注意しつつ
 ・使用した試薬や機器などの広告1)
 ・所属機関の広告
 ・著者本人の広告2)
 ・研究資金の提供を受けた財団などの広告
 ・関連する書籍(プロ向け/入門書)の広告
 ・翻訳サービス3)
 ・競合による「その論文よりこっちを読め」広告4)
・料金は基本掲載料+論文指定料+広告経由での注文歩合
・上記のように論文を指定した広告の他に、場所を指定しない一般広告もある
・IPアドレスによって「関西地方限定」のような地域限定広告も導入
・広告への読者のアクションは原則匿名保護されるが、同意のもとに読者属性を提供もできるようにする(その場合は値引販売が妥当であろう)
・発行後、一定期間経過後は更新(差し替え)自由となる
・キャンペーン終了などの場合は、期間内でも広告主による差し替えを受け入れる
・参照の多い論文は料金を上げ、参照の少ない論文は値下げする
・過去の広告はすべて保存される(フォレンジック)

  1. 競合メーカーが「うちのを使えばもっと効率良くできます」という広告を入れることも。誇大広告でなければ読者にとって有益な情報となる。
  2. 雑誌によっては「著者紹介」がないので、売り込みが必要なポスドクらは自前で用意する必要がある。
  3. オープンアクセスの普及で門外漢でも論文を手に取るのが容易にはなったが、英語では読むのに苦労する。専門家以外にも開かれた科学とは、このような実装によって保証される。
  4. 競争しあっている一方の論文しか読まないと見方が偏ってしまう。「〜に言及していながら*を引用していない論文には、この論文サマリーを表示」という依頼を受け付ける。citation index(CI)を上げたい著者やimpact factor(IF)を上げたい編集者が喜ぶだろう。むろん「相対論は間違っていた」「EM菌が世界を救う」のようなものは審査で排除する(EMにはpeer reviewの論文はないようだが)。

科学者だからといって、科学関係の広告にしか反応しないということはない。岩波の「科学」の表4には東芝EMIやタバスコの広告が載っていた。そこまで極端でなくとも、保育サービスであるとか家事代行サービスは十分に需要があるだろう。

また、広告とは別に、その論文の影響力(CI)や評価、その論文を引用している論文や総説の情報を付帯させることで、利用価値は大幅に高まる。あるいは「この論文を読んでいる人は〜も読んでいます」のようなレコメンド機能。もちろんその論文に引用されている論文・書籍(の本文または書誌情報)へのハイパーリンク、著者の現在の連絡先への連絡フォームなどは必須。

戦略というよりは戦術的な話になってしまった。

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2012/10/10

電子書籍は学会誌か広報から

電子書籍の普及を妨げる要因はいろいろあるだろうが、その中でも複製(防止技術)は大きい。

発行側は複製されたら堪らないと考えている。それはそうだろう。保護されていないデジタルデータは複製が容易だし、ネットワークに拡散されたら回収はほとんど不可能。心血注いで作成した電子書籍が複製されて闇流通したら、製作費を回収できない。

かといって、ガチガチの複製防止をかければ良いかというと、それもまた問題を抱えている。これは音楽ファイルなどで先行して発生した。携帯電話で購入したものをパソコンでは閲覧できないとか、機種を変更したら読めなくなるとかいった制限があれば、購入意欲は減退する。角を矯めて牛を殺すのと同じ。

また回し読みができない。発行側としては一人一冊購入して欲しいと思うだろうが、個人間の本の貸借が結果として読者を増やす効果は無視できない。出版界が古書店というものをどう評価しているのかよく分からないが、古書店がなければ読書はかなり貧しいものになっているのではないだろうか。もちろん、書籍を電子化することで、絶版・品切れなどというものは今後一掃します、出版社が倒産しても債権者が継続して提供します、というのなら話は別であるが。

つまり現状の電子書籍には、複製は制限したいけれど、制限し過ぎると売れ行きが悪くなるというジレンマがあるわけである。

広報・公報


その軛から自由な出版物がある。無償で配布されるものならば、複製を制限する必要がない。

無償で配布というと、まず広告宣伝が思いつく。広報も、内容の伝達が目的なので売り上げは二の次(第三種郵便を使う場合はあまねく発売されていることが条件なので値段を付ける必要があった。) 。これらは、改竄されたり内容が古くなったものが最新版のように広まったりさえしなければ良いので、たとえば電子署名を付ける程度の対策で済む。

企業の広報誌は経費節減で青息吐息であろうから、電子化は極めて有望なはずだが、さてどうなっているだろうか。もっとも少数でも「パソコンはもってない」「紙の方が良い」というステークホルダーがいると、「両方出すのは大変だから旧来通りで」となってしまうのかもしれない。

学術誌・学会誌


売り上げよりも読まれることが大事なものといえば、学術論文がある。投稿誌の場合、原稿料をもらうどころか掲載料を支払って載せている。さらに「その論文を読みたい」という要望が来たときのために、リプリント(別刷あるいは抜刷ともいう)を用意しておき、無償で渡すのが慣習(全費用は著者が負担する)。従来は投稿料だけで雑誌を維持しようとすると大変な金額になってしまうので、読者にも応分の負担をしてもらっていたが、電子化によって製作費が軽減されれば、無断複製によって売り上げが落ちても影響を受けなくなる可能性がある。ここまで書いて、オンラインジャーナルの著者リプリントってどうしているのだろうか?と疑問に思って調べてみると、印刷回数に制限のかかったPDFをネットにあげて、希望者に案内して印刷させるという方式があった。そんなことしたってすぐ自炊されると思うけど。このE-printは冊子版にも対応しているのかな? つまり現物を送るのでなく、「ここで印刷して」。)

学会誌のように、あらかじめ会費として〈売り上げ〉の目処が立っていれば、それより多くの人の目に触れることは、歓迎こそすれ、忌み嫌う必要はない。非会員でも読めてしまうと会費納入の動機が薄れると思うかもしれないが、1)投稿するためには少なくとも一人は会員でなくてはならない、2)研究会で発表を聞いたり討論をしたりするのも会員が有利(非会員の参加費は一般に高く設定←非会員を排除していない点に注意)、3)支払う余裕があれば人は正規の料金を払う(いじましい節約を重ねていると良心が咎めるし節約疲れも起きやすい)。つまり、多くの人に読まれ、雑誌や学会の評価が高まることの利益は少しくらいの〈立ち読み〉による損失を上回る。多く読まれている雑誌なら広告も集まる。


商業出版は、売れないことには話にならない。読まれなくても良いから売れた方が良いと思っているのでは、というのは邪推が過ぎるかもしれないが、こんな事件があると、内容なんてどうでもいいと思ってたでしょ、と言いたくなる。

聖書の謎


ところで不思議に思うのは聖書。ホテルの客室で見かけるように書籍版は無償で配布されているのに、電子版では販売されていること。ホテルによっては聖書の代わりに「仏陀の教え」のような書籍を客室に備えているけれど、これは電子版が見当たらない。各宗派の教えの中には電子化されたものもあるようだが、ざっと見たところみな有償。なんで無料公開しないのだろう? 

以上、3つは現状でも取次に依存していないという特徴がある。その点からも電子化へのハードルは一般書よりも低い。

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2012/06/27

編集者の三つの仕事あるいは能力

私の最初の職業は雑誌編集者だが、世間で考える編集者とはだいぶ違った仕事をしていたように思う。

一口に編集者と言っても、雑誌と書籍とでは仕事が違う。書籍の中でも辞典編集はまた特殊な位置にあるだろう。

編集者の仕事の対象は3つあるといえる。
・原稿(原稿整理から出版まで)
・著者(発掘と育成)
・企画(何をどう出版するか)

理想は三船の才よろしく兼ね備えることだが、実際には得手不得手があるのではないだろうか。

原稿整理から出版まで


原稿そのものを対象とする、いわゆる編集作業である。基本中の基本であるが、やることは一様ではない。たとえば新聞であれば、字数と締切りが優先される。なにしろ紙面に空白を作ることは許されないのだから。それがたとえば教科書になると時間的には余裕があるが、まず検定に合格するための努力が求められる。大辞典の編集に携わっていた人間が日刊紙の編集部に行っても役に立たないし、その逆もまたしかり。

以前は手書きの原稿を文選・植字という過程を経て活版にしていたため、原稿整理は重要だった。コンピュータを使った原稿であればこの部分が大幅に簡略化され、電子書籍であれば著者が自分でできるから編集者は要らないという極論すらある。

たしかに用字用語の統一や誤字脱字衍字誤変換の修正ならばワードプロセッサソフトがやってのける(著者がその機能を使えるならば)。しかし内容の誤りは(今のところ)素通りだ。また表現の適正化も(やはり今のところは)人間頼り。これは岡目八目と言われるとおり、第三者(編集者)の目の方が頼りになる。

大幅な改稿や不足している内容の補筆となると、原稿整理の範疇ではなく、著者への働きかけになる(作家を旅館に缶詰にして原稿を受け取る、というのはどちらだろう)

著者の発掘と育成


書き手を見出してくるのも編集者の大切な仕事。そして原石を磨いて宝石にするのはもっと大切な仕事(安部公房は『第四間氷期』の中で、「今のプラスチック・レンズははじめっからつややかだ。もはや艱難汝を玉にすといった時代ではない」と書いているが)。大家に定番を依頼する場合は別として、作品への介入も大なり小なり必要となる。世に送り出して読者や批評家の批判に晒す前に、予想できる問題点は編集者が指摘しておいた方が良い。

草稿(β版)を公開してフィードバックを受けて完成させる手法は、名誉毀損や業務妨害など不法行為(時には犯罪)につながる危険性を有する。事実関係や法務面のチェックをしてくれる編集者がいると安全性が向上するばかりでなく、賠償責任を分散することもできる。...売り上げと賠償額を天秤にかける編集者もいるようだ。

漫画を含む文芸の世界の編集者は、こちらが中心ではないだろうか(漫画や小説のファクトチェック、リーガルチェックってあるのだろうか?)。厳しく書き直しを迫る、それも一度や二度ではなく何度でも、という編集者も作家の回想には現れる。

ベテラン編集者が若手を育てることもあれば、若手編集者が新人作家と二人三脚で進めることもある。組み合わせとしては新人編集者が老作家に鍛えられるというのもあるが、ここでは触れない。

書き手を育てるといっても、全人的な陶冶をしようなどとしてはいけない。締切りを守らせることは重要ではあるが、最重要というわけではない。誤字脱字もないに越したことはないが、容易に修正できる。具体的な最重要事項はジャンルによって、また時代によって異なる。編集者自身がそれを理解していないといけないとはいえ、自分の劣化コピーを作っても仕方が無い。〈教える〉と〈育てる〉は違う。

企画


要するに「どんな本(雑誌)を出すか」の決定。このテーマ設定がズレていると後から挽回することは非常に難しい。

そしてほとんどの民間企業の場合は〈売れる本〉を目指さざるをえない。ここで「売れ行きは芳しくなくても良い本を」なんて気取ると会社が傾く。そういう贅沢をして良いのは赤字を補填してくれるバックが付いている会社に限る(ちなみにそういう会社は実在していて「今の時代に出すべき本を出す」と丁寧に本を作るという)

売れ行きをもっとも気にするのは、結果がすぐに出てくる日刊紙・週刊誌の編集長だろうか。旬な話題、もうすぐ旬になる話題に対する嗅覚が求められる。同じテーマ(事象)でも雑誌によって色合いが異なって取り上げられるのは編集者の目の付け所が違うから。自分の好みを押し付けず、さりとて現状の後追いに陥らずというのは、かなり難しい。ただ、スパンの短いものは軌道修正も容易。単行本の場合、外れた場合の痛手は大きいだろう。下手の考え休むに似たりであるから、単行本もどんどん、数撃ちゃ当たるで出すという手はあるが、それを選ぶと企画の詰めが甘くなり自転車操業に陥りかねない。

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2012/03/11

シマウマ症候群/医学生症候群(用語解説)

ありふれた症状を重篤な疾患と関連付けてしまうこと。

「ウマの蹄音を聞いて、シマウマが歩いていると考える」に由来。アフリカならいざしらず、この言葉ができたであろう欧州においては、パッカパッカという足音がしたら、それはウマが歩いていると考えるのが普通。それをシマウマかもと考えてしまう。

以前は医学教育を受けている学生に多く見られたらしい。それで「医学生症候群」とも(googleではこちらの方がヒットする)。近年はメルクマニュアル医学百科最新のようなウェブやブログ、『家庭の医学』のような書籍、あるいは健康をテーマにしたテレビ番組を見て、「この病気にかかっているかも」と怯える一般人も多いようだ。

もっともジェロームの小説『ボートの三人男』(1889年)の冒頭にも、この描写がある。図書館でふと医学書を紐解いたばかりに、ありとあらゆる病気(ただし、膝蓋粘液腫は除く)にかかっている気になってしまった主人公は、その足で医者へ赴く。話を聞いた医者が処方したのは、ステーキを食って酒を飲み、ぐっすりと寝ろというもの。これによって主人公は〈健康〉を取り戻す。

手漕ぎボート中心だったテムズ川に登場したスチームランチに対し、あの傍若無人な汽笛の音をきけば陪審員も「正当防衛による殺人」と認めるだろうなどと前半では罵倒するのだが、後半になってボートを牽引してもらうと掌返し。これら主人公の態度は現代の日本人にも通じるというか、近代の大衆の典型かもしれない。道具立てが図書館からインターネットに変わっただけで、行動の本質は同じ。

患者側がかかると「小騒動 - #私は家庭の医学で不安になりました」でも指摘されているように、ヒポコンデリー(心気症)である。

映画などには、新人医師がありふれた疾患で大騒ぎするシーンがある。題名は忘れたが、社会奉仕で田舎での診療を命じられた若い医師がドクターヘリを呼ぼうとしたのを町医者が押しとどめ、簡単な施術であっさりと治してしまうとか。

ただし、希少な疾患というのは、珍しいとは言え実在するわけで、それゆえに見過ごされる危険も大きい。20世紀後半、イギリスで天然痘の小流行があった際、多くの医師は見逃してしまい、天然痘と診断できたのは過去に天然痘患者を診察した経験のあった老医師だったという話がある。

『続 推理する医学』には「シマウマのひずめの音」という一章が設けられ、重症筋無力症にかかった女性が、そうと診断されるまでの経過を描いている。多くの医師はありふれた疾患として扱ったが、最後の医師が「これはウマではなくてシマウマ」と看破して患者は救われる(wikipediaによれば「適切な治療によって80%は軽快・寛解し、日常生活に戻れる」、つまり診断が大切)。

だが、こういう話を読むと、また素人は「私は重症筋無力症かも」と思いこみかねないなぁ。

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『続推理する医学』はさすがに古本しかない。

ただし『推理する医学2』として改装版が出ている。

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良心は人をカウボーイにする(用語解説)

出典はサキの「ラティスラブ」。英国伯爵夫人のドラ息子が急にメキシコ辺りへ出奔した。それを聞いた男爵夫人が驚いて「なぜ?」と聞くと「イギリスの諺にあるわね。『良心は人をカウボーイにする』って。」と澄ましている。

正しくはシェイクスピアの戯曲『リチャード三世』からで、カウボーイではなくてカワード(coward)、つまり「良心は人を臆病者にする」。

男爵夫人が、彼に良心があるなんて知らなかったと皮肉を言うと、ほかの人の良心に責められるからなのよ、と泰然自若な伯爵夫人。

息子が逐電したのに落ち着いている事情は冒頭に説明されている。「彼は家中のブラックシープ(厄介者)だった。ただし家族一同かなりブラックがかった一家である。」

それだけの話なのだが、この勘違いが面白く、ついついシェイクスピアの代わりに引用してしまう。


なお、「ラティスラブ」は『ザ・ベスト・オブ・サキ(1)』に収められている。


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2011/12/24

私がほしいスキャナ

昨日、作家が自炊代行業者を提訴した件を取り上げたけれど、これについては多くの人が一言あるようだ。ただ、法律上の問題を語るのに条文すら見ていないような人もいるのは残念なこと。

その点、専門家はひと味違う。「「原則自由」な社会における自炊代行論争」は、なぜ著作権が保護されるのかにまで遡り、業者は著作権者の権利(創作にかかる投下資本を回収する機会)を損ねないから、この提訴が要求していることは過剰規制であると結論している。また読み取りデータの不法流通などに対しては、それ自体が著作権(公衆送信権など)侵害行為として取り締まれるのだから、自炊代行業を規制する理由にはならないとも。

一方、「自炊代行提訴についての雑感 --- 玉井克哉」は、自炊代行は私的使用のための複製には当たらず違法としたうえで、解禁に向けた法改正論に対しては「「自炊」と「自炊代行」とでは、社会的・経済的な影響がまったく違う」と譲らない。


実はこの二人の論者、しばしば意見を闘わせる仲のようですが、そこは専門家同士、少なくとも玉井先生はこんなツイートも。

自炊代行業の中には高邁な理想などなく、流行りの商売だからと手を出しただけのところや、新古本を手数料付き(!)で集めようと考える小賢しい業者もいて、ひょっとすると闇勢力が手を伸ばすかもと考えると、諸手を上げて「業者頑張れ」とは言いがたい。たしかに、いちいちスキャンなどせず、前のデータを使い回せば濡れ手に粟だ。そうすれば本も裁断しないで済むから、そのまま古書として販売可能。悪い奴が指をくわえてみているはずがない(振り込め詐欺などの進化を見ていると、その知恵を良い方向に使えよと言いたくなるほど、連中は利に敏く頭の回転が速い)。

過剰規制論の弁護士も、(脇が)甘いと全面擁護ではない。

これらの問題に関しては、業界が次のようなガイドラインを作り、安心して任せられる業者を推薦することで緩和できると思う。


  • 発行後一定期間を経過するまでは受け付けない

  • 依頼された本を必ずスキャンする(データ使い回しの禁止)

  • 処理した本は、裁断するしないにかかわらず透明インクなどで「スキャン済み」と押印するか、第三者の証明書付きで廃棄処分

  • データには依頼者の住所氏名、入力業者の連絡先を挿入(依頼者名は名入れサービスで「○○様蔵書」と目立つところに)

  • 処理記録の保存

  • データはディスク渡し(実在連絡先の把握)

特に「依頼した本をスキャンせず、前の依頼人のデータを使いまわし」をされると、書き込みも残したい人には大打撃となる。また版ごとの違いを研究する人にも迷惑至極。それは普通の読者には無関係と思われるかもしれないが、ずぼらな業者なら同じタイトルの別の本のデータを送ってくるくらいやりかねない。

前置きが長くなった。

住居を圧迫する書籍雑誌を電子化したいが断裁することには抵抗を感じる人はいる(本の形を保ったままの溶解処理なら平気なのかなぁ)。そういうツイートを見て思いついたのが、ヘッドマウント型のスキャナ。つまり本を読んでいくときに、一緒に読み取ってくれる機械。普通のカメラ撮影ではガラスで押さえないと歪んでしまい、画像はとても読みにくくなるが、それを解決する技術は開発が進んでいる。この研究のようにパラパラとめくったものを読みとれというのではないから、小型化も容易だろう。

読みながら気になった部分を指でなぞるなどして電子付箋をつけられれば、さらに便利。

読むそばから電子化されていくから、電子書籍で期待されている語句の説明や関連情報へのハイパーリンクも可能になる。Inbookメディアマーカーなどにも関連付けるのが容易になるだろう。こうなるとライフログ記録装置として完成するかもしれない。

未読のまま先に電子化した書籍は読まれない、なんてジンクスもこれで解決。

続きを読む "私がほしいスキャナ"

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2011/12/23

訴えられた〈自炊〉代行業者

書籍をスキャナで読み込んで電子書籍を〈自作〉することを〈自炊〉と呼ぶ。

  1. 書籍雑誌の置き場所が足りない
  2. しかし捨てられない(また読みたい/使うかもしれない)
  3. とっておいても探し出すのに苦労する

電子化によって、上記の悩みは解決する。原理的にはかなり前から構想されてきていたが、スキャナの性能向上とコンピュータのディスク容量増加によって容易になった。

一方、携帯情報端末での閲読が実用的になったことから、「好きな場所で好きなときに読みたい」「全部を持ち歩きたい」が現実的になってきた(音楽ではiPodによってすでに実現している)。蔵書すべてをいつでも持ち歩けるというのは極めて画期的。「無人島へ行くのに一冊だけ持っていくとしたら」という質問は意味をなさなくなる(最高の一冊を選ぶという行為には意味は残る)。

もっともプリミティブな方法は雑誌または書籍をスキャナで読み込み、画像またはPDFファイルで保存・閲覧する。

しかし書籍のコピーをとったことがあれば分かるように、きれいにスキャンするのは意外に難しい。特にのど(本を閉じている側)に影や歪みが生じやすい。また数百ページを読み込むのに、機械のそばで開いてスキャンしてページをめくってを繰り返すのは重労働。

そこで書籍を解体してページをバラバラにし、ドキュメントフィーダ(原稿送り装置)を使って読み込む方法が開発された。そうすると必要な道具は、断裁機とスキャナ。Amazonの2011年売れ行き年間ランキングを見ると、文房具・オフィス用品のトップはなんと断裁機である。

しかし数が中途半端な場合、断裁機を買うほどでもないが、かといってカッターで切り裂くのも面倒というジレンマに陥る。また書籍にはセンチメンタルバリアがあって、初めの一刀を加えるのは敷居が高い。

スキャナも、大量高速処理機を購入すれば、自炊終了後は持て余してしまう。

そんな需要を見込んで登場したのが代行業。本を送りつけるとデータ化してディスクに入れて送り返してくれる(断裁した本の扱いは業者によって異なり、返却するところと返却せずに処分するところがある模様)。1冊100円程度なので、百冊の単位(個人蔵書としては並)であれば数万円で電子化できる。最大のメリットは書棚の整理効果。特に「どこにあるのかわからない」状態に陥っていた場合は顕著。


この自炊代行業者の登場は、最初は話題になったが、いつの間にか雨後のタケノコ、報道によればすでに約100社あるという。

その代行業者が作家から訴えられた。「私の本をスキャンするな」と。

法律の条文を見る限りでは作家側に理がある。書籍の多くは著作物である。著作物を複製するには原則として著作権者の許可がいる。著作権法ではいくつか例外を設けており、自炊行為そのものは私的使用のための複製(第三十条)として認められるものの、これは「その使用する者が複製することができる」という限定があるので、業者による複製行為(スキャン)は該当しない。


