2012/09/30

十一代目 桂文治襲名披露興行に行く

桂文治襲名披露興行が新宿・末広亭で始まっている。気がつけば最終日は30日(そのあと、浅草演芸ホール、池袋演芸場、国立演芸場と続く)。27日には札止め(満員)になったと聞き、土日の混雑を考えると今日しかない、と28日に行ってきた。平日に行けるのは失業者の数少ない特権。

先月のお練りの際にいただいた割引券を使って節約。1枚で3人まで割引価格だけど、平日だし急に思い立ったこともあって単独使用。いや、友達がいないわけではないのだが。

用心して早めに行ったため、まだ昼の部の途中だった(昼夜入替なし)。桂幸丸の落語の次は桧山うめ吉の俗曲。かわいい声でとぼけたこと(一部、歌詞の意味が分からないまま唄うところがありますが皆様もお分かりにならないでしょうから気にしないで)を言っていたが、あとで調べたら結構なキャリアの持ち主らしい。昼の部最後は三遊亭遊吉の「源平盛衰記」。これは偶然か。私が最初に桂平治(現 文治)の落語を聴いたのが、「親子酒」とこの「源平盛衰記」。なにわ亭落語会という私設寄席での時間をたっぷりとった大熱演で、すっかり魅了された。その後、独演会「十代目桂文治十八番」でこれを演じ、平成21年度(第64回)文化庁芸術祭大衆芸能部門新人賞を受賞された。そして凱旋公演?で再び演じていただいたのが2010年2月。闘病中の席亭にとって最後の落語会になった思い出の噺。


昼の部が終わっても立つ人は少ない。夜の部は、桂宮治の落語、鏡味味千代の太神楽、桂右團治の落語、瀧川鯉朝の落語。その次はプログラムではぴろきのギタレレ漫談となっていたがコントD51のコントで、続いて三遊亭笑遊の落語、柳家蝠丸の落語、北見伸とスティファニーニよる奇術、桂米助の落語、三遊亭小遊三の落語と来て、中入りを挟んで口上。

舞台奥に張られた幕も取り替えられて三枚目。司会進行は柳家蝠丸。下手から桂米助、笑福亭福笑、桂文治、三遊亭小遊三、桂歌丸と並ぶ。先日、「笑点」でも口上は放送されていたが、直に見る方が面白い(古典芸能にライブという言葉は似合わない)。先代文治と笑福亭福笑の因縁話が披露されたり、突っ込み待ちで話を大きくしたりと、もうそれ自体がひとつの演芸。その間、文治はずっと黙ったままニコニコと。まさに「漫画に描かれたお日様」(歌丸)のような笑顔。この口上は一見の価値がある。

江戸家まねき猫の物まねで秋を感じてから歌丸と福笑の落語(「紙入れ」「宿屋ばばぁ」)で笑い、ボンボンブラザーズの客を巻き込んだ曲芸にハラハラするといよいよ文治登場。お練りの際にも感じたけれど、この人の声はほんとうによく通り、細かいところまで聞き取りやすい。そして尻餅をたっぷりと魅せてくださった。

手元にはまだ3館共通入場券が1枚あるので、また行こうと思う。

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2009/12/07

「なにわ」新聞に載る

懇意にしている神田神保町の大衆割烹「なにわ」が毎日新聞の記事になった。

掲載されたことはメールマガジンで知っていたが、どんな記事か分からなかった。店主から、ブログに書いたけれど元記事へリンクしていないので、と依頼が来てURI判明。

ALS、割烹店主の生きがい 自慢の鍋と落語会

この落語会は初回から聴かせていただいている。毎回満員御礼で、この数年間は即日完売のプラチナチケット状態。もう少しキャパがあれば人数を増やして収入も増やせるだろうし、新しいお客さんにも来ていただけるのだが、自分の店でやるところに意義があるし、今となっては新しい客層の開拓よりも今までの客を大切にしたいことだろう。

