2016/04/10

今年もまたやります「ふくしまの話を聞こう」

震災の翌年から始まった「ふくしまの話を聞こう」。今年は海と魚の話を聞きます。

ふくしまの話を聞こう5

4月16日の土曜日、会場は千代田区立日比谷図書文化館(旧・都立日比谷図書館)4階の 小ホール(スタジオプラス)。

広い会場を手配できなかったので45席とこじんまり。そのため会費は1,500円と大幅アップ。そのためか残席あります(第一回の時は、江川紹子さんにツイートされたとたんに満席となって、慌ててテーブルをなくして増席したものだが)。お申し込みはこくちーずから。遠隔地の方のためにネット中継も検討しています。

また終了後に講師を交えた懇親会も企画しています。お申し込みはドアキーパーから。

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2015/04/22

故人への選挙はがき

統一地方選後半戦が始まった。そして例によって亡父宛に選挙はがき(ご支持お願いしますとか○○候補を推薦しますとか)が届きだした。昨年の衆院選の際にも届いたので、Facebookアカウント宛にメッセージを送ったが梨の礫で、その候補者の評価が小豆相場のように暴落したものだが、また都度連絡をしなければならないかと考えると疲れを覚える。

うちのように十年以上前に物故していると「いつの名簿を使ってるんだ。少しは情報を更新しろ、この××(公序良俗に反する罵り言葉)」で済むけれど、亡くなられてから日の浅い遺族に届いたらどうだろうか? 「まだ世の中から忘れられてはいない」と喜ぶか?(夭逝した子が学齢に達する頃に各種DMが届き、親に死児の齢を思い出させるような酷い事例は実際にあるが、中には「あの子が生きていた証」と受け取る例もないわけではないらしい。) 「○○さんを応援していたなぁ。では遺志を引き継いで」となるか? 楽観的すぎると思う。

てなことを顔本に書いたら、携帯電話会社の事例(契約者が死亡したことを確認できる書類を添えて解約したのに、その後「新機種のご案内」の類が送られてきた)がコメントとして寄せられ、いらついている人は多い手応え。以前は、情報化の進展と共にプライバシーが失われて、死んだ翌日に葬儀社の案内が届くのでは?などと心配されたものだが(Gmailサービスが始まる際、「訃報に葬儀社の広告が出ることはない」とG社はわざわざ説明した記憶が)、現実には情報を最新に保つことすらできない状況。的確すぎるrecommendも見透かされているようで気味悪いが、旧い情報がいつまでも漂い続けるというのも困りものだ。ツールはどんどん便利になっているのに使いこなせていない...そう、まるでイサドラ・ダンカンとバーナード・ショーの間のできの悪い子供のような(ダンカンの頭脳にショーの肉体)

さて、情報更新を促すために「受取拒否」にして突き返した方がよろしいか?

たまたまその陣営から電話がかかってきたので、(2枚届いたことは伏せて)故人へ郵送することへの見解をねっとりと求めたところ、末端運動員では手に余ったようで事務所の偉い人に回された。改めて事情を説明したところ、ハガキにその旨を記載して送り返して、つまり受取拒否の手続きをして欲しいとの回答をいただいた。ちなみにその電話をかけるのに使った名簿も載っていたのは亡父の名前。

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2014/10/07

雑木林幻想に落とし穴?

「平地林の落ち葉を堆肥に利用する循環型農業が300年以上続く三富新田」の世界農業遺産認定を目指す運動が埼玉県で進められている埼玉新聞。とりわけ熱心なのが三芳町。一方、隣接する所沢市は冷淡だという。世界遺産に指定されたら転業も土地売却もままならなくなるかららしい。この辺りは自然遺産などでも問題になるところ。

ところで何がそんなに素晴らしいのかといえば、循環型農業だという(ほかにも土壌の保水性を高めた構成も売りらしい)。間伐材を薪炭として利用し、その灰や落葉堆肥を畑に利用する。雑木林は適度な人的介入により極相林(常緑広葉樹林)へ遷移することなく、いつまでも落葉広葉樹林の状態を保ち続ける云々。

埼玉県議会は平成11年(1999年)に採択した意見書の中で「これまで農地と雑木林は、落ち葉を堆肥として利用するという循環型農業が維持される中で一体となって保全されてきた」と述べているし、三芳町が作成した「平地林が支える循環型農法」(PDF)にも、「萌芽更新、ヤマ掃き等により平地林を適正管理し、落ち葉から堆肥を作り、耕作地へ施肥、耕作に適した土を作る。その畑で育った農作物の恵み(収益等)により再び平地林の管理をする。この持続可能な循環型農法が300 年以上続けられている。」と書かれている。

おかしくないだろうか?

物質収支を見ると、雑木林からは出る一方ではないだろうか。炭素は光合成によって大気中から取り込まれるので良いとして、植物の三大栄養素、窒素(N)、リン(P)、カリ(K)は、農産物の形で畑からもどんどん取り去られている(だからこそ農地には施肥が必要になるわけ)。木灰はカリウム肥料だ。窒素とリンは一般に下肥として供給されるし、金肥(購入肥料)として魚粕や油粕あるいは化学肥料も投入されることもある。しかし雑木林に肥料をまくという話は寡聞にして知らない。

「樹木に肥料は要らない」という話もあるようだが、それは成長しきってからの話だろう。落葉・落果が根元で分解し吸収されるなら肥料は要らない。だが萌芽再生のためには肥料は必須。そうでないならば質量不変の法則が破られたことになってしまうが、もちろんそんなことはありえない。

とはいえ、この農法が破綻せずに300年以上続いてきたということは、なんらかの還流があったのだろう。たとえばタヌキやイノシシといった野生生物が外部(農地を含む)で食餌を得て雑木林内で脱糞・放尿し、あるいは死亡すれば窒素とリンの還流になる。野鳥でも同様。

そうだとすると、その意識してこなかった物質還流のルートを保持しないで〈循環農業〉を継続しようとすると破綻必至に思えるのだが、どうだろう。

前掲の三芳町作成の資料には「その畑で育った農作物の恵み(収益等)により再び平地林の管理」とあるので、雑木林に金肥を施すこともありかもしれないが、化学肥料をまくなら畑に直接の方が効率が良いわけだし、「堆肥の原料となる落ち葉を確保するために購入した腐葉土を雑木林に投入」では目的と手段が逆転してしまう。

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2014/07/01

「全部載せ」の好きな人達

ツイッターでフォローしている人が、放射能の危険を過剰に訴え「福島に来ないで」「福島のものを食べないで」と主張する人は同時に予防接種にも反対していると指摘していた(なお「矯正接種」は「強制投与」の誤りで、HPVVとはヒトパピローマウイルスワクチンいわゆる子宮頚がんワクチンのこと)

この写真がいつ・どこで撮られたものかは明らかでなく、したがって誰が掲げているのか不明なのだが、よく見るともう一種類「立ち上がろう」というメッセージがある。それが何かは分からないものの、少なくとも2種類の互いに関連の薄い主張を同時に掲げている。

これとよく似た現象が、先日参加した映画上映会でも見られた。映画「原発の町を追われて」の正・続2編が上映されたのだが、会場で主催団体が配布したものは「労働者派遣法改正案」「武器輸出」「袴田事件」「イラク派遣」「集団自衛権」等とてんこ盛り(肝心の福島核災害関係も井戸川鼻血前町長とか集団疎開訴訟とか「もうやめて」と言いたくなる代物で、評価できるのは福祉作業所の障害者が避難時にどういう扱いを受けたかという指摘)。共催や協力・友好団体が自分の活動アピールをするのは分かるけど。

「全部載せ」しないと気が済まないのだろうか。でも、そうやって論点を多数並べると「全部で一致できなければ敵っ!」という不毛な選別に行き着きやすい様な。

この映画に関して言えば、加須(かぞ)市に設けられた避難所の中に入り、双葉町町民の声を記録したという点においては評価する(娘婿がFukushima50の一人だと誇らしげに語る町民には感動した)。また全編にわたって字幕をつけたことも、かつて学祭での映画上映に際し、聴覚障害を持つ学友のために手製字幕をつけた経験のある者として賞賛したい(「4号機は危ないよ、たぶん」という発言の「たぶん」をカットしたことは看過しない)。だが、その現実認識には首をかしげたくなることが多々。歪んだ認知に基づく行動が実害をもたらすのではないかとも懸念する。

それでもこの映画は一見の価値はあるとは思う。言ってみれば、チャーシュー好きなら麺やスープに不満はあってもチャーシュー麺を注文できる、みたいな。

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2014/06/29

遺伝子組換え作物見学会再び

日本モンサント社から毎夏恒例の遺伝子組み換え(GM)作物の試験栽培の見学会の案内を頂戴した。昨年8月の見学会に参加し、その様子をブログに書いたためだろう(モンサント社には連絡していたし、ツイッター上で参加を募っていたのぎ茶会のブログにも紹介されていたから)。といってもまた来いというのではなく、後から届いたメールによるとブログで紹介して欲しいという趣旨。

それで久しぶりに「遺伝子組み換え作物見学会のブログ」を覗いてみた。9月の見学会参加者の感想とか収穫までの報告とかが掲載されていた。ただ、残念なことに「次回以降は、参加者の方々から頂いたご質問にお答えしていきます。」と書いてあったのに、それはなく次の記事は2014年度の見学会案内(ただし、9月19日の記事でラウンドアップの残留性への質問には答えている)

今年の見学会は7月25日(金)から9月10日(水)までに16回開催(土曜開催も1回あり)される。費用は常磐線佐貫駅までの往復交通費のみ。1回の定員は25名(先着順)。1人から申し込める。逆に10名以上の団体であれば別枠での開催も検討とのこと。

私は昨年8月下旬に参加し、除草剤を撒かない対照区で雑草が荒ぶっている様子に圧倒された。後半に見学した方が耐性遺伝子導入作物と除草剤の組み合わせの威力を実感できるが、懐疑的なので丸め込まれたくないという人は前半に行った方が良いかもしれない(昨年の8月第一週にははっきりとした差が確認できる状態だったので、7月中が狙い目か? アワノメイガの幼虫もまだ小さいし)。今年の夏はどれだけ暑くなるかも分からないし、台風が来て以降の見学会は中止なんてことも考えられるし。

佐貫駅は上野駅から電車で40分弱の距離にあるが、利根川を越えることもあり、小旅行の趣がある(以遠から通勤している皆さんごめんなさい)。駅からはモンサント社の用意したバスで20分ほど田園地帯の中を走るので、都会の疲れを癒すのにも有効か。

圃場見学の前に1時間ほど座学がある。特に予習していかなくても理解できると思うけれど、懐疑的なので丸め込まれたくない(またかよ)という人は、自分の感じている疑問をまとめていくと良いだろう。質問をしたり意見を述べたりする際も、典拠が明確なら説得力があるし、モンサント社の人も回答しやすいだろう。もちろん〈消費者のモヤモヤとした気持ち〉を率直にぶつけるのもまた有意義ではあるけれど。

なお、日本国政府がすでに認めてしまったこと、たとえば栽培許可についてを蒸し返そうとしても無駄だと思う。仮に広報の人を言い負かすことができたとしても、栽培許可が取り消されることもないし、モンサント社が日本での展開を諦めることもない。25人枠をお仲間で埋めない限り、「反GMの人って」という顰蹙を買うのが落ち(鮮やかに立ち往生させられれば別かもしれないが)。そこは行きのバスの中で署名する同意書にある通り、運営を妨げない範囲で頑張ってください。むしろ本音を引き出すことに専念するのが吉かと。

そうそう、賛成であれ反対であれ、可能ならばダイズかトウモロコシを作っている農家の人と一緒、それが無理なら話を聞いてから参加すると理解が進むでしょう。作物に触れたことのない都会人が語る農業って、やはり地に足がつかないことが多いから。そして農業に従事している人には、世界の種子産業の考えていることはきっと参考になるでしょう。

あー、もいっぺん行ってみようかな。遺伝子組換えダイズで作った納豆もほしいし(ぉぃ)。単騎乗り込みはちょっとという人はご一緒に。

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2014/02/06

役所の個人情報取り扱い騒動

知人が市営駐輪場の利用を申し込んだ。ところが翌日に電話があって、身分証明書の写しが添えられてないので提出してほしい、と。そんなハズはない、ちゃんと出しましたと言っても、こっちにはありませんってな押し問答に。感心なことに「はい、分かりました」と折れなかった(なんでも窓口で別の書類不備を指摘され、その場で書いて「揃った」と確認して受理されたからだとか)

他の書類ならば、「自分の無謬性にこだわらないで、さっさと再提出」と助言するところだが、身分証明書というのは氏名・住所はもとより、生年月日やら場合によっては本籍地などと機微な個人情報の塊。役所で紛失は論外としても、「所内で紛失ということはありえません」と言い切れないのは取扱方法に問題がある。たとえば受領簿を用意して何時・誰が受け付けたのか分かるくらいにしておかなければ。

というわけで、役所に談判だと意気込んでいるところへ「個人情報の管理不備として突っつけ」と入れ知恵。そして駐輪場の管理部門ではなくて総務課に申し立てさせたところ、詳しい経過は分からないものの大捜索が行われたらしく、駐輪場管理事務所内で発見されたという。

道路交通課でも「身分証明書のコピー紛失は重大」と理解されたであろうけれど、個人情報管理問題では総務課の方が感度が高いだろうから、珍しく良い助言になった模様。少なくとも駐輪場管理事務所レベルでの掛け合いでは、コピーぐらい大したことないでしょと手間や金額の問題に矮小化されかねない。

ところで今回は丸く収まったようだけれど、考えてみると結構怖い。妄想をふくらませると、申し込んだのが窓口のおぢさんの〈個人的な嗜好に合致する〉人物だった場合、その住所を入手するために横領するということだって考えられる。手元に複写機があればさっとコピーできるが駐輪場にはない。若い人なら携帯電話のカメラで接写するだろうけど、おぢさんはそういう知恵が回らない。書類が不備なら内部調査することなく利用者の手落ちと決めつけて提出(利用者からすれば再提出)させるのが常態化していれば、安心して横領できる。もしかしたら電話をかけてきたのがストーカーで、あわよくば「再度こちらに来るのは大変でしょうから、こちらから出向きましょう」などと親切顔で居場所と家族構成を確認するつもりだったかもしれない。さらに利用が始まれば自転車にラブレターを貼り付けるとか、ここに書けないようなケシカラヌいたずらを仕掛けて管理人に相談させるマッチポンプとか...と妄想はふくらむばかり。なにせ警察官でさえ覗きやら盗撮をする時代ですから(時代は関係ないか。昭和には制服姿で強姦殺人に及んだ巡査がいたな...)

そもそもなんだってコピーを提出させるのだろうか。ブックオフでは万引きした本を持ち込む輩がいるので、買い取りの際には身元の確認を行うが、身分証を示すとコピーなど取らずカウンターで確認したらすぐ返してくれる(申込書に住所氏名を書かせるからコピーしたも同然ではあるが)。市営駐輪場は住民サービスなので、利用資格を確認する必要があるのは認めるが、受付書類に「〜で確認」という欄を設け、受理の段階でチェックすれば済むこと。

個人情報の取り扱いは神経質すぎるのも面倒だけれど、心配なら不必要な情報を抱え込まないような工夫は重ねて欲しいもの。

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2014/01/30

「建設反対」はまだ楽だけど

前のエントリーで、政府が2001年には「原発は絶対安全」の看板をおろして対話の緒ができていたのに、それを活用しなかったのは反対派の怠慢だと書いた。

しかし、公平のために言えば、原発建設に反対するのと、できてしまい稼動している原発を廃止するのとは難しさが桁違いではある。原発が建設着工し稼働すれば雇用やそれに伴う消費が発生する一方で、漁業権は売ってしまったから原発に依存しない生活は難しくなる。建設決定前であれば「事故が起きたらみんな死ぬ」的な危機煽りも役に立つけれど、稼動している原発を前に「だから止めろ」と言っても聞く人はいない。小さな確率の危険性と確実な不景気を秤にかけて、後者を選びとる人がどれほどいるだろうか。

都市型反原発は勝ち目のありそうな建設予定地を転戦するばかりだったのではないか。地元で反対運動を続けた人にしても、微量の放射能汚染の検出には熱心だったようだけれど、「甚大な放射性物質の放出を示す」事故には備えていなかったのではないか。チェルノブイリ原発事故の汚染は国境を越え、遠く北欧にまで及んだのだから、日本での原発事故を本気で心配した人ならば、近くに原発がないからと言って油断をするのはありえない。広瀬隆の『東京に原発を!』(1981年)にも、東海原発で事故が起きたら東京にも放射能雲が来て人がバタバタ倒れるという描写があった。真面目に心配したのであれば、実現性の低い「原発止めろ」よりはサーベイメーターの用意、線量ごとの行動基準決定などできることから手を着けているべきではなかったか。

もしかしたら大事故に備えていた人はいたかもしれない。「私はきちんと考え、できることをやってきた。その成果はカクカクシカジカ」という方には申し訳ない。しかし、それはたぶん少数派(=事故前の原発反対派)の中のさらに少数派だろう。

事故後の反原発行動の報道に、参加者の「ほれ見たことかという気にはなれない。事故を防げなかったことを悔やむ」という趣旨の発言があったと記憶するが、防げないなら被害を小さくする工夫を重ねるべきだった。原発事故や被曝被害について仔細に調べていれば、何が危険で何が注意を払えば済むことなのかの区別は付いていただろう。そして、推測に推測を重ねてしまうことになるけれど、「原発大事故が起きたらこの世の終わり」という悲観論が刹那主義を引き起こし、「原発をなくせなければ何をしても無駄」という無気力に陥っていたように感じる。

止まっている原発も電力供給が止まれば危険だ(事故を起こした1Fの原子炉もみな運転は停止していた)。使用済み核燃料も、すでに2万トン近くあり、再稼働の有無とは無関係に最終処分方法を決めなければならない。すでにある原発の脅威を下げることを怠ったのと同じ間違いを、すでにある使用済み核燃料の処分問題でも繰り返すのだろうか? 双方とも。

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2014/01/29

「原発安全神話」の嘘

かつて「原子力発電所の事故は起きない」と言われていた。いわゆる「安全神話」だ。実際に深刻な事故が起きた今「騙されていた」という人は多い。たとえば新聞一面に堂々と「3・11の原発災害で私たちは「原発は安全」という神話にだまされていたことを知った。」というコメントが掲載されている。本当だろうか?