なお、以前考察したように、企業など法人においては私的使用のための複製は認められない。しかし「だから違法です」で終わらせるのは頭が悪すぎる。需要はあるのだから、法律を改正してでも、著作権者の権利を擁護しつつ合法化の道を探るべき。例に挙げた新聞の切り抜きは、別途料金を払うことで合法的に社内回覧が可能になる(たとえば朝日新聞の「企業・団体・官公庁などでの新聞記事の内部利用について」参照)。

電子化するために原本が断裁されているから複製ではないという意見もあるが、問題となっているのは中身であって本という物体ではないから無理がある。仮に読み込んだ本を破棄すれば、複製ではなくて移動という主張もなされるかもしれないが、おそらく法的には通用しない。なにしろ「コンピュータに表示させたら、その時点でメモリの中に複製されている」なんて議論がある世界なのだから。

だが疑問もある。

まず問題になるであろうと思わえるのが訴えの利益。前述したように、個人が自分で自分が買った本を解体して電子化することは法的に問題ない。書籍は正当に購入されており、著者には応分の利益が保証されている。たまたまスキャンするのが読む本人ではなく業者ということで、いったいどういう不利益が作家側に生じるだろうか。

代理人もそこは考えたようで、訴えは差し止めに絞ってある。賠償を求めるためには損害を証明しなければならないからだ。

しかし、である。本人には認められている行為を、業者が代行することでどんな不利益が生じるであろうか。これは「みんなやってる」という子供の言い訳とは話が違う。著作権法が私的複製に、家庭内かそれに準じる範囲とか本人が複製するとか公衆用の自動複製機器は使えないとか制限を設けているのは、借りてきて手軽に複製する行為が蔓延したら売上にも影響すると考えたからだろう。繰り返すが、自炊の対象はすでに購入されている。逆立ちしても売上に影響をおよぼすことはない。

売上への影響を懸念するなら、ブックオフなどの古書店の方がよほど影響がある。しかしそんなことを言い出したら、個人蔵書の学校への寄贈とかまで問題になってしまうではないか。それは文化の発展に寄与することを目的とする著作権法(の精神)に反する議論だと言いたい。


ある古本屋が最寄り駅に出した広告は「活かせ古本! 広がる文化!!」だった。子供には「かせ」が読めなくてねぇ。

2番目の疑問は、実は自炊そのものが嫌いなんでしょ?という点。法律的に自炊そのものを問題にできないので、形式的な違反を突いてきた。そういう、浅ましいというか心卑しいというか、なんとも言えない不快感を覚える。


ついでにいえば、私的利用のための複製は「公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器」を使ってはいけないのだ。つまりコンビニのコピー機で本や雑誌をコピーする行為は本来保護されない。ただし現在は著作権法附則第五条の二により経過措置が設けられている。法律というのは実状に合わせる必要もあるのだ。コンピュータに取り込んで利用するという発想のなかった時代の規定なのだから、現代的に「自己の所有物は自由」とか「原本を破棄する場合は自由」と条文を改めても良いと思う。なお、昔買ったCDをリッピングしてからリサイクルショップに売るのは自由(仮に問題があったとしても取り締まりは困難)という点も忘れないでほしい。

会見を報じた記事では自炊行為そのものへの嫌悪感も表明されている。

会見場に置かれた裁断済み書籍について、林さんは裁断された書籍について「本という物の尊厳がこんなに傷つけられることはとんでもないことだ」、武論尊さんは「作家から見ると裁断本を見るのは本当につらい。もっと本を愛してください」と話した。

「林さん」というのは林真理子。「ところがこういう業者がハイエナのようにやってきて不法なことをやっている」と感情的。こういう喧嘩腰の物言いは「(再販制度のために年間1億冊が裁断されていることに目をつむった)あさましいポジショントーク」という反応を呼び起こす。

また電子化したファイルがネット上で流通するおそれも指摘し、「依頼者が電子ファイルをどのように使うのか、業者はそれを確認する措置をとっていない」ことも問題視している。

これも代行業者とは無関係。個人が断裁機とスキャナを用意して、ブックオフから二束三文で書い集めて電子化して公開する方がダメージは大きいと思うが、それは代行業を提訴しても防げない。分かってるのだろうか。

断裁された書籍がオークションで売られているなど、作家側がカリカリするのにも理由はある。100円程度でそれらを購入し、家庭用スキャナで読み取ってから再度オークションに掛けられでもしたら新刊の実売に影響が出るかも、と考えるのは分かる。

しかし、いかにも取って付けた理由という感じがする。規制を要求するならオークション事業者が相手ではないだろうか。

それに、電子化して手元に置きたいと思うのは、あえていえば愛読者だ。一読したら(あるいは読みかけで)電子化もせず、したがって断裁もしないが、そのままブックオフへ売ってくれる方がありがたいのだろうか?(電子書籍化によっていわゆる絶版がなくなれば、古書店は歴史的使命を終えたと言えるだろう)

自炊というのはやってみると分かるが、手間はかかるし、出来栄えはいまいち(斜めになる/ゴミが写る/モアレが出る)だし、あくまで正規の電子版が出るまでのつなぎという感じ。それなのに、自炊の技術ばかりが進化していくというのはいびつというほかない。つまりなんで正規の電子版は手に入らないのか。

法律の条文だけ見れば原告に理はあるが、とても不幸な形式主義の発露に見えてならない。

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2011/08/02

「僕と日本が震えた日」(第2話)のオチに苦笑

先日開かれたガイガーカウンターミーティングを紹介したおかざき真里さんの漫画「お母さんのためのGCM講座体験談」の中に「内容は鈴木みそ先生の漫画で」というセリフがある。それがルポ漫画「放射線の正しい測り方」。おかざきさんやいまいみほさんの作品が「こういう会に行ってきました」(これはこれで大切)なのに対して、放射線測定の方法について詳しく解説している。ちなみに3つの漫画に描かれる野尻美保子さんは同一人物とは思えないほど異なっているが、ご本人の談によれば鈴木画が一番似ているとか。(私はいまい画の方が感じが出ていると思う。おかざき画は...)

さて、その鈴木みそさんは東日本大震災を題材に「僕と日本が震えた日」という漫画を描かれ、第2話までがWebコミックとして公開されている。

その第2話は出版業界の受けた震災の影響。紙が足りなくなった(石巻にあった製紙工場が被災した)とは聞いていたが、インクの不足も深刻だったらしい(元編集者としてぞっとしたのは、電力使用制限令の影響で、印刷機の運転がシビアになり「1ページでも遅れたら雑誌ごとまとめて後回し」という状況になっていることで、締切りが48時間も早くなるには、思わず出版界に戻っていないことを感謝してしまったり)。また委託していた商品が流されたり水をかぶったりで売り物にならなくなってしまったのも深刻な事態(ここで委託販売制度の解説が入り、佐々木俊尚が『電子書籍の衝撃』などで「本のニセ金化」と呼んだ自転車操業も描かれている)。

それが全部流されてしまった! これを「神様の万引き」と絶妙な比喩で表現。それに対して電子出版が希望の種という展開が用意される。たしかに電子出版なら、どこかにデータが残っていればアッという間に〈増刷〉できる。端末1台で無制限に書籍を読むこともできる。紙に縛られていた出版が、紙が流れたことを奇貨として電子出版に...と調子よく話が進むわけではない。続きは是非comicリュウのサイトで読んでほしい(紙版も出るようなので購入してもらえるとなお良い)。最後のページは(笑いすぎて)涙なくしては見てられない。

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2011/03/25

複数の知識を持ち寄る 放射能を帯びた酒

今この世界を生きているあなたのためのサイエンス〈1〉』を読んでいたら、意表を突かれる記述があった。

アメリカのアルコールたばこ火器爆発物取締局では、ワインやジン、ウイスキー、ウォッカの放射能を検査します。ウイスキーは、五分の一ガロン(〇・七五六リットル)当たり毎分四〇〇以上のベータ線を出していなければ、人の飲用には適さないと判断されます。

単位は省かれているが、おそらくベクレルであろう。放射能があったら飲めないのではない、放射能がない酒は飲むのに不適当だというのだ。

そして次のページにはこう書かれている。

こうしたことは、少なくとも専門家の間では、議論の余地のないものです。ところが、ほとんどの人たちは、こうした話を聞くとびっくりします。放射能がどういうものかを理解すれば、いま言ったことがどういうことかわかります。前述の事実を聞いて驚くのは、多くの人が、放射能について誤解や勘違いをしているからです。

だが、別に放射能について特別の知識はなくても、ちょっとした教養レベルの知識があれば、それを組み立てることで容易にたどりつける結論なのだ。

生物由来のものには放射能がある


生物は炭素循環の中に身を置いているので、生存中は体内に一定の割合で天然の放射性炭素(14C)を含有している。ところが死んで外から新しい14Cの供給が止まると、体内の14Cはどんどん分解崩壊して減ってしまう。そこで遺跡から発掘された植物体(木材や穀物など)に残っている14Cの量を測定すると、元の植物がいつごろ光合成を止めた(伐採・収穫)かが分かる。

教育課程が変わったので今はどうか知らないが、炭素循環は高校で習ったし、理科好きな中学生なら知っているだろう。エネルギー問題に関心のある人ならカーボンニュートラルでその概念を理解しているはず。

遺跡の年代測定はむしろ文科系の人のほうが詳しいだろうか。wikipediaで放射性炭素年代測定を見ると、縄文土器が世界最古の土器文化である可能性は、この測定法によって示されたとある。放射能の減り具合で年代がわかるのであるから、現代の植物に放射能があるのは自明である(まさか、太古の時代だけ放射能の雨が降っていて、その痕跡を調べていると勘違いしている人はいないだろう)。

植物が微弱ながらも放射能を帯びていれば、そこから醸造された酒(エタノール)にも放射能(14C)はある。

ここまでが第一の知識群。植物(生物)は放射能を帯びており、新しい植物から作られた酒にも放射能はある。

生物由来でも石油には放射能がない


ところが石油には14Cはない。なぜならば、石油の成因には諸説あるが、生物成因説をとっても、元の生物が大気中の14Cを最後に取り込んでから数億年を経過しており、5730年で半減してしまう14Cは検出できないほど微量になってしまうから。

次がエタノールの作り方。日本では発酵法が大部分であるけれど、実は石油から作ったエチレンガスに水を反応させるとエタノールが作られる。
C2H4+H2O=C2H5OH
このエタノールには14Cは含まれない。

石油からエタノールを作る方法は、発酵法に比べて、高濃度のエタノールを必要とするときに特に有利となる。発酵法で得られるエタノールは20%程度で、濃度を高めるためには蒸留が必要になるからだ。石油が安いUSAでは工業用アルコールは、この合成アルコールが多いと考えられる。

第二の知識は、いわゆる天然モノではない(石油)化学合成品は放射能を帯びていないということ。合成アルコールと醸造アルコールは放射能で識別することが可能ということが導きだされる。

合成エタノールは粗悪な酒の原料になる


日本でも合成清酒とか三倍増酒という怪しげなシロモノがある。乱暴に言うと醸造酒の不足を補うためにアルコールを水で割って味をつけた紛い物。彼地の事情は知らないが、醸造して蒸留して樽に詰めて寝かせるウイスキーよりも、工業用アルコールに色と味をつけた紛い物ウイスキーなら安く作れるのは想像に難くない。そしてこの合成ウイスキーは(本物ならあるはずの)放射能を帯びていない。

そのような合成酒が規制されるのは税の問題かもしれないが、人の飲用には適さないということからすると工業用エタノールには飲まれないように化学物質を混入してある(変性アルコール)からかもしれない。あるいはメタノールを使った粗悪品を警戒しているのかもしれない (合成メタノールも放射能を持たない)。

ちなみに化学系の学生は試薬である特級エタノールを蒸留水で割り、アミノ酸やフマル酸などで味付けして酒を作るのが好きだが、デキのいい大学では無水エタノールの使用はご法度になっている(ベンゼンを含むから)。

閑話休題。第三の知識として工業用の合成アルコールは酒もどきに使われる可能性がある。この知識もむしろ文科系の領分かもしれない。カストリとかバクダンの世界である。

まっとうな酒には(弱い)放射能がある


これらを組み合わせると、放射能が全くない酒は飲用に適さない(可能性がある)という結論が導かれる。

ちなみに検出されて良いのは14Cから出るβ線であろう。

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2011/03/07

書籍の自動販売機

久しぶりに某私鉄のT駅に降り立ったところ、珍しいものを見かけた。書籍の自動販売機と言ったら、前面がハーフミラーで、夜にならないと中身が分からないもの、と思っていたが、これは昼間から堂々と売れるもの(ちなみに撮影は17:40ころだが、見ての通り十分に明るい)。

15種類の文庫本を展示するホームの自動販売機。小説、レシピ、雑学など。


もっとも調べてみると、すでに2007年から始まっていたものらしい。そういえば機械も新品という感じではなかった。

首都圏の駅のキオスクに文庫本の自動販売機が登場した。意外な組み合わせが、意外な人気を呼んでいるようだ。

「活字をめぐる風景としてとても新鮮。マニアックな品ぞろえにも興奮して、思わず写真まで撮ってしまいました」。作家の亀和田武さんは、実際にホームで見た時の驚きをこう語る。

文庫本自販機が池袋、恵比寿、田端、中野、西日暮里のJR5駅に登場したのは今春から。お金を投入して商品番号を押すと、本がドスン、と落ちてくる。

1台の機械に16点が並ぶ。たとえば京極夏彦『魍魎(もうりょう)の匣(はこ)』、安野モヨコ『美人画報』、水木しげる『総員玉砕せよ!』……。亀和田さんが言うように、確かに傾向がつかめないラインアップだ。

(asahi.com ひと・流行・話題 2007年12月19日)

面白いのは講談社のコメント。今まで思い込みで商機を逃していたんですね。


「文庫本ならではの新しいシステムなのかもしれない」と吉田部長は言う。「表紙だけで買うだろうか、本が落ちてくることに抵抗があるのでは、という心配は出版社の思いこみだったようです。クレームもない。言う相手がいないのかもしれませんが」

ドスンと落ちることに抵抗があるなら電子書籍は如何? コインを入れて携帯電話を近づけたら電子書籍が2秒でダウンロード、という機械なら本の補充も遠隔操作可能。電子マネーを使えば集金や防犯さえ省力化できる。

〈お任せダウンロード〉なら客が機械の前であれこれ迷う必要もない(購入履歴と照合して二度買い防止)。新聞なら月極1000円あるいは21回分1000円とか。

売り上げは上がるだろうけど、労働市場を浸食するかもしれない、というのが悩みの種。

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2011/02/15

(電子)書籍がタダになる可能性

先に、電子書籍になって書籍が安くなると言っても、せいぜい半分だろうというエントリーを書いた。本体価格1000円の本を例に、まず印税が100円(10%)かかり、仮に制作作業をすべて作家本人がやったとしても(この場合、作家の取り分は実質減少する)、さらに配信や決済の費用が必要だから当面は半額という推定。すると「1/10になる」と主張していた方からメールが来た。私信なので無断公表ははばかられるが、ご都合主義的にねじ曲げたと思われないために、あえて原文を示すと次のとおり。

作家の村上龍が起業した電子書籍会社では、著者の取り分は40%だそうです。取り分の四割が100円だとすると、電子書籍の定価は250円ということになります。

1000円の本を例に出した議論へのコメントだから、紙版なら1000円と考えてよいだろう。現行の印税10%とも平仄が合う。250円は、小学生でも分かるように1000円の1/4。事実上1/10説の撤回か。「いや、それでも細川の言う半分よりは安くなる」と言いたいのかも知れないが、先に1/10を唱えたのはそちら。数値を出したらそこが標的になるって、30mの大浪事件で痛い目にあったはずなのに、もうお忘れか。この先、それで痛い目に会うことはないだろうが、閻魔様の前で「私が犯した罪は三つです」なんて言い切って「本当か」と閻魔様が浄玻璃鏡を持ち出したら舌抜かれますよ。

ちなみに村上龍が相手にするのは、そこそこ売れる作家だろう。部数が出れば単価を抑えてもペイできる。前回も指摘したように最終的に問題になるのは金額であって%ではない。利益率100%でも年商100万円では会社は立ち行かない。

また「結論」と「補足」で分析したように、本によっては相当安くなることも考えられる。

ただ、そのときは触れなかった価格決定要因が2つある。一つは広告(書籍の民放化)。もうひとつはフリーミアム方式。

現状でも雑誌の価格は広告費によってかなり安くなっている。なかにはフリーペーパー(フリーマガジン)なんてものもある。書籍には自社広告以外載せられないという慣行(?)が電子書籍に持ち込まれなければ、製作費をカバーするくらい可能になるかもしれない。実際、ある技術書で「広告ではない、参考資料である」という理屈でメーカーから製品情報を寄せていただいたことがある。

電子書籍に載せた広告は、購入行動に移るまでの障壁が低いので、紙に載せるより強気に価格設定可能。しかも電子書籍端末がオンラインであれば随時差し替えることまでできる。また効果測定ができるので、基本料金+実績、つまり電子書籍一冊一冊がアフィリエイトサイトになることも考えられる。これは決済情報とひもづけるとプライバシー侵害になりかねないが、逆に一部の消費行動のプライバシーを買い取る(値引販売)ことで、書籍購入者ごとに異なる広告を載せて広告商品の購入率向上を図ることができるようになるかもしれない。版元ではなく書店(取次)が広告を管理するわけだ。(書店のレジで本と一緒に広告を袋に入れるのと同じ) 版元には広告費としては入らなくても、卸値を上げる形で還元可能(本の中に広告を入れるには版元の協力が必要)。

フリーミアムにはいろいろな形態がありえる。第一章だけあるいはダイジェスト版や機能制限版を無料または安価で頒布し、全部を読むには正規料金を取る方法。本体は無料で質問権を有償にする方法(参考書など)。ダウンロード後一定期間で読めなくなり、再度読むにはキー購入が必要になる方法。フリーミアムとはちょっと違うが、読んで価値があると思った方からお代をいただく投げ銭方式もある。宗教書は無料で配って献金を受け付ければ、非課税収益になる、なんて邪なことを考えてはいけません。(理由は忘れたけれど、値段をつけないと流通上?不利益があり、1円とか10円とかの値付けをするものがあったけれど、あれはなんだったか。)

画像データをPDFにして印刷不可にしたものはもっとも簡単な機能制限版。

これらを導入すれば普通に印税を払って、特に手抜きをしない電子書籍も非常に安く、ひょっとすると無料で頒布されるようになるかもしれない。

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2011/02/12

「科学コミュニケーション Inside Nature」を聞く

MEBIOSオープンセミナー「科学コミュニケーション Inside Nature」に参加した(1月28日)。


第一部はScientific Communication。懸念した通り初めの演者の言う事(英語)はほとんど聞き取れない。スライドも理解できない。それでも我慢して眺めていたら、あとのフロアからの質問(日本語)で急に合点のいった箇所もあった。

スライドの誤字:光学であるべきところが後学に。

二番目の演者はNatureでただ一人の日本人編集者。スライドの誤字(なかなか味わい深い:この時点では撮影制限は告知されていなかった)は無視して謹聴。仕事探しのところは失業者としては身につまされる。論文を送るときに付けるカバーレターは非公式文書だから、「多少」大袈裟にアピールしても構わないと心強い助言。履歴書の時にも言えるよな。

Nature Japanサイトにも求人欄があるけれど、数は少ないし研究職ばかり。博士号取得者等を非研究領域で活用するような求人を開拓してもらいたいと思った。

第二部はInside Nature。演者は才媛という言葉がぴったりの感じ。またもや英語講演だけどスライドがもっぱらテキストだったのである程度(当社比)は理解できた。内容は「ネイチャーができるまで」。カバーレターについて、その重要性を指摘しつつ、アブストラクトの繰り返しとoversellはいけませんと釘をさす。

査読に回す(10-15%?)か突き返すかまでは担当編集者が独りで決めるというのは軽い驚き。アピール(異議申立て)が来て初めて上級編集者の判断を仰ぐらしい。権限と責任が明確なのは英米流。

第三部は質疑応答。いろいろな立場からの質問があった。最後に、誰も質問をしないのにNatureとScienceはどう違うかが説明された。「商業誌だから独立性がある」 うむ、奥が深い。

紙媒体での発行に固執していたのはなんとも。物理的制約で価値ある論文を載せられないのは本末転倒だろう。逆に「ろくな論文が来なかったから今週号は薄いぞ」も電子媒体なら簡単(冊子はページ数が16の倍数であることが望ましい)。むろん定期購読者には何らかの手当が必要だけど。

4時間のまとめとしてはかなり貧弱だけど、忘れないうちに書き留めた。

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2011/02/08

「オープンアクセス、サイバースカラシップ下での学術コミュニケーションの総合的研究」の報告を聞く

先日のMEBIOS オープンセミナー「Inside Nature」で案内をもらった「オープンアクセス、サイバースカラシップ下での学術コミュニケーションの総合的研究」研究成果報告会に行ってみた。

以下は個人的な関心に基づくメモ。延々4時間に及ぶ大発表会なので内容紹介はほんの一部です。

最初に海外学術雑誌に発表した日本人は誰なのか


上田修一 (慶應義塾大学文学部)

質問の一番手が「面白い研究だが、どういう意義が?」と厳しい追及。それに対して、西洋の科学を日本が受容する過程が明らかになると。なるほど。また冒頭では外国誌に投稿することに批判があることへの疑問を表明されていた。

日本における電子ジャーナルの発行状況


時実象一 (愛知大学文学部)

1958年にオンライン雑誌?
発表要綱とは別にパワーポイントのスライドが配布された。「オンラインのみの新規雑誌数」というグラフで、1958年にすでに一誌あることになっているが、ARPANETさえ存在しない時代にどんな「オンライン雑誌」があったのだろう。

また「電子化」の定義を聞き漏らしてしまった。ネット経由で見られれば画像データでも電子ジャーナルと言えると思うが、データベースとして考えると全文検索の対象とならないのは心許ない。実際CiNiiでも画像形式のPDFをよく目にする。

MEDLINE収録の日本の医学系雑誌の電子化状況とインパクトの変化


林和弘 (日本化学会、科学技術政策研究所)

癌学会や生化学会の論文誌がMEDLINEではEnglandの雑誌となっているのは興味深い。生化学会は会員に国内誌(JB)への投稿を呼びかけていたと思うが、あにはからんや。
なお、「プラットフォーム」という用語があったが、これがよく分からない。おそらく検索と一体となった提供システムなのだろうが、ファイル形式は何を採用しているのだろう。何が心配と言って、何年か経ってコンピュータシステムがガラっと変わったら読めなくなるというのが一番困る(電子書籍でも遠からず問題になるだろう)。PDFやHTMLならそうそう「絶滅」することはないと思うが。

オープンアクセスの進展と電子ジャーナルの利用統計


加藤信哉 (東北大学附属図書館)

学術書・学術雑誌がネット経由で閲覧可能になれば、図書館が蔵書することは意味をなさなくなる。極端なことをいえば、国立国会図書館一つがあれば足りる(外国図書・外国雑誌はアメリカ議会図書館任せ?)。もちろんそれはだいぶ先の話ではあるが、個々の図書館が個別に蔵書の充実を図る必要は低下するであろう。

ただし、検索というのは適切な検索語を思いつかない場合にはまったく役に立たない。だからおそらく司書の役割は検索支援や検索代行になるのではないだろうか。いまでも図書館にはレファレンスサービスというものがある。

ところで「タイトルレベルでの利用統計ではなく、論文レベルの利用統計が求められている」の意味が分からなかった。このタイトルというのは雑誌名のことか?