なんでも記事は大反響。もっとももっぱらママの年齢に驚きの声とか(苦笑)。

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2009/06/22

唐茄子屋政談とビッグイシュー

土曜日は神田の割烹「なにわ」で落語を聴いて来た。演目は「子ほめ」「青菜」「悋気の独楽」「唐茄子屋」。

最後の「唐茄子屋」、正確には「唐茄子屋政談」なのだが、長い話で政談(裁判)まで演らないから「政談」を省くらしい。

道楽が過ぎて勘当された大店の若旦那(正確には以後「元若旦那」だが「若旦那」で通す)。「米の飯とお天道様は付いて来る」と呑気に構えていたが、金の切れ目が縁の切れ目、頼りにしていた遊び仲間から見放され、あっという間に路上生活。空腹と絶望感から身投げを図ったところを通りがかった男に止められる。それが偶然にも叔父さんで、「お前と分かっていたら止めなかった。早く飛び込め」と突き放されるが泣きついて、という話。wikipediaよりは落語逍遊録に載っている紹介の方が分かりやすい。

で、仕事をして来いと渡されたのがカゴと天秤棒と唐茄子(カボチャ)。稼ぐことの大変さとありがたみを実感させて性根を直そうという叔父心。ところが生まれてこの方箸より重たいものを持ったことがない若旦那、唐茄子の重さと炎暑でふらふらになり、途中で転んで「人殺しぃ」なんて泣き叫ぶ。それを聞いて駆け寄って来た男が侠気のある人で、事情を聞くと近所の連中を呼び集めてカボチャを売ってくれる。

その頼み方がいい。「荷が重くて可哀想だから少し軽くしてやってくれ」。斜に構えた男が「そいつから唐茄子を買う義理なんかない」と言えば、「こいつ(=若旦那)に義理はないだろうが、間に入った俺が頼んでいるんだ」と凄む。男が渋々金を出し「唐茄子はいらない」と行こうとすると「誰が恵んでくれって頼んだ」とカボチャを持たせる。(ここで「いらないと言ってたくせに、大きいのを選ってやがる」とくるから客は笑って緊張がほぐれる)

時間の都合で、礼を言う若旦那が「本気で怒ってくれる叔父さんの言うことを聞けよ」と諭されたところで終わりとなった。顧みれば、他人のために本気で怒ることなど絶えて久しい。「後は本人次第」と突き放してしまうのだ。体のいい責任回避かなぁ。そのくせ、まるっきり無関心という訳ではなく、中途半端に怒るから始末に悪い>自分

この日は午前中に聖橋へ行ってビッグイシュー日本版を買って来た。最新号の表紙が笑福亭鶴瓶なので落語の後の懇親会で使えるかなと思って(結局、福引きの景品にはせず、席亭に「現代の唐茄子です」と差し上げて来た)。聖橋の販売者、小西さんはTokyo FMに出演したこともあり、IT研修の修了生でメール販売をやっている。買った雑誌に挟もうと思って「メール販売宣伝用の名刺もちょうだい」というと「持っていない」という(ぉぃ、制作費が割高な名刺をもらうつもりだから2冊買ったんだぞ)。さらに話している最中にお客さんが現れ、言葉を交わした後に名前を聞かれていたので「じゃあ、普通の名刺をお渡しして」と勧めると「コインロッカーに入れたまま」だと。営業ツールを販売現場に持って来ないでどうする! 思わず説教モードに切り替わり。しかし彼はプレッシャーに弱いタイプ。おそらくパニック10秒前といった状態で、私の言ったことの半分は頭上を通過して行ってしまったことだろう。ただただ怒られたということしか残らなかったかもしれない。可哀想なことをした。

ここを読むかもしれないので再掲しておくと、普通のチラシであれば100枚配って注文が1件あれば上出来中の上出来、ビッグイシューを買ってくれた人の場合はもう少し高い関心を期待できるが、買いに来られる人はメールで注文はしない。だからメール販売の売り上げを増やすにはとにかく説明名刺を配って配って配るしかない。いまから配っておけば夏休みにも帰省先から注文してもらえるかもしれないし、故郷で「こういう雑誌があって、メールで注文できる」と広めてもらえば販売者のいない地域の人から注文が来るかもしれない。(もちろん説教はお客様が帰られてから)