2002年に「リスクと、どうつきあうか-原子力安全委員会は語りあいたい-」というパネル討論会が原子力安全委員会(当時)の主催で開かれた。そこでは「事故は起きない」という主張はなされなかった。

防災対策を重点的に充実すべき地域を決める際は「あえて技術的に起こり得ないような異常事態の発生を仮定」
当日もらってきたパンフレット「原子力安全委員会~安全確保に向けての積極的な取組み~」(2001年12月)を見ると、防災対策を重点的に充実すべき地域はあえて技術的に起こり得ないような異常事態の発生を仮定して決めると書いてある(p.16)。

緊急事態事象の例として「甚大な放射性物質の放出を示す事象」

(赤丸は引用者による)

またその15ページでは原子力緊急事態の例として甚大な放射性物質の放出を示す事象という説明がなされ、具体的には中性子吸収材(ホウ酸水)の注入によっても原子炉の運転停止ができないことが挙げられている(これはつまり制御できない臨界状態が継続している、いわゆる核暴走といわれる事態であろう)。ネットで確認できる例としては、2006年改訂の「原子力安全委員会:原子力安全の取組について」(PDF)の9ページに「甚大な放射性物質の放出を示す事象」が例示されている。

つまり国は原発事故は起こり得ますととっくに認めていたわけ。

その後発行された「原子力安全のひろば」の6巻(2004年春)には次のような〈反省〉がある。


科学技術を促進する立場にいる人、例えば政府や企業は無謬(むびゅう)主義の立場から、これまで「事故は絶対に起こらない」と言明することが多かった。逆に反対する立場の人は「ゼロリスク」を求めることが多かった。気持ちは理解するが、どちらもあり得ないことを主張しているわけで、これでは生産的な議論にならない。

考えてみれば、事故の可能性を認めたからこそオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)が設置されていたのだ(きっかけはJCO臨界事故)。また地元自治体には放射性ヨウ素による被曝の影響を抑える安定ヨウ素剤が住民用に用意されていた。絶対安全であれば、そんな備えはしなかっただろう(オフサイトセンター建設は公共事業になったかもしれないが、ヨウ素剤の備蓄が利権になるというのはかなり強引に感じる)。だから事前に大規模避難訓練ができなかったのは反対運動のせいだと言われるが、本当だろうかという疑問がわく。すでに原発があるなら「万々一に備えて」と言えば住民は協力したはずだ。旅客機に乗ってCAがライフベストの説明を始めても怒り出す人はいない。

もちろん福島のオフサイトセンターは機能しなかった。地震のために通信手段が限られ、食料・水・燃料が不足し、ついには放射能雲に追われるように逃げ出したというのだからお粗末極まりない。だが、その責任は国だけにあるのだろうか?

反対派の怠慢

かつて絶対安全論を逆手にとった東京に原発を!という主張があった。しかし、元が嫌がらせなので真面目に検討されることはなかった(すぐに取り組んで遠隔地にある老朽の福島第一原発を廃炉にして東京にミニ原発を作っていれば今般の災害は免れ得たのに!...その代わり立地は元の貧乏自治体に逆戻り...もっとも双葉町の「ポスト原発の町にとって人材の育成が重要であり...そのためには町立図書館の整備が必要」という取り組みは、もう原発は期待できないと分かれば成功していたかもしれない...この辺の事情は岩波書店がPDFで公開しているルポ「原発頼みは一炊の夢か──福島県双葉町が陥った財政難」参照...しかし事故の3か月前に掲載とはね。)

国が事故の可能性を認めたことで、生産的な議論になる契機はできていた。なぜ、避難訓練を始めとした事故対策の細部が詰められなかったのだろうか。一回大規模訓練をしていれば、20km圏全員避難の難しさは分かっただろう。そうすればより現実的な避難方法が検討されただろう。巨大地震との複合災害には思い至らなかったかもしれないが、台風や大雪だったらという想定の必要性には気づいたはずだ。

チェルノブイリ原発事故の汚染は国境を越えて広がった。広範な汚染を受けたスウェーデンは一時は大混乱に陥ったものの、その反省と対策を『スウェーデンは放射能汚染からどう社会を守っているのか』にまとめている。3.11後に訳出された本書の解題にあるように「本書に見られるような危機意識と万全な災害対策が日本でもきちんと共有され、適切な準備がなされていれば、福島第一原発事故のあとの対応は異なったものになっただろう」ことは想像に難くない。なぜ、それができなかったのか。

原発推進側が「事故はありえます。でも、0になるよう努力します。」と〈譲歩〉したときに、反対派は「ならば、その万一が起きたときにどうすべきか、それにはいくらかかるか」で臨むべきであった。それならば費用対効果が算出できた。「その手を抜いたためにこの事故が起きたら損失額はいくら」と分かっていたら東京電力ももう少し違った対応をしていただろう。ところが「原子炉事故が起きたらこの世の終わり」的な定量性に欠ける煽りしかしてこなかったから相手にされなかったし、実際に事故が起きてからも現実的な対処ができなかった。

かくいう私も「絶対安全を取り下げたのなら、それは結構」で関心が薄れてしまったので偉そうなことは言えないのだが、2002年には「話し合いの道が開けた」と安堵したものだ。「あとは賢い人達にお任せして」と思ったら、推進派・反対派のどちらもあまり賢くはなかったという... お任せ民主主義はよろしくない。

ちなみに前掲書を読むと、スウェーデンは原発事故は今後も起こることを想定していることが分かる。仮に日本が原発を全廃したところで、近隣国が同調する可能性はない。かつての核実験と同じように、否、より大規模に強い放射能雲が押し寄せてくるかもしれない。その時に対応できるのだろうか?

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2013/09/11

ラーメンのトッピング

麺やスープが駄目だったら、美味しいチャーシューを載せてもラーメン屋としては成功しない。うまいこと言うなぁと感心していたら、リンク先は自分のブログだった。

わたしがウダウダと書いたことは、この喩えに収斂される。除草剤耐性を導入して、雑草管理が楽になったからと言って、それだけでダイズの種子が売れるわけではない。収量や目的に応じた品質を満たさなければ、農家はその種子を買いはしない。

以前、EMのぼかし肥料を絶賛するのは都市住民(非農家)という話を聞いたことがある。実際に使った農家が否定的なことを言うと、農業未経験の都市住民から「石頭」みたいなことを言われた例もあるようだ。〈モンサントの悪行三昧〉を非難するのも非農家が多い、というのは根拠のない印象論ではある。種子市場の実際を知っている人の意見を聞いてみる必要があるだろう。

ちなみにモンサントは大企業ではあるが、トヨタやNTTと比べれば普通の会社で、大資本による市場独占というのとはイメージが合わないそうである。

モンサントの説明を鵜呑みにして、種子独占はないなんて書きやがって、この御用市民!と石が飛んで来るかとひやひやしていたが、思わぬところから援護をいただいた。感謝。

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2013/08/29

モンサント社の遺伝子組み換え作物デモ試験圃場を見学してきた

遺伝子組換え作物に対する立場は、原子力について以上に複雑だ。正統的科学教育を受けた立場からは拒む理由は少ない(とはいえ、学校で学んだのはタンパク質どまりで、遺伝子については雑誌の拾い読み程度で系統立てて学んではいない)。一方で、「知識人、とくに文科系の知識人は、その本性からしてラダイットなのだ」(Snow)から、その傍流の末席に連なろうとする身としては、前者に対して「専門バカ」「理科至上主義」という悪罵を投げつけて抵抗せざるをえない。

結局のところ、既知の組換え作物に対しては正面切って反対する理由はなく、種子の独占とか遺伝子汚染とかの懸念を盾に嫌味を言うのが関の山。

そんなところへツイッター経由で、日本モンサントの組み換え作物圃場見学会の情報が舞い込んだ。見学会そのものはモンサント主催だが、そこへ団体で申し込むので参加者を募集すると主催者サイトが次回の内容に更新されているので紹介ブログへリンク)。直感に誘われて申し込み。かくして8月25日(日曜)に、茨城県稲敷郡河内町にある河内研究農場へ赴いた。

車中から田んぼの向こうに見えた圃場。青い防風ネットが目印。

集合は常磐線佐貫駅。モンサントが用意したバスに乗り農場に向かう。車内で概要の説明を受け、同意書(1.スタッフの指示に従うこと、2.見学会の運営を妨げないこと、3.ほ場内の物を持ち出さないこと、4.写真・動画を公表する際はモンサントへ連絡すること)へサインする。2.はたぶん、途中で演説を始めてしまう人対策だろう。原発事故以降の放射線説明会でよく登場する迷惑タイプ。4.は商業出版が対象で、個人ブログなどの場合は事後通知で構わないという説明。説明の仕方が悪くて「モンサントがこう言った」と言ってない情報が広まることがないようにという趣旨だと。おかしかったのは、写真・動画は撮影完全自由にしていたところ、全編動画を撮影する人がいて、他の参加者から「あれでは質問しにくい」と苦情が寄せられたことがある、と(というわけで、スライド説明と質疑中は撮影禁止に)

日本モンサントは以前から当地で育種農場を運営していたため、組換え作物を栽培する圃場を設けるのに関しても地元から特に異論は出なかったらしい。苦情が来たのは、「見学会に来た人が撮った写真にうちの洗濯物が写ってないか(分かっていたら干さなかった)」というもので、これは見学会の日程を地元に知らせることで了解してもらったと。

気になったのは、研究農場周辺の道が狭いため地元車がバスとすれ違えず、脇道へ待避してもらったこと。これは見学者として責任の一端を感じざるを得ない。自家用車などで行く人は十分に注意してもらいたい(「組換え作物の栽培止めろー」などというデモはもってのほか...まぁ、仮に申請されても公安委員会が条件をつけるだろう)

二階建ての小さな研究棟世界的外資企業の研究農場というので勝手につくばの研究所的なものを想像していたが、実にこじんまりとした二階建て。

玄関 表札は立派なのが掲げてあったが、「御用の方はインターホンで」は手作り。
「ご用件のある方はインターホンを押してください」と手書きの案内 サンダルに履きかえて中に入ると壁にポスターがたくさん貼ってある。商品宣伝かと思ったら「倫理」とか「人権」とか書いてある(不覚にも撮り忘れた)。後で話を聞くと本社から掲示を指示されている由。2階に用意された部屋でスライドを見ながら小一時間座学。
詳細は省くけれど、意外だった点をいくつか挙げると
  • モンサントカンパニーは世界に約21,000名の社員を擁するが日本モンサント自体は小世帯
  • モンサントは種子そのものの販売よりは種子会社へのライセンス提供が大きい
  • 組換え作物体で製品化できたのはまだ2種類(注1)
  • 当面はマーカー育種(分子育種)が主力(注2)

ここは個人の感想です、というわけではないが、モンサント社から指摘を受けたので注釈を加えた。

種子独占の懸念

今の日本の農家、特に規模の大きいところがどれだけ自家採種(翌年撒く種子を自農場で生産)しているか知らないのだが、「自家採種」でググった結果を見るとどうも農協から毎年購入しているところが多そうだ。

自家採種が主流の時代ならば、種屋から毎年買わないと営農できないというのが忌避されるというのは理解できる。自家採種できないようにF1(雑種第一代)にされたら歯噛みしたくなるのも分からないでもないが、それは社内講習用に教科書を一冊だけ買ってコピーして使うのと似たようなもので、威張れる話ではない。モンサント社は「映画「モンサントの不自然な食べもの」への見解」の中で、他の種子会社も「収穫した種子を播種しない」という契約を農家と交わしていると主張している。

種子が外国企業によって独占ないし寡占化されたら、食料戦略の首根っこを押さえられたようなもので、独立国としてありえない!と噴き上がる方がいるかもしれない。だが、不作が続くソ連にコムギを輸出して戦略的優位に立ったと思ったアメリカは、いざ禁輸で締め上げようとしてもうまくいかなかった歴史がある。売れなければ作っているアメリカの農家も、売っている商社も干上がってしまうのだから抜け道を見つけるに決まっている。

しかもモンサントは種子を直販だけしているわけではない。全米で100社あるという種子会社への技術提供も事業の一つ。これは当然で、遺伝子組換えで導入できるのは単機能。除草剤耐性だけ入れればそれだけで売れるわけがない。従来の売れ筋に導入してこそ意味がある。そして種子の売れ筋とは、農地の環境とか消費者の嗜好によって異なるわけで、それを単一の種子(品種)で押さえることは不可能。仮に強大な権力が作付品種を強制できるような状況になっても、日本人からジャポニカ米を取り上げてインディカ米を強制するのは政治的に好ましくないと判断されるのではないだろうか。

なぜ除草剤耐性が真っ先に導入されたかを説明しておこう。農地における雑草との闘いには長い歴史がある。草取りは、機械でも不可能ではないけれど基本は人力で重労働。耕耘は土地によっては表土の流出をもたらす。除草剤は選択性、つまり雑草も枯らすが作物も枯らしてしまうのが問題に。そこで選択性は低いけれど安全でよく効く除草剤に対する耐性を作物に導入できれば、雑草防除が楽になるという発想。農地が広大な場合、耕耘も草取りも不要というのは経費的なメリットにとどまらず、化石燃料消費や温暖化ガス排出を抑制する効果も出る。

というわけで、「世界の種子をモンサントが独占し、毎年の購入を強制され、農業の自立のみならず食糧安保から国家の独立までが脅かされる」というのは、ちょっと妄想入っているという感じになった。

隔離ほ場へ

座学を終えてバスで圃場へ向かう。遺伝子組換え作物を栽培する隔離圃場というと厳重な物理的封じ込めを想像するが、国の指示によれば柵で明瞭に区切ること、隔離圃場である旨を表示すること、そして水洗い場を用意することの3つで足りるらしい。最後の水洗いとは、圃場から外部への種子などの持ち出しを防ぐため、農機具や靴裏を洗うのが目的。ちなみにここで栽培されている遺伝子組換えダイズ、遺伝子組換えトウモロコシは、いずれも日本国内の一般圃場での栽培も認められている品種である。

青い網を張った柵が境界。隔離圃場の外側にもトウモロコシ青い網を張った柵が境界(隔離圃場の条件1)。手前のトウモロコシは圃場への害虫誘引のためのスイートコーン。

隔離圃場であることを表示する看板 入口そばのフェンスには隔離圃場であることを示す看板(隔離圃場の条件2)。立入禁止の看板も。
立入禁止の看板
見学者も長靴に履き替える 圃場に入るには見学者も長靴に履き替える。
洗い場には蛇口が4つ。水を張ったトロ舟は靴洗い用。たわしやブラシも用意されている。 退場時の長靴や持ち出す農機具を洗うための設備も用意(隔離圃場の条件3)。
雑草ぼうぼうの対照区 ダイズの圃場は4区画あり、除草剤(ラウンドアップ®)を撒かない、耐性を導入して除草剤を撒く、耐性を導入しないで除草剤を撒く、耐性導入しない在来品種(エンレイ)で中耕除草(慣行栽培)の順。
雑草をかき分けるとダイズが見える 最初の無除草区に植えてあるのは耐性導入ダイズ。あまりの雑草繁茂ぶりに見学者の一人から「ここまで放置するのはやり過ぎ」という批判もあった。ただし、隔年でトウモロコシとダイズは位置を入れ替えているので、前年の影響で現実以上に雑草が生い茂る脅威はないとのこと。
雑草がなく、ダイズだけの試験区 試験区は除草剤耐性を導入し、ラウンドアップを1回だけ撒いてある。1回だけなので、その後発芽する雑草もあるが、先に育ったダイズの影になるため生育できない。
ラウンドアップ散布の様子を写真付きで説明するパネル
Imgp0762 ラウンドアップ耐性を導入しないで除草剤を撒けば見事に立ち枯れ。しかし散布後に発芽した雑草は伸びつつある。
除草剤耐性を導入しないエンレイの区画には雑草も 耐性を導入しないエンレイの方が育って見えるのは品種の違いだとか。なお、エンレイ区の除草は手作業とか(ご苦労様)。
トウモロコシと説明役のUさん ダイズ畑の反対側はトウモロコシ畑。こちらは殺虫成分(BT)導入の有無を比較。向かって右はBT導入で、左は対照区。心なしか元気がなく枯れた葉も目立つ。この写真では分かりづらいけれど、モンサント社撮影の写真では背丈には若干の差が出ていることが見て取れる。 写っているのは広報部のUさん。農学部を卒業されてから商社で穀物輸入を担当されていたという。もしかしたら、分別輸入の煩わしさに「こんなことをやっていたら駄目だ」とモンサントに入られたのかな?と想像してみた。
トウモロコシに取りつくガの幼虫 トウモロコシを食害するガの幼虫。これは植物体の中に入ってからでは殺虫剤がかからない。
トウモロコシ畑には雑草がない トウモロコシ畑には雑草がほとんど無い。「こちらはどうやって除草を?」と聞くと手作業との返事。なお、害虫耐性とラウンドアップ耐性の両方を持つスタック・トウモロコシはすでにある。ただし、こちらの観察記録は2006年8月4日で途切れているのが気になるところ。
Imgp0771 今回見学したのは圃場の1/4程度のようだ。フェンスの向こうにもトウモロコシ畑。
Imgp0770 出る前に服を払い、長靴を洗う。この後、靴を巡るハプニングがあったけれど割愛。

アンケート

圃場からバスで駅まで向かう途中、アンケートの記入を求められる。が、揺れる車中ということもあり「メールでも構いません」と。それでも形があった方良いだろうと思い「詳しくはメールで」と記入して渡す。

その晩に送ったメールは以下の通り。

1.見学会の感想
企業の〈説明会〉の評価は〈買収的お土産の有無〉で決まると思っていた。ら、「遺伝子組換え大豆使用」製品という直球勝負に出られて驚いた。
しかも、もう一つのお土産が交配育種で作ったお米「とねのめぐみ」というのも、「モンサントは遺伝子組換え企業」という先入観を木っ端微塵。
向かいのダイズ畑が「ラウンドアップ散布1回で除草OK」なのに、トウモロコシ畑の除草は人力と聞いて涙を禁じ得なかった。
対照区に対して「まったく除草をしないのはありえない」と批判している参加者がいたが、むしろ「雑草の種を撒いている」と近隣から抗議されない方が不思議に感じた(その辺は微妙な事情が存在するようですが)。
実は植物としてのダイズの姿を知らなかったので、やっとイメージできるようになった。
見学させていただいた圃場の奥、あるいは左にも圃場があったが、そこでは何をしているのだろうか。
圃場での実験の意義が理解できなかった。正直なところ、〈見学用圃場〉以上の意味はあったのだろうか?
おまけ:選択性除草剤を開発している会社はどう思っているのだろうか?