大学図書館の提供雑誌が研究者の引用行動へ及ぼす影響


横井慶子 (慶應義塾大学大学院)

非常にそそられるタイトルであったが、結論は「変化は確認できたが、その変化に影響を及ぼす要因が大学図書館の提供雑誌であるかという点までは明らかにはできなかった」と肩透かし。

この発表を聞きながら、文学研究への揶揄−−文学研究とは百年前の今では忘れ去られた作家に対して、同時代のやはり忘れ去られた作家が与えた影響を調べること−−を想起したけれど、そうバカにしたものではないかもしれない。影響の具体的内容にあまり意味はないにしても、何を媒介にしたとかどのように受容したかとかの解明は、現在でも価値を見いだせる。

遺伝の3法則がメンデルの死後16年(発表から35年)にして再発見されたようなことがもっと頻繁に起きるかもしれない。文献調査はますます重要に。それから前々から言われていることだが、ネガティブデータの共有も重要に(前にやった人が失敗したからと言って、端から諦める必要はないが、同じ失敗を繰り返すのは賢くない)。

生物医学分野においてオープンアクセスはどこまで進んだのか:2005年、2007年、2009年のデータの比較から


森岡倫子 (国立音楽大学附属図書館)

音大の図書館員がなぜ生物医学分野を対象に? という疑問は別の人が質問していた。国立(くにたち)音大を国立(こくりつ)と勘違いされたのはご愛嬌。ちなみに国立とは国分寺と立川の間にできたからという安易な命名(一橋大の学生をそれでからかったら悔しそうな顔をしていたものだ)。それはともかく、理由の一つに、職を得ないことには研究を続けられないという深刻な事情がうかがわれた(これは聞き違いかもしれないが)。もう一つは、生物医学分野はオープンアクセスが進んでいて研究しやすいという事情もあるらしい。ここで手法を確立できれば他分野でも分析可能、と。

医学分野の学術文献検索サービスPubMedから抽出した論文を対象に、1.制約なしの全文公開(Open Access)、2.登録など制限付き、3.有料全文(購読電子ジャーナル)、0.電子的全文を発見できないの4つに分類して、その割合の変化を見た研究。2005年には27%だったOAが2009年には50%に達していたという。その増加は主に「発見できない」と「有料全文」の減少(それぞれ19.8→5.0、53.2→44.0)によっている。

ただ、思うにこの調査方法では、いつOAになったのかは分からないのではないだろうか。つまり最新号は購読者限定(有償)で、次号が出たら無償公開という形態は把握できない。そこを無視して、時代の趨勢はオープンアクセス、有償購読は古いなどと主張されると、特に商業出版社は困るだろう。いや、工夫すれば商業出版社でも無償公開は可能だけど(著者から掲載料を徴収するなど)。ちなみに、この「古くなったら無償公開」は有料メールマガジンで実施しているところがある。

オープンアクセス実現手段の新機軸:すべてはPubMedのもとに


三根慎二 (三重大学人文学部)

無償公開(オープンアクセス)されている学術論文の所在情報を提供する無料論文提供サイトの紹介。取り上げられていたのはFind ArticlesThe Free LibraryHighBeam ResearchnovoseekPubgetMedscape

操作性の統一や関連文献の提示が期待できるだろう。また「この論文に興味を持った人は以下の論文も」というレコメンデーションも、洗練されたものがあるならば今までの文献調査とは違った展開を期待できる。

面白いのは自身でのアーカイブはHTMLが多いこと、またほとんど(?)の例で図表がカットされていること。

オープンアクセス化の進む医学論文が一般市民に読まれる可能性はあるのか


酒井由紀子 (慶應義塾大学信濃町メディアセンター)

これも興味深い発表。インフォームドコンセントの導入やEBM(根拠に基づいた医療)の普及などにより、患者やその家族が医学情報を求めるようになってきた。今のところ「医者・病院の評判」以外は医師に直接尋ねることが多いが、インターネットで情報を探す人も増えてきた。調査結果で意外だったのは、「有償の英語論文でも読みたい」という人も含め56.1%が医学論文を読みたいと思っていること。もっとも実際に読むかどうかは別の話だろうが。

いわゆる医学論文(原著論文)は、切り離したテーマについての研究だから、それだけ読んでも患者が求めるようなことは書いてないことが多いと思う。たとえばある薬をマウスに与えたら、ある検査値がこれだけ変わったという論文があったとする。その薬はヒトでも同じ効果があるのか?副作用はないのか?そもそもその検査値が下がれば病気は治るのか?(血糖値が下がっても糖尿病網膜症は治らない等) 患者が知りたい情報は医学論文よりは医学総説にあると思う。

仮に原著論文に知りたい情報があった場合でも、それを見つけるのは素人には難しすぎる。また反論が出されて事実上意味のない論文になっていてもそれが分からない(もっとも取り下げられていれば分かるのは紙ベースの文献調査にはないオンラインサーチの利点)。さらに間違った論文に必ず反論が出ているとは限らない。だから後追いのない古い論文を信じるのは考えもの。オンラインジャーナルなどでは最新のCI(どれだけ引用されたか)を提供してくれるのだろうか。できれば自家引用を除いた数値がほしいもの。

しかし、非専門家にもこれだけ知りたい需要があるのなら、レファレスサービスや翻訳・解題サービスは商業的にも成立するのではないだろうか。聞きながらそんなことを考えた。

医学・医療情報源としての「一般雑誌」:10年の変化とその位置づけ


國本千裕 (駿河台大学メディア情報学部非常勤講師)

情報源としての地位は低下しているものの、質の高い医学・医療情報が雑誌にはあるという。しかしそれを見つけ出すのは難しい。

学術雑誌のIFやCIに相当するような、雑誌や掲載記事の質を評価する指標があれば、と思った。

医学ジャーナリストと言っても、医師資格を持った人から、単に自称しているだけの人までいる。もちろん医学教育を受けていなくても良質の医療ジャーナリストになることは可能なので、筆者の経歴だけで記事の良否を判定することはできない。たとえば単行本への収録率とか、その本の売れ行きは評価の指標にならないだろうか。しかし『脳内革命』も一時的とはいえよく売れたからなぁ。

情報源としての雑誌の地位低下を考えれば、ウェブサイトの情報源としての評価はより重要だ。病名で検索すれば怪しげな代替療法が上位にヒットする事もあるだろう。ホメオパシーのように、それにすがって標準医療を拒否したために、悪化させてしまうことも十分にあり得る。そのような悲劇を避けるために、「この雑誌/記事/サイト/エントリーの信用度はこれくらいです」が大まかにでも分かるようにできないだろうか。別にウソつき認定をする必要はない。いいものにだけマークを提供すれば良いのだ。

"e-science"とは何か


松林麻実子 (筑波大学大学院図書館情報メディア研究科)

DNAらせん構造に関するデータアーカイブというのは謎だが、医学生物学系ではだいぶ前からデータバンクが整備され、CSPすなわちクローニング(Cloning)して配列を決めて(Sequencing)論文にする(Publishing)は二流の仕事扱いだった。もちろん制限酵素が自家製で、ゲルのラダーを目視していた時代には花形だったけれど。

そういえば20世紀のことになるが、DDBJの人が、データベースではありません、データバンクですと強調していたものだ。データをただ保管するのではなく、活用しますという自負。

そういう世界に馴染んでいたので、天文学分野でデータの共有が進んでいないというのは驚き。SETI@Homeのイメージがあったからなおさら。原因の一つが機器(メーカー?)によってデータの形状が違うため、というのは納得。配列データはなんのかんの言っても所詮は一次元、最後はテキストデータに還元できる。そういえば生物学系でもイメージングデータの互換性が問題になったことがあったような...

もう一つの障害要因としてデータの提供を渋る天文台があるという。レジュメでは「無償提供することに難色を示す」とあったが、有償ならば問題はないのだろうか。論文抜き刷りを請求したら代金を請求されるような印象をうける。そもそもデータの代金の内訳はなんだろうか。もしデータ取得にかかった経費を負担してもらったら、もうデータの所有権を主張することはできなくならないだろうか。これ次の「データはだれのものか」につながる問題。

日本の研究者にとって「情報共有」が意味すること:e-Scienceに向けての予備的調査結果


倉田敬子 (慶應義塾大学文学部)

まさに「データはだれのものか」。研究代表者による、e-Scienceあるいはcyberinfrastructureの実態を明らかにするための研究者の意識調査。

データを「出し惜しむ」理由として、すぐ思いつく「競争相手に知られたくない」の他に知財絡みでの権利防衛術としての原則非公開もあるらしい。また共同研究の場合は全体の合意が必要で、この場合は一番厳しい基準に揃えざるを得まい。

それ以前の問題として、標準的なデータ形式にして入力する費用の問題もあげられている。

論文誌が投稿受理の条件としてデータの公開を求めることにも、面白くないという感情を抱くらしい。つまり「データは自分のもの」意識。この裏返しで、人のデータは信用できないという意識もあるらしい。必ず追試をする、と。研究によっては、たとえば試料が希少な場合、すごい無駄が生じるような。

公的な研究費を使って得たデータは公のものと決められないだろうか。期限を設けて原則公開とすれば、優先権を保護しつつ死蔵も避けられる。費用は研究費に組み込みで。

ところで第2表にあったIT技術ってなんだろう。普通TはTechnologyなんだけど。IC技術(Information and Communication Technology)なら分からないでもない。

ビックサイエンスも謎。スラングで「中身を伴った大きさ」という意味があるらしいけど。あと雄性性器もビックというらしい...

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2010/12/22

電子書籍になっても本の価格は現状の1/10にはならないだろう

電子書籍が普及すれば、本の価格は現状の1/10になると主張する人がいた。

果たしてそうだろうか?

本の価格の内訳はおよそ次のようになっている。仮に1000円(税抜)の本があるとすると

発行元 700円
取次  100円
書店  200円

発行元の取り分のうちから著者におよそ100円が支払われる(印税・原稿料)。取り分600円のうちから印刷製本関係費用、デザイン費用、広告宣伝費、人件費等を除いた残りが発行元の利益となる。

ポイント
発行元は利益を上げなければ存続できない。カツカツの経営では、新人を育成できない。新人とは書き手だけではない。1代限りで潰す個人経営ならいざしらず、会社であれば社員も育成しなければならない。

人件費の対象は編集者だけでなく、営業や総務経理なども含まれ、またその内訳には給与だけでなく社会保険料の会社負担分や賞与、退職金も含まれる。

一般的な慣習として、著者の取り分は本体価格の10%である。したがって、製作流通がタダ働きをしない限り、価格を1/10にすることは不可能であることが分かる。(初刷部数の印税一括払いがなくなれば−−なにしろ初刷部数というものがなくなる−−もっと高率を要求される可能性もある)

ところが、「電子書籍であれば、製作費は劇的に安くなる」と譲らない。

では、製作流通にどれだけかかるであろうか?

製作流通販売にかかる費用


電子書籍になっても書店と取次は必要である。アマゾンやappストアは「書店機能を持った取次」であり、アフィリエイターが小売書店に相当する。現状のアマゾンアフィリエイト(紙の書籍)では最大8%が支払われている。無店舗であることや精算業務までアマゾンが引き受けていることを考えれば書店より低いのは合理的。

発行元からすれば、取次を介する以上は、書店(アフィリエイター)にいくら渡るかはあまり関係がない(直販を進める場合は重要)。で、その取次(アマゾンなど)がいくら取るかというと30-65%(=発行元に35-70%)。ただし、これは競合が現れた場合は「体力勝負の焦土戦」で下落する(『電子書籍の衝撃』第2章参照)が、独占なり寡占なりで安定した場合、再び高くなるであろう。さすがに8割9割となれば独占禁止法(優越的地位の濫用)が介入してくるであろうが。

取次が何%取るのが妥当かを論じる前に、製造原価の削減について考えたい。

製作費用

製版・印刷・製本の費用は不要になる。製版代は刷り部数に無関係なため、少部数の本では大きな割合を占めていた。これが無くなっても発行部数が多いものはあまり影響を受けないが、専門書では大きな減額要因になる。

運送代と倉庫代は通信費とストレージ費用に置き換わる。これは規模の効果によりたぶんかなり安くなる。

電子書籍の「装丁」がどうなるかは興味深い。表紙に相当するアイコンやオープニング画面は本の印象に強く影響するから、これはプロのデザイナーに任せた方が有利。この単価はどこまで下がるであろうか。

フォントサイズは読者が変えられるから決める必要はないとしても、フォントの種類は発行元で決めなければならない。ナールと角ゴチでは印象がまるで違うからだ(まして勘亭流においておや)。読者が違う印象で読むのは自由だとしても、デフォルトは著者が希望する印象をあたえる書体にする必要がある。この選定もブックデザイナーの仕事。依頼する手間を惜しんだ、MS明朝でいいよ、が一時的には流行るかもしれないが、長くは続くまい。(メジャーな読書端末が携帯電話になった場合はどうなるか分からないが)

ちなみに先日 auが発表したbiblio Leaf SP02は、「行頭に句点」「フォントに漱石感ないし」「字間行間もセンスなさすぎ」と散々な評判だった。大手企業の広報のプロでさえブックデザインには気が回らないという好例(現在の広報資料では明朝体になり、1行の文字数が変更されて行頭の句点は無くなっている)。そういう電子書籍ばかりで低位安定化する可能性もなくはないが、やはり「かっこいい」書籍の需要はあるだろう。

また実質プレーンテキストなら問題にならないが、絵であるとか図であるとかを挿入するならば、それを綺麗に描く人が必要になる。写真などを借りてくるなら、著作権処理業務も必要。とはいえ、ICTの力を借りて今までよりは安くはなるだろう。

営業と編集

次に人件費を概観してみよう。

電子書籍になれば「営業」の形態が大きく変わることは想像に難くない。だが、著者や編集者が片手間でできるものとも思えない。

一例をあげてみよう。電子書籍は電子書店でどのように売られるだろうか? 客は著者や書名を指定してくるとは限らない。「なにか面白い本はないか」と探しに来ることもある。書店のトップ画面、あるいはカテゴリ別のトップ画面に紹介してもらえるかどうかは売上に大きく関わってくる。これはリアルの書店と同じこと。むしろ棚の争奪戦よりも厳しさは増すであろう。一画面に収められる点数は平積みできる点数よりたぶん少ない(まして携帯電話でアクセスされた暁には)。一時的に良いポジションを得られても、後から来る新刊にいつ奪われるか油断はならない。「書店営業」は手を抜けない。

次に編集の人件費。これが結構難しい。すでに書いたように、従来の「出版社」は解体しても編集者は残るというのが私の考え。千歩譲っても、諸々の雑用を抱え込んだ著者よりは、執筆に専念できる著者の方が良いものを書くだろうということは容易に想像できる。

(それと第三者が目を通さない原稿の多くは外に出せる品質ではなく、まして金を取るなど論外。個人ブログの惨状を見よ。企業のウェブでさえ「担当者は読んでないのか」というような例が割と簡単に見つかる。)

営業と編集の人件費は外せない。それがいくらになるかというと、刊行点数にもよるので一概には言い切れないし、売れ行きの予想とも関係してくるが、とりあえず著者と同じ100円を当てておこう。

取次は何%までとれるか


素朴な人は、売上から経費を引いて利益を求める。だが営利企業は逆で、まず利益を決める。そこから売上と経費を導きだし、個々の価格を決定する。

「これくらいしかかからないから、これくらいで売る」というのは素人の発想。(営利を目的としないなら正しい決め方ではある)

なお、企業の目標は最大の利益を上げること。つまり儲けられるところではとことん儲けようとする。その貪欲さがないと営利企業は市場からの退場を迫られる。1000円でも売れるとわかれば、原価が10円でも1000円の値付けをするのが営利企業。そこで利益を得ておくと、後発の競合が現れたときに体力勝負(値下げ競争)で退ける戦術をとることができる。また体力があれば、競合に対してより優位性を保てる製品を開発することが可能で−−書籍でいえば原稿料を弾んで著者の意欲をかきたてるとか、取材費を潤沢に提供するとか、ベテラン編集者に担当させるとか−−それは消費者(読者)の利益にも叶う。ま、半分は建前だけれど、こう擁護しないと「企業が儲けるのはケシカラン」と変な人が涌いて出かねないので。

また、率よりも金額のほうが大事ということも指摘しておきたい。薄利は多売によって支えられる。

販売数が劇的に増えない限りは、従来の300円が妥当な線という合意に至るであろう。「いや、モノを動かすより楽になるのだから、もっと下げられる」という意見も出ようが、浮いた費用が100%読者に還元されると考えるのは甘すぎよう。

結論


電子書籍は、紙の書籍の半分程度の価格で提供することは十分に可能と考えられる。
とくに専門書のように少部数発行の書籍では「ものすごく高い本」が「少し高い本」になるくらいは期待できる。

しかし実際につく価格は、売れ行きの予想に依存する。たとえば中高生相手なら価格を抑えて部数を狙うが、経営者相手のものであれば、比較的強気に設定する。

安定して売れる「金のなる木」の出版権を押さえていれば、気持ち安くして普及を図ることはあっても、価格破壊的な値付けはしないであろう(出版権とは、出版社が持つ権利で、他社からの出版を差し止められる)。もっとも、先行き何が起こるのか分からないのが現実というやつだが。

BOP(base of the pyramid)の時代だから、全体的には安めになるであろうが、価格に「ありがたみ」を織り込んだ本はそうは下がるまい。

政治家が、中身の薄い本を立派に装丁して高額販売するのは脱法的政治献金と批判されるだろうが、難民の子が描いた絵を1点500円で販売して援助資金に当てるのは悪くない発想だ。これを電子版で進めれば効率が良い。こう書くとまた「それは本ではない」と原理主義者が異議を唱えるかもしれないが、あなたに正統な書籍を定義する権限はなく、よしんばあったとしても、現状でさえ書店に並んでいるものは90%がそれから外れるのだから、電子書籍にだけそんな理想を求めても意味はない。よって却下。

また再販指定されないため、時期によって、また「書店」ごとに売価が変わることが考えられる。基本的には売れ行き芳しくないものが値下げする方向だろうが、改訂を機に値上げするような強気の対応もありえるだろう。

いちばん安くなるのは自費出版物であろうか。

補足


コンピュータ用ソフトに比べiPhoneアプリは105円など極端に安価に提供されている。「だから電子書籍も」という声が聞こえてきそうだ。この原因はいくつか考えられる。

(1)少額決済が容易になった
(2)単機能製品である
(3)開発環境の違い(?)
(4)移植物は開発費の回収が終わっている
(5)競合が多い

これらが電子書籍に当てはまるだろうか。
(1)少額決済は電子書籍にも当てはまる。セミプロが出すものや、内容の普及を目的としたものは低価格が進むであろう。
(2)単機能に相当するのは小品である。ブックレットは低価格化が期待できる。紙の書籍は造本や配架の都合で、一定の大きさを必要とされたが、電子書籍では歌一首からでも販売は理論的に可能だ。
(3)書籍の製作環境がコンピューティングによって大きく変わり、コストカットが進めば低価格化が期待できる。しかし過渡期にはワープロで完全原稿を提出できる著者とそうでない著者(極端な例では原稿用紙に手書き)とで価格に差が出る可能性がある。
(4)既刊本の電子化は比較的低コストで行える。著作権の切れたものは原稿料さえ必要ない。逆に書き下ろしの新刊にはこの効果は期待できない。
(5)競合の問題は微妙。本来はすべてオリジナルなものであるはずだが、実際には書店の棚を見れば分かるように、似たような本は多い。これらは価格も同じような範囲に収まるだろう。一方で固定ファンがいるような著者が出版社へロイヤリティを示した場合には高止まりする可能性もある。

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2010/05/16

今度こそ来るか電子出版の時代(「電子書籍の衝撃」)

前世紀の話になるけれど、出版社に勤務していた時にいやだったことが3つある。

1つは校了(責任校了=責了を含む)してしまうと、間違いがあろうがもっと良い表現があろうが、よほどのことがない限り、そのまま本となって市中に出て行ってしまうこと。

そして人間の、しかも凡庸な人間のやることなので、いくら注意をしていても間違いは生じる。たいていは「大して実害のない」ものであるが、ある医師がしみじみと述べたように本の間違いが自然になおることはない

もう1つは、せっかく作った本も売れなければ、その運命は悲しい。返本されてきてからしばらくは倉庫で出番を待つけれど、時間が経って最終的な売り上げの予測が立つと、売れ残り確実な分は、置いておくだけでも倉庫代やらなにやらが発生するので廃棄処分されてしまう。

電子書籍がもつ可能性


3番目はここに関係ないので省略するが、上記2つは紙に印刷することにつきまとう問題だ。もし本の内容を電子データでやり取りできたらどうなるだろうかと考えた。完成版をサーバーで公開すれば、直後から読者は入手可能になる。印刷製本配送の時間が節約できるのでギリギリまで編集ができるのみならず、全国いや全世界同時発売だ。離島にいようが地球の反対側にいようがタイムラグはない。そして改訂をすれば同時に旧版の流通は止まり、動きの悪い書店で旧い物を買うことはなくなる。増補版を出したいけれど、旧版がまだ残っているから待つといった本末転倒もない。逆に品切れ増刷待ちは死語となるだろう。「倉庫代」はデータ保管料に変わるので一概に安くなるとは言えないけれど、安値を求めて不便な遠隔地に倉庫を持つ必要はなくなるし、物理的な盗難や汚損滅失の心配もなくなる。

