2008/03/23

パーティントン夫人のモップ

生化学者シャルガフが著した『ヘラクレイトスの火』には、いろいろと面白い話が載っているが、中でも「パーティントン夫人のモップ」は印象深い。

シドニー・スミス師の政治的演説として引用されているので、ここに孫引きする。

私は無礼を働く意志はありませんが、改革の進行を食いとめようとする貴族たちの努力を見ていますと、どうしても、あのシドマスを襲った大暴風雨と、その際に卓越したパーティントン夫人のとった行動とを想い出さずにはいられません。一八二四年の冬のこと、シドマスは大洪水に見舞われました。潮位は信じ難い高さにまで上り、波は家々目がけて押し寄せました。あらゆるものが破壊に脅えていました。このとてつもなく怖しい嵐の真唯中で、海岸近くに住んでいたパーティントン夫人が、玄関のところに立ってモップと木型とを振りかざし、そのモップを使って海水を押し出し、たゆまず大西洋を押し戻しているのが見えました。大西洋はいきり立ち、パーティントン夫人の心も振るい立っていました。しかし、この角つき合いが対等なものでなかったことは言うまでもありますまい。大西洋はパーティントン夫人を打ち負かしました。彼女は台所の流し水の扱いや水溜まりの水の扱いには卓越していました。しかし彼女は嵐をひねくり廻すべきではなかったのです。皆さん、騒ぎ立てることはありません。静かに、そして堅実に行きましょう。皆さんはパーティントン夫人を打ち負すでしょうから。

(『ヘラクレイトスの火』 村上陽一郎 訳 岩波書店 1990)

努力は大切だ。人任せにしないで自分でやる姿勢もまた大切。自分より適任者がいる、などといっていると怠け癖がついてしまうというのにも一面の真理はある。

だが、道学者先生があげる努力の例は成功した人ばかり。それはあたかも航海の安全が御利益の神殿に、無事に帰還できた船乗りのお礼奉納品が山積みされているのと同じ(祈願の甲斐なく遭難した連中はカウントされない)。

「病は気から」くるし、O.ヘンリーの「最後の一葉」は真実を語っているが、同時に「病気は気力で治す」は、風邪薬のCMなら笑い話で済むものの、「誤った信念の代償を命で支払う」ことにもつながりかねない。

高潮にモップ一本で立ち向かう! 東洋には「愚公山を移す」という故事があるが「蟷螂の斧」というのもある。昆虫の世界では最強のカマキリも、人間に立ち向かうのは無謀の極み。それなのに、なぜ無駄な努力が賞賛されるのだろうか。愚公の勝利は天帝の介入と言うフィクションが前提なのに。上手く行ったら成果はもらう、失敗したら損害は負ってくれ、という魂胆だろうか。

ところであらためて『ヘラクレイトスの火』の続きを読むと、シャルガフ自身はパーティントン夫人を嘲ってはいない。「私は敗け犬の側につくのが好きなのだ。」 あれ? 20年前にもここは読んだ筈なのに、敗北に向かって突き進むパーティントン夫人の、勇ましくも滑稽な印象しか残ってないのはどうしたことか。

「蟷螂の斧」も、韓詩外伝によれば、斉の荘公は「人であれば天下の勇者」と車を避けてくれたとか。まぁ、相手が本物の虫けらだったから敢えて踏み潰すような大人気ない真似はしなかったのでしょうが。

器の大きな人なら、多少の無茶は評価してしてくれる可能性もありますが...大西洋相手に喧嘩を売るのはやめておきましょう。

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2007/09/25

LSDで幻覚を見ているアリが作った蟻塚

『ニールセンのアラートボックス』を読んだ。ユーザビリティーの研究者であるニールセンのコラム「Alertbox:Current Issues in Web Usability」の邦訳。

コラムの邦訳はネット上で読める。本書に収められていない最新のものまで無料で読めるのだから、ネットで読むのがお得だが、書籍には書籍の良さがある。第一に精選されている。第二に通勤電車の中で立ったまま読める。

とはいえ、もともとハイパーテキストで書かれたものを紙に移すと隔靴掻痒。本の欄外にURLを書かれても打ち込む気力は出ません。

また、信じがたいことだが、「プルダウンメニュー」と「ドロップダウンメニュー」という、同じものを指す異なる用語が混在している。実はドロップダウンメニューという言い方を知らなくて、疑問を抱えながら読んだのだ。内容からするとプルダウンメニューのようなもの?と思って調べるとその通り。その時は混在しているとは気づかず、ハイパーテキストなら用語解説も簡単なのに、と思った次第。

訳語の不統一はウェブにおいても見られる。どうやら訳者による差らしいのだが、ひょっとすると原文から異なっているかもしれない。原文に当たれば良いのか...

といった瑕疵はあるものの、ウェブを制作する人は(発注する人も)一度は眼を通しておくべきだ。

私が最も感銘を受け、そして痛くなるほど膝を叩きそうになったのは次の一節。

大部分においてウェブはLSDで幻覚を見ている蟻によって作られた蟻塚のようなものだ。多くのサイトが全体像の中では収まりが悪く、期待される標準から外れているため使いにくいのだ。
(強調も原文)

奇抜な独創は大概が空疎なもの。六角形の本を出して売れるのは宮武外骨くらいと心得るべきだ。才能があるものは五七五の定型でも独創性を発揮する。才能のないものが破調を気取っても駄作にすらならない。

考えてもみよう。自動車のアクセルとブレーキが車種ごとに左右違っていたらどうなるか。携帯電話のキーをテンキー式にしたり5×2列にしたりして受け入れられるかどうか。ユーザビリティーとはそれ自身が合理的であるとともに、事実上の標準から逸脱していないことも大切、と理解した。だから私はQWERTY配列で文字を打っている。

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2007/07/26

『下流社会マーケティング』

なんともドギツイ書名である。一世を風靡した『下流社会』の著者による新刊(といっても2006年)。

貧困ビジネスの本かと思ったら、さにあらず。まさにマーケティングの本。データを読み解く気力がなかったのでパラパラとめくっただけだが、なるほどこういう考え方があるのか、と感心。アマゾンの書評では腐している人が多いけれど、物知りな人達は自分で本をお書きになるのがよろしい。

それで、もしやと思って、本家『下流社会』を手にとってみると、これも書名から想像していた内容とは違って、やはりマーケティングの本らしい。いやはや、ひょっとして有名な割には読んでない人が多いのではないだろうか。

その初めを立ち読みして、いまの自分が下流化している現実に気づいて慄然。いかんいかん。

もっとも、この乗せられやすさの方が問題かもしれない。本書にしても、帯の「あなたのマーケティング力チェッック」で「正解が5問以下の人は要注意」に該当して購入したのが真相だから。


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名を取って実を捨てる

先日、私的な勉強会で、某放送局の記者を話題提供者にして報道における実名・匿名問題を議論した。

テキストは『報道被害』。著者は弁護士で、誤報やメディアスクラムなどの被害者の側に立って来た人。で、当然、(私人の)犯罪報道の匿名化を主張。

一方、記者さんは実名報道の擁護者。で、話を聞いてみると確かにメリットはある。納豆騒動の某番組に限らず、モザイクと音声変換を使えばいくらでも架空の話が作れてしまうと言う。名前を出して顔を映すのが報道の真実性の担保である、と(私はそう理解した)。