2.GM作物への考えは変わりましたか?
はい(種子独占はないと理解)

(以下省略)

「圃場の意味」については2005年の栽培実験計画書(PDF)を見ると、主たる目的は展示ほ場として見学者にその効果を見せることらしい。なお、この年の害虫耐性実験の様子が「害虫抵抗性トウモロコシ観察記」として公表されている。

また2006年の栽培実験計画書(PDF)を見ても、主たる目的は展示ほ場として見学者にその効果を見せることらしい。なお、2004年の除草剤耐性実験の様子が「除草剤耐性大豆観察記」として公開されている。ここでは慣行区(対照)、土壌処理剤散布区(対照)、ラウンドアップ散布区(実験区)の3つに分けていた。慣行区は畝間の雑草を機械で鋤き込む中耕培土作業で除草。土壌処理散布区は土壌処理型の除草剤を播種前に散布して放置。

おみやげ


Imgp0790アンケートにも書いたが、お土産は「遺伝子組換え大豆使用」製品という直球勝負。
組換え作物とは関係の無いノベルティか何かであれば、「懐柔を図りやがったな」というところだが、「組換え作物は恐くないってお分かりでしょ(ニッコリ)」と差し出されれば「抵抗は無意味だ」。早速その晩、美味しくいただきました。

Imgp0781 もうひとつはお米だが、河内研究農場で開発された品種とあれば文句のつけようがない(従来育種法)。
ところでこの「とねのめぐみ(「タイムアウト」と表示されたらいったん戻って再クリックする)をググッてみたところ、「モンサントが遺伝子組換え米を!」と騒ぎ立て、後日訂正記事をアップしながらも「モンサントはとても嘘つきな企業です」と往生際の悪いブログを発見。そのエントリーには河内農場見学記が引用されていて
『試験栽培中につき関係者以外の立ち入りを禁止します』の看板が、ものものしい。訪問ツアーを企画した地元男性(50代)は「警戒が厳しくなっているなあ。去年の秋まではこんなじゃなかったのに…」と忌々しそうに呟いた。
と、まるで軍用基地みたいな描写。そりゃまぁ、訪問する方が嫌われ者を自認しているからそう見えるのもむべなるかな。
「TPPで日本がひっくり返る。遺伝子組み換えは、取り返しがつかないくらい危険。モンサントは悪徳企業だ。なぜ日本のマスコミは報道しないのか」。埼玉県川越市から遠路訪れた主婦(40代)は口を尖らせながら話した。

ちなみに出所は田中龍作ジャーナル。名前はよく似ているけど「犬吠埼に風力発電を建てたら「東京電力がまかなっている電気が全部作れます」」は田中優なので混同しないように。

補足

事前に目を通したモンサント社のよくある質問には、違う質問への回答をするという重大なミスがあったが、フォームから連絡しておいたせいか週明けには修正された。しかし、組換え作物反対派の皆さんはあのFAQを読まなかったのかなぁ。読んでも気づかなかったのかなぁ。

続きを読む "モンサント社の遺伝子組み換え作物デモ試験圃場を見学してきた"

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2013/07/20

棄権も無効票も白紙委任などではない

参議院選挙の投票日が明日に迫ってきている。与党圧勝が予測され、投票率の低迷が懸念されている。そのためいつも以上に「棄権は白紙委任」「白票や無効票は無意味」と叫ばれているがどうも腑に落ちない。

一つには「究極の選択」と言われる選挙を経験しているからだ。地域ボスと極右泡沫しか立候補していない選挙でどうしろと?

似た様なしらけ選挙で、極左泡沫候補よりも白票・無効票の方が多かったという例もある。この場合も投票論者は極左泡沫に投票しろというのだろうか? あえて投票所まで足を運び「全員にノー」は立派な意思表示ではないか。

しかし法定得票の計算にも供託金没収点の計算にも、使われるのは有効投票総数であり、白票や無効票は蚊帳の外。一撃にならないどころか、痛痒も感じさせられないのも事実。

選挙拒否は政権正統性の否認

幸いにも自分がいる選挙区は今回「コレラとペストのどちらを選ぶ?」的なひどい選挙ではないけれど、同情を禁じ得ないところもあるだろう。本当に「最悪を避けて次悪を選ぶ」ような選挙は正しいのだろうか?

そんなことを考えているうちに恐ろしいことに気がついた。若年齢層の低投票率が問題視されているけれど、選挙に行かない人はその結果に責任を感じない、つまり選挙で成立した政権の正統性を認めないのではないだろうか?

正統性を認めない政権であれば、銃によって覆すことにも躊躇いは覚えないだろう。

軍隊のない日本では、若者どころか国民の多くが銃器を扱った経験がない。だからユーゴスラビアやシリアのようなことにはなるまいと思われているだろう。しかし銃なんてのは少し訓練すれば使えるようになる。あさま山荘に立てこもった連合赤軍の狙撃はとても正確だった。それに100万人の犠牲者が出たと言われる94年のルワンダ虐殺では山刀などが使われている。

以前に引用した鈴木貴博のコラム「ホリエモンは四度(よたび)蘇える 」を再度引用しよう(前回引用した日経BPのページは削除されていたのでインターネットアーカイブから)

そんな世代間の闘争が、残念ながらこれから先、再び、そして三度(みたび)起きてくる。我々の世代が、若者の世代に雇用機会をはじめとする様々なチャンスを平等に与えられなければ、きっとそうなることだろう。

そして、なんとかそれらの若いパワーを権力で押さえ込まずに、解決の道を見つけてあげられないと、我々の世代も含めて未来は暗いものになるだろう。

なぜそう思うのか? もし三度、若い世代の闘争を権威でつぶしてしまったとすると、四度目に現れる若き挑戦者はおそらく武力と集団を武器に現れる。そしてそれは先進国としての終わりを意味するであろうからだ。

著者がなぜ「先進国としての終わりを意味する」と考えたのかは分からない。しかし、革命が一気に成就しない場合は長い内戦に突入することが考えられる。下手をすれば外国勢力が介入してくるかもしれない。いくつかの事件が憎悪を掻き立てれば平和は遠のく。失敗国家への転落だ。

革命は一気に成就するだろうか? たぶん無理。むしろ初期は容易に鎮圧される。そのうち鎮圧の行き過ぎが傍観していた国民の憤激を招いて泥沼化、というのが悪い予想。

先の引用の前には次のようにも書かれている。

第二のチャレンジャーは、もう一度カネとチエを集めて攻めてくるかもしれない。彼/彼女が敗れた後の第三のチャレンジャーは、今度はネット社会を使って老人たちから見えない形で攻めてくる可能性もある。

革命を指導する〈党〉が存在すればまだ希望がある。攻める時と退くときとを弁えて、無茶を避けてくれるだろうから。しかしそんな優秀な指導部は存在しないだろう。自称する連中は現れるかもしれないが。それが複数現れて群雄割拠に向かえば戦国時代の再来。

だから、いま投票をしない若者に対しては、偉そうに説教を垂れるのではなく、選挙で成立した政権の正統性を認めていただくよう伏してお願いすべきなのだ。認めた上での棄権であれば問題はない。

しかし投票所に足を運んで抗議の意思表示をする白票・無効票を投じた人たちはどうであろうか? その声無き声を無視することは危険極まりないことに思える。

まずは白票を含む無効票の分析をしっかりとすることだ。他事記載は現代の落首になっているはずだ。無意味な抵抗に終わってしまうのは、意味を読み取ろうとしなかったから。殴られる前に読み取った方が良い。

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2013/04/19

残念! クラゲドリーム債

館内のレストランで「クラゲラーメン」を出すなど、特異な展示をしてきた山形県鶴岡市立加茂水族館(わーお、ドメイン名もkamo-kurageだ!)を2014年にリニューアルオープンするために、鶴岡市が市債を公募した。その名も加茂水族館クラゲドリーム債

新聞記事でそれを知り、支店が一番近いきらやか銀行に電話をしてみたところ、「関心が高く、先着順のために割り当ての少ない当行での申し込みはお薦めできない」という意外なお返事。そこで割り当てがもっとも多いという荘内銀行で購入すべく、口座を開いたのが3月。最近はマネーロンダリングを防ぐとかで、口座一つ開くのにも色々うるさいが、目的を告げると好意的に質問に答えてくれた。購入代金は現金よりも預金の方が処理が早いとのこと(現金持参の場合、いったん口座に預けることになる)。そんなこともあろうかと持参した購入資金を預金し、準備万端とほくそ笑みながら帰還。

唯一の心配は受付開始日までに就職が決まってしまい出勤日になってしまうことだったが、幸か不幸か音沙汰がなくメールを送ってもナシのつぶて、電話をしても出ない一社を除いてすべてリジェクト。

受付開始の18日。一番乗りを目指して久しぶりの満員電車に揺られて日本橋室町に赴いた。開店前に行っても仕方あるまいと思いながら支店のあるビルに入り、エレベーターの前に行くと人がいる! 胸騒ぎを覚えながらエレベーターに乗り込むと、支店のある階のボタンが既に点灯! この人もそうなのか。エレベーターが止まる。位置的に先に降りることも可能であったが、ぐっとこらえて順番を譲る。エレベーターホールに出てみるとなんと人が並んでいる。「これはきっと北都銀行の...」と思おうとしたが、そんなのは自己欺瞞。開店前からクラゲドリーム債を買おうという人が並んでおり、整理券が配られている。私は16番。もし抜け駆け的にエレベーターを先に降り、整理券15を受け取っていたら、開店を待つ間は針の筵であったろう。人間、常に公正に振舞わないといけない。

見れば入り口に貼り紙が。

「開店までお待ちください」と「整理券を配っています」の2枚の貼り紙

やがて9時。整理券の順番に受付が始まる。どうやら窓口ではなく応接室を使うようだ。初めて来て、口座をこれから開く人もいるのかな... 行列は少しずつ進み、ホールにはイスも運び込まれて全員が座れるようになった。行員が申し訳なさそうに山形県の観光パンフレットの入った袋を配る。往復の電車の中で読もうと思って持ってきたビッグイシューを読みながら待つ。

9時15分。「申し訳ありません。クラゲドリーム債は売り切れました」 なんと。東京支店で購入できたのはわずかに3名。そのうちの一人の女性は、それを知って頻りに「ごめんなさい」と頭を下げるが、皆さんにこやかに「良かったね」。

取材のテレビクルーまで来ており、購入できた人はインタビューを受けることに。

呆然の体で一階まで降りるが、来年に予定されている次回発行分(今回の倍、6億円)を購入するにせよ、普通預金で放っておくのはもったいないと気づいて支店まで戻って定期預金に預け替えた。その手続き中にも、何も知らずにやって来てクラゲドリーム債を申し込もうとする方が。

結局、1年間「スポーツ応援定期」で預けることにした。J2のモンテディオ山形がJ1リーグへ昇格した場合、またはプレーオフ進出した場合は特別金利になるという。こう聞けば、それまでサッカーに興味がなかった人も順位を気にし、J1昇格の暁には一緒に喜んでくれるだろう。うまい仕組みだ(過去にはイチロー預金なんてものもあった)。ちなみに荘内銀行サイトの説明ページにはタイポがあったけれど、19日に電話をしたところ晩には修正されていた。

あまりにもあっさりと売り切れてしまったので、「他行では買えるかも」と考えた人もいるようだが、午後には早々と完売しましたと鶴岡市財政局が宣言していた。報道によれば20分で完売したとも。さっさと諦めて良かった。

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2013/02/09

有機栽培というブランドの価値があらわになった

私は農学部の出身ではあるけれど、農芸化学という農業実務とはやや離れた分野であったせいか有機農法というものに憧憬をいだいていた。あるいは青年にありがちな、「正統派に与しないことへの陶酔」もあったかもしれない(科学から逸脱しなかったのは幸いである)。農薬化学の教授は、種子殺菌に水銀剤を使うと味が良くなるとか成長が良くなるとか(もう詳細は覚えていない)言って、反農薬の風潮には軽侮を示しつつ無視。それに軽く反発してこっちも単位だけは頂戴するという態度で卒業(作用機作とかそういう話だから別に節を曲げる必要もない...が、ちゃんと話を聴くべきであった。)

しかしながら、2011年の3月以降、有機農法大好きで農薬や化学肥料は嫌いであろう人達(なんと呼ぶべきであろうか)の無残な壊れっぷりを目の当たりにし、それ以前から遺伝子組換え体やEMの評価で疎遠になっていたこともあり、「あの人達の主張はすべて再吟味が必要」ということで有機農法には相当懐疑的になってしまっている。

というわけで、「どうすれば「みんなで決める」ことができるのか?(『みんなで決めた「安心」のかたち——ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』(亜紀書房)刊行記念イベント)に参加して、渡された自然農園レインボーファミリーの資料に有機農法で頑張ってます的なことが書いてあるのを見て、開始を待つ間、裏に次のような走り書き。

もう少し酷い事故だったらどうするんだろう?
「自給のふり」というフレーズが浮かんだ。
ある種のぜいたく、オーバースペックではないか。

もう少し酷いというのは、20Bq/kgなんて言っていたら食べるものがなくなるような汚染をもたらす事故。ただし100Bq/kgという国の基準はぎりぎり超えないので、基準を信頼すれば食べるものには事欠かず、おそらく健康被害は生じない。少量の放射性セシウムも拒否する人は伯夷叔斉のように飢えて死ぬ道を選ぶのか(事故前に作られた缶詰や冷凍食品で生活するには相当の経済力が必要になるだろう)

自給の振りというのは、化学肥料や農薬抜きでの生産量では、おそらく現存の人口を維持できないということ。日本に限ってみたところで、全稲作農家が有機栽培に踏み切れば米不足に陥る。一部の人間がロハスな生活を満喫するためには、その他大勢は化学肥料と農薬で育った作物で命を繋ぐ必要がある。物の価値が分からぬ人間に、無意味に手間の掛かったものを高額で売りつけているとも解釈できるが、金にあかして〈良い食べ物〉を独占する姿はかなり醜悪だ。

ある種の贅沢というのもそれを指している。本当にそんな手間をかけただけの価値はあるのだろうか?という疑問。

そういう暗い気持ちでトークセッションの始まりを待った。スピーカーの一人、五十嵐泰正さんが「「My農家を作ろう」方式の放射能測定がもたらしたもの」の中でとんでもない間違い(指摘に応じて現在は修正済み)を書いていたことも影響している。20Bq/kgという自主基準も、数値だけ聞くと「なんだかなぁ」(これは次の「地産地消のためのセカンドオピニオン」まで読めば諒解できる値)

しかし、実際にトークが始まってみるとそれらは杞憂だった。第二部では農薬・化学肥料抜きでは食料供給は支えられない旨の発言もあり、とても常識的な展開。そしてとても参考になった。

なかでも、事故直後の不安でいっぱいな状況ならいざしらず、1年経ち2年経ち、計測結果も蓄積してきたにもかかわらず、相変わらず0ベクレルでなければ一口でも食べたら病気になると言わんばかりに忌避している人たちがいるけれど、そういう人たちを「自分たちが相手にする対象ではない」と言い切ったところに感心(それではどんな人が対象なのかというと、「柏という地元を愛する人」)。これは民間団体だからできたことで、少数派へも目配りしなければいけない行政ではとても(部局を限定すれば可能かもしれないが)できない。

行政にはできないことをやる以上、「行政をせっつく運動」にならなかったのが成功の要因だろうか。せっつく運動はともすれば外部に悪者を設定する運動になりやすい。そして人を攻撃していても前には進まないことが多い。そういう不毛さを回避したのは立派。

ただ、柏を離れた概論のところで述べられた「震災は隠されていた問題を顕在化させた」という指摘はその通りだし、大きな原因である人口減少が進行する時代を迎えてコミュニティのコンパクト化を進めるのは合理的選択だとは思うけれど、これも外部の人間があれこれ指図することはできない反面、広域(地域間)での調整も必要で、いくら〈地域のみんなで決めたこと〉であっても通らないことが多々出てくるだろう。これは難しい問題。

さて、事故後、二回の収穫を経て、農産物に放射性セシウムが取り込まれる条件が見えてきた。端的に言えば、土壌が強く放射能に汚染されていても、そこからとれる農産物を安全にする目安が得られている。きめ細かい測定をしている柏はもちろん、抜き取り調査をしている福島県産にしても、危険なほど汚染されたものが市場に出回る蓋然性はとても低い。そうなるとむしろ他県産だからと測定されていない農産物とどちらがより安全だろうか? にもかかわらず福島県産であるというそれだけの理由での忌避に正当性は認められるだろうか? もちろん心配な人が産地を選択するのは個人の自由だ。だが公に福島産農産物を非難し、たとえば店頭からの撤去を求めるような行動に出れば、それは不合理で反社会的なものとして指弾される時期が近付いているように感じる。そしてそういった〈市民の不安〉を尊重するあまり科学を蔑ろにするような擁護を続けてきた人達にも批判が向けられるようになるだろう。このあたり五十嵐さんは歯切れ悪く語ったけれど、私の脳裏には幾人もの人文・社会系の知識人の名前が浮かんだ。辛辣な予想を述べるならば、そうなった暁には「放射能が怖かったんだから仕方がない」と、追い詰められた外国人排斥派と同じロジックを持ち出して破産する者続出であろう(そんな浅ましい弁解が出ないことを切に願う)

(「同じロジック」というところを理解しない人はいるだろうか? いるだろうな...)