見落としがちなのは「一冊」という概念の変化あるいは消滅。三十一文字の詩一首、五七五の俳句一つから流通が可能になる。紙の本は一冊になるのに必要なページ数があるので、出版するためだけに書き足しをしたり、紙を厚くしたり、穴埋めの写真やイラストを用意したり、といった工夫が必要だった。そしてどれも価格を押し上げる(すかすかのレイアウトなら大丈夫か?)。こういうこともなくなる。

電子出版で懸念される問題


もちろん良いことばかりとはいかない。まず印刷製本流通業界に深刻な影響が出る。ブックデザイナーも失業だ。だが、いきなりすべての本が電子化される訳ではない。紙の書籍に対する需要もすぐになくなるとは考えられない。当時のデータ回線は高いうえに帯域が狭く(kbps単位)、プリンタも貧弱であったので、専用線を引いた書店でダウンロードし、好みに応じて印刷製本するというようなサービス形態も夢想した。とにかく安く読みたい人はデータだけ買い、印刷版が欲しい人は好みの紙に好みのフォントサイズで印刷して買う。プレゼント用に豪華装丁が必要ならオプションで。書店でオンデマンド出版である。

もう1つの問題が不正コピー。デジタルデータは劣化することなくコピーを重ねることができるから深刻だ。そうでなくても「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せず」なので、作家が食い詰めてオリジナルの供給が止まればコピー文化は窮乏する。私がかかわっていた学術系の世界では、特に翻訳物は大部なうえに部数が限られているので高額化し、世の中の常で海賊版が横行していた。ただ、不正コピー対策には前例がある。コンピュータのプログラムだ。当初は正規購入者のバックアップも許さないようなコピープロテクトであったが、やがて「不正コピーもされないが、誰も使っていない」よりは「まず使ってもらい、ファンを増やす」方が有利という判断になった。また「使ってみて気に入ったら金を払う」シェアウェアというものが登場した(機能制限を解除するキーを販売する物もあるが、利用者を信頼して完成版をコピー自由とする物もある)。継続して使用するソフトウェアと1回読めば用済みの書籍は別と考えた人は、世の中には繰り返し読まれる書物もあることを知ってほしい(ついでにいうと、消費税導入の際、書籍の価格表示も内税でと決められたとき、未来永劫税率は変えないつもり、な訳はないから、何年もかけて売る本の存在に思い至らない人たちに失望したものだ。案の定、税率が変わった時に在庫は価格表示変更作業が必要になった。偏狭な書籍観の弊害。)

さらに学術出版の著者はpublish or perish(発表するか、消え去るか)の世界に生きている。自分の研究成果をまとめた論文が雑誌に(原稿料をもらうのではなく掲載料を支払って)掲載されると、さらに別料金を払ってリプリント(別刷り/抜き刷り)を作成し、請求があれば(なくても謹呈と称して)無料で配る世界。大切なのは情報を公開し、公開された情報が入手できることであり、雑誌の値段というのは言ってみれば仲介手数料+実費に過ぎない。電子化によって実費は大幅に下げられる。

というわけで私にとって、雑誌・書籍の電子化(電子出版)は必然的な成り行きであった。しかし現実の歩みは遅かった。

補足

一口に出版と言っても、書籍と雑誌では事情が異なる。またそれぞれいろいろな種類がある。新刊と古書は流通経路が全く違う(出版社の人は頭の中にどうやら古本というものがない、あるいは意識的に無視しているらしいと知ったときは心底驚いた、なにしろ神田の古書店街を目の前にして再販制度擁護で盛り上がるブックフェアがあったのだが、さすがにブックオフなどを無視し続けることは無理と悟ったようだ)。また実態は知らないけれど、世の中にはケータイ小説なるものがあり、これも正統派?からは「あんなものは本じゃない」と蔑まれているらしいが、これって隠れんぼをしている子供が見つからないように目をつむっているのに似ている。

一方、電子書籍もディスプレイで見るもの、音で聴くもの、紙などに出力して見るものなど多彩だ(「本」の概念の拡張)。読書(利用)形態も異なる。Twitter上では、企業が購入している雑誌が電子化されたらどう管理するのか?という問題が提起されていた。

電子書籍の議論を見ていて感じるのは、論者によって前提としている本、そして電子書籍が異なるらしいこと。ある人は携帯電話で見るマンガのことを、別の人は大判の画集、プレーンテキストで十分という人、ハイパーリンク前提の人とさまざま。共通する点もあれば、分けて考えなければならない点もある。この辺りが未整理だと混乱のもと。混乱の果てに出てくるものはショーとダンカンの子供。父親が授けるのはその頭脳かそれとも肉体か。

ここではできるだけ書物一般で考えるようにしたいけれど、読書経験の偏りから欠落する分野があることを了解されたい。

電子書籍の時代が来る


電子書籍あるいは電子新聞の発想自体はかなり古くからあるにもかかわらず、いまだに本と言えば紙の本なのはなぜか。前回紹介した佐々木の『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー携書)を読むとその理由が見えて来る。(なお本書はinbookで読者がそれぞれ気に入った部分を紹介しているので参照してほしい。さらに同感できる箇所には拍手を送ってほしい。)

1つはデバイス(装置)の問題。だがこれは本書にある通り解決の道筋が見えた。kindleやiPadが将来にわたって勝者であり続けるかは分からないが、新しい時代の幕を開けたことは間違いない。

2つ目はコピープロテクトの問題。これについては音楽の例が引き合いに出されている。ナップスターなどで違法だが無料の音楽を楽しんでいた利用者は、iTunes Storeから使いやすくて安価な正規版音楽データが提供されだすと、ちゃんと対価を払うようになった、と(緩いDRMはかかっている)。読者が作者を尊敬し作品を書き続けてほしいと願うならば、海賊版ばかり買って「金のタマゴを産むガチョウを殺す」ような愚はしないと期待できるわけだ。

書店も存在価値を問われるが、本と読者の目利きができて「お薦めの本」を提案できるならば、形は変わっても「書店」は存続するだろう。著者は「この人のお薦めは私に合う」というマイクロインフルエンサーの役割を強調するけれど、なにも高度な読み込みは不要で、「お前らにはこのくらいがちょうどいい」という「書店」もありだろう。たとえば通勤中の暇つぶしのためのワンコイン書店、お任せでダウンロードしてもいつも面白ければ客は寄り付く。

以前の私が全く見落としていたのが取次の問題(第四章)。本のニセ金化! たとえ売れずに返本されて来ようとも、本という物は出せば当座の金になるという。取次は売れた分ではなく、預かった分の代金を前払いしてくれるという太っ腹。しかし返本の際には精算しなければならない。そこでまた新刊を依託して見込み代金を受け取ってしのぐ。ニセ金というよりは多重債務。なるほど、そういう仕組みがあるならば出版不況と言われながら出版点数が増えているというのもうなずける。本が売れないからこそ本を出さざるを得ない自転車操業。

そうすると取次を経由せず、書店や読者に直接コンテンツを届ける電子出版など「冗談じゃない!」ということになる。98年に発足した電子書籍コンソーシアム行き詰まりの原因の一つに取次への遠慮があげられている。

しかし、そんな状況が長く続くのだろうか? 本書によればすでに1967年には山本夏彦がこの自転車操業を批判しているという。40年以上前の話だ。間に好景気の時期があったとはいえ、多重債務状態がそんなに続けられるとは信じ難い。この謎を解く鍵は2つ。記号消費による売り上げと雑誌による広告収入。記号消費とは、読まないけれど所持することに意味のある(=格好になる)書籍を購入すること。うん、これには思い当たる節がある。ところが記号消費が終焉し、不況で広告収入が落ち込んだ今は大手の出版社さえも危うくなってきた(中小はすでに倒産し始めている)。

逆にいえばとうとう日本にも電子出版の時代が来るということか。

電子出版時代の出版人


ただ、ジャンルによっては解決しなければならない問題がある。本書では主に文芸書を念頭においているように感じたが、たとえばノンフィクションの場合、取材費の先渡しが必要になろう。国内の旅行記程度ならネットで協力者を募れば済むかもしれないが、長期取材や海外出張を支えられるだろうか。あるいは助手を大勢雇う必要がある調査とか。さらにノンフィクションでは校閲が重要だ。事実関係の誤りがあれば訴訟沙汰になる危険がある(ネットで大勢に見てもらうという手法はここでアウト)。

体系的なものを企画する場合、「すでにあるもの」を寄せ集めるだけでは不十分で、依頼して書き下ろしてもらう必要が出て来る。「お仕着せのシリーズはいらない。読者が自分でシリーズにする」とは言っても、やはり人の意見は参考になる。マイクロインフルエンサーが「この本とこの本に加えて、後こういう本が書かれていればなあ」と考えた時に、その「こういう本」を実現する存在が求められるわけ。

おそらく既存の出版社は解体し、編集や営業が機能ごとに新しい会社になるだろう。営業の仕事は発掘されてきたモノになりそうな作品(作者)に、きちんと完成させるのに必要な費用を集めて前払いすること。作品・作者ごとの出版投資組合の運営だ。編集者(こちらは編集プロダクションや編集者組合)の紹介も仕事になる。今まではどんなに有望な企画があっても、社風に合わないとか編集者の力量が足りないとかで涙を飲むこともあっただろう。そういう制約がなくなる。

専門分野の出版人よ、うかうかしていると最大公約数的な、平板なプラットフォームができてしまいますよ。少なくとも著者と権利関係をはっきりとさせておきましょう。本が出てから出版契約の締結という慣行、R.ファインマンさんには喜ばれたらしいけれど、これは改めた方が良い(今は変わっているのだろか)。

なお、発行元からT-Time形式のデジタルブック版1000円600円で提供されている(iPhone用ビューワあり)。

ある学会誌の話


会員一万超のある学会の、委任状で成立した閑散とした総会で、担当役員が「学会誌は紙での発行を続けます」と宣言したのを聞いた事がある。「未来永劫」とかそれに類するような強い表現だったと記憶する。あれはなぜだったのだろう。ちゃんと理由を質問すれば良かった。今となっては誰の発言だったかも定かでない。

想像すれば広告収入がなくなるのを心配したのだろうか。しかし各論文にマッチした広告を載せることだって可能でわけで、有効期限を設定し、CI(citation index)の大きな論文につける広告から更新料収入を得ることも夢ではない。あるいは「この論文を読んだ方はこちらの論文も取り寄せています」とレコメンドするとかして、学術上の利便性向上と収益を一致させることだってできる(この場合、他誌掲載論文を紹介して口銭をとる手もある)。もし「紙でなければ広告を載せられない」と思い込んでいたなら残念なことだ。natureなどの電子版では広告はどうなっているのだろうか。

2010.5.17 改稿
2010.5.18 修正
2010.12.22 修正

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2010/05/09

『科学との正しい付き合い方』への評価が厳しいワケ

前のエントリーはあまり建設的でないという自覚はある。それでも厳しく書かざるを得なかった。理由は3つ。

・期待をもって読み始めた
可愛さ余って憎さ百倍、である。

・細かい間違いが目につく
たとえばポリペプチドのことをポリアミドと書いている(p.75)。ポリアミドでも間違いではないようだが、イラッと来る。用語が変わって最近はポリアミドというの?と焦って調べたから余計腹立たしい。しかも次の行には「DNA。これも「核酸」が連なって」なんて書いてある。おい、「タンパク質はプロテインが連なって」と同じくらいひどい間違いだぞ。DNAはヌクレオチドが連なったもの! ちなみにヌクレオチドという単語はマンガ「The・かぼちゃワイン」にも登場します。

・科学の考え方が見えて来ない
前のエントリーに書いた以外にも、たとえば洗濯ボールの話。理系大学院を出ているのに3000円払って購入し、周囲にも薦めている知人がいて「個人的にはかなりショック」と書いている(p.119)。あれあれ、効き目がないなら分かりますよ。効果の有無を調べました? 薦めている本人の弁はカットですか? それこそ「まだ確定していない事柄に対して決めつけて判断してしまう「非科学的」な態度」(p.151)ではありませんか。


こうなると著者の信頼性に黄信号が点く。あばたもえくぼの逆で毛を吹いて疵を求めたくなる。エントロピー増大の法則の話(p.158)も、放っておけば乱雑になるという展開で問題は無い。なのに「こじつけ」と逃げてしまう。そこは「だから自由エネルギーを投入(=整理整頓掃除)しなければなりません」としめるところ。このようにいいところまで近づくのに、詰めが甘い。焼き芋の話(p.50)はβアミラーゼの最適温度が70℃前後という重要事項を省略されたら何の話か分からない。いろいろ「身近な科学」をあげているようだが、どうもどれも知識の問題ではないかと思えてならない。

あまり誉められた読書態度ではないことは承知の上。それで冒頭に「良いことが書いてある」と肯定評価を入れた訳だが。

振り上げた拳のやり場に困っていたところ、「科学なんて、騙されない程度の知識があれば十分じゃない?」というアンチテーゼまで出てくる始末。さあ、どう収束させようか。

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科学との正しい付き合い方?

内田麻理香『科学との正しい付き合い方  疑うことからはじめよう』(Dis+Cover サイエンスシリーズ)を読んだ。

本書には2つ良いことが書いてある。
科学的知識よりも科学的思考が大切( p.89)
科学者といえどもいつも科学的である訳ではない(p.136)

ところが残念なことに、画竜点睛を欠くというのが読了感。なにが足りないのか。

科学者も非科学的なときがある。これは「世間で考えられている科学」と「科学」との間の齟齬を暗示していないだろうか。科学者としての自己認識も職業とか学歴といった世間からの認証に支えられているのだ。あまり科学的ではないのに、世間も本人も科学者だと誤解している例もあるのではないか。といってもニセ科学者狩りを奨励する訳ではない。安直な方法は「知識はあるが思考が科学的でない」という決めつけだ。しかしある分野ではきわめて科学的なのに、対象が変わるといきなり非科学的になる人はいる。具体例を挙げても良いのだが、科学的とは統一的な人格を意味しないという本質を離れて「本当は彼の業績ではない」とか「それは伝記作者の捏造」という横道に逸れる心配があるので割愛。科学史に明るい人は、立派な業績をあげたけれど変な宗教に入れ込んじゃった人とかを探し出してほしい。

さて、「科学者も時には科学的でない」から、「科学とは雲の上の科学者の独占物ではない」と話を持ってくれば、身近にある科学的思考へとつなげられたのではないか。

結論を言えば「科学との正しい付き合い方」と題しながらも、本書は肝心の科学についての定義をなおざりにしている。

「そんなことはない。著者は科学リテラシーとは疑う心と書いているではないか」という反論があるかもしれない。

まず、その命題に同意できない。「疑う心」には中学生でも気付くパラドクスがある。「疑っている自分は正しいの?」 ところがそのことについての言及が見られない。「今のところこれが一番『正しそう』だから、これを受け入れておこう」(p.102)は著者が言うような「疑う心」ではなくて「信じる心」だと解釈すべきだと思う。前提が揺るがない限り結論も堅固。「水は1気圧の下では100℃で沸騰する」は「水が沸騰しているからと言って100℃とは限らない」という「疑う心」での解釈もできるが、科学の世界では「1気圧だから水は100℃で沸騰する」と解釈する。そうでなければ湯煎とか水蒸気蒸留という実験操作は行えないではないか!

極度の不可知論に取り憑かれたら、実験も観測も意味をなさない。今の自分が胡蝶が見ている夢の中の存在でないとどうやって証明できるだろうか? もしかするとできるかもしれないが、証明方法を知らない以上、不可能と同じこと。そして、人はたまにそんなことを考えもするけれど、実生活に持ち込んだりはしない。

大学で私が師事した教官は、学生が実験で仮説通りの結果が出ないと悩んでいると、「実験が失敗したと考えず、新しい発見の端緒と考えなさい」と励ましてくれたけれど、実のところ手技の未熟や設計の不備が多かった。軽々に「セレンディピティだ、今までの科学常識が間違いだ」と騒がず「自分の実験に不備はないか」と疑って幸い。そういえば前世紀の末に「ニュートンの万有引力の法則を書き換える」反重力を発見したと話題になった人(工学博士)がいたけれど、実験の不備をいろいろ指摘されていた。追試は成功せず、御本人も物故されて、10年以上経った今ではまったく顧みられていない。メンデルの研究のように再発見されることもないだろう。

閑話休題。「科学的とはどういうことか」は意外と奥が深そうだ。人文科学や社会科学を除いて自然科学に絞ってみても、科学と技術の違いとか、近代科学成立以前の評価とか、実験系と理論系の違いとか、いろいろ難しい問題がある。論理的であることと科学的であることは同じだろうか?

著者は「あとがき」で、読者(非専門家)に科学技術の監視団になってほしいと書いている。それは「科学技術アレルギーという眼鏡を外して」つまり科学リテラシーを身につけることが前提だ。そして著者のいう「疑う心」に対して、何かを信じなければ疑うこともできないという問題を指摘した。

著者は「科学的なものの考え方とは?」に「中級編」の一章を割いている。
・答えが出せないことはペンディングする
・「わからない」と潔く認める
・人に聞くのを恥ずかしいと思わない
・失敗から学ぶ

どれも大切なことではある。しかし、なにか変だ。これは科学に限らない話ではないか? たとえば敬虔な宗教者。宗教と科学は必ずしも排他的な関係にはないけれど、ここでは反科学的な神秘主義的な人に登場してもらおう。この人の目には木の葉が風にそよぐことさえ神の啓示に見える。しかしニセ預言者のように安直に解釈はしない(答えが出せないことはペンディング)。神の意図するところが分からないのは信仰が足りないからだと悩む(「わからない」と潔く認める)。同輩や先達をたずねて教えを請う(人に聞くのを恥ずかしいと思わない)。不信仰の行いを懺悔し信仰を新たにする(失敗から学ぶ)。おやおや、冗談から困ったになってしまった。


では「科学的な考え方」とは具体的にどのような考え方だろうか。


科学は統一した説明を求める

「大腸菌にあてはまることは、ゾウにもあてはまる」(モノー)に象徴される考え方。理論を打ち立てようとするのが科学の大きな特徴だろう。そして理論の内部での整合性(辻褄の合うこと)を重視する。「人は特別」と考える宗教と大きく異なるところ。

科学は権威主義的であるが権威主義ではない

突然の飛躍や瓦解はあるとはいえ、科学は基本的に積み重ねだ。多くの反証の試みに耐えた理論は(反証される日まで)事実として認められる。反証可能性があるものだけが科学とする立場がある。

科学は事実に基づき、好悪や価値判断に左右されない

「事実に基づき」にはいろいろ議論はあろうが、少なくとも「好き嫌い」や「善悪」が正面切って持ち出されることはない。また物に意思を仮定はしない(擬人化・目的論の否定)。これが科学の訓練を受けていない人にとって、もっとも取っ付きにくい点ではないだろうか。本書にも「ジャガイモは、水分の豊富な地下で育つので、ジャガイモデンプンは水を取り込みやすい性質になります」(p.133)などと書いてある。水が豊富なら吸水性は低くても構わないのでは?という点を脇に置いても、まるでデンプンに意志があるかのような書き方(もっともこれを科学的に「環境に適合したデンプンをつくる植物の一種がジャガイモになった」と書いても、たいていの人は「はぁ?」だろうからやむを得ないか)。ただ、擬人化や目的論を持ち込んでも、それで直ちにおかしくなってくる訳ではないから悩ましい。喩え話で考えるのは必ずしも悪いことではないし(分野による)。

こうして見ると、実は考え方は科学的でなくてもあまり問題はない、という意外な結論が見えて来る。人間の生活は矛盾に充ちていて、いつも整合性を求められたら窮屈で堪らない。葵の印籠が使えるなら使うのが人間だ。好き嫌いを忘れて公正な判断を求められるシーンはそんなにはない。むしろ愛情とか義侠心といった非論理的なものこそ人間社会では必要ではないか。


8日に著者も登場する創刊記念トークイベントに参加してきた。それについては別エントリーとしたい。

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2010/04/09

『電子書籍の衝撃』出版記念講演会

佐々木俊尚『電子書籍の衝撃 本はいかに崩壊し、いかに復活するか?』の出版記念講演会に行って来た(6日)。通常は「読者会」なのだが、発行前(書籍版は15日発行予定、電子版は7日から公開)なので記念講演会。

Twitter上に著者と編集者のやり取りがあると聞いたので、佐々木さんのtweetを去年の11月までさかのぼって取得。スキルがないのでブラウザで「もっと読む」を繰り返してwebarchiveとして保存(htmlソースで保存すると最初の1ページしか保存されない!?)して約5M。ところが他の話題も面白いし、リンク先に飛ぶとまた話が広がるので遅々として読み進まない。そうこうしているうちに当日になってしまった。印刷して持ち出そうとすると色文字のため白地に印刷すると読むに堪えない(モノクロで印刷すると灰色文字に)。某テキストエディタに貼り付けると文字コードが絡む不思議なエラー。全選択だとおかしくなるが、手で範囲指定をしてペーストすると何とかなる。とはいえところどころに地雷が埋まっているらしく、エラー頻発。それでもなんとか2月以降のtweetをプリントできた。しかし時間順に読もうとするとまた大変(結局全部は読み切らないままに講演に)。


この日はまず、新宿でビッグイシュー日本版を購入することにした。新宿東南口駅前広場でも売っているはずだが販売者の姿が見えない。仕方ないので大塚家具前まで行って購入。売り慣れていない様子だが「精一杯」が感じられる接客態度に感心。ところが行動規範第2条(IDカードの提示)を守っていない。注意すると、風が強くてバタバタするのでとかなんとか言い訳をする。「あんた何者?」と思われるのが嫌で、深くは追及せずに辞去。でも通報しておいた方がビッグイシューのためになる。

その足で模索舎に立ち寄る。今年で創立40周年を迎えると言うのに、中小書店の例に漏れず経営は逼迫状態だと聞く。3月の40周年イベントをコロッと忘れてしまった埋め合わせに書籍を購入。「電子書籍」という文字が目に留まって「週刊読書人」も合わせて買う。