ただ、なぜか話は少年犯罪の匿名問題にそれて行き、いつ実名報道に踏み切るか、という興味深い話を聞いた。少年法が少年の氏名などの報道を禁止するのは更正の可能性を保証するため。それゆえ更正の可能性が断たれた場合、被疑者死亡とか死刑確定とか、は堂々と実名報道できると手ぐすねを引いているらしい(社によって方針は異なる)。

またかつて凶悪事件を起こしながら、少年故に匿名扱いだった男が成人後にまた事件を起こした例。もちろんネットでは過去の事件と実名(と称するもの)バンバンだったが、マスコミは対応に苦慮したらしい。二度目も同じ凶悪事件なら躊躇はしなかったが、微妙な粗暴犯だったとか。さて少年時代の事件に触れて良いものか。結局、その社では今の事件は実名報道する代わりに過去の事件には触れなかったそうだ。うーん、ニュースとしては「かつての少年凶悪犯が、性懲りもなく」の方が報道する価値があるのだから、匿名にして少年時代の事件に触れた方が良かったのではないだろうか。「そんな悪い奴をなぜ匿名にする」という感情論に押されたのだろうが。これを名を取って実を捨てると言う。

あと、実名原則と言いながら、実際には微罪は匿名化に向かっている。問題は被疑者が公人、あるいは公人に近い場合。事件の性格や規模、被疑者が私人かどうかを勘案し、偉いさんが毎回合議で決めているらしい。でも、そんなものは「アキレスはカメに追いつけない」。「これは実名、これは匿名」と規準を決めたところで、その中間は必ずあるのだ。傍目には甚だしく労多くして実りの少ない仕事に思えた。


この本の80ページは注目に値します。優秀な日本の裁判所は、事件の起きる一か月前に犯人に死刑判決を出しています。どうしたの、岩波書店。

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2007/06/23

伝法な、とは

先日、オフラインミーティングがあった。都電を借りきって早稲田から三ノ輪まで行き、そのあと浅草へ。

伝法院通りを歩いている時に「伝法な」という形容があることを思い出した。「論座」に連載されていた山本一力の「欅しぐれ」で見て、文脈から「ぞんざいな」くらいの意味だろうと理解して、調べないままにしていた言葉。

同行者に振ってみたが、残念ながら知らなかった。

数日経ってそれを思い出し、おもむろに辞書を引いてみた。

「1.粗暴で無法な振る舞いをすること。また、その人や、そのさま。」
これは予想通り。意外だったのは
「3.無料見物・無銭飲食をすること。また、その者。」

その語源は「江戸時代、浅草寺伝法院の寺男が、寺の威光をかさにきて、境内の見世物小屋や飲食店で無法な振る舞いをしたところからいう。」とのこと。

浅草の伝法院に関係のある表現だった。

ちなみに先の『欅しぐれ』はいろいろ蘊蓄があって楽しめた。著者はなかなかの苦労人らしい。後にコラムで、編集者から作家デビュー直後に「調べたことの九割五分は捨てて」と忠告されたことを書いている。95%捨ててもあれなのだから、いったいどれだけ調べたのだろう。

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2006/12/10

現代の貧困(論座1月号)

月刊「論座」1月号の特集は「現代の貧困」。

特集の前の「潮流07」にも「インターンシップという美名に潜む使い捨て労働者」という恐い記事がある。日本人も中国からの研修生のように使役されるのだろうか。

さて内容は、さきの『ワーキングプア』を裏付ける実態。そしておぞましい「貧困ビジネス」の繁盛ぶりも。

「on the edge 〜崖っぷちに立つ若年フリーター」を読むと、ちなみにオンザエッジと読むとライブドアの旧社名というのも皮肉な気がするが、オンジエッジであろう、追い詰められて人間としての尊厳を忘れさせられた青年が登場する。

アルバイト生活なのに「ちょっとした余裕」が欲しくて消費者金融(高利貸し)から借金し、数年後に200万円に膨れ上がらせ、夜逃げをしてホームレスなったなんて読むと呆れ返るばかりだが、よく考えれば義務教育は彼に「人類最大の発明」を教えたのだろうか? 

性格的にいくぶん問題はありそうだが、この程度の性格でもっと能力が低くても、今までは十分社会生活を営めたし、今でもちゃんと納まっている人は多くいるだろう。彼が脱落したのは本人の問題なのか、それとも社会に余裕がなくなった結果なのだろうか。自己責任論者はカナリアがもがき苦しむのを見て面白がっているのではないだろうか。

次に登場するフリーター 氏は、貧困の固定化を呪い、社会の流動化の手段として戦争を渇望する(かのよう書く)。そんなに戦争がしたければ自衛隊でも外人部隊でもアルカイダにでも行け、で終わらせられれば話は楽だが、幸か不幸か「論座」もそんな釣餌をぶら下げるまで落ちぶれてはいなかった。

できることなら戦争なんて起きない方が良いと断った上で、こう結ぶ。


しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することを躊躇しないだろう。

あれ、どこかで読んだような気がするフレーズだな。と思って記憶をたどると見つかった。鈴木貴博のコラム「ビジネスを考える目」だ。

そんな世代間の闘争が、残念ながらこれから先、再び、そして三度(みたび)起きてくる。我々の世代が、若者の世代に雇用機会をはじめとする様々なチャンスを平等に与えられなければ、きっとそうなることだろう。

そして、なんとかそれらの若いパワーを権力で押さえ込まずに、解決の道を見つけてあげられないと、我々の世代も含めて未来は暗いものになるだろう。

なぜそう思うのか? もし三度、若い世代の闘争を権威でつぶしてしまったとすると、四度目に現れる若き挑戦者はおそらく武力と集団を武器に現れる。そしてそれは先進国としての終わりを意味するであろうからだ。

フリーターが言えば誤読されるけれど、コンサルタントが言えばエスタブリッシュメントも耳を傾ける(なにしろ日経のプレミアムサイトに載ったコラムです)。そのことがまた彼を苛立たせるのだろうなぁ。

ご本尊のblogについたトラックバックによると、論座を読まない批判もあるという。お望みのB vs. C の闘いも同様に仁義なきものになることは織り込み済みだろうか。

また別のTBは突き動かす名状しがたい諸々にシンクロ出来ないと書いていて、私にはこの方が得心がいく。一言で済ませるなら、彼は蜃気楼に向かって石を投げているのだ。

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『ワーキングプア』

働いても生活保護水準以下の収入しか得られないのがワーキングプア(働く貧困層)。これで居住地の制限があったら農奴と同じ。日本におけるワーキングプアの深刻な実情が報告されている。

ただ、巻頭に石川琢木の歌を引いているのには違和感を覚える。確かに彼は貧窮の中に没したけれど、それはたぶんに本人の浪費が原因であって、ワーキングプアと同列には論じられないだろう。東京朝日新聞時代の給与(25円+夜勤手当で実質30円)は「悪くない」よりは「良い」部類であったそうだし。

月に三十円もあれば、田舎(ゐなか)にては、
楽に暮せると——
 ひょっと思へる。
悲しき玩具

もっとも実際のワーキングプアの中にも自堕落、は言い過ぎとしても本人の問題が大きく思える例がある。その点、その子供達が人生のスタート地点からハンデを負い、いわば貧困を相続していることには100%同情するし、危惧される。階層の固定化につながり、社会の闊達さが失われかねないからだ。