閑話休題。若旦那に代わって唐茄子を売ってくれた男、決して甘やかしているのではない。恵んでやってくれと言ってるんじゃない、買ってやってくれと頼んでいるんだというところなど、ビッグイシューを応援している気持ちとぴったり重なる。もちろんビッグイシューの販売者は道楽が過ぎて勘当された人(ばかり)ではないし、高度経済成長を支えた産業戦士も多数いる。だから単純に重ねて論じれば顰蹙をかうだろう。大事なのは、この世話焼きの兄い(20年前にやはり勘当同然で逐電したことがあるというので厄そこそこ←用法が少々おかしいが、これは先に聴いた「子ほめ」の影響か?)の侠気。困ったらまた来いといい、若旦那が「明日来ます」というと、それは早いと慌てる辺りがリアリティ。余裕があっての援助ではないのだ。余裕があっても毎日毎日唐茄子を食うわけにはいかない(ビッグイシュー読者の間でも「同じ号を複数冊買うことの是非」は結論の出ない問題)。まして勘当された若旦那が二人三人と続けて唐茄子を担いで来たら堪らない。ただ、逆にいえば地域で一人くらいなら面倒を見られる。そういう人がいたらいいなぁという願望の結晶かもしれないが、到達可能な理想像と定めてこの侠気を実践してみるのも悪くない。なにより名前がなく、後に若旦那が奉行から褒美をもらう段になっても再登場はしない(らしい)というところが市井の義人らしくて良い。

問題は、若旦那の場合は勘当が解けるという救済が用意されているが、ビッグイシュー販売者にはそんなものはないこと。これも時おり議論に上がる。ビッグイシュー販売者と言うのは過渡的な存在であるべきであり、一生の仕事にしてはいけないという人がいる一方で、現実にはこれが終の仕事になる可能性の高い人がいる。「卒業」を全員の共通目標にすべきなのか、それともパーマネントジョブの一つとして確立させても良いのだろうか。

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2008/06/22

落語会

土曜日はなじみの大衆割烹で開かれた落語会を聞いて来た。

いつもなら運動がてら新宿から歩くのだが、今回は時間の都合もあり途中から地下鉄を利用。神保町の立ち食いそば「利根」で腹ごしらえをしてから店に行く。

うまい噺にうまい料理、大いに笑って来たのだが今ひとつ気が晴れない。この心の暗雲、いかにしてくれようか。

とまれ、次回は10月4日。

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2008/03/01

NK細胞を活性化

先週の土曜日(2月23日)は神田の大衆割烹で開かれた落語会を聴いて来た。腹の底から笑いでもしないと身が持たない情勢だったので本当に助かる。

この日、時間に余裕があったので新宿から靖国通りを歩いてみた。春の陽気で、汗ばむほど。そして新宿区なのに意外なほど空が広いことに驚く。と、そこに漁船、じゃなくて空を切り裂くような鉄塔。はじめは放送局かと思ったが、あとでgoogle mapで確認すると自衛隊市ヶ谷駐屯地の施設らしい。

そびえ立つ鉄塔。手前のトラックには「粋」の字が。

市ヶ谷駅近辺でうっかり外堀通りに入ってしまい、飯田橋駅そばで軌道修正。それでも西神田に着いたのは開場30分前。腹ごしらえをしてから店に向かう。なにしろ、以前の落語会では空腹のまま「親子酒」を聞くという地獄の体験をしているので。

店の前に掲げられた落語会の看板

この日の出演は三笑亭可龍(二つ目)と桂平治(真打ち)。二人2席ずつ4席に2時間というたっぷりとした時間配分(通常の寄席は15分くらい)。

平治師匠の平治メモによると一席目の「長短」は満足のいく出来ではなかったらしい。偶然にも、前週のNHK「笑いがいちばん」でこの「長短」が放送されていた。もちろん噺の比較などできるわけもないが、素人にも明白なのはマクラの長さ。平治師匠は気の長い人の話し方をたっぷりと演じていたけれど、短気な職人風の話し方もお似合いだと思う。ま、それは延々とは演じられないけれど。