失業中なのにこうして予定外の出費が重なったので、そのまま会場のある九段南まで歩くことにする。

早めに会場に着いたので、ロビーで週刊読書人を読む。閉鎖されたフランス国立印刷所(世界最古の印刷所、ただし名称は「印刷局」が正しいらしい)の話とか活版本中心の書店とかの話は面白いことは面白いのだが、なんとも言えぬ苛立ちを感じさせられる。対談している当人もペシミスティックと自認し、「(新しい)世代に対して、印刷された本と電子化された本の違いを訴えることには、意味がないような気がします」とか「しかし、そう思うのは僕らの世代までなのかなあ」などとは言っているのだが、どうも現実認識に差があるように思えた。一つには「アウラ」とか「アティチュード」といったカタカナ語のせいかもしれない。活版印刷には哀惜があっても日本語にはそれを感じないのですか、と不毛な煽りをしたくなる。

現実認識の差と言えば、たとえば検閲の話。たしかに電子書籍の場合、検閲は容易になり得る。アマゾンが、読者の手元のキンドルから書籍を消してしまった事件は有名だ(その消された書物がオーウェルの「1984」とは出来過ぎの気もするが)。しかし、だから紙の出版は自由を守る、なんてのは自由ボケした寝言だろう。言論の自由のない独裁国家では、地下出版物はまず配布ルートが絶望的に弱いけれど、それ以前に、紙や印刷機を政府に抑えられているから地下出版そのものがまず困難なのだ。その点、電子出版であれば全国のPCやネットワークがISMS(情報セキュリティマネジメントシステム)を取得した企業のように管理されていない限り(そして、そんなことは不可能に近い)誰でもデータを作り、全国に配布することができる。winnyでも使った日には回収不可能(警察も配布に協力してくれる w)。

「検閲は、これをしてはならない」(日本国憲法第二十一条)が蔑ろにされるようになるとしたら、それは技術のせいではない。政治の問題だ。

とまれ、この後で聴いた佐々木さんの講演と比べ、いろいろな点で対比的なので、稿をあらためて考えてみたい。

さて『電子書籍の衝撃』出版記念講演である。イントロが痛快だった。「電子出版なんて...」という言説をいくつか取り上げては、「太陽の下に新しいものは何もない」「歴史は繰り返す、二度目は茶番」とばかり、活版印刷登場時に写本派が持ち出した理屈と並べて一刀両断。

これは既に見たことのある光景。ワードプロセッサ普及期に、「ワープロで手紙なんて失礼千万」のようなことが大真面目に主張されたことがある。じゃあ、なにが礼儀に叶っているのですかと問うと「便箋に万年筆」というお答え。すると博識な人が鼻で笑って、その万年筆も初めは毛筆派から「あんなもの」と誹られていましたね、と。

そうそう「ワープロで書けるのはビジネス文。小説は無理」なんてことも真顔で言われていた。安部公房がワープロで長編小説を書き上げた時には話題になり、宣伝惹句もなった(はず)。今となっては信じられませんよね。

閑話休題。次にデバイスとコンテンツの関係(p.17の図)。「書籍は脳がオフ」には違和感があったが、書籍で確認すると「文字などを入力している訳ではない」つまり受け身という意味。そして書籍や雑誌を電子化した際のリーダーは「近くで見る、大きな画面」である必要がある(したがって携帯電話は画面サイズで脱落)と。(パソコンがオンのデバイスであることを認めても、なぜそれでオフのコンテンツを楽しむことができないかは説明できていないような....まぁ確かにパソコンで長編小説を読む気にはならないけれど)

その次のマトリクスではさらに疑問が。図そのものは手元に無いが、「線的/リンク的」「フロー/ストック」の4象限だったと思う。雑誌はフロー、書籍はストックと言われ「んー」と思っていると続けて「ウェブはフロー」と。待て待て、ウェブだってストックはあるだろうと思っていると、フロアから「wikipediaは?」という質問。「あれもフローです」とあっさり退けられる。普通に辞書事典と言えば良いのに(たとえばyahoo!百科事典は小学館の日本大百科全書(全26巻)がベースになっている)、wikipediaを持ち出すなんてビョーキじゃないの。ところで「辞典は読むもの」と喝破したのは誰だっけ?

ともあれ、電子書籍は「リンク的なストック」になるだろう、と。enhanced book(拡張された書籍)、たとえば音声の出る本、である(このあたりは記憶が曖昧。「書籍はアプリになる」という言い方をしていたかもしれない)。しかし、と佐々木は言う。実用書なら動画付きも便利だが、たとえばお仕着せのBGM付きの小説は読まれるだろうか、と。だから雑誌の電子化は進むけれど、書籍、特に著者の思想が貫かれた小説などは話が別だろう、と。

そうかな? 映画なんてのは、まさにお仕着せBGM満艦飾だ。それどころか歌劇・楽劇なんてものもある。ちなみにニーベルングの指輪は通しでやれば約15時間はかかるという。アルバムというパッケージが壊れて個々の曲がバラバラに購入されると言うマイクロコンテンツ化は進むにしても、“指輪は指輪”(全体で一つの作品であり、たとえば「ワルキューレの騎行」を指して指輪とは言わない)、ではないだろうか。むしろ「ペレアスとメリザンド」を読むのに音楽をフォーレにするかドビュッシーにするか選べるなら自由度の向上で、それは歓迎されるだろう。また、たまたま前日のクイズ番組で知ったのだが、JTBパブリッシングは夏目漱石や太宰治らの小説に旅行ガイドをつけた『名作旅訳文庫』なんてものを出している(番組では売れていると言っていたが真偽は不明)。

それを軽薄に感じて眉をひそめる人もいるだろう。好きだった小説の装丁が後からできた映画のスチール写真になるとげんなりする、という読書家もいる。舞台版の「アマデウス」に涙を流すほど感動し、決して安くはない公演を何度も見たが、映画の換骨奪胎(脚本が同じシェーファーとは!)には失望し、劇書房発行の『アマデウス』の新装丁にがっかりした記憶が私にもある。拡張された書籍もこうなるだろうか? 要は作り方の問題だろう。センスの良い作りを発行者に期待するのではなく、読者が主導権を握る。購入してからテキスト部分だけ分離できるなら、単純に文章を楽しむことも、自分好みにリッチコンテンツ化(カスタマイズ)することもできる。従来の紙書籍ならそれぞれ別に印刷製本せねばならないから難しかったことだ。使い勝手(ユーザーインターフェイス)とあわせて、この自由度は重要な要素になるような気がする。...著作者人格権は弱められるだろうか?

また、聞き漏らしでなければテキストの音声化(読み上げ)には触れられなかったようだ。『電子書籍の衝撃』の中ではキンドルストアのオプションにあることがさりげなく紹介されているけれど。音声データをつけるか、読み上げエンジンが認識しやすいように手を加えたテキストを陰に用意するか、技術的な話はさておき、朗読してもらえれば「読書」の機会は増える。別に視覚障害者に限った話ではない。満員電車や布団の中など本を開くのが難しい場所、暗い場所でも「読める」。そしてこの場合、大きな画面は必要ない。デバイスとしての携帯電話の優位性が一気に高まる。iPod shuffle でも十分。

さてマイクロコンテンツ化と並ぶ電子書籍のもう1つのキーワードがアンビエント(ambient)。元の意味は「周囲の, あたり一面にある」(プログレッシブ英和中辞典)だが、意訳すれば「どこででも」か。「遍在」だとubiquitousと区別がつかないし、なにより「偏在」と誤変換される危険が大きい。(アンビエントは手垢にまみれたユビキタスの改装版という穿った見方もできるが、KDDIでは「いつでも、どこでも」を一歩進めた“「今、ここで、私が」必要とする情報を提供する”と定義している。別のところでは「今だけ、ここだけ、私だけ」とも。なるほどねぇ。) iPodによって音楽がアンビエントになったように、iPadやkindleによって雑誌・書籍がアンビエント化するだろう、と。アンビエント化と脱パッケージの関係がよくわからないが、「私だけ」が関係するのだろうか。

音楽にせよ書籍にせよ、親しんだジャンルの違いは案外大きいかもしれない。オペラの中から一つの歌を取り出すことはあるけれど、ブルックナーの一節を取り出して「フェイバリットメロディー」を作る人はいるだろうか? もちろんいるし、着メロなんてその最たるものだろう。もしかすると多数派を占めるかもしれない。ベートーベンの第五交響曲は、第1楽章冒頭なら知っている(それしか知らない)という人も多い。全曲知っている人の数倍はいるだろう。だからといって今後その傾向が強まり、あの交響曲がバラバラにされ元のパッケージがなくなる運命にあるとは思えない(ここが私の限界か...シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」も今や****(自粛)の間では「2001年の音楽」だし...もちろん冒頭だけ... orz)。

それから大きいのがコンピュータやコンピュータネットワークの経験の差。無知や誤解が前向きな議論の障害になっていることは疑いようがない。そして無知無理解誤解は嘲笑するものではなく、丁寧に説明すべきもの。そうでないと感情的な軋轢に発展しかねない。もっともそれは「前向きか後ろ向きか」の差に飲み込まれてしまうものかもしれない。旗幟の種類は少ない方が良い。旗印が多いと微少な差を言い立てて、際限なく分裂してしまう恐れがある。(この論の難点は、多数派を占める一般消費者は条件が示されなければ前向きでも後ろ向きでもないこと。また同じ前向き派の中にも同床異夢が紛れ込んでしまうこと。)

話戻って、新しいパッケージ(リパッケージ)の核になるのがキュレーション(curation)。目利きと言ったら良いだろうか。この辺りでも「××さんのお薦めも一種のパッケージングではないのか?」「プロモーションが時代遅れなのとプロモーションが無意味なのとでは意味が違うのでは?」と本題を離れて思考は旋回。違いはつまりスケールというか規模。マスプロモーションによるパッケージ化の終焉ということらしい。しかしミドルとマスって、どこら辺で区切るのだろうか? 日本語の文章ならば顧客は最大でもせいぜい1億人。音楽ならば65億人が対象になり得る。

それにしても聞いていて呆れるのは、(日本の)出版関係者って、どうしてそんなに保守的なのだろうか? あ、こういうと「大手出版社と限定して」と注意されるかな? でも中小もずいぶんコンサバな感じがする。取次システムには苦労させられているはずなのに。たとえば、何の工夫もないテキストだけの電子ブックにも紙と比べて大きな利点があることに気付かないのだろうか? 一例を挙げれば盗用の発見が格段に楽になる。盗用だけではない。原稿の使い回しも容易に発見できる。小細工を施したところで悪あがき。すでに大学などには糊紙細工のレポートを発見するノウハウが蓄積しつつあるのだ。紙の本なら解析用のデータを作るだけで一仕事だったが、これからはすぐ解析できる。そして、これは同時に知らずに盗作本を出す危険を回避する助けにもなる。出版前の原稿と既刊本のマッチングテストは必須になるだろう。駄本の多くはこの段階でリジェクトになり、良貨が悪貨を駆逐するようになったりして。こういうシステムがあればセルカン事件も防げたかも。てなことは考えないのかな。

あと余談。オアゾにある丸善丸の内本店正面の品揃えを罵倒していたのが小気味良い。特に勝間本の版元ではっきり言っちゃうところが素敵。

ところで最近、本を読む量が激減していないか?>自分  とまれ『電子書籍の衝撃』を読んでみよう。新書一冊にそんな時間はかからないはず。

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2009/05/16

企業で自炊は許されるか

自炊と言っても、自分で食事を作ることではない。

池田信夫blog(のコメント)を読んでいて(遅まきながら?)知ったのだが、書籍や雑誌をばらしてスキャニングし、電子ブックを自作することが自炊と称されているらしい。念のためググってみるとwikipediaで取り上げられているだけでなく、まとめサイトすらできていた。由来は2ちゃんねるらしい。

個人で可能になったのはパソコンやスキャナ、ストレージなどの高性能化低価格化の結果であろう。以前、30万画素のデジカメで撮影し、VGA画面で再生してがっかりしたことがある。A4判の雑誌1ページを1画面に収めることができなかったから(収めると字がつぶれる)。そのくせ当時のHDDにとっては侮れないファイルサイズ。

法律的な面で考えると、これは私的使用のための複製に該当するから、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用する」限りにおいては合法的だ。

また公共図書館(「公衆の利用に供することを目的とする図書館その他の施設で政令で定めるもの」)であれば、非営利の事業として蔵書の電子化を行える(昔からマイクロフィルム化は進められていた)。

問題は企業。ソフトウェアならばバックアップが認められているから、購入物など正当な所有物であればオリジナルを保管することを前提にコピーは可能だ。しかし書籍や雑誌にはバックアップコピーを可とする条文は存在しない。企業内の資料室(図書室)は政令に定める図書館等には該当しないことがほとんどだろう。ましてや総務課の棚においておや。たとえ購入した書籍であっても、それを自炊、つまり自分で電子化することは複製権の侵害、早い話が犯罪になるといわざるを得ない。

書籍だとまだ完全電子化にためらいを覚える人は多いだろう。だが、雑誌や新聞の切り抜きは? オリジナルの切り貼りならば著作権法上なんの問題もない。しかし台紙に貼り付ければ、単純にいって厚さは2倍。ファイリングの基本である「1ファイル1記事」を守れば、たちまち膨大な量になってしまう。しかも検索性は低いから死蔵必至。


余談になるが、時間が経って糊が変色したり劣化したりしたスクラップ(残骸)をみて愕然とした経験を持つ人は結構いると思う。どうもオーソドックスなデンプン糊が一番安定らしい...少なくともゴム糊は激しく劣化した。


気のきいた企業ならば乾式複写(今どき湿式複写なんて役所でも使わないんじゃないだろうか?)、さらには電子化を考えるだろう。場所を取らないから保険を兼ねた社内失業対策としても役に立つ。多くの企業で自炊はされているだろう。

ここでタイトルから離れる。

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2008/12/06

加藤周一逝く

巨星墜つ...

『羊の歌』を読み直してみようか... それとも近著を読むべきか。

羊の歌

続・羊の歌

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2008/11/06

兵士シュヴェイクの冒険

先日のエントリー「規律は大切だ」のために購入した「兵士シュヴェイクの冒険」。せっかくなので読み始めた。実にとぼけた話だが、時おり血なまぐさいにおいがする。もうすぐ第一分冊読了。

前に読んだのは...かれこれ*年前。覚えているところもあれば、すっかり忘れてしまっていた箇所もある。

規律を失った兵士と並んですぐに思い出す「私に血を吐けっていうんですか」はずっと後に出てくるはず。やはり4巻買うことになるか。

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2008/07/30

読了『ウェブ時代 5つの定理』『大学は「プロジェクト」でこんなに変わる』

読みかけだった
梅田望夫:『ウェブ時代 5つの定理 この言葉が未来を切り開く!』

WISDOM@早稲田:『大学は「プロジェクト」でこんなに変わる』
をようやく読み終えた。

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2008/05/05

amazonで古書を買う

クレジットカードを持っていない師匠の代わりにamazonで買い物をした。

版元品切れ(いわゆる絶版)のためマーケットプレイスで買うしかなく、そこはクレジットカード支払いが原則の模様。

ま、もらったリストで検索をして、最安値のをクリックするだけのはずだったが...

まず書名が間違っている。凸(-"-) ベット(bet)じゃない、ベッド(bed)! バック(back)じゃない、バッグ(bag)! ったく、「言葉の専門家」が聞いて呆れる。

次に、なぜか同じ本が2冊欲しいというので続けて購入しようとしたら、1点ものだと断られる。

計5冊を苦労して3店舗で調達したのに、送料は1点ずつ発生。まとめて発送するなら安くしてよ。

かくして本体価格合計560円に対して送料が1700円。支障、怒るかな。

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2008/04/06

手紙の暴動

大修(たいしゅう)館の『かなり役立つ日本語クロスワード』は、一部が見本として公開されている。

結構頭を使う問題もあるのだが...

タテのカギ 5 手紙の暴動で
「手紙の暴動」と書かれている

電子メールなんか使っていると、紙と墨を使え!とラダイットが押し掛けて来るのだろうか。

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2008/03/23

パーティントン夫人のモップ

生化学者シャルガフが著した『ヘラクレイトスの火』には、いろいろと面白い話が載っているが、中でも「パーティントン夫人のモップ」は印象深い。

シドニー・スミス師の政治的演説として引用されているので、ここに孫引きする。

私は無礼を働く意志はありませんが、改革の進行を食いとめようとする貴族たちの努力を見ていますと、どうしても、あのシドマスを襲った大暴風雨と、その際に卓越したパーティントン夫人のとった行動とを想い出さずにはいられません。一八二四年の冬のこと、シドマスは大洪水に見舞われました。潮位は信じ難い高さにまで上り、波は家々目がけて押し寄せました。あらゆるものが破壊に脅えていました。このとてつもなく怖しい嵐の真唯中で、海岸近くに住んでいたパーティントン夫人が、玄関のところに立ってモップと木型とを振りかざし、そのモップを使って海水を押し出し、たゆまず大西洋を押し戻しているのが見えました。大西洋はいきり立ち、パーティントン夫人の心も振るい立っていました。しかし、この角つき合いが対等なものでなかったことは言うまでもありますまい。大西洋はパーティントン夫人を打ち負かしました。彼女は台所の流し水の扱いや水溜まりの水の扱いには卓越していました。しかし彼女は嵐をひねくり廻すべきではなかったのです。皆さん、騒ぎ立てることはありません。静かに、そして堅実に行きましょう。皆さんはパーティントン夫人を打ち負すでしょうから。

(『ヘラクレイトスの火』 村上陽一郎 訳 岩波書店 1990)

努力は大切だ。人任せにしないで自分でやる姿勢もまた大切。自分より適任者がいる、などといっていると怠け癖がついてしまうというのにも一面の真理はある。

だが、道学者先生があげる努力の例は成功した人ばかり。それはあたかも航海の安全が御利益の神殿に、無事に帰還できた船乗りのお礼奉納品が山積みされているのと同じ(祈願の甲斐なく遭難した連中はカウントされない)。

「病は気から」くるし、O.ヘンリーの「最後の一葉」は真実を語っているが、同時に「病気は気力で治す」は、風邪薬のCMなら笑い話で済むものの、「誤った信念の代償を命で支払う」ことにもつながりかねない。

高潮にモップ一本で立ち向かう! 東洋には「愚公山を移す」という故事があるが「蟷螂の斧」というのもある。昆虫の世界では最強のカマキリも、人間に立ち向かうのは無謀の極み。それなのに、なぜ無駄な努力が賞賛されるのだろうか。愚公の勝利は天帝の介入と言うフィクションが前提なのに。上手く行ったら成果はもらう、失敗したら損害は負ってくれ、という魂胆だろうか。

ところであらためて『ヘラクレイトスの火』の続きを読むと、シャルガフ自身はパーティントン夫人を嘲ってはいない。「私は敗け犬の側につくのが好きなのだ。」 あれ? 20年前にもここは読んだ筈なのに、敗北に向かって突き進むパーティントン夫人の、勇ましくも滑稽な印象しか残ってないのはどうしたことか。

「蟷螂の斧」も、韓詩外伝によれば、斉の荘公は「人であれば天下の勇者」と車を避けてくれたとか。まぁ、相手が本物の虫けらだったから敢えて踏み潰すような大人気ない真似はしなかったのでしょうが。

器の大きな人なら、多少の無茶は評価してしてくれる可能性もありますが...大西洋相手に喧嘩を売るのはやめておきましょう。

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2007/09/25

LSDで幻覚を見ているアリが作った蟻塚

『ニールセンのアラートボックス』を読んだ。ユーザビリティーの研究者であるニールセンのコラム「Alertbox:Current Issues in Web Usability」の邦訳。

コラムの邦訳はネット上で読める。本書に収められていない最新のものまで無料で読めるのだから、ネットで読むのがお得だが、書籍には書籍の良さがある。第一に精選されている。第二に通勤電車の中で立ったまま読める。

とはいえ、もともとハイパーテキストで書かれたものを紙に移すと隔靴掻痒。本の欄外にURLを書かれても打ち込む気力は出ません。

また、信じがたいことだが、「プルダウンメニュー」と「ドロップダウンメニュー」という、同じものを指す異なる用語が混在している。実はドロップダウンメニューという言い方を知らなくて、疑問を抱えながら読んだのだ。内容からするとプルダウンメニューのようなもの?と思って調べるとその通り。その時は混在しているとは気づかず、ハイパーテキストなら用語解説も簡単なのに、と思った次第。

訳語の不統一はウェブにおいても見られる。どうやら訳者による差らしいのだが、ひょっとすると原文から異なっているかもしれない。原文に当たれば良いのか...