なお本書を購入しようと思う人は、下記のお茶の水博士のブログからどうぞ。
http://big-ogawa.seesaa.net/

(なぜかアクセスできない...マイミクからも消えているし...胸騒ぎ)

お茶の水博士(仮名)はビッグイシューの元販売人、つまり元ホームレス。ワーキングプアどころか仕事も、住むところさえ失っていた。本書に収められた経験談によれば、それはあっと言う間のことらしい。上に書いたことと矛盾するようだが、普通の暮らし、むしろ羽振りの良かった人の方が、いったん歯車がずれると立ち直りが難しく、事態を悪化させてしまうのも恐ろしいところだ。

かくいう私もこの2月に整理解雇され、ながく失業状態にあったので他人事ではない。不安定で低賃金でも職があるとないとでは大違いのように思えるが、新たな職探しが難しくなればそれ以上の改善は望めないわけで、「なんでもいいから」に追い込まれなくて本当に良かったと思う。(勤めだして振り返ると、なにしろ今度は面接する側に引っぱりだされるので否応無しに思い出されるのだが、自分はずいぶんと認識が甘かったと冷や汗が出る思い。)

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2006/11/27

岡山訪問

所用で岡山に行ってきた(10/11,12)。

新幹線「のぞみ」に乗るのは初めてではないが、昼間は初めてというのを失念していた。油断して窓外の流れる景色を見ていたら気分が悪くなってしまった。帰りは通路側を取ることにしよう(念願かなって、帰路は新大阪まで通路側、それから同じ列車でB席(三列中央)だった)。

東京は雨だったが、岡山は曇り。翌日には快晴で、長傘は見事にお荷物。

雨の上がった岡山駅前

岡山市民会館で遠藤邦基と田中克彦の講演を聴く。偉い人が読み間違いをすると、おべんちゃらがそれを正しいものとして広め後世に残ってしまう話を聞くと、昔も今も人間って変わらないものだと改めて思う。古典を読むには批判的視点が大切だ。いま「聖書じゃないんだから」と書こうとしたが、実は聖書こそ筆写ミスの宝庫らしい。

閑話休題。田中克彦は名前くらいしか知らなかったが、現物は予想とだいぶ違った。日本の大学が「Brotstudium(飯の種になる学問)」ばかりに走って崩壊する、と大層悲観的。それもこれも勉強嫌いが政治家になって、その政治家が大学教育をいじるから、と首大学を作った障子破り都知事閣下などを引き合いに弾劾するが、実務を進める官僚は勉強一筋...あ、文部官僚は別格か(某官僚から個人的に聞いた話なので具体的には書けないが、旧文部省の感覚って、ほかの霞ヶ関の人間から見ても異次元世界のものらしい)。

教育の「恐ろしさ」は、かつて神州は不滅でB29は竹槍で落とせると信じた軍国少年(1934年生)なので骨身に染みているのだろう。

過日、田中の訳した『ノモンハンの戦い』(岩波文庫)を読んだ(不覚にも国境を巡る小競り合い程度にしか認識していなかったが、大規模な戦闘だったとしって驚く)。従軍作家の見聞記である第二部は興味深い。もし日本軍があの大敗をしっかり総括していれば、第二次世界大戦の悲劇は避けられたかもしれない。ま、そうだと今でも徴兵制や特高が残っていたかもしれないので、歴史を変えてやろうとは思わないが(歴史に「もし」はないとは言え、大日本帝国が賢く欧米との対立を避けていたら、核兵器は開発されなかったかも...うーん複雑な気持ち)。

講演内容とは関係のないことだが、市民会館の椅子の傷み具合から地方経済の疲弊が見えたような気がする。街に少しはお金を落としてくるべきだったな。

市民会館の傷んだ椅子

翌日は岡山大学へ。岡山大学と言えば糟谷孝幸(1969年、機動隊員に撲殺される)という人もいるだろうが、私は『思想としての風俗』で紹介されていた、関西全共闘最後の砦を見たかった。「パルチザン前史」にも描かれていた、時計台を占拠した学生が圧倒的な警察力の前に敢えなく落城する刹那、最後に歌ったのが「仰げば尊し」だった−−今こそ別れめ、いざさらば−−という伝説の大学。

だが、大学にある時計台は図書館のもので、どうも様子が違う。

岡山大学付属図書館の時計塔


帰ってきてから調べてみると、どうやら件の時計台は大阪市立大学だったらしい。あれぇ、記憶って当てにならない。

もっとも調べているうちに、「パルチザン前史」での歌声は、現地の録音はヘリコプターの轟音ばかりで、人の耳には聞こえた学生の歌声が入っていないため、別に録音した歌声を重ねあわせたものという文章も発見。これは映画を見た時に、ヘリコプターの音に比べて歌声が不自然に感じられたことに符合する。え、それこそ作られた記憶だろって? うむむ


岡山駅のホームで見かけた四国学院大学の学生募集看板。私がこの大学について知っていることはただ一つ、傑作アホ映画サマータイムマシンブルースロケ地だったということ。おーおー、あの時計塔も描かれているね。

四国学院大学の広告

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2006/10/22

『バカにみえる日本語』

賢い人の目には映らない不思議な日本語、ではなくて、使うとバカだと思われる日本語。主に漢字の誤表記だが、慣用句の間違いもある。

収載例を列記した書籍の帯


もともとは誤字等の館というサイトで収集されていたもの。

収録数はウェブサイトの方が多いので、漫画を加えるなどの工夫がされている。しかし最初の漫画、4コマ目はやはり「落ち込んでる〜」でなければ(それも平がな表記で)。なんと言っても漫画界では最大級の知名度を持つ誤植だそうだから。

著者は冷静な分析を加えていて、決して大衆を高みから嘲笑している訳ではないのだが、人を笑わば穴二つなのだろうか、とんでもない間違いをしでかしている(上に載せた帯参照)。帯の差し替えは容易だから、これってプレミア付きになる?

それにしても誤植(誤記・誤変換)の指摘は恐ろしい。「誤植の話」と銘打った力作でさえ「パソコンが普及したおかげで,同音意義の変換ミスは増えた」などとやってしまうのだ。同音異義ですね。

「同音意義」と誤っている

話戻って、著者はおかしな表記を見つけると、その蔓延度をグーグル検索で調べている。私は一歩進めてサイトを限定し、つまり企業のサイト、学校のサイト、政府機関のサイトではどうかを調べてみた。方法はグーグルでsite:co.jp、site:ac.jp、site:go.jpとドメイン指定をかける。

役所関係でOCRに起因する(と考えられる)魯魚の誤りが多発していることは容易に想像できたので、典型的な同音異義語である「偏在(遍在の誤り)」を調べると..たとえば「どこにでも偏在する site:go.jp」の結果はこう。orz e-japan もうダメポ。あるいは「ユキビタス site:go.jp」だと56件。(ユーザの勘違いを吸収するために誤ったキーワード検索でもヒットするようにしている例もあると思われるが、「例外に漏れず」とか「精神誠意」になると言い訳にならない。)

こういう誤りは「画竜点睛を欠く」どころか、「一斑を見て全豹を卜す」で全体の信憑性さえ疑わしく思われかねない。サイト開設者は誤用ご用心あれ。

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2006/10/16

『わかったつもり』(光文社新書)

『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』 西林 克彦 (著) (光文社新書)