このトークイベントには「ふくしまの話を聞こう」を主催する福島おうえん勉強会のナカイ代表も参加されていた。なんと第一部についてはツダっていたようなので、そのツイートも参考にされたい(いま当日のツイートを朝の分から見ると、ほかにも興味深いツイートが。これとか)

第二部も愉快だった。遠藤哲夫さんを見て「もしかして船瀬俊介みたいな人?」と警戒したのもつかの間、「地域作りの運動をアートとか文化でやろうというのはあんまり信じてなくて」とかおっしゃる。相手をする五十嵐さんも、購買におけるストーリー作りを評して、はじめは胡散臭く思っていたが、ストーリー込みで消費するのも結構〈アリ〉なのではないか「GDPって、こうやって増やすものじゃないかな」と会場を笑わせる。

(ストーリーを付与されると味が良くなる件については、以前「私たちは騙されている、のだろうか」で触れた。しかし一言居士として付け加えるならば、どんな名産を使いどんな名人の手によって料理されたものであっても処刑前の最後の食事であれば、とても喉を通らない代物になるだろう。食事のシチュエーションも大事。その意味で「Hunger is the best sauce(空腹は最高のソース)」も誤りで、楽しい仲間こそが最高のソースではないだろうか。ツイッターで「ごはんたべたい同士を発見します」なんてお遊びが流行るのもむべなるかな。)

日本の食を実際に支えているのは化学肥料と農薬と認める発言があったのは前述の通りだが、どうも無農薬・有機栽培の虚構性を暗黙の了解にしているようにも感じられた。

その虚構も楽しむためのフィクションであれば有益であるのだが、「健康のためなら死んでも良い」と揶揄される執着に結びつくと笑ってもいられない。福島県の飯舘村がつとに有名だが、有機農業に取り組み、都会への直販に活路を見出そうとしていた農家は多い。ところが営農が難しくなった福島第一原発近辺はさておき、ほとんど汚染のなかった東北地方の有機栽培農家も事故後は注文が途絶えてしまったという。もともと有機栽培にこだわるような消費者は放射能にも人一倍敏感なのだから当然といえば当然なのだが、検査をしてほとんどあるいは全く放射性セシウムが検出されなくても、その人達は戻ってこない。手許のメモには「無農薬フリークに依存する危険性か」などと皮肉な走り書きがあるけれど、生産者は消費者のことを志を同じくする仲間だと思っていたのに、遠くの消費者は農家が仲間だとは思っていなかったという悲劇。この〈裏切り〉を農家はどう思っているだろうか。

と、第一部の後の「〈柏産柏消〉セッション!」での笠原秀樹さん自然農園・レインボーファミリーの発言、「農業は自由でいいですよ。矛盾なく生きられる。嫌な客には「お前に食わせる野菜はない」と言える。」がとても意味深に響いてくる。


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2012/12/15

総選挙への心得

明日16日は総選挙である。首長選の場合、「コレラとペストの選択」あるいは「火焙りか絞首刑かの選択」という事態に陥りがちであるが、幸いなことに総選挙はもう少し現実的な解がある。

まず小選挙区。
1)現政権を、積極か消極かを問わず支持する場合は、与党候補に投票する
2)現政権を支持しない場合は野党候補に投票する
2-1)複数の野党候補が立候補していて、政策で区別が付く場合は支持できる政策を提示している野党候補に投票する
2-2)政策では丙丁つけがたい、あるいはどうせ政策なんて選挙が終われば弊履みたいなものと思える場合は有力候補に票を集中させる(一本化)
2-3)一本化ができない場合、つまり団栗の背競べというか拮抗している場合は、年齢が若い、女性である、変なことを言ったりやったりしていない、で選別する

党は支持したいけれど、コイツは支持できない」だと悩む。その場合は、わざわざ入れなくても当選しそうな場合は棄権あるいは二番目に支持できる党候補へ、接戦の場合は涙を飲んで糞候補に投票する。ただし、情勢分析はアナウンス効果でひっくり返ったりもするので要注意。

支持する党が選挙区に候補を立てていない場合は、連立を組む(組むと予想される)党の候補に投票するのも一法だし、最有力候補かその対抗に投票するのも現実的(本命が気に入れば本命へ、気に入らなければ対抗へ)。

次に比例代表区。なぜブロック制なんて訳の分からない制度になっているのか、という怒りはさておき、ここでも現政権を消極的でも支持できる場合は与党へ、そうでないならば野党へが第一ステップ。

但し今回のように政権交代が予想される場合は、次の政権を支持できるかどうかでも考えた方が良い。次の政権を支持できる人は無問題だが、今の政権も予想される次の政権も満足できないという人は、次の政権に対する最大野党の育成に気を配るべき。

もちろん比例代表制の精神は二大政党制を理想とはしないので、弱小政党に投じるのも構わないというか、それが本義。

小選挙区と比例代表区で投票先をかえることも検討に価する。特に積極的な支持政党(しかしそこは伸びそうもない)がある人は、比例代表区はそこで構わないけれど、小選挙区においては戦略的に振る舞った方が賢明ではないだろうか(比例区復活は見据えつつも)

忘れてならないのは、自分が誰に投票したかを次の選挙まで覚えておくこと。それと、投票行動が選挙結果に結びついたもののその後の政治動向が意に染まぬ方向に進んでも「騙された」などとは口走らないこと。

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2012/03/26

エタノールで良いのか

飲むアルコールならエタノールに限りますが、そういう話ではなくて。

ツイッターで、放射性セシウムで汚染された米の使い道についてさえずっていたら、「がんばれ、東日本の米作り!③ 米のバイオエタノール化の現状と展望」というシンポジウムを教えていただいたので聞いてきた。

基調講演「コメ・イネのバイオエタノール化の現状と展望 被災地におけるバイオエタノール生産」
横山伸也(東京大学名誉教授・鳥取環境大学教授)

話題提供「新潟におけるバイオ燃料地域利用モデル実証事業の成果と課題」
中澤靖彦(JA全農 営農販売企画部長)

話題提供「多収穫イネ栽培のLCA解析」
芋生憲司(東京大学大学院農学生命科学研究科・教授)

話題提供「苫小牧市でのバイオ燃料プロジェクトの取り組みについて」
大﨑威司(オエノンホールディングス㈱ 苫小牧事業開発室 GM)

話題提供「北海道水田・畑作農業の現状とバイオエタノール事業の取り組み」
浅野正昭(北海道農業協同組合中央会 農業対策部次長)

総合討論 

各講演で使われたスライドは「イネイネ・日本」研究会の会員専用ページで公開されるという。

エタノールの弱点

聞きに行く前から感じていたエタノールの弱点は次の2つ。

熱量が小さい
 1gで約27000Jと、ガソリンの44000Jに比べて7割以下。
既存のガソリンエンジンに単独では使えない
 熱量が小さい上に腐食性がある。そのためガソリンに3-10%混合するにとどまっている。

そうするとブタノールやバイオディーゼル燃料の方が有望ではないかと考えていた。無改造または簡単な改造で既存車に使用でき、完全代替も可能(実際にはそうそう簡単ではないようだが)。

汚染された農地

東京電力の原子力発電所事故により放出された放射性セシウムにより農地や水源が汚染されたため、出荷できない米が積み上がっている。また今後生産しても規制値を超えてしまい出荷可能な米が収穫できないと予想される農地ができてしまった。

除染すると言っても、汚染されているのは農業に重要な表土部分。削りとってしまえば土作りからやり直しだし、大量の汚染土の処分法も決まっていないから現実的とは言えない(反転法でも土作りの問題は残る)。また化学的にセシウムを分離する方法は、経済性まで含めた有効性以前の問題として、土壌の栄養分や微生物相を破壊してしまうことが懸念される。

なお、微生物によって放射能の減衰を早めることはできない。ひょっとすると菌体内に蓄積するものはあるかもしれないが、菌を回収しなければ意味はないし、回収すれば低レベル放射性廃棄物ではすまないだろう。素人には扱えまい。また土質を大きく変える可能性がある。「微生物で除染」をうたう業者は疑ってかかるべき。

それで、「ナタネでも植えて、油を売りながら放射能の減衰を待つしか無いか」などと考えていた(「油を売る」はバイオディーゼル燃料を念頭において)。

ところがである。話は聞いてみないと分からない。シンポジウムでは複数の演者が「農家は米を作りたい」と強調していた(理由はあえて詮索しない)。そして田圃は耕作しなければ荒廃するとも。

放射能汚染米の用途としてのバイオエタノール

汚染農地で米を作り続ければ汚染米が蓄積される。闇流通を防ぐために国が買い上げるにしても、埋却あるいは焼却するための米生産では農家もやる気が出ないだろう。帝政ロシアでは政治囚を苦しませるために、穴を掘らせて埋めさせる繰り返しという作業をさせたと聞くが、人間は意味のない仕事に耐えられない。

放射能が十分に減るまで倉庫保管という手もあるが、その頃には他所は検出限界下の米ばかりで、規制値未満とはいえ検出されるような米に買い手はつかないだろう。そもそもそんな古古古古古米を誰が食べるだろうか。(食糧難でも来ていれば別)

そこで出てきたのがバイオエタノール。蒸留して得たエタノールに放射性セシウムが入ることは理論上ありえない。とすれば汚染米の用途としてエタノール製造は有望...か?

転換効率とかエタノールの需要とかを考えると、乾燥粉砕して石炭火力発電所の燃料にするのがもっとも効率が高いかも、という考えも浮かんだ。

バイオエタノールの現状

シンポジウムでは先行事例として新潟のグリーンガソリン北海道におけるイネエタノール事業が紹介された。

結論から言うと、エタノールだけでは商売にならない。15000kl(年間)のエタノールの他に籾殻や蒸留後の発酵液まで販売し、それでも経営は苦しいという。しかも汚染米を使えば、普通なら家畜飼料として販売できる蒸留した後の発酵液(DGS)に放射能が残留する可能性があり、この販売は難しい。(どうやら酒粕は絞らず、もろみのまま蒸留するようだ。)

より根本的な問題として、放射能汚染が収束した後のプラントはどうするのか?を考えなければいけない。農家はそのまま燃料用米の栽培を続けるか? 事故が収束すれば補助金投入は正当化できないが自立可能か? 燃料化プラントをたたんだら雇用されていた人たちはどうする? 食用米栽培のノウハウは失われていないか? そしてこれは国家的なエネルギー戦略とも関係する。

言い換えれば、技術の問題ではなくて政治の問題なのだ。総合討論において五十嵐泰夫(東京大学大学院農学生命科学研究科)教授は「国はビジョンと希望を農家に示さなければならない」と端的なまとめを行った。(このビジョンこそが戦後農政にもっとも欠けていたものではないかと考えると、いささか暗い気持ちになる。)

会場には福島から来た人もいて、「たとえ放射能が検出されなくても、福島の米は売れない」と窮状を訴えた。口に入れないものなら受け入れられるかも...とは実に屈辱的な話だ。農家が誇りを持って取り組めるような対策をとらなければならない。簡単にいえば、高値で売れる作物が必要。

バイオ燃料の可能性

原子力発電を断念し、なおかつ化石燃料の消費を削減しようとすればいきおい再生可能エネルギーに頼らざるをえない。その中では太陽光発電ではなくバイオ燃料が有力だと考えている。

理由は、栽培技術は成熟している;火力発電も枯れた技術である;コンバインドサイクルや熱電併給により効率が高くなる;内燃機関の燃料として用途が多彩;蓄積できる、など。

トラクターやコンバインが動かなければ日本の農業は立ちいかなくなろう。そもそもトラックが動かなければ流通がアウトになる。太陽光でトラックが動くか? 昼間しか走れないぞ(バッテリーを使えば夜でも走れるが)

植物体を乾燥させて固体燃料として用いる場合は、火力発電に限定されるが、それでも太陽エネルギーを昼夜を問わず利用できるわけで、太陽光発電より扱いやすいだろう。

液体燃料にしない例としては、サツマイモを乾燥させて燃料にするという構想もある。だがこれは、農家が稲作に執着していると普及させづらいだろう。なぜ、農家は米を作りたがるのだろうか?

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2011/08/10

ひろしま忌2011

また8月6日がやってきた。原爆の図丸木美術館が存続の危機といわれた2005年に友の会に入会して以来、開館記念日ひろしま忌には努めて訪問するようにしている。

しかし今回はいつになく気が重かった。今年の開館記念日に既にうっすらと感じていた反核運動へのもやもやが、より明瞭になる予感があったから。

もっとも丸木美術館は反原爆の老舗ではあるが、埼玉の奥地までいかがわしいにわか反原発がわざわざ来ることはそう多くはあるまいという期待もあった。(それだけの行動力があれば信頼できるという見方もあるけれど、行動力抜群が仇になっている勘違い正義漢というのも実在するのだ。)

かき氷屋のテント

結論から言うと、例年よりやや賑やかになった感じはあるものの、いつもどおりの老人集会(失礼!)で安堵した。とはいえ若いボランティは以前から居たはずだが、今回はずいぶんと目についた。そして、燈籠の並べ方一つにしても統率が取れていないというか指揮系統の不在を感じさせられたけれど、小規模な美術館行事運営であるうちは大きな問題にはなるまい。揃いのシャツに号令一下のキビキビとした行動というのは、頼もしさもある反面ある種の危うさを感じさせる。

広島忌の集いでは、その学生ボランティアの一人が発言をした(主催者曰く「年寄りばかりという批判があったから」)。ツイッターにも紹介したが、彼女は要旨次のような話をした。

自分は貧乏学生なので、服とか欲しい物があってもすぐに買うことはできない。
そこで買いたいものがあると、封筒にその名を書き、日々100円200円とミニ貯金をして購入資金にしている。
お金が欲しいからと言って犯罪に走るようなことはしない。(ほとんどの若者も同じだ)
しかるに分別あるはずの大人が「電気が足りないから原発は必要」とはなんたることか。

生活感の裏付けがある意見には説得力を感じる。このリアリティの前には「在宅で人工呼吸器を使っている人は」とか「クーラーを控えて熱中症に」とかは影が薄い。なんといっても無い袖は振れないのだ。どうしても振りたいから振袖姿の娘さんを襲撃する、というのは人の道に反している。

犯罪に手を染めないにしても、ヤミ金融から高利で借金をすれば待っているのは破滅。原発というのは高レベル放射性廃棄物という金利を抱えた闇金のようなもの。金利のややましな合法消費者金融が、借り手が破綻しないように年収の1/3以上の累積貸付をしなくなったのに「だってお金は必要」「面倒な手続きなしですぐにお金を渡してくれる」ってな理屈で闇金に手を出すと痛い目にあう。(深刻な事態になる前に当座は状況が好転したように見えるのも怖いところ。)

とはいえ、私は脱原発についてはやや悲観的。「原爆も原発も同じ」には、スローガンとしてはともかく、無理なものを感じる。戦争における毒ガス使用の禁止は国際的な合意に至ったけれど、毒ガス研究から派生した有機リン剤の廃絶は難しい。おお、反原発の人は反農薬の闘士でもあることが多いな。これは火に油を注いだか。

それなら核戦争の準備として始まったインターネットはどうか? モルヒネは根絶されるべき悪魔の薬なのか? ロンドンを空襲したV2の末裔たるロケット開発は止めるべきか? 航空機の発達も軍事と密接不可分だが、これも悪魔の技術なのか? この季節、お世話になることの多い虫除け(ディート)は戦争の副産物だが何か?

昔、原子核と細胞核にかけて、「核兵器も遺伝子操作も、核に手をつけるのはイクナイ」ととくとくと語った人がいるが、即座に「伝統的育種も細胞核に手が加わっている」と突っ込みを受けていた(そもそも合法夫婦の間で行われる受精自体がヒトの生殖細胞に対する遺伝子注入に他ならないではないか!)。比喩は気がきいていればいるほど、ずっこけた時のみっともなさは大きい。

(放っておけば自然に起きることもあるウランの核分裂連鎖反応に比べ、原子核に別の原子核をぶつけて新しい原子を作る加速器のほうがよほど自然の摂理に反しているが、これに対しての批判は寡聞にして知らない。)

原爆被害を受けた日本だからこそ、原発に希望を見たというのは、理屈としても感情としても筋が通っているように思う。弟を死なせたニトログリセリンを安全なダイナマイトとして制御することに成功したノーベルのように。(それが戦争目的で使われたことに悩んでノーベル賞を、とはよく聞く話だが、ニトログリセリンって爆弾として使われるもの?と思って調べたら使われたらしい。)

中庭に並べられた灯篭
てなことを考えていると大変居心地が悪いのだが、幸いなことに集いは早々と終わり灯篭流しへ。

水面にアプローチできる手前の水路は流れがほとんどない
都幾川は今年も灯篭流しに冷淡。本流は雨の影響で深くて流れが早いのに、前日にボランティアが草を刈って作った場所は水位が下がってほとんど流れがなかった。

流れに浮かべられた灯篭

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2011/07/14

日本の脱原発は頓挫するだろう―悲観的予測

はじめに断っておくが、私は原発懐疑派である。理由は3つ。
1)使用済み核燃料を初めとする放射性廃棄物の管理困難性
2)過酷事故発生時の対処困難性
3)電気の石油代替不完全性

高レベル放射性廃棄物は安全になるまで万年単位の時間が必要と言われる。初期には発熱量が高いため、数十年は強制冷却が必要となる。文明が続く限り管理は可能だし、文明が崩壊してしまえば後は野となれ山となれ、という意見もある。しかし、わずか数十年前の年金記録すら不完全で大騒ぎをしている国の管理能力がそんなに信じられようか。福島第一原子力発電所で作業員の被曝検査をしようとしたところ、ほんの数か月前のことなのに連絡の取れない作業員が30名前後いるという。あるいは戦争が終わって66年経ってもなお不発弾騒ぎが起きている。人形峠の放射性鉱滓とか回収したのに紛失したPCB入り変圧器とか、管理が行き届かなくなったものは数え上げればキリがない。「100年管理よろしく!」と後代に任せて安心だろうか。しかもなんのインセンティブもない。真面目にやってもらえると信じる方がお人好し。本音のところでは「その頃に私はもう生きていないからね」ではないのか。

過酷事故が発生したらどれほど大変か。今回は不幸中の幸いで制御棒が入り、臨界状態を脱したところで原子炉が破損した。チェルノブイリのように核暴走をしていたらどうなったか。あるいは今回は一か所で済んだ。もし福島第二や女川で事故が同時発生していたら人的リソースは不足するのではないか。同時でなくとも、今後同レベルの事故が発生したら、限度線量をさらに引き上げなければ熟練作業員は不足に陥るのではないだろうか。それでも足りなくてJCO事故の時のように、基準超被曝覚悟の決死隊結成となるかもしれない。

また汚染が広まった場合、それを取り除くのも大変だ。山のような低中レベル放射性廃棄物が発生する。

電気が完全に化石燃料の代替にはならない点については既に述べた

だから日本が原発依存を脱するというのには賛成なのだが、その見通しについては悲観的にならざるを得ない。

なぜか。

原発マフィアの逆襲?