といった瑕疵はあるものの、ウェブを制作する人は(発注する人も)一度は眼を通しておくべきだ。

私が最も感銘を受け、そして痛くなるほど膝を叩きそうになったのは次の一節。

大部分においてウェブはLSDで幻覚を見ている蟻によって作られた蟻塚のようなものだ。多くのサイトが全体像の中では収まりが悪く、期待される標準から外れているため使いにくいのだ。
(強調も原文)

奇抜な独創は大概が空疎なもの。六角形の本を出して売れるのは宮武外骨くらいと心得るべきだ。才能があるものは五七五の定型でも独創性を発揮する。才能のないものが破調を気取っても駄作にすらならない。

考えてもみよう。自動車のアクセルとブレーキが車種ごとに左右違っていたらどうなるか。携帯電話のキーをテンキー式にしたり5×2列にしたりして受け入れられるかどうか。ユーザビリティーとはそれ自身が合理的であるとともに、事実上の標準から逸脱していないことも大切、と理解した。だから私はQWERTY配列で文字を打っている。

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2007/07/26

『下流社会マーケティング』

なんともドギツイ書名である。一世を風靡した『下流社会』の著者による新刊(といっても2006年)。

貧困ビジネスの本かと思ったら、さにあらず。まさにマーケティングの本。データを読み解く気力がなかったのでパラパラとめくっただけだが、なるほどこういう考え方があるのか、と感心。アマゾンの書評では腐している人が多いけれど、物知りな人達は自分で本をお書きになるのがよろしい。

それで、もしやと思って、本家『下流社会』を手にとってみると、これも書名から想像していた内容とは違って、やはりマーケティングの本らしい。いやはや、ひょっとして有名な割には読んでない人が多いのではないだろうか。

その初めを立ち読みして、いまの自分が下流化している現実に気づいて慄然。いかんいかん。

もっとも、この乗せられやすさの方が問題かもしれない。本書にしても、帯の「あなたのマーケティング力チェッック」で「正解が5問以下の人は要注意」に該当して購入したのが真相だから。


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名を取って実を捨てる

先日、私的な勉強会で、某放送局の記者を話題提供者にして報道における実名・匿名問題を議論した。

テキストは『報道被害』。著者は弁護士で、誤報やメディアスクラムなどの被害者の側に立って来た人。で、当然、(私人の)犯罪報道の匿名化を主張。

一方、記者さんは実名報道の擁護者。で、話を聞いてみると確かにメリットはある。納豆騒動の某番組に限らず、モザイクと音声変換を使えばいくらでも架空の話が作れてしまうと言う。名前を出して顔を映すのが報道の真実性の担保である、と(私はそう理解した)。

ただ、なぜか話は少年犯罪の匿名問題にそれて行き、いつ実名報道に踏み切るか、という興味深い話を聞いた。少年法が少年の氏名などの報道を禁止するのは更正の可能性を保証するため。それゆえ更正の可能性が断たれた場合、被疑者死亡とか死刑確定とか、は堂々と実名報道できると手ぐすねを引いているらしい(社によって方針は異なる)。

またかつて凶悪事件を起こしながら、少年故に匿名扱いだった男が成人後にまた事件を起こした例。もちろんネットでは過去の事件と実名(と称するもの)バンバンだったが、マスコミは対応に苦慮したらしい。二度目も同じ凶悪事件なら躊躇はしなかったが、微妙な粗暴犯だったとか。さて少年時代の事件に触れて良いものか。結局、その社では今の事件は実名報道する代わりに過去の事件には触れなかったそうだ。うーん、ニュースとしては「かつての少年凶悪犯が、性懲りもなく」の方が報道する価値があるのだから、匿名にして少年時代の事件に触れた方が良かったのではないだろうか。「そんな悪い奴をなぜ匿名にする」という感情論に押されたのだろうが。これを名を取って実を捨てると言う。

あと、実名原則と言いながら、実際には微罪は匿名化に向かっている。問題は被疑者が公人、あるいは公人に近い場合。事件の性格や規模、被疑者が私人かどうかを勘案し、偉いさんが毎回合議で決めているらしい。でも、そんなものは「アキレスはカメに追いつけない」。「これは実名、これは匿名」と規準を決めたところで、その中間は必ずあるのだ。傍目には甚だしく労多くして実りの少ない仕事に思えた。


この本の80ページは注目に値します。優秀な日本の裁判所は、事件の起きる一か月前に犯人に死刑判決を出しています。どうしたの、岩波書店。

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2007/06/23

伝法な、とは

先日、オフラインミーティングがあった。都電を借りきって早稲田から三ノ輪まで行き、そのあと浅草へ。

伝法院通りを歩いている時に「伝法な」という形容があることを思い出した。「論座」に連載されていた山本一力の「欅しぐれ」で見て、文脈から「ぞんざいな」くらいの意味だろうと理解して、調べないままにしていた言葉。

同行者に振ってみたが、残念ながら知らなかった。

数日経ってそれを思い出し、おもむろに辞書を引いてみた。

「1.粗暴で無法な振る舞いをすること。また、その人や、そのさま。」
これは予想通り。意外だったのは
「3.無料見物・無銭飲食をすること。また、その者。」

その語源は「江戸時代、浅草寺伝法院の寺男が、寺の威光をかさにきて、境内の見世物小屋や飲食店で無法な振る舞いをしたところからいう。」とのこと。

浅草の伝法院に関係のある表現だった。

ちなみに先の『欅しぐれ』はいろいろ蘊蓄があって楽しめた。著者はなかなかの苦労人らしい。後にコラムで、編集者から作家デビュー直後に「調べたことの九割五分は捨てて」と忠告されたことを書いている。95%捨ててもあれなのだから、いったいどれだけ調べたのだろう。

続きを読む "伝法な、とは"

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2006/12/10

現代の貧困(論座1月号)

月刊「論座」1月号の特集は「現代の貧困」。

特集の前の「潮流07」にも「インターンシップという美名に潜む使い捨て労働者」という恐い記事がある。日本人も中国からの研修生のように使役されるのだろうか。

さて内容は、さきの『ワーキングプア』を裏付ける実態。そしておぞましい「貧困ビジネス」の繁盛ぶりも。

「on the edge 〜崖っぷちに立つ若年フリーター」を読むと、ちなみにオンザエッジと読むとライブドアの旧社名というのも皮肉な気がするが、オンジエッジであろう、追い詰められて人間としての尊厳を忘れさせられた青年が登場する。

アルバイト生活なのに「ちょっとした余裕」が欲しくて消費者金融(高利貸し)から借金し、数年後に200万円に膨れ上がらせ、夜逃げをしてホームレスなったなんて読むと呆れ返るばかりだが、よく考えれば義務教育は彼に「人類最大の発明」を教えたのだろうか? 

性格的にいくぶん問題はありそうだが、この程度の性格でもっと能力が低くても、今までは十分社会生活を営めたし、今でもちゃんと納まっている人は多くいるだろう。彼が脱落したのは本人の問題なのか、それとも社会に余裕がなくなった結果なのだろうか。自己責任論者はカナリアがもがき苦しむのを見て面白がっているのではないだろうか。

次に登場するフリーター 氏は、貧困の固定化を呪い、社会の流動化の手段として戦争を渇望する(かのよう書く)。そんなに戦争がしたければ自衛隊でも外人部隊でもアルカイダにでも行け、で終わらせられれば話は楽だが、幸か不幸か「論座」もそんな釣餌をぶら下げるまで落ちぶれてはいなかった。

できることなら戦争なんて起きない方が良いと断った上で、こう結ぶ。


しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することを躊躇しないだろう。

あれ、どこかで読んだような気がするフレーズだな。と思って記憶をたどると見つかった。鈴木貴博のコラム「ビジネスを考える目」だ。

そんな世代間の闘争が、残念ながらこれから先、再び、そして三度(みたび)起きてくる。我々の世代が、若者の世代に雇用機会をはじめとする様々なチャンスを平等に与えられなければ、きっとそうなることだろう。

そして、なんとかそれらの若いパワーを権力で押さえ込まずに、解決の道を見つけてあげられないと、我々の世代も含めて未来は暗いものになるだろう。

なぜそう思うのか? もし三度、若い世代の闘争を権威でつぶしてしまったとすると、四度目に現れる若き挑戦者はおそらく武力と集団を武器に現れる。そしてそれは先進国としての終わりを意味するであろうからだ。


フリーターが言えば誤読されるけれど、コンサルタントが言えばエスタブリッシュメントも耳を傾ける(なにしろ日経のプレミアムサイトに載ったコラムです)。そのことがまた彼を苛立たせるのだろうなぁ。

ご本尊のblogについたトラックバックによると、論座を読まない批判もあるという。お望みのB vs. C の闘いも同様に仁義なきものになることは織り込み済みだろうか。

また別のTBは突き動かす名状しがたい諸々にシンクロ出来ないと書いていて、私にはこの方が得心がいく。一言で済ませるなら、彼は蜃気楼に向かって石を投げているのだ。

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『ワーキングプア』

働いても生活保護水準以下の収入しか得られないのがワーキングプア(働く貧困層)。これで居住地の制限があったら農奴と同じ。日本におけるワーキングプアの深刻な実情が報告されている。

ただ、巻頭に石川琢木の歌を引いているのには違和感を覚える。確かに彼は貧窮の中に没したけれど、それはたぶんに本人の浪費が原因であって、ワーキングプアと同列には論じられないだろう。東京朝日新聞時代の給与(25円+夜勤手当で実質30円)は「悪くない」よりは「良い」部類であったそうだし。

月に三十円もあれば、田舎(ゐなか)にては、
楽に暮せると——
 ひょっと思へる。
悲しき玩具

もっとも実際のワーキングプアの中にも自堕落、は言い過ぎとしても本人の問題が大きく思える例がある。その点、その子供達が人生のスタート地点からハンデを負い、いわば貧困を相続していることには100%同情するし、危惧される。階層の固定化につながり、社会の闊達さが失われかねないからだ。

なお本書を購入しようと思う人は、下記のお茶の水博士のブログからどうぞ。
http://big-ogawa.seesaa.net/

(なぜかアクセスできない...マイミクからも消えているし...胸騒ぎ)

お茶の水博士(仮名)はビッグイシューの元販売人、つまり元ホームレス。ワーキングプアどころか仕事も、住むところさえ失っていた。本書に収められた経験談によれば、それはあっと言う間のことらしい。上に書いたことと矛盾するようだが、普通の暮らし、むしろ羽振りの良かった人の方が、いったん歯車がずれると立ち直りが難しく、事態を悪化させてしまうのも恐ろしいところだ。

かくいう私もこの2月に整理解雇され、ながく失業状態にあったので他人事ではない。不安定で低賃金でも職があるとないとでは大違いのように思えるが、新たな職探しが難しくなればそれ以上の改善は望めないわけで、「なんでもいいから」に追い込まれなくて本当に良かったと思う。(勤めだして振り返ると、なにしろ今度は面接する側に引っぱりだされるので否応無しに思い出されるのだが、自分はずいぶんと認識が甘かったと冷や汗が出る思い。)

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2006/11/27

岡山訪問

所用で岡山に行ってきた(10/11,12)。

新幹線「のぞみ」に乗るのは初めてではないが、昼間は初めてというのを失念していた。油断して窓外の流れる景色を見ていたら気分が悪くなってしまった。帰りは通路側を取ることにしよう(念願かなって、帰路は新大阪まで通路側、それから同じ列車でB席(三列中央)だった)。

東京は雨だったが、岡山は曇り。翌日には快晴で、長傘は見事にお荷物。

雨の上がった岡山駅前

岡山市民会館で遠藤邦基と田中克彦の講演を聴く。偉い人が読み間違いをすると、おべんちゃらがそれを正しいものとして広め後世に残ってしまう話を聞くと、昔も今も人間って変わらないものだと改めて思う。古典を読むには批判的視点が大切だ。いま「聖書じゃないんだから」と書こうとしたが、実は聖書こそ筆写ミスの宝庫らしい。

閑話休題。田中克彦は名前くらいしか知らなかったが、現物は予想とだいぶ違った。日本の大学が「Brotstudium(飯の種になる学問)」ばかりに走って崩壊する、と大層悲観的。それもこれも勉強嫌いが政治家になって、その政治家が大学教育をいじるから、と首大学を作った障子破り都知事閣下などを引き合いに弾劾するが、実務を進める官僚は勉強一筋...あ、文部官僚は別格か(某官僚から個人的に聞いた話なので具体的には書けないが、旧文部省の感覚って、ほかの霞ヶ関の人間から見ても異次元世界のものらしい)。

教育の「恐ろしさ」は、かつて神州は不滅でB29は竹槍で落とせると信じた軍国少年(1934年生)なので骨身に染みているのだろう。

過日、田中の訳した『ノモンハンの戦い』(岩波文庫)を読んだ(不覚にも国境を巡る小競り合い程度にしか認識していなかったが、大規模な戦闘だったとしって驚く)。従軍作家の見聞記である第二部は興味深い。もし日本軍があの大敗をしっかり総括していれば、第二次世界大戦の悲劇は避けられたかもしれない。ま、そうだと今でも徴兵制や特高が残っていたかもしれないので、歴史を変えてやろうとは思わないが(歴史に「もし」はないとは言え、大日本帝国が賢く欧米との対立を避けていたら、核兵器は開発されなかったかも...うーん複雑な気持ち)。

講演内容とは関係のないことだが、市民会館の椅子の傷み具合から地方経済の疲弊が見えたような気がする。街に少しはお金を落としてくるべきだったな。

市民会館の傷んだ椅子

翌日は岡山大学へ。岡山大学と言えば糟谷孝幸(1969年、機動隊員に撲殺される)という人もいるだろうが、私は『思想としての風俗』で紹介されていた、関西全共闘最後の砦を見たかった。「パルチザン前史」にも描かれていた、時計台を占拠した学生が圧倒的な警察力の前に敢えなく落城する刹那、最後に歌ったのが「仰げば尊し」だった−−今こそ別れめ、いざさらば−−という伝説の大学。

だが、大学にある時計台は図書館のもので、どうも様子が違う。

岡山大学付属図書館の時計塔


帰ってきてから調べてみると、どうやら件の時計台は大阪市立大学だったらしい。あれぇ、記憶って当てにならない。

もっとも調べているうちに、「パルチザン前史」での歌声は、現地の録音はヘリコプターの轟音ばかりで、人の耳には聞こえた学生の歌声が入っていないため、別に録音した歌声を重ねあわせたものという文章も発見。これは映画を見た時に、ヘリコプターの音に比べて歌声が不自然に感じられたことに符合する。え、それこそ作られた記憶だろって? うむむ


岡山駅のホームで見かけた四国学院大学の学生募集看板。私がこの大学について知っていることはただ一つ、傑作アホ映画サマータイムマシンブルースロケ地だったということ。おーおー、あの時計塔も描かれているね。

四国学院大学の広告

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2006/10/22

『バカにみえる日本語』

賢い人の目には映らない不思議な日本語、ではなくて、使うとバカだと思われる日本語。主に漢字の誤表記だが、慣用句の間違いもある。

収載例を列記した書籍の帯


もともとは誤字等の館というサイトで収集されていたもの。

収録数はウェブサイトの方が多いので、漫画を加えるなどの工夫がされている。しかし最初の漫画、4コマ目はやはり「落ち込んでる〜」でなければ(それも平がな表記で)。なんと言っても漫画界では最大級の知名度を持つ誤植だそうだから。

著者は冷静な分析を加えていて、決して大衆を高みから嘲笑している訳ではないのだが、人を笑わば穴二つなのだろうか、とんでもない間違いをしでかしている(上に載せた帯参照)。帯の差し替えは容易だから、これってプレミア付きになる?

それにしても誤植(誤記・誤変換)の指摘は恐ろしい。「誤植の話」と銘打った力作でさえ「パソコンが普及したおかげで,同音意義の変換ミスは増えた」などとやってしまうのだ。同音異義ですね。

「同音意義」と誤っている

話戻って、著者はおかしな表記を見つけると、その蔓延度をグーグル検索で調べている。私は一歩進めてサイトを限定し、つまり企業のサイト、学校のサイト、政府機関のサイトではどうかを調べてみた。方法はグーグルでsite:co.jp、site:ac.jp、site:go.jpとドメイン指定をかける。

役所関係でOCRに起因する(と考えられる)魯魚の誤りが多発していることは容易に想像できたので、典型的な同音異義語である「偏在(遍在の誤り)」を調べると..たとえば「どこにでも偏在する site:go.jp」の結果はこう。orz e-japan もうダメポ。あるいは「ユキビタス site:go.jp」だと56件。(ユーザの勘違いを吸収するために誤ったキーワード検索でもヒットするようにしている例もあると思われるが、「例外に漏れず」とか「精神誠意」になると言い訳にならない。)

こういう誤りは「画竜点睛を欠く」どころか、「一斑を見て全豹を卜す」で全体の信憑性さえ疑わしく思われかねない。サイト開設者は誤用ご用心あれ。

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2006/10/16

『わかったつもり』(光文社新書)

『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』 西林 克彦 (著) (光文社新書)

先に取り上げた『なぜ伝わらない、その日本語』は筆者の側を問題にした。本書は読者を問題にしている。

で、言わんとするところは…とまとめてしまうと「それは君の“わかったつもり”ではないのかね」と突っ込まれるので深読みを披露しよう。

本書には2つの前提がある。
1)文章には通り一遍では読み取れない深い意味がある
2)それは読み取る価値がある

だが、いつもいつもそれが成り立つとは限らない。著者も気づいてはいるようで、p.177に「残念なことに、書き手の責任としかいいようのない場合も存在します」とある。これは「わかったつもり」が壊れて表出した矛盾や無関連が克服され、「よりよくわかる」状態に進む点について述べられたもので、1)に該当する。

2)の問題にはお気づきではないようだ。しっかりと読解した結果わかったことが「実はどーでも良いこと」だったらがっかりだ。時間の無駄。文学研究の皮肉な定義に、「大昔の、今ではほとんどの人が知らない大したことのない作家が、少し後の、これまた忘れ去られた同時代においてさえどうでも良い作家に与えた影響を調べること」というのがある。それがまったく無意味であるとは言わないが、たいていの場合、そんな事がわかったところで「それで?」となる。少なくとも工学部の人ならそう言っても不思議ではない。

だいたい深読みも度を過ぎればインテル・ペンティアムCPUアーキテクチャ・レファレンスマニュアルから脱構築文芸批評的手法を用いてケネディがゲイであったことを論証することだってできちゃうらしい。それはそれで面白いとも言えるけれど。

なお、上記の例が載っている『新教養主義宣言』(山形浩生)にはまた、「手っ取り早い結論は諸悪の根源である」という素敵な論考が載っている。

『なぜ伝わらない、その日本語』は、「読み手に苦労をさせるな」が主張だ。これは大体の場合において正しい。伝えたければ伝わるように書けと言うこと。ただ、書き手は読み手を選ぶ権利もある。ろくでなしが偉ぶってする「読者の選別」なんざ無視しても構わないが、秘密の鍵を手にすることで役に立ったり楽しかったりすることはあるから、あまり世の中を甘く見ない方が良い。

まぁ、ネットに限れば書き手は稚拙、読み手の目は節穴で、気違い帽子屋のお茶会もかくやというのが悲しい現実か。

本書は誤読の陥穽をいくつか例示している。これを逆用すれば、誤解され難い文章、わかりやすい文章が書ける。そしてまた相手を騙す文章もまたやすやすと書けてしまうのだ。人は自分の読みたいものを読み取る。


蛇足。第四章で挙げられている著者の「ふしぎに思う」の定義には違和感がある。

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2006/10/05

『なぜ伝わらない、その日本語』

日本語と格闘する仕事につきそうなので「電脳日本語論」と併せて購入。

天下の岩波書店刊である。ゆったりとした横組で読みやすい。目次を見ればわかるように事例が具体的で豊富。手軽に参照できるよう要約代わりに書き写しておこう、と思ったら目次は本家に載っていた(アマゾンには目次情報がないので手打ちしたのに...くやしいのはこちらに入力ミスが3つもあったこと)。なお、ここでは省略するが、各項は文例、その問題点、改善例、書き手の心理、類似例という構成で統一されている。

よくまとめられてはいるが、最終章で「大事なのは思いやり」としてしまったのには違和感がある。「心」より「頭」と注釈をつけてはいるものの、誤解を招きやすいと思う。著者が繰り返し分析しているように、わかりにくくなるのは書き手が自己中心的だからだ。そのため往々にして目的を見失ってしまう。それがわかり難さの原因。対する処方箋は相手に伝えるという意志を持ての方が適切だろう。

たとえば禁煙の貼紙に必要なのは、「喫煙者も中毒だから簡単には止められなくて可哀想だね」という思いやりではなく、「お前らは人間のクズだと思っている。現場を押さえたら消火器を噴射するから覚悟しておけ。掃除の費用も請求するからそのつもりでいろ。払わないなら両腎臓を差し押さえるぞ」という、脳が縮んだ喫煙者にも「ここで吸うのはマズい」と思わせる強い強い怒りの表明だ。もちろんテクニカルには喫煙場所を指示した方が守られやすい(「喫煙は地獄の三丁目でどうぞ」)。

ストレートな怒りの表明は格好悪いから、と「煙草を吸っても構いませんが、煙は吐かないでください」なんて書いたところで一酸化炭素で脳がすかすかになった喫煙者に通じるだろうか? そういう自己陶酔を捨てるのが「伝わる日本語」の第一歩であろう。著者もわかっている筈なのに、「思いやり」なんて口にして画竜点睛を欠く感じがしたので敢えて苦言。

相手を中心に書くとは、相手を照準の中心に据えて書くと言うこと。

なお、「なぜ伝わらないのか?」は上記本家にて立ち読み可能(PDF提供)。

***
なぜ伝わらないのか?
伝わらない日本語とは?
伝わらない原因は?
伝わるように書かないのは?

第1章 相手がどんな情報を求めているか?
レストランの開店3周年のあいさつ状
取引先への担当者交代のお知らせ
旅館のアンケートに書く苦情

第2章 相手が何を知っているか?
個人レッスンをお願いするメール
分岐駅のホームの時刻表
分別ゴミ箱の表示

第3章 相手がどんな人であるか?
メールの引用が好きか嫌いか?
専門家か専門家でないか?
日本語がわかるかわからないか?