先に取り上げた『なぜ伝わらない、その日本語』は筆者の側を問題にした。本書は読者を問題にしている。

で、言わんとするところは…とまとめてしまうと「それは君の“わかったつもり”ではないのかね」と突っ込まれるので深読みを披露しよう。

本書には2つの前提がある。
1)文章には通り一遍では読み取れない深い意味がある
2)それは読み取る価値がある

だが、いつもいつもそれが成り立つとは限らない。著者も気づいてはいるようで、p.177に「残念なことに、書き手の責任としかいいようのない場合も存在します」とある。これは「わかったつもり」が壊れて表出した矛盾や無関連が克服され、「よりよくわかる」状態に進む点について述べられたもので、1)に該当する。

2)の問題にはお気づきではないようだ。しっかりと読解した結果わかったことが「実はどーでも良いこと」だったらがっかりだ。時間の無駄。文学研究の皮肉な定義に、「大昔の、今ではほとんどの人が知らない大したことのない作家が、少し後の、これまた忘れ去られた同時代においてさえどうでも良い作家に与えた影響を調べること」というのがある。それがまったく無意味であるとは言わないが、たいていの場合、そんな事がわかったところで「それで?」となる。少なくとも工学部の人ならそう言っても不思議ではない。

だいたい深読みも度を過ぎればインテル・ペンティアムCPUアーキテクチャ・レファレンスマニュアルから脱構築文芸批評的手法を用いてケネディがゲイであったことを論証することだってできちゃうらしい。それはそれで面白いとも言えるけれど。

なお、上記の例が載っている『新教養主義宣言』(山形浩生)にはまた、「手っ取り早い結論は諸悪の根源である」という素敵な論考が載っている。

『なぜ伝わらない、その日本語』は、「読み手に苦労をさせるな」が主張だ。これは大体の場合において正しい。伝えたければ伝わるように書けと言うこと。ただ、書き手は読み手を選ぶ権利もある。ろくでなしが偉ぶってする「読者の選別」なんざ無視しても構わないが、秘密の鍵を手にすることで役に立ったり楽しかったりすることはあるから、あまり世の中を甘く見ない方が良い。

まぁ、ネットに限れば書き手は稚拙、読み手の目は節穴で、気違い帽子屋のお茶会もかくやというのが悲しい現実か。

本書は誤読の陥穽をいくつか例示している。これを逆用すれば、誤解され難い文章、わかりやすい文章が書ける。そしてまた相手を騙す文章もまたやすやすと書けてしまうのだ。人は自分の読みたいものを読み取る。


蛇足。第四章で挙げられている著者の「ふしぎに思う」の定義には違和感がある。

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2006/10/05

『なぜ伝わらない、その日本語』

日本語と格闘する仕事につきそうなので「電脳日本語論」と併せて購入。

天下の岩波書店刊である。ゆったりとした横組で読みやすい。目次を見ればわかるように事例が具体的で豊富。手軽に参照できるよう要約代わりに書き写しておこう、と思ったら目次は本家に載っていた(アマゾンには目次情報がないので手打ちしたのに...くやしいのはこちらに入力ミスが3つもあったこと)。なお、ここでは省略するが、各項は文例、その問題点、改善例、書き手の心理、類似例という構成で統一されている。

よくまとめられてはいるが、最終章で「大事なのは思いやり」としてしまったのには違和感がある。「心」より「頭」と注釈をつけてはいるものの、誤解を招きやすいと思う。著者が繰り返し分析しているように、わかりにくくなるのは書き手が自己中心的だからだ。そのため往々にして目的を見失ってしまう。それがわかり難さの原因。対する処方箋は相手に伝えるという意志を持ての方が適切だろう。

たとえば禁煙の貼紙に必要なのは、「喫煙者も中毒だから簡単には止められなくて可哀想だね」という思いやりではなく、「お前らは人間のクズだと思っている。現場を押さえたら消火器を噴射するから覚悟しておけ。掃除の費用も請求するからそのつもりでいろ。払わないなら両腎臓を差し押さえるぞ」という、脳が縮んだ喫煙者にも「ここで吸うのはマズい」と思わせる強い強い怒りの表明だ。もちろんテクニカルには喫煙場所を指示した方が守られやすい(「喫煙は地獄の三丁目でどうぞ」)。

ストレートな怒りの表明は格好悪いから、と「煙草を吸っても構いませんが、煙は吐かないでください」なんて書いたところで一酸化炭素で脳がすかすかになった喫煙者に通じるだろうか? そういう自己陶酔を捨てるのが「伝わる日本語」の第一歩であろう。著者もわかっている筈なのに、「思いやり」なんて口にして画竜点睛を欠く感じがしたので敢えて苦言。

相手を中心に書くとは、相手を照準の中心に据えて書くと言うこと。

なお、「なぜ伝わらないのか?」は上記本家にて立ち読み可能(PDF提供)。

***
なぜ伝わらないのか?
伝わらない日本語とは?
伝わらない原因は?
伝わるように書かないのは?

第1章 相手がどんな情報を求めているか?
レストランの開店3周年のあいさつ状
取引先への担当者交代のお知らせ
旅館のアンケートに書く苦情

第2章 相手が何を知っているか?
個人レッスンをお願いするメール
分岐駅のホームの時刻表
分別ゴミ箱の表示

第3章 相手がどんな人であるか?
メールの引用が好きか嫌いか?
専門家か専門家でないか?
日本語がわかるかわからないか?

第4章 相手がどんな返答をするか?
同窓会の相談をするメール
メールの返信先の指定
レストランのお客さまアンケート

第5章 相手がどんな行動をするか?
バザーへの出品を頼むメール
レストランのメニューの名前
講演会会場への交通案内

第6章 相手がどんな気持ちになるか?
出張手続き改善の提案
新規開店のカフェの割引クーポン
地域交流会メーリングリストの口論

第7章 相手に読んでもらう工夫
用件が複数のメール
スポーツクラブの注意書き
文集に載せる文章

第8章 相手に見つけてもらう工夫
メールの件名
ホームページの構成
マニュアルの索引

第9章 相手に誤解を与えない工夫
きちんと読まなくてもわかる工夫
相手の誤解を防ぐ工夫
相手の常識に頼らない工夫

伝わる日本語にするために
大事なのは「思いやり」
会議を知らせるメール
コミュニケーションの時代

あとがき
***

プロのための文章技術ではなく、市井の人が日常的に作成する文章をわかりやすくするための工夫がまとめられている。逆に言えば著者(大学教員)が日常でいかにわかりにくい文章に苦しめられているかがうかがえる(その辺の事情は「幻のあとがき」にも抽象的に書かれている)。

ところで本書の例文には時々やけに具体的なものが登場する。p.13の開店3周年のレストランの所在地は「東京都目黒区自由が丘2-15-29」とある。改良された文例ではURLや電話番号、さらには地図まで。もっともそのURLをブラウザに打ち込んでも「見つかりません」と弾かれる(そもそもwhoisで見ると現段階では未使用)。タウンページで店名を検索しても見つからない。所在地をgoogle mapsで調べたところ、そういう地番は存在しない模様(「2丁目15−10」が表示された)。地図に描かれている場所はどうやら駐車場らしい。しかし電話番号はどうなのだろう。好奇心でかける人もいるだろうに。現在使われていない番号ならば良いけれど(将来使われたら問題にならないか?)。