陰謀論というのは魅力的ではあるが、中毒性があるので用心しなければならない。「陰謀がないように見えるのは、そういう工作の結果」という、反証不能の円環的増幅に陥ってしまいやすいからだ。

菅おろしが激しくなったのは浜岡原発の停止を決めたから、という説にはもっともらしいところがある。収益源を失うまいと原発マフィアが結束しているのだと。だから菅直人が退陣すれば脱原発は元の木阿弥...と考えているわけではない。

原発マフィアと言っても、原子力発電に惚れ込んでいる勢力はそうはいないだろう。いまさら日本を核武装しようなどという原発必要派が大勢を占めるとは考えにくい。要するに安い電気か美味しい利権(できればその両方)さえあれば満足というのが〈隠れ〉を含めた原発維持推進派の正体だと見ている。

電力会社の中には原子力以外の発電部門がある。経産省にも再生可能エネルギー開発に取り組んでいる部門があろう。これらが原発推進のためにサボタージュしているというのは考えにくい。むしろ「私たちの時代が来た」と色めき立っていることだろう。特に後者にしてみれば、うかうかしていれば環境省(太陽光発電・風力発電・地熱発電など)や農水省(バイオ燃料)に予算を取られるという危機感があるのではないか。

今や表立って原発を擁護するのは少数派で、〈隠れ〉は身を潜める事で原発解散での決定的敗北を回避しようとしている。解散を回避したら彼奴らは菅の退陣後に正体を現すだろうか。民国二年の後半期までひそんでいて、第二革命の際、突如あらわれて衰世凱を助け、多くの革命家を咬み殺すのだろうか? 可能性はある。しかし利に敏い連中である。なにしろ西軍は大将の姿が見えない。小早川が決断すれば雪崩を打って寝返ってくる蓋然性の方が高いのではないか。

予断は許さないものの、原発推進派と菅の綱引きの行方はそうそう悲観的ではないと考えている。あとは地震兵器のおっさんみたいなのが暴発しないよう管理できれば、参院自民党の切り崩しも現実的になる。

もし本物の原発マフィア、原子炉命の暗黒勢力がいるとすれば、暗殺を心配する必要がある。ただし、もし菅を暗殺すれば民主党が解散に打って出て大平弔い選挙の再現で与党圧勝かも、ということに考えが及べば、そうそう無茶もしないだろう。むしろスキャンダルでの失脚を狙うか。

世界はそれでも原発を推進し続けるだろう

さて、めでたく脱原発の道筋がつき、後継政権もそれを維持したとする。

世界の趨勢はどうだろうか? 福島の事故を見て、ドイツとイタリアは脱原発を決定した。しかし原子炉を維持する国も多い。自国で維持するだけでなく、積極的な輸出攻勢もかけている。二酸化炭素排出制限が絡めば、経済発展のために原発を選択する国は少なくあるまい。民主主義国家であれば、国民の反原発機運が対抗できるが、開発独裁の国では強引に進められるだろう。

商業原発の歴史を見れば、大事故は3回しかない。フクシマは旧い原発で起きた不幸な例外。津波を経験しない国は対岸の火事とすら思うまい。現に〈安全な原発〉の売り込みは加速している。

日本を襲った未曽有の放射能災害は、皮肉にも、世界の原発メーカーが次世代プラントを売り込む新たなセールストークになりつつある。
(出典:ロイター


悪貨は良貨を駆逐する


ここに、原発を捨て化石燃料や再生可能エネルギーに軸足を移した国と原発を主要発電に据えた国とがあったとする。どちらの電力が安価であろうか。事故時の対策費用はもちろん廃炉費用や使用済み核燃料等の処理費用も先の話だからと除ければ、原発の圧勝であろう。そんな電力事情で工業生産を競い合えば、原発採用国のほうが安く製品を作れることも自明。隣国が原発を導入するのに脱原発をするなど、同じ土俵で競争しようという場合はありえない選択となる。

さらに恐ろしいことに、原発ビジネスは高安全派と低価格派と分かれているという。低価格原子炉が安全性を蔑ろにしているとは断定できないし、限界状況においては差が出るにしても、平常時には安全性は同等。どちらが(短期的に見て)お得かは一目瞭然。

さらにさらに。意図的に安全性を軽視して原発を運転しても、すぐに事故が起きるわけではない(事故は起こしたくて起きているわけではない)。自動車を運転していて事故を起こせば、巨額の賠償責任を負う危険があるにもかかわらず、最小限の対人保証である自賠責で済ましている人は多いだろう(競走馬輸送車とぶつかって中央競馬の名馬を出走不能にでもしたら賠償は億単位だが、対人限定の自賠責は当然効かない)。目先の費用をケチっても、すぐに実害が顕在化せず、競争力がつくとなれば、選択肢は一つ。

そういう危ない原発依存国家が製品の仁義なき価格競争を仕掛けてきたら、対抗上周辺国でも安全のための費用が削減されるであろうことは、これまた論理的必然。

またいずれは枯渇すると見られる石油・石炭・天然ガスにしても、あるうちは気にしないで使った方が安上がりである。100年先を見通して再生可能エネルギーに移行して、100年持ちこたえられればエネルギー安定国になるであろうが、おそらくその前に価格競争で敗北してしまうだろう。少なくとも既存の製造業では競争は厳しい。

そういうわけで、いまの産業構造のままでは独り脱原発に踏み出したところで、世界は化石燃料や〈安い〉原子力から作った安い電力で生産を行うので太刀打ちできなくなる。

これが脱原発の行方に悲観的になる理由。

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2011/06/21

〈ひかり〉と〈のぞみ〉のどちらが偉い?

新幹線の話。

〈ひかり〉は1964年に開業した東海道新幹線の特急列車。当初は最高速度210km/hで東京-新大阪間を4時間で結んだ。〈のぞみ〉は東海道・山陽新幹線の特急列車で、当初(1992年)の最高速度は270km/h。今では東京-新大阪間を2時間半で結ぶ。格で言えば〈のぞみ〉の方が〈ひかり〉よりも上である。速いだけでなく料金も高め。

しかし、営業最高速度300km/hの列車なら東北新幹線にもある。世界にはもっと速い営業速度の列車もある。だからJRも〈一番早い特急列車〉を目指してはいないだろう。

一方の〈ひかり〉。これは登場したとき夢の超特急ともてはやされた。名称も「世界で一番速い」を気取っている。未来はどんどん良くなると素朴に信じていた時代に、それ以上がないてっぺんの名前をつける神経は大したものだが(二昔前のテレビの商品名には「◯王」と最高位を強調したものがあり、後の製品はどうするんだろうと心配していたら、紆余曲折を経て現在は訳のわからないカタカナになっている。)、実は東海道新幹線は世界初の高速鉄道だったのだ。

以前にも書いたが、〈一番〉には2つの意味がある。書き換えられるものと書き換えられないものとだ。〈一番速い列車〉はいずれ書き換えられる。技術上の限界に達してもブレイクスルー(たとえばリニアモーターカー)で霞んでしまう。今どきプロペラ飛行機の最高速度に興味のある人はそう多くはあるまい。一方〈一番先に有人動力式飛行機を飛ばした〉ライト兄弟の名前はおそらく小学生も知っている。それに比べればジェット機の発明者さえ影が薄い。

当初「今どき蒸気機関車の最高速度に興味のある人はそう多くはあるまい。一方〈一番先に蒸気機関車を走らせた〉スチーブンソンの名前はおそらく小学生も知っている。それに比べれば電車の発明者さえ影が薄い。」にしようと思ったが、調べてみると蒸気機関車の発明者はトレビシック(←知らない人)と分かったので、前の記事につなげて飛行機を例に出した。

将来、教養レベルの歴史に残るのは〈ひかり〉であって〈のぞみ〉ではないだろう。もちろん〈のぞみ〉の開発者が目指していたのは〈飛行機に対抗できる列車〉であったはずで、快適性や利便性(たとえばwifiの導入)の向上が図られているのはありがたい。もし、〈世界一速い列車を目指します〉だったらどうなっていただろうか?

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2011/05/28

やはりバイオ燃料でしょう

東京電力福島第一原子力発電所の事故(継続中)を受けて、次世代エネルギーの一翼を担うと期待されてきた原子力発電は、新設増設はおろか、既存設備の運転停止にまで追い込まれている。

予想されるエネルギー不足に対して再生可能エネルギー活用が取りざたされているが、管見の範囲では太陽光発電と風力発電の話ばかりで、その他は影が薄い。

もともと原子力発電は石油依存からの脱却が目的だったはず。

石油依存の問題点

石油の抱える問題は3つ。

有限であり、いずれは枯渇すると予測される。もっとも数十年前から「あと30年で枯渇」と言われ続けているように、明日にも不足に陥るわけではない。不足して価格が高騰すれば不採算を理由に閉じられていた油井が復活するといった緩衝作用も働く。そもそも30年枯渇説には石油需要の伸び率と安定的企業経営を考えると、大体10〜20年先の見通しが立っていればよくて、その先は考えても仕方がないという背景があるらしい(それに大油田のある西アジアの政治的不安定性を加味して30年先まで予測)。とはいえ新興国がアメリカ並みに石油をがぶ飲みするようになれば不足は不可避であろう。

日本ではほぼ全量を輸入に頼っており、しかも生産地や輸送ルートの政治的不安定さの影響を受けやすく、安定供給が確保されているとは言いがたい。

燃焼により生じる二酸化炭素が気候変動をもたらす。これは石炭も同じ、というより石炭の方が熱量当たり多く出す。

石油の用途

石油の用途は4つに分類できよう。 最後の工業原料としての石油は、燃焼させないので二酸化炭素の問題は(廃棄物処理を別にすれば)クリアできる。そうすると地球温暖化防止の観点から抑制すべき用途は3つ。

ところが、原子力発電は発電用燃料の代替にしかならない。動力源としての利用例に原子力船というものはあるけれど、漁船やタグボートが原子力化されることはないだろう。また原子力飛行機は実用化されていないし、おそらく将来もされないであろう。自動車は電化できるけれど、仮にガソリン車がすべて電気自動車に置き換わっても、石油の消費量に変わりはない(二酸化炭素の発生量は下がる)。なぜならガソリンは石油精製に伴い必然的に発生するもので、石油ガス・灯油・軽油・重油などの需要が変わらなければ使われないガソリンがだぶつくだけだから。これはほかの石油製品についても言えること。

加熱と暖房。原子力発電では実に2/3の熱が利用されずに捨てられている(魚介類の養殖に使っている例はあるらしいが)。ごみ焼却場でさえ廃熱を利用しているのに、原発でそれをしないというのは何かしら理由があるのだろう。いまではすっかりキワモノの広瀬隆の出世作『東京に原発を』では地域冷暖房への利用を提唱しているが、30年たった今も都市に小型原発は建っていない。

そしてこれらの事情は太陽光発電や風力発電も同じ

なお、熱を30%程度の効率で変換して作った電気を電熱器で消費するのは無駄が大きい。東電ご自慢のコンバインドサイクル発電でも50%程度。つまり発電に使った燃料を持ってくれば倍の熱量が得られるわけ(その点、風力発電の電気ならば熱に変えても罰当たりではない)。

やはりバイオ燃料でしょう

太陽光発電や風力発電には、上記に加えて、季節・天候の影響を受けやすくて不安定、供給地のそばに設置しにくいという問題がある。電気は基本的に貯めることができないのが大きな制約。

その点、バイオマス・バイオ燃料には光エネルギーを効率よく化学エネルギーに変換し、しかも貯蔵できるという特長がある。

もともと石油・石炭自体が広義のバイオマスなのだ。太古の地球に数千年数万年降り注いだ太陽光のエネルギーの缶詰。

ただし、このことが逆にバイオマス・バイオ燃料の弱点をも照射する。バイオ燃料は基本的にその年に降り注いだ太陽光(の一部)しか利用できない。

いきなりサツマイモを例に考える。たまたま数字がすぐに見つかった鹿児島県を例にとると10aあたり約3tのサツマイモが収穫されるという。生芋の熱量は132kcal/100g(552kJ/100g)。10a(1000m2)で3,960,000kcal(16,560,000kJ)である。重油の熱量はおよそ10,000kcal/kgなので、10aの畑から396kgの重油相当のエネルギーが採れる勘定。密度を0.9として440リットル。1世帯では4.2リットル/日相当を消費するとして、約100日分。別の計算で、1世帯のエネルギー消費38,919×106J/年から考えると155日。ちょっと開きはあるけれど、要するに1世帯当たり20-30aの農地が食料生産とは別に必要になる。4900万世帯として98,000km2。家庭用だけでこれだけ必要。さて2009年の耕地面積は46,090km2... 校庭にサツマイモを植えても追いつかない。しかももともと可食部がすべて燃料になるという無理な前提がある。

興味のある人は輸入石油と同等の熱量をバイオ燃料で供給する場合、耕地がどれほど必要か計算してみて欲しい。化石燃料文明とは先祖の遺産食いつぶし文明なのだ。バイオ燃料の場合はかなりの倹約と効率化を要求されるだろう。

ただ、それでも施設の老朽化という問題も抱える太陽光発電や風力発電よりは希望が見える次第。

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2011/05/07

開館44周年の丸木美術館

5日に44周年の開館記念日を迎えた原爆の図丸木美術館へ行ってきた。

長引く失業生活で手元不如意になってきたので、交通費を節約するため東武東上線高坂駅で降りて徒歩で向かった(平日であればここから市内循環バスで行ける)。google マップによれば6.1km、75分の行程である。

駅を出て線路沿いに進むとインド料理の店がある。いや、看板はインド料理なのだが、なぜかインドとネパールの国旗を掲げている(写真では分かりにくいが右側は特徴あるネパール国旗)。まぁ、日本人からすればインド料理もネパール料理も区別できないだろうし、善意に解釈すれば両方の美味しいところを!という趣旨なのだろうが... 夏にでも寄ってみるか。

田舎道をひたすらてくてくと歩く。途中、自転車に乗った中学生が追い抜きざまになにか声をかけてきた。一瞬のことで理解できなかったが、どうやら〈あいさつ運動〉かなにかのようだ。ちゃんと挨拶を返せなくて悪いことをした。

開館記念日の横断幕がかかげられた丸木美術館入り口 on Twitpic


約1時間で到着。まず友の会の更新手続。次に昼食を、といつもの出店を探すが、すでにカレーは売り切れであった。

行事はすべて新館ホール(《アウシュビッツの図》、《南京大虐殺の図》、《水俣の図》、 《水俣・原発・三里塚》を展示)でやるらしい。そういえば以前、外でやっていて雨に祟られたことがあった。

開館記念日の集いでは、「おきなわ島のこえ」英語版発行の報告があった。CD付きだという。趣旨からすれば電子出版が向いているけれど、やはり物がないと落ち着かないのかな。

「南京大虐殺の図」の前で講演する正木基さん


続いて目黒区美術館学芸員の正木基さんによる講演「『原爆を視る』展を考える」。この展示会が震災を理由に急遽中止されたことは記憶に新しい。ちなみに中止を決めたのは理事会で、理由は荒涼とした原子野の写真は津波被災地を連想させて云々だったらしい。つまり理事会は展示の内容を確認せずに、過去の原爆写真展のイメージで判断したらしいのだ。情けない。

講演を聞いた私の理解では、戦後の日本社会において原爆はどう扱われてきたか、とりわけ芸術分野に焦点を当てた企画。

そんな情けない理事連中は全員クビ、と思ったら、首のすげ替えがあったかどうかは分からないが、美術館自体が運営主体変更とかで、理事会は年度末で解散(?)だったらしい。そのため次年度以降の展示に対する決定権がなく、延期という形にできなかったのが中止の実態であったとか。したがって現理事である館長・副館長が展示実現に前向きなこともあり、内部では来年以降の開催を前提に作業をしているとのこと。

面白かったのは、出版業界の発想。日本の新聞はインテリが作って、ヤクザが売ると言われるが、その伝でいけば日本の出版社は作る方もヤクザ。永井隆の『長崎の鐘』がベストセラーになり、歌謡曲や映画にも取り上げられたのを見て、貸本漫画の出版社が作家に「原爆物を描け」。白羽の矢が当たったのが滝田ゆう。画風が合わないと思うのだが、で、書いたのが『ああ長崎の鐘が鳴る」。なんか非常にほのぼのとした作品だそうです。ちなみに当時はタイトルと表紙と内容が一致しないのは当たり前だったとか。

サブカルチャーで核兵器がどのように扱われてきたか、は興味深いテーマである。子供の時に読んだものの影響は強い。

(ちなみに私、つい最近まで広島に投下された原爆にはパラシュートがついていたと思っていた。後年になって、目撃されたのは気象観測用機器で、原爆自体にはパラシュートはついていなかったことが明らかになっている。言われてみれば原爆を直視していて無事でいるわけがないので、目撃証言は疑われてしかるべきだった。)

満員のホール

その後の小室等コンサートは、あまりに人が多かったので、始まる前に出てきてしまった。

同時開催の企画展「チェルノブイリから見えるもの」を一通り見る。広河隆一さんは、先日の「NHKオンデマンドが「チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染 1-4」 を削除」という誤報問題を起こしている。その後、誤報と認めるブログでもNHKならやりかねない、うたがって当然と言わんばかりの調子に失望し、人物評価が急落していたので、写真も素直には見られない。そもそも写真というのはキャプション次第で意味が360°、おっと180°変わってしまうものなので、撮影者の証言、その信憑性はとても重要なのだ。よく確かめもせずにNHKガーと騒いだ人のことだから現地の人が退屈しのぎに面白おかしく誇張したホラ話も鵜呑みにしているのでは?という疑念が仄かに。あくまでも仄かに。証拠はない。

貝原浩のチェルノブイリスケッチは味わい深かった。しかし避難命令を無視して汚染地域に住み続ける人を称揚するような筆致はどうなのか。ご本人は既に他界されているので矛盾はないのだが、これらの作品が肯定する生き方は、子供に20ミリシーベルトを強要するなんて非道!という福島の小学校に対する問題意識と対立すると思うが、どうであろう。