第4章 相手がどんな返答をするか?
同窓会の相談をするメール
メールの返信先の指定
レストランのお客さまアンケート

第5章 相手がどんな行動をするか?
バザーへの出品を頼むメール
レストランのメニューの名前
講演会会場への交通案内

第6章 相手がどんな気持ちになるか?
出張手続き改善の提案
新規開店のカフェの割引クーポン
地域交流会メーリングリストの口論

第7章 相手に読んでもらう工夫
用件が複数のメール
スポーツクラブの注意書き
文集に載せる文章

第8章 相手に見つけてもらう工夫
メールの件名
ホームページの構成
マニュアルの索引

第9章 相手に誤解を与えない工夫
きちんと読まなくてもわかる工夫
相手の誤解を防ぐ工夫
相手の常識に頼らない工夫

伝わる日本語にするために
大事なのは「思いやり」
会議を知らせるメール
コミュニケーションの時代

あとがき
***

プロのための文章技術ではなく、市井の人が日常的に作成する文章をわかりやすくするための工夫がまとめられている。逆に言えば著者(大学教員)が日常でいかにわかりにくい文章に苦しめられているかがうかがえる(その辺の事情は「幻のあとがき」にも抽象的に書かれている)。

ところで本書の例文には時々やけに具体的なものが登場する。p.13の開店3周年のレストランの所在地は「東京都目黒区自由が丘2-15-29」とある。改良された文例ではURLや電話番号、さらには地図まで。もっともそのURLをブラウザに打ち込んでも「見つかりません」と弾かれる(そもそもwhoisで見ると現段階では未使用)。タウンページで店名を検索しても見つからない。所在地をgoogle mapsで調べたところ、そういう地番は存在しない模様(「2丁目15−10」が表示された)。地図に描かれている場所はどうやら駐車場らしい。しかし電話番号はどうなのだろう。好奇心でかける人もいるだろうに。現在使われていない番号ならば良いけれど(将来使われたら問題にならないか?)。

それと章タイトルの「?」は不要と思う。天下の岩波に逆らうのは勇気がいるが。

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2006/09/27

『電脳日本語論』読み始め

今日は就職面接。この会社は今までで二番目に早いレスポンスだったのでやや期待。しかもオートレスポンダーは「一週間経って返事がなかったら諦めてね」だったから、とりあえず書類審査は通っている、と理解。


一時間を超す面接を終え、帰りの電車の中で話を整理。先日、書店で見かけたATOK開発チームの話が関係しそうなので、立ち寄って購入。

p.97の「すべからく」は用法が間違っているような気がする、のは良いとして、ATOKの歴史は興味深い。名前は同じATOKでも中身はどんどん変わっている事、またATOK9で「完成」(紙の辞書レベルで考えていた事は終わっていた)など。

「当たり前でないことをするのが技術だ」(p.88)という専務は、端から見る分には素敵。

いろいろ考えながら読んで疲れたので三章で一休み。

山田正紀に「うしろの一太郎」(「うしろの百太郎」のパロディ)と揶揄された「一太郎 Ver.4」についての記述はあっさりと。このバグ騒ぎのときの対応のおかげで「ジャストシステムはユーザーを大切にする」というイメージを獲得したと言う話もある...ねぇ。私もその頃Vzエディター+ATOKに転向し、以来「ワープロを使うのは素人」(なんの?)派なのでよくわからない。修太なんてものも出していたの? 知らなかった。もっともググッてもヒットしないなぁ。今はJust Rightになったのだろうか?(この部分、よく調べないままアップ)

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2006/09/02

『ウェブ・ユーザビリティルールブック』

ウェブ関係の仕事口を探していて薦められた本。初版2001年だが既に大手書店でもネットでも品切れ状態。アマゾンのマーケットプレイスにて購入。

ネット関係の書籍で5年も経つと大概は古くて役に立たない。もっとも『コンピュータネットワークの政治学』のような例外はある。この本は12年前の発行だが、7年前に読んだ時には十分役に立った(今はどうだろ?)。

本書も登場する主要ブラウザがIE(5.5?)とNN(6?)でFirefoxもOperaもSafariも出て来ないし、解像度は800×600を基準としているし、スタイルシートでレイアウト指定はしないと主張するしと、時代遅れな面はある。もっとも640×480も念頭に置けという注意は、携帯電話でフルブラウザの時代にはまた活きてくるから面白い。

では絶版が妥当な古書かというと、そうではない。今でも悪い例に挙げられたサイトは多い。自己満足な個人サイトはさておき、企業サイトにおいてもみすみす機会損失になる構成のサイトは目立つ。本書の存在価値はまだまだある。

内容はウェブサイトを作る上での常識、みたいなものが多い。というか、見られるサイトを作る上での常識集である。繰り返すが、この常識をわきまえていないサイトはまだまだある。手元に置く必要はないが、常に「このページのユーザビリティは」と意識するためにも一読する価値はある。知っているつもりでも見落としはあるものだから。

参考になったのはウェブライティングに関する事項。それまで薄々感じてはいたが意識化されていなかった「ウェブは可読性が低い」「ユーザは常に次のページを読みたがっている」「斜め読みされる」「概論より特定論、曖昧より明確、抽象より具体的な物を好む」という特徴が明記されていた。

なんとなくウェブは書籍に代わるものと位置づけていたが、なるほど書籍とは受け取られ方が違うのだ。書籍のように扱ってほしければ、現状では印刷を前提とする他はないようだ。

それとリンクの使い方も参考になる。一部のブログに導入されている自動テキストリンクが鬱陶しい訳だ。

参考になるだけに、画面上で読むとプリントアウトで読むより25%遅くなるのを「25%のスピードでしか読めない」と書く(p.143)ようなミスは惜しい。他にもp.162では図で囲む記事を間違えている(ブルームバーグではなく、外国為替の記事を囲む)といったミスがある。

また、当時はスタイルシート(CSS)の実装が不十分なブラウザが多かったのでやむを得ないが、レイアウトにはスタイルシートを使わない、は不満。まして「レイアウトはテーブルで制御すべき」は残念。

表組を使わなくても一行の長さは制御可能です。私はmaxwidthを使っていました。これだと高解像度でウィンドウを広くしても一定幅以上に広がらない反面、画面が狭ければ自動で縮小(折り返し)される。もっともIEは対応していませんが。

「コンテンツのタイトルなどに太字を使うのが一番効果的で一般的」(p.137)...それってH1の役目じゃないでしょうか。

blockquoteをインデント指定に使う(p.139)べきではありません。(これもCSSでレイアウト指定をしないを前提とした苦肉の策でしょうが。)

時代の変化に対応した改定版が望まれます。

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2006/07/20

論文の著作権

mixiで「学術論文の複製権は学会に譲渡される」という書き込み。そんなことがあるものかと「編集著作権では」と書くと「いえ、この通り」と実例を示された。

驚いて所属学会の規定を調べてみた。以前は編集著作権と書いていたと記憶する日本生化学会は投稿規定お取り寄せなので日本農芸化学会の規定を見ると化学と生物BBB (Bioscience, Biotechnology, and Biochemistry)掲載論文の著作権は日本農芸化学会に属する.と明記してあった。知らないうちに世の中変わったらしい(前から?)。

そこで商業誌はどうだろうかと、天下のnatureの規定を見ると、これまた著者に著作権の譲渡をお願いすることはありませんが、代わりに論文の独占的な使用権はNature Publishing Group がもつことを認めていだくようサインをお願いしております。ただし、著者は自分の論文のPDFを自身や所属機関のウエブサイトに掲載することができます。と違いのわからないお願いが。

できるだけ多くの人に読んでもらいたい学術論文は誰に著作権があっても不都合はないけれど、ちょっと意外な感(著作者人格権は譲渡できない)。将来偉くなって、論文集を出そうなんてなると投稿先の許可が必要になる訳ね。リトラクトした場合はどうなるのだろう。:-p

それにしても学会誌の奥付にある複写についての注意書きは整合性があるようなないような(「著作権者」なんて書かずに「本会」と書いても良さそうな)。

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2006/05/10

「風の又三郎」を観てから読む

誘われて、映画「風の又三郎」を今年末に閉館となる三百人劇場で観てきた。

原作は1931年〜1933年にかけてまとめられたものだと言う。映画は1940年製作、ではあるが戦争の影は感じられない(37年の盧溝橋事件から宣戦布告のないまま日中は全面戦争状態)。生徒は登校すると国旗掲揚塔にお辞儀はするものの、それ以外に国家を想起させるようなものは出てこない。複式学級(全学年一教室)で先生も住み込み一人という小規模校という点を考慮してもちょっと不思議。原作に忠実であろうとしたためか。そういえば教師も、威厳はあるが優しく教導するタイプで、生徒が騒いだり怠けたりしても手を上げる事はもちろん、声を荒げる事さえほとんどない(原作の先生はもっと現実離れしている)。

そういえば大人たちも、面食らうほど物わかりが良い。わずかに実際には登場しない「専売局の役人」だけが恐い大人で(村の大人にとっても恐い存在?)、「遊んでないで手伝え」なんて言わないし、馬を逃がしても迷子になっても叱らない。そういえば子供も言われなくても農作業を手伝う物わかりの良さ。ひょっとして都会の映画人が夢見た「理想の農村?」(原作には汚れた足で床を汚す子供らは出てこない)。

風の効用問答で、映像化された風のする悪さには苦笑。帽子を飛ばされる、傘を壊されるくらいならまだしも、家が壊れる、屋根まで飛んだを実写する事はあるまいに(「シャボン玉」の歌詞勘違いを思い出す)。それに比べて、風車の効用はアニメーションで教科書的。

原作には無い鉛筆の後半エピソードは「又三郎は風の神の子ではない」を暗示しているようだが、相撲後に風を起こすところはいかにも「風の神の子でござい」で謎(この島耕二版を「原作の雰囲気をよく伝えている」映画と評価している風の又三郎の世界では「三郎が密かに空の雲行きを計算して歌を歌い出したことを明示的に描写しており、ここでは三郎が又三郎ではないことが示唆されている」とあるが、そこは記憶が曖昧)。

そういえば又三郎は風を起こせばよいのであって、雷雨は管轄外だと思った。

終わってから、「風の又三郎のオノマトペ表現の分析(レジュメ)」を読ませてもらう。表の作り方がイライラするほど稚拙(資料の作りは発表会でも不評だった由)なので作り直してみようか。

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2006/05/07

「私の人生を変えた3冊の本」

週刊誌「アエラ」No.22を読んでいたら「私の人生を変えた3冊の本」という、なんともベタな記事があった。ビジネスなど一線で活躍する53人に聞いたというが、挙げられた延べ159冊には読んだ事も見た事もないものが多数。これだから私は一線で活躍できないのか?

それでもリストに目を通すと、読んだ本がいくつか。
坊っちゃん
「死への準備」日記
羊の歌—わが回想
『夜と霧』
『方丈記』
『権利のための闘争』
『日本語の作文技術』

正直なところ、ここで千葉敦子と再会するとは思わなかった。「難局に出会うたびに思い出し、客観性を失わずに自立して切り開こうという勇気をもらった。」...確かに。

加藤周一を評して「こんな秀才が世の中にいるのかと思わせる伝記...近づくことの出来ない気品のある人生観に魅力」...納得。

ちなみに『羊の歌』には続編があります。

アマゾンの『「死への準備」日記』レビューには


この日記は、『朝日ジャーナル』に連載されていました。
毎週 千葉さんの文章を ハラハラしながら読んでいました。
「ずっと千葉さんの日記がつづいてほしい」と ひたすら祈っていました。

とある。そうだ。連載二回目で気づき、捨てずにあった前号をあわてて引っ張り出して読んだな。ある種予測された、しかしやはり突然の最終回は、入院を告げ休載を詫びる編集部宛のファクス。あれれ、最近涙腺が緩みがちだぞ(照)。

少しでも力になりたくてニューズレター「ウーマン・ウォッチ」を申し込んだりもした。遺産を元にアジアのジャーナリストを留学させる基金が作られた筈だが、どうなっただろう。と思い「千葉敦子 基金」でyahoo!検索したら自分の読書記録がヒットしてびっくり。

死後10年を過ぎ、流行を追う日本では忘れられかけているのではないだろうか。

その心配はないようだ。テクノラティでも結構ヒットするし。

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原典に当たる

週刊誌「アエラ」No.22を読んでいたら「私の人生を変えた3冊の本」という、なんともベタな記事があった。ビジネスなど一線で活躍する53人に聞いたというが、挙げられた延べ159冊には読んだ事も見た事もないものが多数。これだから私は一線で活躍できないのか?

それはともかく、夏目漱石の『坊ちゃん』を挙げた人がいて


いたずらをした寄宿生がシラを切った後、坊ちゃんが叫んだ。

〈世の中に正直が勝たなくて、外に勝つものがあるか、考えてみろ〉

 そのシーンが忘れられない。

と思い出を語っている。

? 憚りながら漱石は『我が輩は猫である』『二百十日』『坊っちゃん』『虞美人草』『行人』『夢十夜』くらいしか読んだ事はない(『それから』と『草枕』は途中まで)が、『坊っちゃん』にそんなシーンがあったか?

そこで原典に当たってみた。すると件の箇所は見つかったが、どうもシチュエーションがちと異なる。


おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕らまえてやろうと、焦慮てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。(中略)どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。

寄宿生のいたずらに翻弄され、夜の廊下に独りウロウロしているところだ。決して叫んでいる訳ではない。寄宿生を叱っているのでもない。自分を鼓舞している訳ですね。

この人(東京大の小宮山総長)の記憶違いか、ライターが勘違いでまとめたのかは不明だが(総長を「学長」なんて書いてるから編集部のミスも怪しい)、ちょっと説得力が減じてしまって残念。本のタイトルのミススペルとどっちが問題だろう?

(実は最初、「正直」を「正義」と見間違えていた。危うくとんでもなく見当違いに見える批判をする所だった。原典に当たるというのは大切な作業。)

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2006/04/17

「死者の書」を読む

先日、誘われて映画「死者の書」を観た(岩波ホールにて7日まで)。

冒頭の短編映画があまりにたおやかだったせいか、始まるとすぐ半覚醒状態に。途中で意識は戻ったが、訳のわからないまま終了。印象に残ったのは「おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。」という台詞、それに鳴弦(つるうち)と反閇(あしぶみ)のシーン(上記サイトにある予告編で見られます)。

納得がいかないのは、処刑される大津皇子が肩までのざんばら髪なこと。ベアトリーチェ・チェンチを持ち出すまでもなく、首をはねるのにあの髪は邪魔。

あと、念仏を唱えられて退散するってことは悪霊の類なのに、それと仏姿がだぶらされていて、よくわからん。

実写でやったらB級オカルト映画になっていた可能性大(それで人形アニメにしたのか?)。

ネットをざっと探してみても、川本喜八郎の映像美を誉めるものばかり。

そこで青空文庫で釋迢空(折口信夫:おりぐちしのぶ)の原作を読む事に。

難しい。古文を読む素養のないことが暴露される。orz だが映画は原作をかなり忠実になぞっているらしく、文の難しいところは映像を思い出す事で、なんとか目を通し終えられた。もちろん結論は「やっぱりわからない」であるが。


誘ってくれた人がアニメーションとCGについて「一を聞いて十を語る」ので閉口。そのくせPIXARも「トイ・ストーリー」(劇場公開された長編映画作品としては、初のフルCG作品)も「ファインディング・ニモ」(フル3DCG)も「Mr.インクレディブル」(服や髪の物理的感触を極めて忠実に表現した点が特徴)もご存じないのだから開いた口が塞がらない。あー、口は閉じているのか開いているのか、ですって? 

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『蝿の王』

だいぶ前にclieで書き上げていたが登録に至らなかった。

飛行機が遭難し、無人島に漂着したのは少年たちばかり。そこで力を合わせて生活基盤を作って救出を待つ、となればジュブナイルの定番だろうが、こちらは大人向け小説。ヘゲモニー争い、不安からのカルト傾倒、武力衝突と「もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね」的展開(もっとも見識なく引き起こした山火事がきっかけで救出されるとは皮肉な話)。

「もっと立派に...」は救出にやってきた海軍士官があきれて発した台詞だが、ある書評に書かれている通り大人達だって偉そうなことは言えないのだ。なぜなら少年らが飛行機に乗ったのは疎開のためで、どうみても熱帯の島に不時着したという事は少なくともヨーロッパのどこにも安全地帯の無い大戦争が勃発していた...「もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね」>イギリスの大人たち

作中、リーダーに選出されたものの文明秩序が崩壊していく中で自らの非力を嘆く少年が「大人がいたら」と切望するのが痛々しいのだが、大人がいてうまくいっただろうか。無能な大人がいたらかえって悲惨なことになっただろう。

もっとも他の少年も大人が来た時の事に思慮が及べば、及ばないのが子供というものだが、あそこまで無茶はしなかっただろう。実際、軍人が救出に来て「リーダーは誰か」と尋ねても、それまで多数派を率いて祭政一致を実現していた少年は、悪戯を見つけられた子供と同じで名乗りを上げられなかった。

別に彼らは「もう救出は来ない」と絶望していた訳ではない。いくぶん長い「休暇」に遊び呆けていただけだ。好意的に見れば、いつ来るかわからない救出に備えるよりも、エキサイティングで腹を満たしてくれる野ブタ狩りに力を注いだのは賢明かもしれない。ブタを絶滅させてしまう危険性があるとは言え。

トリフィド時代」では、市民のほとんどが一夜にして失明してしまうという未曾有の事態に際し、わずかに残った晴眼者は二派に別れる。できるだけ多くの盲人を保護して救援を待つべきとする労働運動活動家と、救援を期待せず精鋭(晴眼者と技能のある盲人)で新社会建設に臨むべきとする軍人と。こちらの物語では後者の選択が正しかった。いつでも救援が来ると思ったら大間違い。

「大人」の援助を期待できない私たちはどうすべきだろうか。振り返れば学校で職場で地域で、規模こそ違え同じような狂態は起きているのだ。

ところでこの話では少年ばかりで少女がいなかったけれど、その不自然さはさておき、いたらどうなっていただろう。あの年頃は女子の方がませているから、うまく切り盛りしただろうか。しかし女子も派閥を作るし、男女比にもよるだろうが、それはそれでまた「もっと立派にやれそうなもんじゃ」的世界になったと思うのは偏見か。

それと「狩猟隊」は合唱隊にしてはマッチョ(「歌って踊って楽しい」と揶揄されたミンセーも黄ヘル部隊は強かったらしいがw)なのはイギリスパブリックスクールは文武両道ということ? それにしてもなぜ彼らは一度も歌わなかったのだろう。

映画にもなっているが未見。こちらではアメリカの陸軍幼年学校生徒になっているらしい。


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2006/04/14

『私の嫌いな10の人びと』

ビッグイシューのベンダーである「お茶の水博士」のブログで購入した。アフィリエイトでなにがしかの収入になる事を意識している訳だが、これって著者のいう鈍感な「いい人」の押し付けがましい行動だろうか。

ブログを開く事をすすめたのは私だし、開設後はアフィリエイトの相談を受けていたし、この『私の嫌いな...』は書店で手にとった事はあるし、恩着せがましく「買ったよ」と感謝を求めなければよろしいんでは?(なのに敢えてここで書くのは、他の人を誘導するため。貶される事も厭わずに他人のアフィリエイトに協力するなんて、なんと献身的な...と自己陶酔してはイケナイ訳ね。それに今ブログを見たらお茶の水博士は仕事が決まって、ビッグイシューベンダーを卒業される由。)

というわけでこれが3冊目。最初に買った『哲学の教科書』は、読むのがひたすら苦痛。そこから理解した事は、どうやら哲学者という人間は精神を病んでいる。ただし、病気との折り合いをなんとかつけているために世間からつまはじきにされる事はない。「学者先生だから」と徳俵で踏み堪えている。したがって在野の哲学者、つまりアカデミックな機関に所属していないとあっさり土俵を割る危険がある。それを地で行っているのが文学者。名乗るのが自由な分だけご利益も薄い。

それでこの『私の嫌いな...』であるが、これは読みやすい。そして声に出して笑ってしまう。たとえば30ページ、「こうできないから、私は苦労しているのです」の箇所で知人、といっては罰が当たる、旧師の一人(「あさい三人衆」の「阿」)を思い出す。言う事やる事がそっくり。本の方に脚色があるとすれば「事実は小説よりも奇なり」だし、「実は抑えて書いた」なら東西の横綱。

もう1つ『ボートの三人男』も思い出してしまった(わぉ、これってwikipediaに項目として載ってるのね)。三人男の矛盾した言動はもちろん作者ジェロームの計算づくだが、こちらはどうなのだろう。

大学の哲学教師の95%は即刻解雇して構わない、生活がかかっているからというならせめて自責の念をもてという箇所では、最近受付を手伝った葬儀の喪主である高校教師(これが遺伝研にいらした石浜明先生にそっくりなのだが)を思い出す。彼は常々、給料は半分返上しても良いと言っているらしい。もっとも仕事も減らしてほしいらしいが。

慶應大学SFCの福田ゼミで講演をしたら、女子学生三人が精神に変調をきたした(と後日パーティーで顔を会わせるや福田教授から言われたらしい)という話も愉快。

全体を通して笑い話として読めば面白いが、では趣旨についてはどうかというと、疑問符が七つほど。詳細に述べるには余白が狭すぎるので手短にまとめると、人間の捉え方が非常に静的に思える。もっと身体を動かした方がよろしいんじゃないですか? スポーツをしたまえ、スポーツを!

いろいろあるけれど、大学で「難民避難所」ないし「孤児院」として、行き場の無い学生を救済している(p.171)と言うのは立派。人はまず、自分の持ち場において闘わなければならないのだから。

また冷笑的なようでいて、差別語は「暴力的で卑劣」ときっちり釘を刺す(p.166)ので認識を改めた。

(大学の)だらだらした会議にお悩みの様子。そこで描写されているのは『すごい会議』の対極。この本を紹介してくれた人は「あなたが会議を主催する立場ならぜひ読んで実践したほうがいい本です。召集される立場だと,会議に対する不満が増大するだけかもしれません。」と書いているので...ご覧にならない方がよろしいでしょう。それにしても情景描写が上手。眼前で繰り広げられているよう。つまり私の人生ではろくでもない会議が多かったという事か。

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2006/04/04

『99.9%は仮説』『否定学のすすめ』

『99.9%は仮説』


とくに目新しいことは書かれていない。印象的には『新しい科学論—事実は理論をたおせるか』の焼き直し(材料には新しいものも仕込まれているが)。

冒頭の「飛行機はなぜ飛ぶのか」。著者はあとがきで「漫才や落語の「つかみ」と同じで、わざと挑発的に書いたものです(腹が立った人がいたら、ごめんなさい!)」と記しているが、御期待通り不快に感じた。だから(大人は穏便に済ませるだろうが)こちらも挑発的に。

p.20の、翼のところでわかれた空気が同時に合流する必要はあるか? 計ってみたら同時ではない、だから...のところで「コイツ(=著者)はおかしい」と感じた。別に厳密に同時でなくても、同じ速度で流れた場合の到達時刻より早ければ、上を通った空気は速く流れているといえるではないか。実際測定してみれば速いという。ならこれ以上何が必要なのか?