それと章タイトルの「?」は不要と思う。天下の岩波に逆らうのは勇気がいるが。

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2006/09/27

『電脳日本語論』読み始め

今日は就職面接。この会社は今までで二番目に早いレスポンスだったのでやや期待。しかもオートレスポンダーは「一週間経って返事がなかったら諦めてね」だったから、とりあえず書類審査は通っている、と理解。


一時間を超す面接を終え、帰りの電車の中で話を整理。先日、書店で見かけたATOK開発チームの話が関係しそうなので、立ち寄って購入。

p.97の「すべからく」は用法が間違っているような気がする、のは良いとして、ATOKの歴史は興味深い。名前は同じATOKでも中身はどんどん変わっている事、またATOK9で「完成」(紙の辞書レベルで考えていた事は終わっていた)など。

「当たり前でないことをするのが技術だ」(p.88)という専務は、端から見る分には素敵。

いろいろ考えながら読んで疲れたので三章で一休み。

山田正紀に「うしろの一太郎」(「うしろの百太郎」のパロディ)と揶揄された「一太郎 Ver.4」についての記述はあっさりと。このバグ騒ぎのときの対応のおかげで「ジャストシステムはユーザーを大切にする」というイメージを獲得したと言う話もある...ねぇ。私もその頃Vzエディター+ATOKに転向し、以来「ワープロを使うのは素人」(なんの?)派なのでよくわからない。修太なんてものも出していたの? 知らなかった。もっともググッてもヒットしないなぁ。今はJust Rightになったのだろうか?(この部分、よく調べないままアップ)

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2006/09/02

『ウェブ・ユーザビリティルールブック』

ウェブ関係の仕事口を探していて薦められた本。初版2001年だが既に大手書店でもネットでも品切れ状態。アマゾンのマーケットプレイスにて購入。

ネット関係の書籍で5年も経つと大概は古くて役に立たない。もっとも『コンピュータネットワークの政治学』のような例外はある。この本は12年前の発行だが、7年前に読んだ時には十分役に立った(今はどうだろ?)。

本書も登場する主要ブラウザがIE(5.5?)とNN(6?)でFirefoxもOperaもSafariも出て来ないし、解像度は800×600を基準としているし、スタイルシートでレイアウト指定はしないと主張するしと、時代遅れな面はある。もっとも640×480も念頭に置けという注意は、携帯電話でフルブラウザの時代にはまた活きてくるから面白い。

では絶版が妥当な古書かというと、そうではない。今でも悪い例に挙げられたサイトは多い。自己満足な個人サイトはさておき、企業サイトにおいてもみすみす機会損失になる構成のサイトは目立つ。本書の存在価値はまだまだある。

内容はウェブサイトを作る上での常識、みたいなものが多い。というか、見られるサイトを作る上での常識集である。繰り返すが、この常識をわきまえていないサイトはまだまだある。手元に置く必要はないが、常に「このページのユーザビリティは」と意識するためにも一読する価値はある。知っているつもりでも見落としはあるものだから。

参考になったのはウェブライティングに関する事項。それまで薄々感じてはいたが意識化されていなかった「ウェブは可読性が低い」「ユーザは常に次のページを読みたがっている」「斜め読みされる」「概論より特定論、曖昧より明確、抽象より具体的な物を好む」という特徴が明記されていた。

なんとなくウェブは書籍に代わるものと位置づけていたが、なるほど書籍とは受け取られ方が違うのだ。書籍のように扱ってほしければ、現状では印刷を前提とする他はないようだ。

それとリンクの使い方も参考になる。一部のブログに導入されている自動テキストリンクが鬱陶しい訳だ。

参考になるだけに、画面上で読むとプリントアウトで読むより25%遅くなるのを「25%のスピードでしか読めない」と書く(p.143)ようなミスは惜しい。他にもp.162では図で囲む記事を間違えている(ブルームバーグではなく、外国為替の記事を囲む)といったミスがある。

また、当時はスタイルシート(CSS)の実装が不十分なブラウザが多かったのでやむを得ないが、レイアウトにはスタイルシートを使わない、は不満。まして「レイアウトはテーブルで制御すべき」は残念。

表組を使わなくても一行の長さは制御可能です。私はmaxwidthを使っていました。これだと高解像度でウィンドウを広くしても一定幅以上に広がらない反面、画面が狭ければ自動で縮小(折り返し)される。もっともIEは対応していませんが。

「コンテンツのタイトルなどに太字を使うのが一番効果的で一般的」(p.137)...それってH1の役目じゃないでしょうか。

blockquoteをインデント指定に使う(p.139)べきではありません。(これもCSSでレイアウト指定をしないを前提とした苦肉の策でしょうが。)

時代の変化に対応した改定版が望まれます。

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2006/07/20

論文の著作権

mixiで「学術論文の複製権は学会に譲渡される」という書き込み。そんなことがあるものかと「編集著作権では」と書くと「いえ、この通り」と実例を示された。

驚いて所属学会の規定を調べてみた。以前は編集著作権と書いていたと記憶する日本生化学会は投稿規定お取り寄せなので日本農芸化学会の規定を見ると化学と生物BBB (Bioscience, Biotechnology, and Biochemistry)掲載論文の著作権は日本農芸化学会に属する.と明記してあった。知らないうちに世の中変わったらしい(前から?)。

そこで商業誌はどうだろうかと、天下のnatureの規定を見ると、これまた著者に著作権の譲渡をお願いすることはありませんが、代わりに論文の独占的な使用権はNature Publishing Group がもつことを認めていだくようサインをお願いしております。ただし、著者は自分の論文のPDFを自身や所属機関のウエブサイトに掲載することができます。と違いのわからないお願いが。

できるだけ多くの人に読んでもらいたい学術論文は誰に著作権があっても不都合はないけれど、ちょっと意外な感(著作者人格権は譲渡できない)。将来偉くなって、論文集を出そうなんてなると投稿先の許可が必要になる訳ね。リトラクトした場合はどうなるのだろう。:-p

それにしても学会誌の奥付にある複写についての注意書きは整合性があるようなないような(「著作権者」なんて書かずに「本会」と書いても良さそうな)。

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2006/05/10

「風の又三郎」を観てから読む

誘われて、映画「風の又三郎」を今年末に閉館となる三百人劇場で観てきた。

原作は1931年〜1933年にかけてまとめられたものだと言う。映画は1940年製作、ではあるが戦争の影は感じられない(37年の盧溝橋事件から宣戦布告のないまま日中は全面戦争状態)。生徒は登校すると国旗掲揚塔にお辞儀はするものの、それ以外に国家を想起させるようなものは出てこない。複式学級(全学年一教室)で先生も住み込み一人という小規模校という点を考慮してもちょっと不思議。原作に忠実であろうとしたためか。そういえば教師も、威厳はあるが優しく教導するタイプで、生徒が騒いだり怠けたりしても手を上げる事はもちろん、声を荒げる事さえほとんどない(原作の先生はもっと現実離れしている)。

そういえば大人たちも、面食らうほど物わかりが良い。わずかに実際には登場しない「専売局の役人」だけが恐い大人で(村の大人にとっても恐い存在?)、「遊んでないで手伝え」なんて言わないし、馬を逃がしても迷子になっても叱らない。そういえば子供も言われなくても農作業を手伝う物わかりの良さ。ひょっとして都会の映画人が夢見た「理想の農村?」(原作には汚れた足で床を汚す子供らは出てこない)。