そういえば以前観た『アレクセイと泉』という映画ももやもやを感じさせた。百年前の水が湧くという村の伝承がアテにならないのは富士の伏流水(300年かけて湧き出すと言われていたが実際には数十年)と同じではないか。また、油断して計測をやめた頃に汚染水が湧き出してこなければ良いのだが。

この違和感を交流パーティーでぶちまけるほどの度胸はないのが残念。

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2010/11/23

世間話では使えない「暴力装置」だが

遅ればせながら「自衛隊は暴力装置」について述べてみる。

1.国家は暴力装置を必要とする
堯舜を理想とする人なら暴力装置を必要としない国家を模索するかもしれないが、現実問題としては難しい。だからある防衛大臣経験者も「警察と軍隊という暴力装置を合法的に所有するというのが国家の1つの定義」と述べている(発言当時は農水相)。
今回「とんでもない!」という大合唱が湧き上がったが、ある法学者は「自衛隊は国家の暴力装置に決まってるだろう」と書き、ある政治学者は「「国家」が、社会的装置として、企業その他の社会集団と区別できるのは、「一定の地域・住民」に対し「正統的暴力」を独占している、という点にあります。これは、ウェーバー以来、政治学では、最も通常の定義です。」に始まる連続ツイートで解説をしている。
つまり「自衛隊は暴力装置」というのは正統的な見解である、というのが第一。

2.非難の声を上げた人は何に怒っているのか
にもかかわらず、国会も新聞テレビも非難の声一色。ネットでも非難派は多く、wikipediaの関連項目は悪意のある言葉として使用されたという印象を与えようとするかのように頻繁に編集されている。
非難の理由の一つは、「暴力装置」という言葉を政治学用語ではなく一般語として捉え「国を守る自衛隊員に対して失礼」というもの。事の成り行きに気づいた人たちが遅ればせながら上述のように政治学の常識だと解説をすると、そんな難しいこと知りません、私は失礼だと思いました的にシフトはするが、非難の矛先を収めはしない。居酒屋や理髪店での世間話ならそれは通じるけれど、今回は国会答弁。 国会は国民全体を反映するものだから、いわゆる教養に欠ける議員が少しくらいいるのは仕方が無い(むしろ義務教育を終えただけで働いてきた人々の声を感覚レベルで理解できる議員は必要)。しかし参議院とはいえ予算委員会は国会審議の晴れ舞台であろう。各党選りすぐりのエース級を送り込む場の筈だ。国会法が国家公務員の最高と定める給与額(現在1,297,000円)を受け取る職業政治家が使う言葉を日常感覚だけで批判するのは不適切だろう。
「旧土人保護法」のように、非難に価する言葉もあるが、法律の名前を口にした者を非難するのは的外れ(同法は廃止されている)。
つまり不快に思う気持ちは理解できるが、それは庶民の会話においてのみ成立する。これが第二。

3.坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
国会で政治学の常識を述べたことを非難するのは難しいと気付いたのか、仙谷の意図は違うと言いだす人もいる。悪罵として使ったというわけだ。
文脈を見てみよう。予算委員会で取り上げられたのは自衛隊関連行事の来賓に政治的発言を控えるよう求めた防衛事務次官通達。公務員に政治的中立が求められるのは選挙への影響(干渉)が理由だ。だが自衛隊が政治的中立を破った場合、影響は選挙にとどまらない。サルは木から落ちてもサルだが、議員は選挙に落ちればただの人というけれど、自衛隊が武器を持って政権交代を迫ったら、政府要人は良くて囚人、悪くすると死人になってしまうのだ。佐藤優は尖閣沖ビデオの流出に関して、機関砲を持つ組織(海上保安庁)の職員に下剋上を認めてはならないと述べているが、自衛隊が持つのは機関砲どころではない。
もちろんほとんどの自衛隊員は法と法に基づく命令に忠実だろう。そう簡単に部隊ごと動いて2.26事件のようになるとは今のところ考えにくい。40年前、三島由紀夫は自衛隊員を集めさせて蹶起を促す演説をしたが、逆に野次られて腹を切った(因果関係は不詳)。だが戦闘機乗りが「憂国の志」に取り憑かれたら? 後先考えずに官邸へ空対地ミサイルを撃ちこむことは絶対にないと言い切れるだろうか? 大掛かりな武器を持ち出す必要もない。自衛隊には狙撃やら爆破工作やらのプロが揃っている。一人でも十分なのに数人で「天誅(=要人暗殺)」を画策されたらSPでは防ぎきれまい。
殷鑑遠からず。今年33人の鉱山労働者の救出で湧いたチリは、37年前、自由選挙によって選出された大統領が、大統領府で反乱軍と銃撃戦の末に殺された国でもあるのだ(Wikipediaの記事(2010年10月13日 (水) 11:42)によれば、政権発足直前には軍の政治的中立を主張してクーデターの依頼を拒否した陸軍総司令官が暗殺されている)。仙谷由人はこの時27歳。「思はず知らずイツか掌が首に廻つてゐた」(山崎今朝弥)のではあるまいか。
自衛隊の政治的中立の重要性が分かっていれば、悪口を言って挑発するようなマネをするわけがない。
つまり、暴力装置である自衛隊の政治的中立を守るため外部から煽らせないというのはスジが通っており、思わず知らず罵ったと見るのは無理がある。これが第三。

4.反知性主義の台頭?
日常感覚からは「え?」と思えるにしても、正統な政治学用語である「暴力装置」の使用に対して取り消しと謝罪を求めての大騒ぎは、特に「暴力装置」という言葉を知っている人からすると異様な眺めであった。ちなみに私は政経が専門ではないが、それでも「軍と警察は暴力装置」という論にまったく疑問は感じなかった(ただし、マックス・ウェーバーの名前はすぐには出てこなかったので、Yahoo!百科事典で確認はしたけれど)。

新聞ではようやく22日に朝日紙の投書欄で「政治学のイロハ」という指摘が取り上げられたのを確認できたが、それまでは自衛官に失礼論に加え、出典はレーニンだとか「かつて自衛隊を違憲と批判する立場から使用されてきた経緯がある」とか唖然とするような記事ばかり。ふだん「マスゴミが」などと言っている人も、自分が信じたい記事はすぐ信じるようだ。

これらに対して反知性主義の表れではないかという憂慮の声がある。

学術用語を日常語で解釈して非難し、政治的に立ちまわる危険を天皇機関説事件を振り返って諌める人は「(重要なのは)『威勢の良さだけが取り柄の馬鹿』どもをどう啓蒙するか」「馬鹿にちゃんと「お前馬鹿だろう」って言わないと、機関説論争で美濃部をファナティックな民間馬鹿に売った当時の学者や知識人となんら変わらないよ。」とも述べている。

残念ながら、この声が肝心の「馬鹿」(「」付きであることに注意)に届くとは思えない。馬鹿と言われて我が身を冷静に顧みられる人は、学識の多寡とは関係なくインテリだ。インテリは少数派。カッとなって殴りかかろうとする人、「人にバカっていう方がバカ」と返して気のきいたことを言ったつもりになる人、いじける人、金持ち喧嘩せずとばかりに聞き流す人、これで大部分ではないだろうか。

「職業としての政治」が一般教養と言えるかというと微妙だし。

反知性主義という確固たるものではなく、自尊心の問題「わたしをバカにするな」であると思う。手を焼いた人達の間では、半ば冗談で、これはもう池上(彰)さんに登場してもらうしかないのではという声さえ聞こえる。反知性主義なら池上さんは逆効果だが、彼がにこやかにスタジオの「おバカ引き受け役」に解説するのを聞けば、すんなり受け入れることだろう。

つまり、納得してもらうためには自尊心を傷つけない配慮が必要。これが第四。

ところで解せないのは国会議員の反応。あれは知らないというよりは、知っていて、あるいは突込みどころではないことを承知の上で騒いでいたのだと思いたい。なにしろ予算委員というのは国会議員の中でも選りすぐりだ。そんなウェーバーも知らないバカの集まりなワケがないだろう。それが危険な火遊びであるのは天皇機関説事件以降の歴史を見れば明らかなのだが、さすがにそこまで賢くはなかったか。

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2010/11/02

ひのもとおにこ(日本鬼子)で萌えられるか

ひのもとおにこ(日本鬼子)という萌えキャラを作ろうという計画が進められているらしい。

その趣旨は以下のように説明されている。

日本鬼子ってキャラを作り、日本鬼子に別の意味、概念を作る事

その新しい概念が定着した人間が反日デモ、暴動見たとき日本鬼子! って旗持った奴が顔真っ赤にしてシュプレヒコール挙げてたらどう思うか?  日本鬼子ってなんだろうってググったら萌えSSやかわいい鬼子ちゃんがTOPででてきたらどうだろう?

反日暴動の画像みたら萌えオタが暴動起こしてるように見えるんじゃないか?

中国の反日デモをいなそうというわけだが、反中国あるいは逆に日中友好といった政治的目的があるわけではないとしている(キャラクターへのスローガンの書き込みは明示で禁止されている)。

スラッシュドットでこの話を読んだときは、「斜めに受けて」という姿勢や、紹介されていた中国側の反応に笑ってしまった。

中国国内ですら「糞青」とバカにされることがあるらしい憤青(怒れる若者)の暴走気味反日行動への対応としてはエレガントにさえ思えた。

しかし日本鬼子は単なる蔑称ではない。戦争を知らない世代にとってはそうかもしれないが、日中戦争中は恐怖と憎悪が込められていたはずだ。今の日本でこれに相当する語感のある言葉はさがすのが難しい(なんと平和でありがたいことか!)が、「ピカッ」はそれに近いかもしれない。美術グループが広島市の上空に飛行機雲で「ピカッ」という字を描いて非難されたことがある。この表現行為に理解を示す評論家も「「ピカ」が戦後数十年間にわたって原爆に対する激しい怒りや原爆症に対する差別意識をも含むネガティブな言葉として用いられてきた歴史的認識や配慮がなかった。あるいはあったにしても甘かった。」と指摘している。

とすれば、日本鬼子に新しい意味を付与しようとする試みは、たとえるならばアメリカが no more hiroshima という萌えキャラを作って反核兵器運動を脱力させようとするのと同じではないだろうか。世界で一番核兵器をもつアメリカが、そのようなことをすれば、被爆者は憤るだろう。

同胞の「ピカ」に対する感情さえ理解出来ないのだから、親しみを覚えない異国の老人への配慮を求めても無理だろう。しかも、そういう老人たちが「ひのもとおにこ」の絵を見る可能性は極めて低い。カウンターを喰らって慌てふためくのは自らの経験には基づかない言葉を振り回す憤青だけだ。その理屈はもっともだ。

だが、この無邪気さになにか寒々しい感覚を覚えてしまう。

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2010/10/15

いまさらながら「一番じゃなきゃダメなんですか」

2009年の事業仕分けにおいて、次世代スーパーコンピュータ開発予算に対して蓮舫議員が発した「1番じゃなきゃダメなんですか? 2位じゃだめなんでしょうか」は事業仕分けを象徴する言葉のように繰り返し放映され、ご本人が『一番じゃなきゃダメですか?』という著書を出すほどに。

これを最初に聞いたときは、なんて愚かな質問だろうと思った。彼女の選挙の時には「当選しなきゃダメなんですか、次点じゃだめなんでしょうか」と嫌みを送ろうかと思ったほど。これは私ばかりではなく「科学研究がわかっていない素人の暴論」としてノーベル賞受賞者を集めて批判集会まで開かれた。最近では、2010年のノーベル化学賞を取られた鈴木博士が「科学や技術を全く知らない人だ」と批判するほど。

科学における1番の意味

なぜ一番が大切か。
1番と2番では雲泥の差があります。日本一高い山は知られていても、2番目に高い山は誰も知りませんよね。

これはいろんなセミナーで言われているらしい(中には「知ってますよ、南アルプス北岳3193mです」なんて受講者もいて、その時の反応で講師としての鼎の軽重が問われる)。ソニーとパナソニック、どっちのカラーテレビが売れているか、なんて知らないけれど、「その他」にくくられたら影が薄くなるというのは説得力がある。

だが科学の場合はもっと深刻。科学者の業績は論文などの発表によって評価されるが、すでにやられたことを繰り返しても、その研究発表は受理されない。材料だけのように少し趣向を変えたものは銅鉄研究(銅を使った研究はあるが、鉄はまだないのでやってみた)と呼ばれ、それはそれで大切な仕事ではあるけれど、二流以下の仕事とみなされやすい(そういえば私の卒業論文は正に銅鉄研究)。業績がなければ昇進もままならないし、競争的研究費の獲得も難しいし、共同研究の声もかかりにくいし、アカデミックポストへの転職もままならない。Publish or Perish (発表するか消え去るか)、投稿論文の採否は自然科学系研究者の死活問題なのだ。

この競争は先に投稿した者の勝ち。ほぼ同時に発表ということもあるけれど、雑誌には投稿受理日が記載されていて、どちらが早いかははっきりする(同日受理もあるだろうが)。また特許の先発明主義に対抗するには、とにかく先に結果を出すしかない。

そして一番手は発見者/発明者/提唱者となり、命名権を手に入れる。自分が発見した法則や物質あるいは新種の生物ときには元素に、発明した物や方法に、提唱した理論に名前をつけることができる。これがまた大きい。

科学界が研究者に与える最高の栄誉をご存じだろうか。何が栄誉かは人によって異なるけれど、科学者の総意として与えられる栄誉は「名前を残すこと」。中でも単位名への採用が最高級。科学は難しいという人でも、電気の単位、ボルト、ワット、アンペアはご存じだろう。それぞれA.Volta(イタリア 1745 - 1827)、J.Watt(イギリス 1736 - 1819)、A.Ampere(フランス 1775年-1836)に由来する。温度を表す摂氏温度(℃)はA.Celsius(摂爾修斯、スウェーデン 1701 - 1744)から。中にはキュリーさんのように使われなくなってしまうこともあるけれど、一般的には永く名を留めることができる。単位としては他にパスカル、ニュートン、ドルトン(ダルトン)、モルガン、ベクレルがある。

単位に名を残すのはなかなかの難関であるが、物や法則の名前も歴史に残る。たとえばX線撮影はレントゲンの名で親しまれている。自分で命名しなくても、「あの人の仕事だから」と名を冠せられることもある。分子生物学でよく使われるサザンブロッティングはE.Southernが開発した。それゆれその後に別人によって開発されたノーザン法、ウェスタン法がnorthern,westernなのに対してサザン法のみSouthern blottingと大文字表記である。もっともサザンご本人はgel transferという名称を広めようと頑張っていたらしいが。(なおウェスタンブロッティングは2番目の開発者による命名ということで、必ずしも一番じゃなきゃダメというわけではない。ネーミングのうまさの問題。)

大成建設が「地図に残る仕事」という名コピーを広告に載せたことがあるが、研究者は歴史に残る(かもしれない)仕事に挑んでいる訳。

誤解?

というわけで、蓮舫議員に腹を立てた訳だが、その後たまたま『一番じゃなきゃダメですか?』を読む機会があり、どうやら話が違うらしいと気がついた。

ネットでは、まるで圧迫面接のようだ、人の発言を遮ぎるなんて何様だ(「私の話も聞いてください」も有名になった)、1時間で何が分かると悪評たらたらの事業仕分けだが、実は事前に2回もヒアリングをして、同じ質問をしていたという。来年度の予算をつけるとどんな利益があるのか、逆に予算をつけないとどんな不利益があるのか具体的に説明してと求めているのに、本番で返ってきた答えは「夢です」。本には「会場は失笑であふれていました」とさえある。

そこで実際の様子を確かめることにした。Ustreamで中継された筈だが、なぜか録画を見つけることができなかったので、Youtubeにあがっている録音(なぜか画像はない)を聞いてみた。

事業仕分けの様子

Youtubeのサイズ制限により7つに分割されていたが、最初から連続再生することができる。ちなみに参照数を見ると1が1457、2が1376、3で急に減って534、問題の「2位じゃダメなんでしょうか」が聞ける5は494回しか再生されていない。同じ場面を確認できるファイルは他にもあったけれど、それも1000回未満で、「世界一になる理由はなにがあるんでしょうか。」を切り取ったたとえば「必殺仕分け人(笑)蓮舫の売名パフォーマンス」の130,259 回に比べると明らかに少ない。

では、その部分を要約再現してみよう。

06分45秒:(仕分け人?)期待される効果を具体的に。「気象の予測を局地的にできる」にこれだけの予算を注ぎ込む価値はあるか、ピンと来ない。国民生活に向けたメッセージが欲しい。またUSAに抜かれるまでどれくらい1番でいられるのか。一時的にトップになる意味は?
08分00秒:(理研)研究者の立場からすると、サイエンスに費用対効果はなじまない。ビッグバンなどを解き明かせるのはシミュレーションだけ。
08分42秒:(仕分け人?)そういう一般論は共通の認識になっている。これだけのお金をかけて来年度やる必要性を具体的に。
08分51秒:(理研)世界一を取ることで国民に夢を与えること。
09分05秒:(蓮舫)思いはよく分かるし、夢を否定するものでもないが、すでに100億予算超過していて、今後700億投入する。本当にこの額が必要なのか教えていただきたい。比較参考値を見ると、日本はすでにアメリカの後だと。「これ、世界一になる理由はなにがあるんでしょうか。二位じゃだめなんでしょうか。」あるいはアメリカと協同開発するような夢の共有はできないのでしょうか。
10分00秒:(理研?)現在の科学技術はスパコンなしには最先端は不可能に近い。世界一の研究は世界一の装置...

「会場の失笑」については聞き取ることができなかったが、スパコン開発の一般的意義を述べようとして制止され、かなり苦し紛れに「夢を与える」と言ったような印象を受けた(この部分は「具体的に」という制止はカットされているもののニュース映像の3分30秒のところで表情を含めて−−悪いけど夢を説く顔ではない−−確認できる)。

スパコン予算のまとめ

整理すると

初めの仕分け人の質問とそれに対する答え
1.スパコンで期待される効果は?(具体的に) →一般論は良いからと制されて「夢を与える」
2.USAに追い越されるまでどれくらいの間、1位を確保できるのか? →(回答なし)
3.すぐ追い抜かれると分かっていて、一時的にトップになることの意味はあるのか? →(回答なし)

蓮舫の質問
1.700億円も本当に必要なのか
2.USAにすぐ追い抜かれると分かっているのに、つかの間の1位にこだわる理由は?
3.USAと協同開発にすればもっと安くもっとよい物ができるのではないか?