という訳で、悪いけど以後すべてが胡散臭い。「世の中すべて仮説」は研究上の態度として有益なこともあるが、一歩間違えればズブズブの相対主義の泥濘だ。というか、すでに一知半解の哲学小僧の観念談義に足をとられているような感じがする。

わからないことはわからないと言えばよろしい。怪しげな「かもしれない」をアクロバチックに積み重ねれば「買ってはいけない」になってしまう。科学のものは科学へ、神のものは神へ。だから創造説の第五列を「科学上の大仮説」の仲間入りさせる必要はない。

エピソードの数々も、吹聴すれば街の物知りとして「へぇ」と感心してもらえるかもしれないが、眉唾な感じがしてならない(翻案され過ぎ)。

そろそろ誉めないといけないかな? でも世間の評判は好意的なようなので割愛。

こういう本が平積みで売られているって... 日本の未来は暗い、と言ってやろう。少なくとも精神的中学生には読ませたくない本。

 あー、そうそう、p.126の「専門化のまちがいだ」は「専門家」のまちがいだろう。一斑をもって全豹を知る。:-p

↓新書レベルのおすすめはこちら。

『否定学のすすめ』



返す刀、ではなくてお口直しに『否定学のすすめ』。出版社は社名を冠した雑誌の表紙を戦国武将にしていたことのあるプレジデント社だし、エジソンやアインシュタインを表紙に持ってくるセンスはアレだけれど、主張はまとも。

当節の軽佻な「ポジティブ」礼賛の中にあって珍しい書名である。否定文で考えると思考が限定されて創造性が発揮できなくなる、というのが通説だが、著者は「創造は否定から始まる」と意気軒昂。

曰く、科学上の発見には先行してパラダイムの転換(第一の発見)がある
曰く、知の創造の要件は「革新性」「原理的」「根源的異質性」「社会的価値」

二番目はちょっとわかりにくいが、著者は何度も繰り返している。そして注目したいのはその4番目。『99.9%は...』が下手すれば「眼前のこともすべて一炊の夢」と邯鄲の世界に簡単に陥りかねないのに対し、こちらは「創造は否定に始まる」とし、目指すは新しくて有用なものや考え方を作り出すことだと明快。

さて面白いのは、自然と一体化し現状肯定から始まる日本の思想構造からは創造は難しいという議論。欧米がノーベル賞受賞者輩出なのはキリスト教の云々だけど、日本人はキリスト教に帰依しなくても創造性を発揮できる、それが否定学だと。

著者は企業人で、その会社ではいくつもの新製品を出している。ウェブサイトには一見眉唾的なものもあるが、mupidを作っている会社といえば、分子生物学者ならば一目置こう。

ちなみにこのmupid、「アメリカに持って行って役に立ったもの」にも取り上げられているし、それはmixiのコミュでも好評。

というわけで、無責任な机上の水練でもないし、畳の上の空論でもない(ぉぃぉぃ)。

ただ、キリスト教は2000年前に成立し、5世紀にはローマ帝国の国教となっているのに、科学の時代を迎えるのはずっとずっと後。三大発明だって輸入物。キリスト教にドライビングフォースを求めるのはおかしくないか。

なにせ聖書にはこんな言葉すら書かれている。


かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。(コヘレトの言葉 / 1章 9節)

それで思い出すのが『科学と西洋の世界制覇』。海の彼方は奈落へ落ちる巨大な滝と信じ、産まれた土地で神を敬いながら死ぬのが一番と考えていた暗黒の中世ヨーロッパの住民が、突然、何かに憑かれたように外へ外へと進出をはじめる。その過程を追いながら、もし同じ技術が地理的または時間的に別の民族にもたらされたとして、同じように世界制覇に乗り出しただろうか? いやそうはなるまい、というのが主張の一つだったと記憶している。だいぶ前に読んだので自信はないが。

先に挙げた三大発明、すなわち火薬・羅針盤・活版印刷。いずれも中国で発明されたもので、考えようによっては「ルネサンスの三大改良」。ただ、本場では火薬はお祭りの爆竹、羅針盤は風水ってな具合に、呑気というか平和的に使っていたのが、禍々しい世界征服の道具になったのだから、これはコペルニクス的転回とも言えよう。

著者も、キリスト教徒でなければ創造性は発揮できないとは言ってないし、むしろ「創造に当たってヨーロッパ精神の視座は一切求めない」「自然とともにある日本人的精神の基盤の上に構築する」と書いているので本質的問題ではないのだが、気になったので付言しておく。

なお、文章は全般に読みにくい。「否定学」というネーミングも、クレタ島の嘘つき的な誤解を与えやすい。実際、ネット上には「こういうワンマンタイプの人は、自分だけは否定できませんからね」という、たぶん読んでない人の意見があった。

↓こちらもおすすめ

著者は作曲家メンデルスゾーンの一族らしい。 ボッティチェッリのヴィーナスの誕生のモデルはアメリゴ・ベスプッチの娘(※)とか、こちらの方が雑学的にも楽しい。

※:これは記憶違いか。モデルは後のシモネッタ・ヴェスプッチ。アメリゴの遠縁と結婚したとか。本を箱から取り出して当たってみなくては。

ひょっとするとブルーバックスの「絶対零度への挑戦」もこの人の著? これも面白かった。

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2006/01/22

『犬は「びよ」と鳴いていた』

師匠からもらった山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』を読んだ。以前、「○○という言葉は平安時代に××と読んでいた」というような話を聞き、録音もないのにどうしてそんなことがわかる?と疑問に思った。しかし末子相続のときと同じく納得するまで追究する事なく、権威に寄りかかってしまっていた(いちいち納得するまで調べるのは大変なのだ)。

今回の本はまさに、その疑問に対する答え。ああ、なるほど文献でもわかりますね。辞書(のようなもの)には読み方が書いてある。もっとも「わたしは」と書いて「watasi wa」と読むから油断がならない。だが時代は限定されるものの日葡辞書はローマ字書きだから発音もわかる(ポルトガル人の耳に聞こえた音だが)。さらに伝統芸能。狂言「柿山伏」では台本に犬の鳴きまねをする所に「びよ」と書いてあるという。先日TVでは、実際にびよびよとやっているシーンが映されていた(ただ私も中学の時「柿山伏」は見た筈だが「びよ」は記憶に残っていない)。言葉遊び(p.126)も有力な証拠に。

丹念に調べた様子がうかがえる。その一つとして、今昔物語集を分析して擬音・擬態語53種類を見いだし、過半数が現在にも残っていることを示されている。これは意外。ただ、図3(pp34-35)では長寿をほこっているABAB型でも消えてしまったものがある。語型が多様化した室町を対象にするともっと面白い結果がでるのでは無いだろうか。(全体的に統一性がちょっと、という印象)

一方で、1972年からの30年間に多くの入れ替わりがあったことも示されている。今昔にも書かれなかった短命の擬音擬態語があったことだろう(冒頭、日本語には英語の3倍以上、1200種類あると—近現代限定?—紹介されている)。

なお、こういう研究はテキストが電子化されれば楽にはなるが、目のつけどころが悪かったり方法が不適切だと「パソコンで検索ができるようになったのがそんなに得意かね」と罵られるはめに。後に続く方は気をつけましょう。

第二部は動物の声がどう表記されるかの変遷を追ったもの。なかなか面白いのだが妙な違和感が。たとえばネコが日本にいつからいたか、を『国史大辞典』などに求める。まぁ化石を探す訳にも行かないだろうけれど、なんか妙な感じ。ちなみに飼いならされていない動物は「野生」です。

モモンガの声の探索でそれは頂点に達する。こういうのは国語典ではなく百科典の類いを当たってほしい。最後にようやく「アニマルライフ」などが参照されて落ち着いたが。

「どう聞いて」「どう表現したか」の追究としては著者の方法で正しいとは思うが、私の感覚だと、まず当の動物の声を自分の耳で確認すべきだと思う。あるいは飼育している人に聞いてみるとか。猿の声の表記が変わった原因(p.17)に気づいたのは偶然?

日本人のための擬音語・擬態語辞典はwikitionary式で始められる事をお勧めしたい。

丸田センセ、悪いけど山元大輔先生の方を先に取り上げさせてもらうよ。

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2006/01/16

昆虫の図鑑、青臭い恋愛小説、心と遺伝子(+同性愛)を聴いてきた

ジュンク堂トークセッション「昆虫の図鑑、青臭い恋愛小説、心と遺伝子(+同性愛)」を聴いてきた。企画は台場にある日本科学未来館らしい。

前半は演者である山元大輔教授が何をしているのか、という行動遺伝学の紹介。これがうけて、終了後の質問も大半が同性愛の遺伝子に集中。少しは本の質問もしましょうよ。

遺伝決定論は忌み嫌う人がいるし、虫の話をしているのにヒトのことだと誤解して怒り出す人もいるから少し心配だったが、軽妙に、慎重にさばいていたのはお見事。

少女^h^h^h^hショウジョウバエの性行動変異の話はもっと聞きたかった。特にsatori変異の脳の話は、聞き違いとは思うが合点がいかない(脳が雌化しても雄を追いかけるようにはなるまい)。また性行動異常で不妊になる変異系統の維持は大変だろう(「禁欲主義は遺伝しない」)。

さて、本のお話。ご自宅と研究室の書棚の写真を示しながら読書遍歴の紹介。実にいろいろな本をお読みになる。しかし「本はためない」主義で、引っ越しの度に処分するというのに、高校以前の本も残されている。どういう淘汰圧に耐えたのか、は興味深い。これについて「いろいろな本を読まれているが、共通点は?」という質問があったけれど、一つの共通点を求めるのは無駄だろう。読み手の心の琴線にしても一本とは限らない。

むしろ読み手の精神状況によって読みたい本が変わるのではないか。実験がうまくいってアイデアが次々湧いてくるような時はあまり本は読まないだろうし、論文が受理されて一段落という時と、行き詰まってしまいグラントの心配がのしかかっている時とでは、読みたい本は自ずと異なると思う。その辺りが意識化できれば、逆に手にとる本によって意識を変える事ができたりして。

また読書は個人的な営みと思われているが、友人等の影響が意外に大きい事を再認識した。

最後にお薦めの本の紹介。
いち・たす・いち」(中田力)
ヒトゲノムとあなた」(柳澤桂子)
まだあったかな? 柳澤さんは何となく避けていたけれど、ああ誉めるのなら読んでみようか、という気になった。これも他人の影響の重要性の証左?

後は雑感。
・やはりコーヒーやお茶ではなく、ビールか焼酎を前に聞くのがふさわしいと思う。(欲を言えば日本酒と天ソバか何かの台抜き関東だと天抜き?で)
・書棚の写真はプロに撮らせなさい。せめて撮影術を伝授して(ストロボが反射して書名が見えない)。
・一日は24時間、一週間は7日と平等に与えられている筈なのに...時間にも人によって濃淡がある。
・恋愛小説を読んだり、女性誌に連載を持ったりすることで脳が刺激されているだろうな(参考「男性なら、無作為に女性誌を買ってみよう」)
・生物系の人はSF嫌い、という事はないと思う。たとえば遺伝研にSF好きの人がいるのを知っている。
・研究室の机に載っているのはG4cubeだろうか。液晶モニタの前に小型ノートPC(Let's note?)がタンデムになっているのがカコイイ。
・館内放送で女性が「昆虫の図鑑、青臭い恋愛小説、心と遺伝子、同性愛」と繰り返していたのはなんとも。

終了後は即席のサイン会。並べて販売されていたうちから「男と女はなぜ惹きあうのか—「フェロモン」学入門」(+「ミーサイマガジン9」)を購入。先生、私の事は覚えていてくださいました。

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2006/01/09

書籍が二冊

旧師から小包が届いた。

開けてみると本が二冊。

山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社)
丸田敬『工場はなぜ燃えたか?』(エネルギーフォーラム)


山口先生は師匠が現在大学院生として師事している方。丸田センセは***

中国の蝉は何と鳴く?言葉の先生、北京へゆく」が面白かったので、とりあえずは山口大先生の本から読み始める。


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2006/01/03

岸信介はA級戦犯 ではなかった

お屠蘇で緩んだ頭を引き締めるため少し堅めの雑誌を手にとった。月刊「論座」(2月号)。

巻頭記事が「渡辺恒雄氏が朝日と「共闘」宣言」と刺激的なタイトル。これなら読めそうだ。

読売新聞は昨年6月の社説で、「A級戦犯が合祀されている靖国神社に(首相は)参拝すべきでない」と主張した(p.28)...知らなかった。(少しネットを調べると梯子を外されたといわんばかりの発言が発見できた)

岸信介はA級戦犯ではない(p.35)...エッと思って調べると、確かに戦犯容疑者として拘束はされているが、訴追はされていない。しかしニキサンスケと呼ばれた男に責任がない筈はないし、日本人として戦争責任を追及すれば東京裁判に訴追されていないからといって見逃すわけにはいかないというのだから、あまり重要視する事では無いだろう。ただ不用心に「岸は」とやれば突かれるだろう。用心用心

吉田茂は自衛隊を「戦力なき軍隊」と言っていた(p.36)...これまたエッ。そっか、憲法九条二項が否定するのは「戦力」と「国の交戦権」だから、戦力なき軍隊なら問題ない(ワケネーダロ)。某自衛隊基地のウェブサイトがair base(空軍基地)と書いているのは勇み足でもなんでもなく、政府の公式見解に沿っての事だったのね。

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2005/08/29

購入書籍

リスク理論入門—どれだけ安全なら充分なのか

瀬尾佳美(著) 中央経済社 2005/4/15 A5判 186頁 本体価格 2200 円(税込価格 2310 円)

「モラルハザードの本来の意味はなんだっけ?」とググッたところ、著者のサイトにスッキリとした解説(「リンク禁止」と書かれていたのでインターネットアーカイブから :-p)。

最後に「リスクとかモラルハザードなどを解説するための本を書きました。よろしく」とあったので書店で探して立ち読みして購入。

中央経済の本とは思えないような(失礼)おしゃれなデザインに仕上がっていますとある通り、落ち着いた装丁。同社の他の本と並べてみるとよくわかる。

さて読んでみると、これが明快。『環境リスク学』よりわかりやすい。気に入った一節は(本題からは離れるが)手段が正しければ目的まで正しいかのような議論は間違っている(p.135)。

筆者は読者に「限られた資源を配分して対策をとる政策決定者として考える」ことを要求する。これは正しい。嫌なら主権在民でない国へ行く他あるまい。しかし難しい問題を次から次へと。

「何もしないリスク」(p.40)では、最初に抽象的に問題を提示する。よほどのひねくれ者でない限り、選択肢は一つに絞られる。ところが、それにある現実を当てはめようとすると、途端にためらいが。総論賛成・各論反対に陥ってしまう。

世の中、大根やスイカのようにスパッと割り切れるものではないようだ。

グロテスクな教養


高田 里恵子(著) 筑摩書房 2005/6/10,2005/6/15 新書: 253 p 本体価格740円

教養とは「男の子いかにいくべきか」である
教養の対語は業績
業績の陰に編集者あり

といった指摘が目を引いた(但し三番目は人文系の話)。

なお冒頭、「あまり教養があるようには見えない武蔵」(p.16)とあるが、吉川英治の「宮本武蔵」はもとより映画すら見ていらっしゃらないようだ。たしかに最初の武蔵(たけぞう)は腕っ節が強いだけの暴れん坊だが、城に監禁されて万巻の書を読み教養を身につけたことになっている(私も中村錦之助主演の映画しか知らないが)。いつの間にか画も書くようになっていて、幕府への仕官がならなかった際、遺された画を見て「虎を野に放った...」と唸らせたのは有名なシーンと思うのだが。

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2005/05/07

購入書籍

ブックオフで買い物。皇位...はGT会の指定図書。相場を...は「ついでだから何か読み物を、と店内物色して。

『皇位継承』

高橋 紘 (著), 所 功 (著)
文芸春秋 文春新書
1998/10/20
1998/12/15 3rd
690円+税(ブックオフで105円)
新書: 213 p ; サイズ(cm): 18
ISBN: 416660001X ; (1998/10)
http://www.bunshun.co.jp/book_db/html/6/60/00/416660001X.shtml
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/416660001X/qid=1115444076/sr=8-8/ref=sr_8_xs_ap_i8_xgl14/249-9782107-0749127

『相場を科学する—なぜ下がり、いつ上がるのか—』

倉都康行 著
日本経済新聞社 日経ビジネス文庫
2003/02/01
600円+税(ブックオフにて\350)
ISBN: 4532191661 ; (2003/02)
文庫: 209 p ; サイズ(cm): 15 x 11
http://www.nikkei-bookdirect.com/bookdirect/item.php?did=19166
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532191661/qid=1115455320/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-9782107-0749127

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購入書籍

6日に購入し、どちらも即日読了。

『さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学』

山田 真哉 (著)
光文社 光文社新書
2005/02/05
2005/04/05 6th
700円+税
ISBN: 4334032915
(2005/02/16)
新書: 216 p ; サイズ(cm): 18
光文社の解説
amazonの解説

評判の会計学入門書。

エピソード1 さおだけ屋はなぜ潰れないのか?——利益の出し方——
 言われてみれば不思議な商売だ。あれで儲かるのだろうか。でも、言われる前に気づけよ>自分

 「節約は絶対額で考える」「チリが積もっても山にはならない」...至言です。節約疲れはヤケッパチ消費の母ですし。

エピソード2 ベッドタウンに高級フランス料理店の謎——連結経営——
 連結経営という事は、税金逃れのための赤字会社?...外れ。

 「会計士としてこのお店の形態は無視できなかった」とン万円のディナータイムに乗り込んだ勇気に感心。そう、「現場を訪ねる」は調査研究の基本です。もっとも軽率にそれを繰り返すと痛い目にもあいますが。

 得意分野で予算を決めて投資をすればローリスクハイリターンが狙えるとな。しかし人は得意分野で躓くもの。ああ、だから予算上限を設けてリスクを抑える訳ね。

エビソード3 在庫だらけの自然食品店 ——在庫と資金繰り——
 会計版「捨てる技術」は導入を試みました。

エピソード4 完売したのに怒られた!——機会損失と決算書——
 機会損失は0ではなくてマイナスと考える...メモメモ

 数字を入れると説得力が増す...メモメモ

エピソード5 トップを逃して満足するギャンブラー——回転率——
 雀荘の店員というところがみそでした。

 「人脈は回転率で考える」...言わんとする事はわからないでもないが、表現が変ではないだろうか。それに「100人と薄っぺらい関係を築くのではなく、100人の人脈を持つひとりの人物と深くしっかりとした関係を」とあるけれど、それができれば苦労はない。100人に名刺を撒く人は、「その中には一人くらい関係を深めるべき人がいるだろう」と期待しての事。それぞれ100人の人脈を持つ100人と深い関係を築くのが最強ではないか。というのも「すでに知っている人物と何度も何度も関係を重ねて」みたところで、無から有は生じない。世間の狭い小人物と深い仲になったところで、ろくな事があるとも思えない。下手すりゃ一緒にマルチ商法にはめられる。このパターンに比べたら数打ちゃあたるの名刺配りもマシ。ん? できそこないばかり100人と付き合うのが最悪か。類は友を呼ぶ or2

エピソード6 あの人はなぜいつもワリカンの支払い役になるのか?——キャッシュ・フロー——
 1人あたりの支払いが小さくて人数が多いと旨味が増しますね。

エピソード7 数字に弱くても「数字のセンス」があればいい
 数字のセンスのない事を数字に弱いというのではないでしょうか。また「数」と「算数(計算力)」は別物だと思います。

 会社規模を大きく見せようと、バイトの人数まで従業員数に含めた社長の話。それと同じ経験あります。(汗 募集広告に言われるままに誇大な数字を載せていたら、30人を超える応募者の内2人だけ突っ込んできました。その内の1人がトップの成績だったので採用しましたが...1年後にこっちが業績悪化に伴うリストラで辞めてました。ま、社内で配偶者を見つけたのだから帳消しにしてね。「今では不良債権です」なんて言わないでね。

 閑話休題。実質「2%割引」を「50人に1人は無料!」と言い替えたのは知恵者ですな。策士かもしれないが。50人に1人は半額!でも通用しそうな(1%引きというしょぼい割引だけど)。

 全体的感想を一言で表現すると「もっと早くに読みたかった」。

『世間のウソ』


日垣 隆 (著)
新潮社 新潮新書 (099)
2005/01/20
2005/04/20 8th
680円+税
ISBN: 4106100991
(2005/01)
新書: 206 p ; サイズ(cm): 18

新潮社の解説
Amazonの解説

久しぶりに読んだ日垣さん。切れ味は相変わらず鋭いものの...どうも脱線気味。文章に棘というか毒があるし、なんか嫌な事でもあったの?という感じ。見出しや広告も、穏健妥当な本文に比べて刺激が強すぎる。パラパラと見た、あるいはネットや週刊誌での紹介を見た気分で動く世間に悪影響を及ぼさなければ良いけれど。

裁判員の守秘義務は確かにひどい話。どうですか、裁判員を務めて内情を暴露して起訴されるってのは。もちろん裁判員に対して「私を有罪にすれば、その評議の守秘義務を一生負う事になるぞ!」ってアピールする。

かつて刑事訴訟法の人権擁護規定骨抜きを図って弁護人抜き裁判法なんかを出そうとした政党も、元総裁をはじめ身内の多数が起訴されるようになったら知らんぷりですね。我が事となれば判断が変わる好例。

馬鹿者と闘う時は、自分も馬鹿者にならぬようご自愛ください。

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2004/11/28

購入書籍

『朗読者』
ベルンハルト・シュリンク 著
松永美穂 訳
新潮文庫 シ-33-1
2003/6/1
2004/6/5 7刷

ビッグイシュー日本版に紹介されていて興味を持ち購入。電車の中では広げにくい描写もあってまだ76ページ。

冒頭、「ぼく」は黄疸つまり肝臓病にかかり、それが物語の発端なのだが、J.K.ジェローム「ボートの三人男」のエピソードを思い出してしまった。そっちの「ぼく」は医学書で肝臓病はだるくて仕事ができなくなるという記述を読み、自分は肝臓病だったのだと懐古する。だが当時の大人たちはそんな事に気づきもせず「この怠け者め」とげんこつを喰らわせた。「こういう素朴な民間療法は効果がある」というのがオチ。丸谷才一訳で中公文庫に収められている

ちなみにビッグイシュー11月15日発行の17号の表4の次号予告は「17号 11月15日発売」。あちゃー、やっちゃいましたね。

『言葉の常備薬』
呉智英
双葉社
2004/10/30

11月14日の朝日新聞書評で宮崎哲弥が紹介。「集沫辞解」から注目している呉さんなのでさっそく暇つぶしに購入。意に反して一緒に買った三冊の中で最初に読了。(アレ、雑誌「終末から」に載せていたのは集沫字解だったかな?)


「○藤」の筆頭はやはり「阿藤」でしょう。八海事件を知らなきゃ出てこないかな? いや、ググれば0.52秒で24,600 件ヒットしました。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575297364/250-1633297-2384259

ああ、私もアフィリエイトやろうかな。

『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』
黒川伊保子
新潮新書078
2004/7/20
2004/11/20 4刷

なんとなく買ってしまった。読み終えたら師匠へ譲る予定。

著者は奈良女の物理学科を出て、いまは株式会社感性リサーチの代表取締役とか。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106100789/250-9774110-6847450

『野中広務 差別と権力』
魚住 昭
講談社
2004/6/30
2004/8/4 5刷

これも朝日の書評から購入リストに載せたもの(他には「環境リスク学などが)。重そうだなぁ。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062123444/249-0478960-3225941

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