風の効用問答で、映像化された風のする悪さには苦笑。帽子を飛ばされる、傘を壊されるくらいならまだしも、家が壊れる、屋根まで飛んだを実写する事はあるまいに(「シャボン玉」の歌詞勘違いを思い出す)。それに比べて、風車の効用はアニメーションで教科書的。

原作には無い鉛筆の後半エピソードは「又三郎は風の神の子ではない」を暗示しているようだが、相撲後に風を起こすところはいかにも「風の神の子でござい」で謎(この島耕二版を「原作の雰囲気をよく伝えている」映画と評価している風の又三郎の世界では「三郎が密かに空の雲行きを計算して歌を歌い出したことを明示的に描写しており、ここでは三郎が又三郎ではないことが示唆されている」とあるが、そこは記憶が曖昧)。

そういえば又三郎は風を起こせばよいのであって、雷雨は管轄外だと思った。

終わってから、「風の又三郎のオノマトペ表現の分析(レジュメ)」を読ませてもらう。表の作り方がイライラするほど稚拙(資料の作りは発表会でも不評だった由)なので作り直してみようか。

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2006/05/07

「私の人生を変えた3冊の本」

週刊誌「アエラ」No.22を読んでいたら「私の人生を変えた3冊の本」という、なんともベタな記事があった。ビジネスなど一線で活躍する53人に聞いたというが、挙げられた延べ159冊には読んだ事も見た事もないものが多数。これだから私は一線で活躍できないのか?

それでもリストに目を通すと、読んだ本がいくつか。
坊っちゃん
「死への準備」日記
羊の歌—わが回想
『夜と霧』
『方丈記』
『権利のための闘争』
『日本語の作文技術』

正直なところ、ここで千葉敦子と再会するとは思わなかった。「難局に出会うたびに思い出し、客観性を失わずに自立して切り開こうという勇気をもらった。」...確かに。

加藤周一を評して「こんな秀才が世の中にいるのかと思わせる伝記...近づくことの出来ない気品のある人生観に魅力」...納得。

ちなみに『羊の歌』には続編があります。

アマゾンの『「死への準備」日記』レビューには


この日記は、『朝日ジャーナル』に連載されていました。
毎週 千葉さんの文章を ハラハラしながら読んでいました。
「ずっと千葉さんの日記がつづいてほしい」と ひたすら祈っていました。

とある。そうだ。連載二回目で気づき、捨てずにあった前号をあわてて引っ張り出して読んだな。ある種予測された、しかしやはり突然の最終回は、入院を告げ休載を詫びる編集部宛のファクス。あれれ、最近涙腺が緩みがちだぞ(照)。

少しでも力になりたくてニューズレター「ウーマン・ウォッチ」を申し込んだりもした。遺産を元にアジアのジャーナリストを留学させる基金が作られた筈だが、どうなっただろう。と思い「千葉敦子 基金」でyahoo!検索したら自分の読書記録がヒットしてびっくり。

死後10年を過ぎ、流行を追う日本では忘れられかけているのではないだろうか。

その心配はないようだ。テクノラティでも結構ヒットするし。

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原典に当たる

週刊誌「アエラ」No.22を読んでいたら「私の人生を変えた3冊の本」という、なんともベタな記事があった。ビジネスなど一線で活躍する53人に聞いたというが、挙げられた延べ159冊には読んだ事も見た事もないものが多数。これだから私は一線で活躍できないのか?

それはともかく、夏目漱石の『坊ちゃん』を挙げた人がいて


いたずらをした寄宿生がシラを切った後、坊ちゃんが叫んだ。

〈世の中に正直が勝たなくて、外に勝つものがあるか、考えてみろ〉

 そのシーンが忘れられない。

と思い出を語っている。

? 憚りながら漱石は『我が輩は猫である』『二百十日』『坊っちゃん』『虞美人草』『行人』『夢十夜』くらいしか読んだ事はない(『それから』と『草枕』は途中まで)が、『坊っちゃん』にそんなシーンがあったか?

そこで原典に当たってみた。すると件の箇所は見つかったが、どうもシチュエーションがちと異なる。


おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕らまえてやろうと、焦慮てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。(中略)どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。

寄宿生のいたずらに翻弄され、夜の廊下に独りウロウロしているところだ。決して叫んでいる訳ではない。寄宿生を叱っているのでもない。自分を鼓舞している訳ですね。

この人(東京大の小宮山総長)の記憶違いか、ライターが勘違いでまとめたのかは不明だが(総長を「学長」なんて書いてるから編集部のミスも怪しい)、ちょっと説得力が減じてしまって残念。本のタイトルのミススペルとどっちが問題だろう?

(実は最初、「正直」を「正義」と見間違えていた。危うくとんでもなく見当違いに見える批判をする所だった。原典に当たるというのは大切な作業。)

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2006/04/17

「死者の書」を読む

先日、誘われて映画「死者の書」を観た(岩波ホールにて7日まで)。

冒頭の短編映画があまりにたおやかだったせいか、始まるとすぐ半覚醒状態に。途中で意識は戻ったが、訳のわからないまま終了。印象に残ったのは「おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。」という台詞、それに鳴弦(つるうち)と反閇(あしぶみ)のシーン(上記サイトにある予告編で見られます)。

納得がいかないのは、処刑される大津皇子が肩までのざんばら髪なこと。ベアトリーチェ・チェンチを持ち出すまでもなく、首をはねるのにあの髪は邪魔。

あと、念仏を唱えられて退散するってことは悪霊の類なのに、それと仏姿がだぶらされていて、よくわからん。

実写でやったらB級オカルト映画になっていた可能性大(それで人形アニメにしたのか?)。

ネットをざっと探してみても、川本喜八郎の映像美を誉めるものばかり。

そこで青空文庫で釋迢空(折口信夫:おりぐちしのぶ)の原作を読む事に。

難しい。古文を読む素養のないことが暴露される。orz だが映画は原作をかなり忠実になぞっているらしく、文の難しいところは映像を思い出す事で、なんとか目を通し終えられた。もちろん結論は「やっぱりわからない」であるが。


誘ってくれた人がアニメーションとCGについて「一を聞いて十を語る」ので閉口。そのくせPIXARも「トイ・ストーリー」(劇場公開された長編映画作品としては、初のフルCG作品)も「ファインディング・ニモ」(フル3DCG)も「Mr.インクレディブル」(服や髪の物理的感触を極めて忠実に表現した点が特徴)もご存じないのだから開いた口が塞がらない。あー、口は閉じているのか開いているのか、ですって? 