700億円については「もっとかかるのではないか」という懸念も含まれている(すでに100億超過の指摘)。700億円(総額1154億円)出したらなんぼ儲かりまっか?は確かに科学研究予算に対する質問ではない。しかし限りある予算の分捕り合戦に参加しているのだから、もう少し理解してもらえるよう歩み寄るべきだったと思う。

理研の人(平尾公彦副本部長)は、どうやら気がついているようで、「最速」とか「一番」と言う言葉を避けて10ペタフロップスの効能に切り替えようとしていたが、文科省は最後まで「最速」「一番」で、「1位になれなかったらどうなる」という現実的な質問にさえ「頑張ります」としか答えられない。実際には僅差で2位になっても実害はないようなのだから、目標を「世界一」から「10ペタ」に掛け変えるだけで印象はずっと良くなっただろう(10ペタには大鑑巨砲主義だと言う批判もあったようだが)。

初めから聞いていくと、この計画が当初大手3社の参加を得てベクトル型とスカラー型の複合システムで開発するとしていたのに、途中で2社が抜けてスカラー型一本に計画変更されたことに財務省は強い不審感を抱いている。その方面からもいろいろ質問が投げかけられているが、どうも噛み合っていない感じ。仕分け人側が助け舟のように、予算に見合うと感じられるような具体的な成果の提示を求めているのに、それにきちんと答えない。

また「私の話も聞いてください」の印象が強くて、あたかも仕分け人が吊るし上げるように詰問したと思っていたが、ここでは非専門家の仕分け人は丁重に「教えてほしい」と質問を繰り返している。ペタフロップスで世界の見え方が変わるというなら、たとえば「新幹線があっても東京大阪間に飛行機を使いますよね」くらいの説明をしても良かったのではないだろうか。


印象操作


結局「“2位ではどうか”などというのは愚問。このようなことを言う人は科学や技術を全く知らない人だ」という批判は的外れだった。これは別に鈴木博士一人が不見識という訳ではなく、仕分けの実際を見ないで報道だけの印象で語れば当然のようにはまる陥穽だ。

丁重に、一位にこだわる訳が理解できないし、実際できたところですぐに二位になってしまうのだから初めからその線を追求した方が賢明ではないかという「二位じゃだめなんでしょうか」が、まるで「オラオラ、説明できるもんならしてみぃ」という恫喝のように見えるのは映像マジック。たしかに「絵になる」シーンだから、それ以上の悪意があったとはあえて思わないが。

そもそも、次世代スパコン計画が目標に掲げた世界で1位と研究者が重視する世界で1位はまるで別の話。たとえていうならば前者はエアバスA380は世界最大の旅客機という意味での世界一、対する後者はライト兄弟は世界で最初の飛行機を開発したという意味での世界一。もちろんエアバスの開発も大仕事だし、いくつもの画期的な技術が使われているだろう。しかし木枠に布張りで数百メートルしか飛ばなかったライトフライヤー号の方が画期的なのだ。

どうもその辺も誤解している人が多い感じ。かくいう私もそう誤解して腹を立てていた訳で。いや、世間の人も私並みにおばかと主張したい訳ではありませんが。(大阪大学の菊池教授など冷静な反応もありましたが、管見の範囲では少数派。ちなみに菊池教授はTwitter上で、上記産経記事を無批判に紹介した朝日アピタル苦言を呈されていた。←本エントリーの執筆動機)

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2010/09/23

タスマニア効果と研究者人口

科学研究費を税金で賄うことは正当だろうか。特になんの役に立つのか分からない基礎研究に注ぎ込むことは妥当なのだろうか。

余裕のある時代なら「食客三千人」とばかり当座の役に立ちそうもなくても才能があれば養っていけたし、研究者の方も「何かの役に立てようなどと考えるのは邪道」と澄ましていられた。しかし景気が悪くなり、研究資金を何年で回収できるかを問われるようになると、基礎研究は分が悪い。

その逆風は研究者も感じているらしく、いろいろと「役に立ちます」をアピールしようとする。たしかに素人には唐人の寝言のような数学の研究が暗号システムにつながりオンラインバンキングを支えているといった例はある。しかし、どの研究も社会の役に立つと言うのは度がすぎたフィクションだろう。まして科学研究予算の削減は、いずれ地球の破滅をもたらすなんて恫喝は止めた方が良い。逆効果だ。

それでは役に立つ研究を選抜して、税金からの研究費はそこに集中すべきか。選に漏れた研究は、独自に投資家を募ればよいのか。それは好ましくないと考える。なぜか。

タスマニア効果

ツイッターのタイムラインでだと思うが「タスマニア効果」なる言葉を知った。

リンク先のタスマニア効果と宇宙植民地化によると、それは以下の通り。


  • SF作家チャールズ・ストロスは現代の技術文明を維持するのに必要な人口は最低1億人と見積もった

  • 計算の根拠は航空産業だけを維持するのにも50万人が必要、という推計の積み重ね

  • ジョージ・ワシントン大学のHenry Farrellは、この計算を元にタスマニア効果を考察

  • タスマニア人は、ヨーロッパ人が訪れたとき人間社会の記録史上において最も単純な道具しか持っていなかった

  • これはタスマニアの人口が少なかったため

  • 人口がある水準以下になると、前の世代からの技術の学習の不完全性が技術の衰退となって現れる

もちろん仮説の域は出ていない。

航空機産業を維持するのに50万人必要と言われてもにわかには理解できない。だが、よく考えてみよう。木と布の複葉機ならいざ知らず、軽合金製のジェット機を運用しようとすれば必要な基盤は...
ボーキサイトの採掘と運搬
アルミニウムの精錬
銅鉄その他金属の精錬
超超ジュラルミンの製造
炭素繊維の製造
各種プラスチックの製造

機体製造の素材だけでこれだけが必要。しかもこれらを動かすためにはさらに発送電システムや輸送システムも必要だ。

さらには教育システムが必須。次世代に知識や技能を継承できなければ50年もしないうちにシステムは機能しなくなってしまう。たとえばネジを作れなくなっただけで飛行機は作れなくなる。一子相伝であれば、ぼんくらが一人いただけで断絶だ。逆に師匠のデッドコピーであれば発展の余地がない。すべてをお見通しの神様を頼れない以上は、ある程度の失敗を織り込んだ試行錯誤で臨むしかない。つまり教育の歩留まりは100%にはならないし、なってはいけない。だから学び手は必要数に対して余剰でなければならない。

そしてこれらに従事する人間は裸で霞を食い土の上に寝る訳ではないから、衣食住を提供する人員も必要になる。

というわけで、なるほど相当の人数が必要だと言うことが実感できる。その人数を割り込むと縮小再生産に陥る。そして技術の劣化がある程度進んだところで安定化するが、中には文明崩壊にまで進むこともあるだろう。肝心なのは総人口ではなくて、ある分野に従事する人口。「モノになりそうな基礎研究」をする人の周りに「海のものとも山のものともしれない」研究をする人がいて研究者人口を維持しなければ、モノになりそうな研究をする層が薄くなってしまう。

これが役に立つ(と思われる)研究を選抜して、税金からの研究費はそこに集中するのが好ましくないと考える理由。もちろん小さな政府のもとで科学研究は民間主導となれば話は少し変わるが、民間が短期間での高率の投資回収ばかりを望めば、遠からず危機的状況に陥るだろう(ただし民間の方が長期的な利益に敏感であるという期待も持てる:多数の有権者よりも、少数の株主の方が同意を得やすいから)。

なお飼育、もとい扶養している研究者を研究プロジェクトの中に割り振るならば、一見タスマニア効果の陥穽を逃れられるように見える。また大きな研究の方向を指し示すことも大切。だが人は全知全能ではないことを知るべきだ。「あそび(ゆとり)」が大切。近視眼的な管理では次世代研究の萌芽を摘んでしまう危険がある。

そもそも将来何が役に立つかなど誰にも分かりはしないのではないだろうか。

と言っても開き直りと受け取られては困る。誠心誠意、と言うと語弊があるけれど各研究の予算要求説明には理解してもらうためのギリギリの努力を尽くすべきだとは思う。


スケールメリット


ところで航空産業だけを維持するのにも50万人が必要であった。飛行機を飛ばすための燃料を、そのためだけに製造したらどうなるだろうか。ジェット燃料というのは灯油の一種であるが、石油(原油)からはそのほかに石油ガス、ガソリン、軽油、重油、アスファルトが取れる。その全部が利用できれば採掘精製費用は均等に分担できるが、灯油しか使わないとなれば、そこで全費用を負担しなければならず、つまり相当高いものになる。ちなみにガソリンはガソリンエンジンが普及するまでは使い道がなかった。仮にガソリン自動車をすべて電気自動車や水素自動車に置き換えたところで、ガソリンがだぶつくだけで、灯油軽油重油等の需要が減らなければ石油(原油)消費量に変わりはない。発電や水素製造のためには石油需要が増すかもしれない。だから二酸化炭素生成量の削減には役立つかもしれないが、石油資源の節約にはたぶん役に立たない。

閑話休題。つまり石油ガスからアスファルトまで使い尽くすようなシステムがないと、ジェット燃料は高い物になる。これは電力や輸送システムにもいえること。いわゆるスケールメリット。航空産業専用にすると、よほどガンガン飛ばさないと高くつく(無駄が出る)のだ。日本で牛肉が高いのは、可食部が限られているからとも。あ、また話がずれる。

オーパーツを超古代文明の証拠と考えることの無理

軌道修正の振りをしてさらに逸脱。世の中にはオーパーツというものがあるらしい。エジプトの遺跡に見られる象形文字(ヒエログリフ)の中にはまるで現代のヘリコプターや戦車、そして、戦闘機のようなものがあるというのだ。で、それをもってエジプトには現代に匹敵する高度技術を持った先史文明が存在したのではないかと考える人がいるそうだ。

だが、ヘリコプターはそれだけがあっても役には立たない。たとえば燃料はどうするのか? まさにタスマニア効果が論じてきた問題だ。裾野なしに高度技術が単独で存在することはあり得ないのだ。ヘリコプターや戦車がタイムスリップしてきたという解釈の方がまだ矛盾が少ない(実際にはそんな無理をしなくても、十分に合理的な説明ができるらしい)。

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2010/08/08

被爆65年 ひろしま忌

去年は拘束されていて参加できなかった「ひろしま忌」に2年ぶりに参加した。


交通費を節約するため高坂駅で下車。あらかじめGoogle mapsで調べておいた徒歩1時間15分コースを歩き出す。と、東松山クリーンセンター一般廃棄物最終処分場の前で西から来た自転車のおじさんに丸木美術館の場所を尋ねられる。逆方向に進んでますね。手にした地図を見せ、大まかな説明をする。ただしGoogleの示すルートは最短距離なので後半はかなりマニアック。おとなしく県道344号を辿った方が安全。どこまで理解されたか分からないが漕ぎだして行った。(後刻、美術館で声をかけられた)

それにしても日差しが強い。帽子を忘れたのは失敗。道中ほとんど日陰がなかったため両腕が赤く日焼けしてしまった。

途中で迷ったかと思ったが、マニアックなルートを(ほぼ)正しくトレースして美術館に到着。丸木美術館の第一の欠点は交通の便であるが、つきのわ駅からなら2.5km、約30分で着く(もっともポピュラーな森林公園駅からだと徒歩約50分、タクシーで12分)。

ピースアクションの報告をする増山麗奈まずは「友の会」のテントで更新手続き。次に隣のテントで水分補給のためラムネを購入。「茶ラムネ」という不気味なものがあるのかと思ったら「茶・ラムネ 100円」だった。

庭にしつらえた会場ではすでに桃色ゲリラ、増山麗奈のNPT再検討会議に対するピースアクションの報告が始まっていた。なんともとりとめのない話に聞こえたが、芸術家だしゲリラだから許す。丸木美術館に冷房を入れよう、と過去の経緯を無視できるのも大胆で素敵。暑さの中で働く職員らも大変だが、連日35℃を超す状況では作品への影響も心配される。実際、温湿度のせいかは分からないが「水俣・原発・三里塚」では絵の具の剥がれが見られた。作品の劣化は心配。

「水俣・原発・三里塚」の中央に描かれた冷却塔の絵の具がひび割れ、剥がれかけている


美術館自体も築40年を越えて改修が必要な時期に来ているというので、大規模な太陽光発電とか燃料電池システムとかの導入も考えてもらいたい。夏の暑さもさることながら、冬の寒さも尋常でないし。...原爆の図は快適な空調の下で見るものではないという考えも分からないではないが、観覧中に熱中症で倒れられて「水をください」では洒落にならない。

会場では続いて江戸川区在住の被爆者西本宗一さんのお話。江戸川区には在住被爆者の団体・親江会があり、区内滝野公園には原爆犠牲者追悼碑が建立されている。西本さんは、原爆被害のことは知っていると思っていたけれど、初めて原爆の図を見た時には自分の知らない被爆者を見て衝撃を受けたとのこと。またマニラで被爆体験を話した時にはアジアの原爆観を突きつけられたこともあったと語られた。

その後は栗友会合唱団コンサート。曲の説明に「この歌を知らぬ者はいないほど、単独で有名になった」とあるけど、知りませんな。お互い小さな世界に生きているようで。アゴアシだけ(ひょっとしてアシだけ?)での出演ということで、終演後にカンパ袋が回される。ビールを自粛して日本茶に切り替えた差額から100円を貧者の一灯で拠出(残り50円は送迎バスにガソリン代カンパ)。

針生館長を偲ぶ会の祭壇

室内に会場を移して5月に亡くなった針生一郎館長を偲ぶ会。献花の代わりに折り鶴を捧げる。豆折り鶴を両手で掬い祭壇に捧げたが、手に付いているような気がして思わずパンパンとはたいてしまった。しまったぁと思いながら下がって見ていたら、同じようにしている人を見つけて安堵。

灯籠の流れを調整する竹竿とスタッフ

川の流れに灯籠を乗せる

最後は都幾川への灯籠流し。停留防止のため、竹竿で阻止線を張るなど前回より態勢強化。瀬の中央まで渡ってから流すようすすめられたので、裾をまくり、裸足になって川の中へ。都市生活者の柔らかい足の裏に川砂利の角はきつい。痛いので動きが鈍くなっていたら、流れる灯籠を撮影するのに夢中のカメラマンに足を踏まれた(裸足なのに向こうは長靴)。突き飛ばしてやろうかと思ったぞ>Hケーブルテレビ。

ようやく流れに乗せた灯籠は100mほど下流で回収された。

丸木のイベントは参加者の高齢化が目立っていたが、今年も爺婆が目立つ中、20代30代とおぼしき人も増えていたように思えた。帰りのバスで聞いた話では、今回初めてという参加者も多かったとのこと。誰かが「丸木美術館は広島・長崎まで行かなくても窺える原爆被害」といっていたが(富士塚かよ)、東日本の住民にとっては手頃な入門コースである。被爆者の生の語りが聞けるのも後せいぜい十数年。歴史的使命はまだ終わっていない。

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2010/02/14

国境なき医師団へのリンクを追加

先日、国境なき医師団日本から、昨年した寄付への礼と寄付増額の依頼が届いた。2051人にはしかの予防注射ができました、できればもう307人分お願いします(外国為替による変動があります)、と。

残念ながら手元不如意で、月にわずか500円の増額要請にも応えられない(実に情けない!)。

そこで当ブログのサイドバーから「10の最も深刻な人道的危機2009年」へのリンクを追加した。GiveOneの上になったのはココログの仕様による。

余裕の浄財を国際的に活用したい、という方はご検討を。

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2009/12/31

宝くじ

宝くじを買う人と買わない人というのは、もしかするとまったく別種の人間かもしれない。

宝くじは資金集めの手段だ。それを理解した上で、「地方自治体の事業に協力したいから金を出す。購入気運を盛り上げるための賞金還元は座興のようなものだが、当たれば嬉しい。」というのなら理解できる。

また募金には見向きもしないのに「○○復興宝くじ」なら買うという人もいるだろうから、制度そのものも否定はしない。

でも賞金を主目的に、「夢を買う」なんて言うのは、ちょっとその、言葉は悪いけど「頭悪いんじゃないの?」と疑問を呈したくなる。

でも、宝くじを買う人にはこういう理屈は通じないみたい。(;_;) それどころか、あまり無邪気だと宝くじを貶している自分の方が性格が悪いように思えて来る。orz

宝くじが如何に「ぼったくり」かは多くの人が論じているのでここでは繰り返さない。


ここで発想をかえる。宝くじ控除というものを設けたらどうだろう。たとえば宝くじを100万円以上購入したら、それを所得から控除するのだ。つまり税金が安くなる。

  • 100万円分も買えば、よほど運が悪くない限り何枚かは当選するから買った本人は気分が良い
  • 宝くじが売れれば発行自治体も嬉しい
  • 自治体に資金的余裕ができれば住民もハッピー(になれる可能性が高まる)

これぞ三方よし

そもそも宝くじは「不公平な税金」だから所得から控除して二重取りをしないのは正義にかなっている。また、本来はそのような税金を納める立場にない低所得者を見せかけの優遇から排除する(さすがに100万円も買いはしないだろう)ことで購入意欲を減退させ、不公平さを緩和できる。そして頭の悪い小金持ちが死蔵している現金を喜んで差し出して来る効果が期待できる。


あとはそうですね、宝くじとタバコを1本1000円にして低所得者排除を強化すれば画竜点睛でしょうか。

なお自治体財政に貢献したければ、宝くじやタバコを買うのではなく、寄付(ふるさと納税)あるいは公募地方債の購入の方が効率的。

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2009/08/23

危機相場のエタノールゲル価格

金曜日の出勤途中に手指消毒用ゲル状エタノールを買った。すぐに手に入れたかったので高値を承知でコンビニエンスストアにて。880円なり。

メーカー希望小売価格は1050円(税込み)だそうなので、まぁ良心的な価格と言えるだろう... ところが帰ってから調べてみて驚いた。主立ったネットショップは軒並み売り切れ、なのは先日調べて想定の範囲内なのだが、その中で販売継続中のショップ価格は...なんと1480円! 別に2本セットではない。

危機相場である。

1480円


日曜には1480円のも売り切れになっていた。

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2009/03/13

ボランティア考(序)

わたしはボランティアだと思われている。

実際、いくつかの団体に登録もされている(はず)。

しかし、実のところボランティアなるものには違和感を覚えている。尊敬すべきボランティアがいることは認めたうえで、乱暴にくくればやはり胡散臭い存在、だと思う。

その感覚をあるブログのコメント欄でこう書いた。

ぼくはボランティアなんてやりたくなかった。本当は...樵になりたかったんだ!