二席目の火焔太鼓は身振り手振りを交えての熱演。テープやCDなどの音源ではこれは分からない。大名屋敷の庭を通る際の仕草を見て、「松」という言葉が出る前に笑い出してしまった(家を出る前に、太鼓が汚いから縛られて松の樹に吊るされるかも、と脅かされたのを庭の松を見て思い出す様子が伝わってくる)。

なお、「世に二つという火焔太鼓」は言い間違いではなく、火焔太鼓は二つで一対のものであることを踏まえての工夫だそうだ。

可龍さんは最初に「宗論」。いくらキリスト教に帰依したからと言って、あんな外国人宣教師みたいなしゃべり方をするようになる訳はないのだが、際どい内容だから少々誇張した方が安全なのかもしれない。それにしても落語で賛美歌を聞くとは思わなかった(しかも、去年、叔父の没後7年記念会で歌ったもの)。羽織を替えての二席目は「幾代餅」。一席目の反応を見て予定を変えたと言う。さすが。ただ、幾代太夫が一途さに打たれて心惹かれるようになるところが、こちらは筋を知っているから良いものの、ちょっと物足りないような(と、生意気なことを言ってみる)。

会場の隅に父君がいらしたが、別にステージパパという訳ではなくて、以前からの店の常連だそうだ。まったく縁は奇なもの。

高座のあとは酒と料理。大皿料理もいいけれど、ここでは少量多品種が次々と運ばれ、いろいろな味が楽しめる。もしかして、かなり贅沢。

この会がなければ生で落語を聴くことはなかったかもしれないので、誠にありがたい催しだ。次回は6月21日。

この日、大笑いした御利益か、今週(25-29)は運気が上昇したようだ。

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2007/06/24

麻暖簾

臨時の寄席で落語を聴いて来た。噺家が気を利かせてくれたのか「テレビではやらないもの」と演じたのが「麻暖簾」。

蚊帳も按摩も通じ難くなって来たというのもあるだろうが、なんと言っても盲人を笑いものにしているのがマスメディアで取り上げない理由だろう(差別だと判断したというより差別だと言われるのを恐れて)。

視覚障害者を「一人では何もできない無能力者」とするのはもちろん差別だが、「なんでもできる」と持ち上げるのも、一見能力を高く評価しているようで、実は「個人を見ないで“視覚障害者一般”でくくる」点で同じだし、さらには「介助をしない口実」になるからよろしくない。

この話には、自信家の盲人が一晩中蚊に悩まされるなど底意地の悪さも垣間みられる。しかし、晴眼者の中途半端な気配りが一番悪いこともわかるようにできており、もっと聞かれて良い話ではないだろうか。下げのところを少々工夫して。

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2006/09/19

落語とPC

先週の土曜日に落語を聞きに行った。大衆割烹の主人が店で開く落語会。最初は開店三十周年記念に向けての企画であったが、好評のため継続して三回目

出演した噺家は、前回は自分の師匠が出ているのでおおよその状況は聞いているだろうが、勝手をつかみ兼ねてか、まくらを「どういう場でも安心な話」で切り出した。児童生徒を相手に郭話はできないし、客を笑うような演目は避けねばならないから。で、それが「三ぼう」、つまり「つんぼ(聾)」「けちん坊(吝嗇)」「どろぼう」ネタ。寄席には来ないか、笑われても表立って抗議はしないから、どこでも気兼ねなく演じられる、と。

ただ、さすがに聾者は落語を楽しまないなんて朗らかな無知は通用しないし、何より「つんぼ」という言葉自体がはばかられる存在。その辺は心得ていて、つんぼの解説の後「ご身内にそういう方がいらっしゃったらお赦しを」と深々と頭を下げる。おいおい,落語も大変だなとやや興ざめしながら聞いていると次がけちん坊。笑うために金を払ったりはしないというのを滑稽に演じてから、この会場にいらしている方はお代を払って−−ほとんど飲食費−−いるから決してケチではないでしょうが、ご身内に...と続ける。最後は泥棒。いくらコケにされても怒るわけにはいかないから安心して笑わせられる。そしてこれも最後に「ご身内に」とやるから会場大笑い。しかも頭の下げ方がだんだん軽くなるのはうまい。