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『蝿の王』

だいぶ前にclieで書き上げていたが登録に至らなかった。

飛行機が遭難し、無人島に漂着したのは少年たちばかり。そこで力を合わせて生活基盤を作って救出を待つ、となればジュブナイルの定番だろうが、こちらは大人向け小説。ヘゲモニー争い、不安からのカルト傾倒、武力衝突と「もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね」的展開(もっとも見識なく引き起こした山火事がきっかけで救出されるとは皮肉な話)。

「もっと立派に...」は救出にやってきた海軍士官があきれて発した台詞だが、ある書評に書かれている通り大人達だって偉そうなことは言えないのだ。なぜなら少年らが飛行機に乗ったのは疎開のためで、どうみても熱帯の島に不時着したという事は少なくともヨーロッパのどこにも安全地帯の無い大戦争が勃発していた...「もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね」>イギリスの大人たち

作中、リーダーに選出されたものの文明秩序が崩壊していく中で自らの非力を嘆く少年が「大人がいたら」と切望するのが痛々しいのだが、大人がいてうまくいっただろうか。無能な大人がいたらかえって悲惨なことになっただろう。

もっとも他の少年も大人が来た時の事に思慮が及べば、及ばないのが子供というものだが、あそこまで無茶はしなかっただろう。実際、軍人が救出に来て「リーダーは誰か」と尋ねても、それまで多数派を率いて祭政一致を実現していた少年は、悪戯を見つけられた子供と同じで名乗りを上げられなかった。

別に彼らは「もう救出は来ない」と絶望していた訳ではない。いくぶん長い「休暇」に遊び呆けていただけだ。好意的に見れば、いつ来るかわからない救出に備えるよりも、エキサイティングで腹を満たしてくれる野ブタ狩りに力を注いだのは賢明かもしれない。ブタを絶滅させてしまう危険性があるとは言え。

トリフィド時代」では、市民のほとんどが一夜にして失明してしまうという未曾有の事態に際し、わずかに残った晴眼者は二派に別れる。できるだけ多くの盲人を保護して救援を待つべきとする労働運動活動家と、救援を期待せず精鋭(晴眼者と技能のある盲人)で新社会建設に臨むべきとする軍人と。こちらの物語では後者の選択が正しかった。いつでも救援が来ると思ったら大間違い。

「大人」の援助を期待できない私たちはどうすべきだろうか。振り返れば学校で職場で地域で、規模こそ違え同じような狂態は起きているのだ。

ところでこの話では少年ばかりで少女がいなかったけれど、その不自然さはさておき、いたらどうなっていただろう。あの年頃は女子の方がませているから、うまく切り盛りしただろうか。しかし女子も派閥を作るし、男女比にもよるだろうが、それはそれでまた「もっと立派にやれそうなもんじゃ」的世界になったと思うのは偏見か。

それと「狩猟隊」は合唱隊にしてはマッチョ(「歌って踊って楽しい」と揶揄されたミンセーも黄ヘル部隊は強かったらしいがw)なのはイギリスパブリックスクールは文武両道ということ? それにしてもなぜ彼らは一度も歌わなかったのだろう。

映画にもなっているが未見。こちらではアメリカの陸軍幼年学校生徒になっているらしい。


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2006/04/14

『私の嫌いな10の人びと』

ビッグイシューのベンダーである「お茶の水博士」のブログで購入した。アフィリエイトでなにがしかの収入になる事を意識している訳だが、これって著者のいう鈍感な「いい人」の押し付けがましい行動だろうか。

ブログを開く事をすすめたのは私だし、開設後はアフィリエイトの相談を受けていたし、この『私の嫌いな...』は書店で手にとった事はあるし、恩着せがましく「買ったよ」と感謝を求めなければよろしいんでは?(なのに敢えてここで書くのは、他の人を誘導するため。貶される事も厭わずに他人のアフィリエイトに協力するなんて、なんと献身的な...と自己陶酔してはイケナイ訳ね。それに今ブログを見たらお茶の水博士は仕事が決まって、ビッグイシューベンダーを卒業される由。)

というわけでこれが3冊目。最初に買った『哲学の教科書』は、読むのがひたすら苦痛。そこから理解した事は、どうやら哲学者という人間は精神を病んでいる。ただし、病気との折り合いをなんとかつけているために世間からつまはじきにされる事はない。「学者先生だから」と徳俵で踏み堪えている。したがって在野の哲学者、つまりアカデミックな機関に所属していないとあっさり土俵を割る危険がある。それを地で行っているのが文学者。名乗るのが自由な分だけご利益も薄い。

それでこの『私の嫌いな...』であるが、これは読みやすい。そして声に出して笑ってしまう。たとえば30ページ、「こうできないから、私は苦労しているのです」の箇所で知人、といっては罰が当たる、旧師の一人(「あさい三人衆」の「阿」)を思い出す。言う事やる事がそっくり。本の方に脚色があるとすれば「事実は小説よりも奇なり」だし、「実は抑えて書いた」なら東西の横綱。

もう1つ『ボートの三人男』も思い出してしまった(わぉ、これってwikipediaに項目として載ってるのね)。三人男の矛盾した言動はもちろん作者ジェロームの計算づくだが、こちらはどうなのだろう。

大学の哲学教師の95%は即刻解雇して構わない、生活がかかっているからというならせめて自責の念をもてという箇所では、最近受付を手伝った葬儀の喪主である高校教師(これが遺伝研にいらした石浜明先生にそっくりなのだが)を思い出す。彼は常々、給料は半分返上しても良いと言っているらしい。もっとも仕事も減らしてほしいらしいが。

慶應大学SFCの福田ゼミで講演をしたら、女子学生三人が精神に変調をきたした(と後日パーティーで顔を会わせるや福田教授から言われたらしい)という話も愉快。

全体を通して笑い話として読めば面白いが、では趣旨についてはどうかというと、疑問符が七つほど。詳細に述べるには余白が狭すぎるので手短にまとめると、人間の捉え方が非常に静的に思える。もっと身体を動かした方がよろしいんじゃないですか? スポーツをしたまえ、スポーツを!

いろいろあるけれど、大学で「難民避難所」ないし「孤児院」として、行き場の無い学生を救済している(p.171)と言うのは立派。人はまず、自分の持ち場において闘わなければならないのだから。

また冷笑的なようでいて、差別語は「暴力的で卑劣」ときっちり釘を刺す(p.166)ので認識を改めた。

(大学の)だらだらした会議にお悩みの様子。そこで描写されているのは『すごい会議』の対極。この本を紹介してくれた人は「あなたが会議を主催する立場ならぜひ読んで実践したほうがいい本です。召集されるする立場だと,会議に対する不満が増大するだけかもしれません。」と書いているので...ご覧にならない方がよろしいでしょう。それにしても情景描写が上手。眼前で繰り広げられているよう。つまり私の人生ではろくでもない会議が多かったという事か。

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2006/04/04

『99.9%は仮説』『否定学のすすめ』

『99.9%は仮説』

とくに目新しいことは書かれていない。印象的には『新しい科学論—事実は理論をたおせるか』の焼き直し(材料には新しいものも仕込まれているが)。

冒頭の「飛行機はなぜ飛ぶのか」。著者はあとがきで「漫才や落語の「つかみ」と同じで、わざと挑発的に書いたものです(腹が立った人がいたら、ごめんなさい!)」と記しているが、御期待通り不快に感じた。だから(大人は穏便に済ませるだろうが)こちらも挑発的に。

p.20の、翼のところでわかれた空気が同時に合流する必要はあるか? 計ってみたら同時ではない、だから...のところで「コイツ(=著者)はおかしい」と感じた。別に厳密に同時でなくても、同じ速度で流れた場合の到達時刻より早ければ、上を通った空気は速く流れているといえるではないか。実際測定してみれば速いという。ならこれ以上何が必要なのか?

という訳で、悪いけど以後すべてが胡散臭い。「世の中すべて仮説」は研究上の態度として有益なこともあるが、一歩間違えればズブズブの相対主義の泥濘だ。というか、すでに一知半解の哲学小僧の観念談義に足をとられているような感じがする。

わからないことはわからないと言えばよろしい。怪しげな「かもしれない」をアクロバチックに積み重ねれば「買ってはいけない」になってしまう。科学のものは科学へ、神のものは神へ。だから創造説の第五列を「科学上の大仮説」の仲間入りさせる必要はない。

エピソードの数々も、吹聴すれば街の物知りとして「へぇ」と感心してもらえるかもしれないが、眉唾な感じがしてならない(翻案され過ぎ)。

そろそろ誉めないといけないかな? でも世間の評判は好意的なようなので割愛。

こういう本が平積みで売られているって... 日本の未来は暗い、と言ってやろう。少なくとも精神的中学生には読ませたくない本。

 あー、そうそう、p.126の「専門化のまちがいだ」は「専門家」のまちがいだろう。一斑をもって全豹を知る。:-p

↓新書レベルのおすすめはこちら。

『否定学のすすめ』

返す刀、ではなくてお口直しに『否定学のすすめ』。出版社は社名を冠した雑誌の表紙を戦国武将にしていたことのあるプレジデント社だし、エジソンやアインシュタインを表紙に持ってくるセンスはアレだけれど、主張はまとも。

当節の軽佻な「ポジティブ」礼賛の中にあって珍しい書名である。否定文で考えると思考が限定されて創造性が発揮できなくなる、というのが通説だが、著者は「創造は否定から始まる」と意気軒昂。

曰く、科学上の発見には先行してパラダイムの転換(第一の発見)がある
曰く、知の創造の要件は「革新性」「原理的」「根源的異質性」「社会的価値」

二番目はちょっとわかりにくいが、著者は何度も繰り返している。そして注目したいのはその4番目。『99.9%は...』が下手すれば「眼前のこともすべて一炊の夢」と邯鄲の世界に簡単に陥りかねないのに対し、こちらは「創造は否定に始まる」とし、目指すは新しくて有用なものや考え方を作り出すことだと明快。

さて面白いのは、自然と一体化し現状肯定から始まる日本の思想構造からは創造は難しいという議論。欧米がノーベル賞受賞者輩出なのはキリスト教の云々だけど、日本人はキリスト教に帰依しなくても創造性を発揮できる、それが否定学だと。

著者は企業人で、その会社ではいくつもの新製品を出している。ウェブサイトには一見眉唾的なものもあるが、mupidを作っている会社といえば、分子生物学者ならば一目置こう。

ちなみにこのmupid、「アメリカに持って行って役に立ったもの」にも取り上げられているし、それはmixiのコミュでも好評。

というわけで、無責任な机上の水練でもないし、畳の上の空論でもない(ぉぃぉぃ)。

ただ、キリスト教は2000年前に成立し、5世紀にはローマ帝国の国教となっているのに、科学の時代を迎えるのはずっとずっと後。三大発明だって輸入物。キリスト教にドライビングフォースを求めるのはおかしくないか。

なにせ聖書にはこんな言葉すら書かれている。


かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。(コヘレトの言葉 / 1章 9節)

それで思い出すのが『科学と西洋の世界制覇』。海の彼方は奈落へ落ちる巨大な滝と信じ、産まれた土地で神を敬いながら死ぬのが一番と考えていた暗黒の中世ヨーロッパの住民が、突然、何かに憑かれたように外へ外へと進出をはじめる。その過程を追いながら、もし同じ技術が地理的または時間的に別の民族にもたらされたとして、同じように世界制覇に乗り出しただろうか? いやそうはなるまい、というのが主張の一つだったと記憶している。だいぶ前に読んだので自信はないが。

先に挙げた三大発明、すなわち火薬・羅針盤・活版印刷。いずれも中国で発明されたもので、考えようによっては「ルネサンスの三大改良」。ただ、本場では火薬はお祭りの爆竹、羅針盤は風水ってな具合に、呑気というか平和的に使っていたのが、禍々しい世界征服の道具になったのだから、これはコペルニクス的転回とも言えよう。

著者も、キリスト教徒でなければ創造性は発揮できないとは言ってないし、むしろ「創造に当たってヨーロッパ精神の視座は一切求めない」「自然とともにある日本人的精神の基盤の上に構築する」と書いているので本質的問題ではないのだが、気になったので付言しておく。

なお、文章は全般に読みにくい。「否定学」というネーミングも、クレタ島の嘘つき的な誤解を与えやすい。実際、ネット上には「こういうワンマンタイプの人は、自分だけは否定できませんからね」という、たぶん読んでない人の意見があった。

↓こちらもおすすめ

著者は作曲家メンデルスゾーンの一族らしい。 ボッティチェッリのヴィーナスの誕生のモデルはアメリゴ・ベスプッチの娘(※)とか、こちらの方が雑学的にも楽しい。

※:これは記憶違いか。モデルは後のシモネッタ・ヴェスプッチ。アメリゴの従妹と結婚したとか。本を箱から取り出して当たってみなくては。

ひょっとするとブルーバックスの「絶対零度への挑戦」もこの人の著? これも面白かった。


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2006/01/22

『犬は「びよ」と鳴いていた』

師匠からもらった山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』を読んだ。以前、「○○という言葉は平安時代に××と読んでいた」というような話を聞き、録音もないのにどうしてそんなことがわかる?と疑問に思った。しかし末子相続のときと同じく納得するまで追究する事なく、権威に寄りかかってしまっていた(いちいち納得するまで調べるのは大変なのだ)。

今回の本はまさに、その疑問に対する答え。ああ、なるほど文献でもわかりますね。辞書(のようなもの)には読み方が書いてある。もっとも「わたしは」と書いて「watasi wa」と読むから油断がならない。だが時代は限定されるものの日葡辞書はローマ字書きだから発音もわかる(ポルトガル人の耳に聞こえた音だが)。さらに伝統芸能。狂言「柿山伏」では台本に犬の鳴きまねをする所に「びよ」と書いてあるという。先日TVでは、実際にびよびよとやっているシーンが映されていた(ただ私も中学の時「柿山伏」は見た筈だが「びよ」は記憶に残っていない)。言葉遊び(p.126)も有力な証拠に。

丹念に調べた様子がうかがえる。その一つとして、今昔物語集を分析して擬音・擬態語53種類を見いだし、過半数が現在にも残っていることを示されている。これは意外。ただ、図3(pp34-35)では長寿をほこっているABAB型でも消えてしまったものがある。語型が多様化した室町を対象にするともっと面白い結果がでるのでは無いだろうか。(全体的に統一性がちょっと、という印象)

一方で、1972年からの30年間に多くの入れ替わりがあったことも示されている。今昔にも書かれなかった短命の擬音擬態語があったことだろう(冒頭、日本語には英語の3倍以上、1200種類あると—近現代限定?—紹介されている)。

なお、こういう研究はテキストが電子化されれば楽にはなるが、目のつけどころが悪かったり方法が不適切だと「パソコンで検索ができるようになったのがそんなに得意かね」と罵られるはめに。後に続く方は気をつけましょう。

第二部は動物の声がどう表記されるかの変遷を追ったもの。なかなか面白いのだが妙な違和感が。たとえばネコが日本にいつからいたか、を『国史大辞典』などに求める。まぁ化石を探す訳にも行かないだろうけれど、なんか妙な感じ。ちなみに飼いならされていない動物は「野生」です。

モモンガの声の探索でそれは頂点に達する。こういうのは国語典ではなく百科典の類いを当たってほしい。最後にようやく「アニマルライフ」などが参照されて落ち着いたが。

「どう聞いて」「どう表現したか」の追究としては著者の方法で正しいとは思うが、私の感覚だと、