それから演じたのが「だくだく」。ちなみに第一回に出られた桂平治師匠は前座のころ、勝手に「お客がワーと笑ったつもり」と付け足して師匠に怒られたとか。

代わって真打ちが登場して「目黒のさんま」。下げ(落ち)が有名な話は、客が「来るぞ来るぞ」と身構えているから大変だろう。しかし今回は客も大変。生唾を飲み込みながら脂滴る塩焼きを食す演技を見るのは辛かった(親子酒の時の塩辛も垂涎だったなぁ)。

「普段の袴」は煙草ネタ。これはだんだんやり難くなるだろう。最後は「百川」。演目は聞いていなかったのに、その日の午前中にこの話を思い出したのは不思議。これは訛りを題材にしているから、場所柄をわきまえないと通じないばかりか客を不快にさせる可能性も。百川でググると、「この人物の出身ははっきりしません。(中略)本当ははっきりしないと言うよりはっきりさせちゃいけないのです。というのは、田舎物を馬鹿にしております。場所を限定するとその他の県の人たちは面白いかもしれませんが、当事者は面白くありません。」という解説も(誰かと思ったら三遊亭栄楽)。

ところでPCとはパソコンではなくてpolitical correctness。無神経に障害者や特定の職業等を嘲り笑うのは聞き苦しいけれど、毒気を抜きすぎると笑いも死ぬから難しいところ。中には安楽死がふさわしい笑いもあるだろうが、蓋をしてなかった事にしてしまうのもどうかと。

あと考えさせられるのはアナクロニズムの扱い。娯楽なのだから時代考証はほどほどで足りるにしても、あまり時事あるいは現代ネタを盛り込まれると軽い感じが... かといって能のように意味が分からないままかしこまって聞くのも不毛な感じ。「ツァラトゥストラはこう語った」なんて聞くとお子様向けリライトみたいに感じるのに通じるが、所詮はただの衒学趣味かしら。

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2005/11/05

情けないぞ?NHK

3日の夜、ぼーっとNHK総合テレビを見ていたらとんでもないテロップが。

静かに寝むる
女は静かに寝むる
(河島 英五「酒と泪と男と女」)

これは「眠る」でしょう、普通。生放送中に大物歌手が歌詞を間違えた途端にテロップを消した技術力があるNHKなのに、なんという初歩的な... (大物というだけではダメで、別のファクターも必要?)

それともオリジナルが「寝むる」なのでしょうか。そう思って「酒と泪と男と女 寝むる 眠る」で検索をかけると、

「眠る」と書くべきところを「寝むる」と書くところが、河島」
というブログ記事を発見。でも「河島英語である。」なんて書いてあるので信憑性減。

もっとも2001年の紅白歌合戦では「眠る」だったことが批判されているらしいので、やはりミスではなくて原典忠実路線で合っている?

それでも教育的な配慮から、眠るに直す(歌詞中のポルシェをクルマと言い換えさせたという天下のNHKなのだ)か、せめて「寝むる」と、「普通の用法じゃありませんよ〜」を強調すべきでは無いだろうか。

それにしても、検索してみるとなんの疑問ももたずに「寝むる」と書いている人の多いこと(平然と「寝むる」と「眠る」を混在させている人も)。心配になって辞書を引いてしまいました(「寝むる」は大辞泉にも大辞林にも載ってません)。

こういう混乱は、原典にすぐ当たれるようにしてあればかなり防げる。複製権を盾にネットでは検索できないようにしてあるのでしょうが、間違った複製の多発でかえって同一性保持権がぼろぼろに。複製権と同一性保持権、無理に比較したら人格権である後者の方が重要だと思いますがね。複製権が切れた時に紛い物コピーだらけという状態が、果たして好ましいことなのか。


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