しかし、あまり理解されなかったようなので、まずその解説から。

この「樵になりたかった」はモンティパイソンのスケッチ「The Lumberjack Song」に由来する。初登場はM.ペイリン演じる理容師が「床屋になんかなりたくなかった。本当は樵になりたかった。」(Homicidal Barber)。これが大当たりだったらしく、その後いろいろなバージョンが作られた。Youtubeには正式なモンティ・パイソンチャンネルがあるけれど、今のところE.アイドルのステージ版しか公開されていない。しかも英語のみ。そこでちょこちょこと探したところ、解説したページが見つかったので、話が見えない人はそちらを読んでほしい。あとwikipediaにも一項目が割かれている。

ドイツ語版でも採用されている(吹き替えではなくオリジナルのドイツ語版)。「私の主張」というTV番組に出演したシュルツさん(ペイリン)は、シェイクスピアの作品は実は自分が書いたと主張して司会(J.クリーズ)にやり込められてしまう。収録が終わってセットが片付けられている時に再び現れて、話を蒸し返そうとするが、「帰ってくれ」と冷たくあしらわれる。そこで憤然として「僕はこんな番組に出たくはなかった」。「なんだって?」と巨漢クリーズが聞き返し、どうなるかとハラハラしていると「本当は...」。

なお、larchと聞いて笑ってしまった人は、もっと友人と付き合った方が良いと思う。

閑話休題。(現代日本の)ボランティアイメージに対する違和感は2種類。一つは「親切の押し売り(無償だから「押しつけ」か)。もう一つは「主体性放棄」。実際にそういう手合いと遭遇して不快だったというよりは、想像や伝聞が多いので、「私をそんな風に見ていたのか」と慌てないでいただきたい>周囲の人たち  (自己分析もかなり混じっているし

親切の押しつけとは、初めにボランティアである自分があって、そのために対象を漁るケース。能動的なだけ次の「没主体」よりは役に立つことが多いけれど、あくまで自分本位。

一方の「没主体」は、別名「自分探し」。言われたことをこなすだけで、「人の役に立っている自分」に酔いしれる。

どちらも自分の都合で来て、自分の都合で去っていく。また有名なところに集まり、身近にある、本当に支援が必要なところには足を向けない傾向があるようだ。

もう一つ、重要な特徴は「してやる」という態度。巧妙に擬装されているので見破りにくいが、被援助側から拒絶された時に馬脚を現しやすい。

ボランティアとは元来「志願兵」だ。国民兵(徴兵)とも傭兵とも違う。災害・動乱初期のように指揮系統が混乱している時には、自分で考えて行動するボランティアは貴重だ。極端な例をあげると、突然の侵略を受けた場合に民間人が武器を持って抵抗することは、一定の条件のもと、義勇兵(volunteer army)の一種である群民兵として国際法上も認められている。しかし正規軍(政府)が動きだすと立場は微妙になる。その指揮下に入るのが一番真っ当な選択肢であろうが、それが唯一の途とは思わない。災害時を思い出してほしいが、フットワークの軽いボランティアは腰の重い官僚機構による救援を補完する。

理想的なボランティは、自分のできること、なすべきこと、相手に必要なことを理解していて、自発的にそれを提供する。ただし、これを束ねるのは骨が折れるだろう。そもそも「一本の名刀は、同じ値段の百本の槍に勝てない」(朝倉家家訓)。つまり指示がなくても適切に働く一人の有能なボランティアよりも、言われた通りのことならこなせる百人のぼんくらの方が役に立つ(今度からこういうのをボンクランティアと呼ぼうか)。適切な指示を出せるならば。

実際のボランティアは傭兵型の方がうまくいくのではないだろうか。うまく定義はできないけれど。

(「序」と銘打ったものの、続きの掲載は未定)

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2009/02/27

メディアの社会的責任を問うシンポに潜り込み


22日の日曜日に開かれたシンポジウム「メディアを変えれば世界が変わる—メディアの社会的責任を問う」に潜り込んできた。

潜りというのは、登録をせず、当然木戸銭も払わずに聞いてきたから。そんなことができたのは、雑誌「ビッグイシュー」の会場内販売が認められ、その売り子として参加したから。

ビッグイシューは登録した販売者しか売れないのに、どうして私が販売に関われるのか。それは一つには売り上げが正規販売者のものになるから、つまり外形的には私が売っているけれど、実はそうではないから。しかし、これは形式的理由。なぜ登録した販売者にしか売らせないかと言うと、趣旨を理解し行動規範に同意した者に限定することで、雑誌の声望を守るため(違反すれば販売者証の取り上げもある)。だから雑誌の趣旨に賛同しているボランティア(私はこの立場)を形式的に排除する必要がない。もっともボランティアを100%信用するのはどうかと思うので、格付けなり選抜なりは必要になると思う。

さて、今回の販売者は虎ノ門で売っている植村さん。彼は先日(1/22)フジテレビ系の「スーパーニュース」に登場した(あの放送には不満もあるが、それはまた別の機会に)。また「ビッグイシュー」107号の「今月の人」にも取り上げられている有名人。ビッグイシュー基金のIT研修にも皆勤参加し、テストに合格してメール販売の資格も持っている。

事務所で落ち合って、もう一人のボランティアYさんと一緒に会場であるJICA地球ひろばへ向かう。ここは去年、バイオ燃料の話を聞いたところ(あれ、ブログに書くの忘れてる)。開場まで1時間以上あるのに早すぎないか?と思っていたら、なんと本式にテーブルを提供してくれると言う。あわてて設営。しかし出来上がったものを、主催者側と比較すると、明らかに見劣りする。庇を借りて母屋を、にならなかったのは良いけれど、もうちょっと工夫しよう。ポイントの一つは立体化とみた。あとは華やぎ...おっと。

全体に平板な印象のビッグイシュー販売机

立体的な a seed の販売

拘束時間は長かったけれど、販売できたのは実質的に開演前、休憩中、終演後の計1時間ちょっと。あとはずっと座っていられて話を聞けて、それでいて週日の1日に匹敵する売り上げがあった。持って来なかった号に関しては植村さんがさっそくメール販売のご案内。それにしても参加者の数を考えるとものすごい購入率。さすがこの手のシンポジウムに来る人は違う。

さて、肝心の内容。面白かったのはマエキタミヤコさんの話。トップの柴山哲也さん(なんか筑紫哲也のアナグラムみたい)の話がドヨンと感じられたので、よけい威勢良さが際立った。もっとも最初に出てきた「知らしむべからず、よらしむべし」の解釈に疑問。呉智英が書いてたよな...と思って念のため今辞書を引いたらその通り。この場合の「べし」は「可能」であって「命令」ではないようだ。

それはともかく、の前にもう少し。フロアの8割近く?がこの「知らしむべからず...」を知らないと手を挙げたのには心底驚いた。無教養の集まりか!? 知っているに手を挙げないのは韜晦とか謙遜とかあるだろうが、堂々と「知らない」に手を挙げてたもんね。いや、私はその時「べし」解釈に自信がなかったのでどちらにも手を挙げなかったが。

それはともかく、さすが広告のプロ。「無関心層というのは幻想」「1%が反応してくれれば御の字」「自分がそれを知らなかったときのことを忘れない」「情報格差で発電をしない」などなど時間が経った今でも思い出せる名文句がぽんぽん。1%については、植村さんも「そうそう」と同意していた。路上で雑誌を売ったら、反応は本当に体感1%程度だろう。

第二部のパネルディスカッションも含め、ただ聴きは申し訳ないと思うほど充実した内容だった。現在、財政的に逼迫しているが、落ち着いたらお礼カンパなどしなければ(第二回開催のためのカンパ募集中)。

ただ、全体の基調が「市民のメディアリテラシーは向上する」だったのは気になった。希望は大切だが、願望と予想は区別しなければいけない。「みんなの意見」は案外正しいが成立するには重要な条件があるけれど、私にはそれが侵されつつあるように思える。

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2008/09/28

「中国がうらやましい」

失言大臣、またすごいことを言っていたそうだ。

(空港整備が進む)中国がうらやましい」と述べた。

想像されるメンタリティからして何の驚きもないが、顔を真っ赤にして(と邪推)発言を擁護している人は、ここにも賛成なんだろうか。

いやいや、街の論評家や2厨ねらならともかく、国務大臣がこういう考えを持っているってのは、やはり相当危険だろう。いくら選挙管理暫定内閣だとは言え。

米ソ対立華やかなりし頃、日本国内では自民党と社会党が対峙していた訳だが、自民党の議員がアメリカに行くと「自由のはき違え」に憤慨し、一方ソ連に行くと「なかなか秩序だった国」と感心したらしい。考えてみればアメリカってのは、英霊が命をかけて戦った敵であり、平和憲法を“押し付け”、“国民 をダメにした”戦後教育の土台を作った張本なんですから当然ですわな。w 

日本が「世界で唯一成功した社会主義国」と言われることからも、自民党と共産党官僚の親和性はなんの不思議もない。(一方、社会党議員は「人民の敵、米帝」に行くとその自由さを賞賛し、労働者の国ソ連に行くとその杓子定規・官僚主義に憤慨したとか。)

(地元の人たちも)公のためにはある程度自分のことを犠牲にしてでも尽くす精神が必要だと日ごろ思っている

ふーん。三里塚・芝山の農民には、国策を信じて満州(当時)開拓に赴き敗戦で命からがら逃げ帰ってきた人たちがいますよね。で、また国策で北総台地に入植し、苦労に苦労を重ねて成功したところで「空港を作るから出て行け」。十分に自分を犠牲にして公に尽くしてきた人たちに向かって、なんと無礼な発言であることよ。

この辺りの苦労は、財団法人航空科学振興財団の歴史伝承委員会が開いた「空港前景 木の根・天浪の戦後開拓」で垣間見ることができる。


国土交通省・千葉県・成田市などの後援を受けて開いた「—土・くらし・空港—  「成田」40年の軌跡1966-2006」では、「事前に地元住民の意思を確認せず、合意も得ないまま進められたこの「国策」に対しての不満と憤りが爆発し、生活と権利を守る闘いになった」という表現に見られるように、国側の落ち度を認めている。

歴史伝承委員会だより(第5号)(PDF)
歴史伝承委員会だより(第6号)(PDF)

(ちなみに企画展のアンケートでは、反対派に偏向した展示という批判もあった。それくらい感情のしこりをほぐそうと努力しているのに、所管大臣が「ごね得」なんていったら水の泡。地元が怒るのも当然。)


この件に関しては千葉県の方がよっぽど賢明。(収用委が機能停止だったせいもあり)強制収用に頼らない開発に努め、かずさアカデミアパークは土地買収に反対する地権者とうまく折り合いを付けられた、とこれは県庁の人から聞きたことがある。空港と違って、敷地の形状に自由がきくという利点はあるものの、「先祖伝来の土地だから売ることはできない」という地権者に、「なら貸してください」と柔軟な対応をしたというのは見事。

買収も借り上げもできなかった土地でくびれているアカデミアパーク敷地(PDF)

航空写真で見ると農地らしい(かずさ3号公園付近)

それにしても、毎度思うことだが、どうして基本的な事実を確認しないまま、平然とでたらめを流せるのだろうか。大臣じゃなくて、ネットで大臣を擁護している人たち。あなたたちが大っ嫌いであろう中国と同じことをしようと言ってるのですよ、あの大臣は。

(「中国がうらやましい」 よもや書き換えはないとは思うが、念のため魚拓も。)

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続・典型的なアナクロ

早くも辞めてしまいましたな。

単一民族と成田については早々に撤回し、抗議にもお詫びで対応していたが、日教組については面会もしなければ撤回もしないどころか「日教組をぶっ壊す」とか息巻く始末(ニュースで見た限りでは、地元、しかも自民党内での発言のはずなのに、拍手も歓声も起きていない...身内にも見限られたか)。

とにかく低レベルというか、事実関係からしていい加減。

空港反対闘争と戦後教育については、時間的に全く関係がないことは既に触れた通り。反対同盟の中でも老人行動隊の勇猛さは語り継がれているが、70年前後に老人ということは、どう考えても1910年より前に生まれている訳で、戦後教育の影響などある訳がない。まさか大正デモクラシーのせいにする? 「親の代から自由党支持」なんて同盟員もいたそうだ。そうそう、第一次強制代執行の時には、農民放送塔に日の丸が掲げられたっけ(黒く縁取りされていたけど)。そして流された音楽は軍艦マーチ。

(前大臣は言及していないが、世間には「左翼が農民を利用した」と素朴に信じている人も多いようだ。だが聞く限り、同盟が主で支援者は従という関係はきっちりしていた。たとえば7月仮処分に備えて作られた地下壕には支援者は入れなかったとか。あるいは革マル派を除く「過激派」が集結していたのに、30年以上にわたって内ゲバはおろか小競り合いさえ「ほとんど」起きなかったこと。)

日教組についても、そもそも「日教組の子どもは成績が悪くても先生になる」が意味不明。「組合員の子供は成績が悪くても口利きで教員になれる」という意味だろうか? だが大分の事件、分かっている範囲では校長とか教頭とか、日教組とは無縁の人たちではないか。また世間は「日教組の影響下では学力が伸びない」と解釈しているようだが、「学力のない子が教員になれる」ことの説明ができない。かの大分県の試験要項を見ても「大分県の小中高出身者に限る」とは書いていない(資格は「県内のどこにでも赴任できる者」)。つまり全国から受験者が来る。そうなれば不正をするかアファーマティブアクションを発動するかしない限り、優秀な県外勢が教員がなる。デキの悪い子は採用されないから、この論は破綻。

だいたい教育の責任は文部省(文部科学省)にあると考えるのが普通でしょうに。建前は教育委員会にある訳だけど、教科書検定と学習指導要領で実際に統率してきたのは文部省。「円周率は3と教えると日教組が決めた」なんてことがある訳がない。「日米同盟が大切」と「アメリカに押し付けられた憲法を改正」が矛盾なく並立する頭なら無問題なのかもしれないが、私には訳が分からない。


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2008/09/26

典型的なアナクロ

アナクロニズム(時代錯誤)もはなはだしい大臣発言。

成田空港の滑走路拡張問題でも、「ごね得というか、戦後教育が悪かったと思う」

おいおい、戦後教育って。成田空港建設が現在地に決まり、反対闘争が始まったのは1966年だよ。反対運動の中心になったのは、外地から命からがら引き上げてきて入植し、農地を切り開いた農民だよ。戦前の教育を受けた人たちだからね。

ついでにいうと、現在地への計画変更は「不時着」と言われたほど唐突なもの。そして「もう決まったことだから」と、地元の反対に聞く耳持たずの姿勢を示したのは当時の政府。どっちがゴネ得を狙っていたのやら。


こいつ、深く考えないで印象だけで語る癖がついているんじゃないだろうか。と、印象批判。:-p

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2008/08/07

6日は多忙な一日

丸木美術館で開かれる「ひろしま忌」に参加するため出発。途中で銀行に寄り8月分の健康保険料を納入。

東武東上線の高坂駅で降り、市内循環バスに乗る。出発まで時間があるのでアイドリングストップした車内は徐々に暑くなってくるが座席でじっと我慢。やはり丸木美術館に行くとおぼしき人(同行者との話から出演者の館野公一さんとわかる)たちが乗って来たが、とりあえず知らんぷり。

定刻にバスは出発。進み具合を地図と照合すると、市内循環バスだけあって、やたらと回り道をしていることが分かる。寄り道をしなければ結構近いかもしれない。

美術館に到着後、まず都幾川の様子を見に行く。去年とはまた流れが変わっていて、これなら灯籠流しは楽になるかもしれない。ただ、停留しそうな箇所(死水域)もあった。

去年の川道は干上がった都幾川


川の方向が変わったところに流れの止まった領域

ボランティア?の人から「来館の折は声をかけて」と言われていたが、顔が分からないし、スタッフに尋ねようにもこの日の美術館は無料開放のため窓口は無人。となりのテントは友の会入会受付なのでパス(入会済み)、仕方がないのでそのまま一番奥のテントまで進み、とりあえずカレーで腹ごしらえ。時間があったので美術館を巡る。

原爆の図は第三部(水)に余白の多いことが気になる。一階に降りて東山薫の肖像に礼。それにしても丸木スマの作品や絵本の原画のスペースに来ると、なんとはなしにホッとする。

14時に太鼓の演奏が始まる。中学生と言うがなかなか勇壮。少し離れた四阿にいたので、その次のわらべ歌は夢うつつに聞き流す。善光寺の若麻績敬史住職の話は面白かった。もっと面白かったのは、配布資料(目立たない所にいたので配ってもらえなかった)で中国共産党を非難したり、麻生太郎(「部落民を総理大臣にはできない」という低劣な発言をした人物)を評価したりしていたので聴衆の一部が混乱してしまった様子。

麻生は「半径2mの男」(端から見ていると強面で嫌な感じがするが、2m以内に近づくと魅力が分かる)と言われる男なので、会って話をした若麻績さんは惹き付けられたのであろう。上掲の差別発言を許すには血を吐くような自己批判を要求せざるを得ないが、それでもアックゼロヨンに対して協力的なのは評価したい。

卵の殻はどちらから剥くのが正しいか、で争う伝統は破棄したいもの。

続いて館野公一さんの歌。最初の歌はちょっと図式的っぽかったけれど※※、次の東海村臨界事故を扱った「語り歌」(バラード)はちょっとゾクゾクした。最後の「豚のご飯」は、フルバージョンは27分かかる(進行の遅れを気にしていた主催者は焦ったらしい)ものを端折ったということで詳細は分からないが、賞味期限切れのコンビニ弁当を食った豚がおかしくなったのは、たとえば塩分過多とかそういう栄養学的問題ではないのかな。必須栄養素とか必要量とかは生物種によって異なるから(ネコにドッグフードを食べさせ続けると失明すると言うし、ヒトがキャットフードを食べ続けると高カルシウム血症になるらしい)。

最後、ではなくてその一つ前の針生館長。田端 展の『被爆博覧会』を紹介。(しかし館長、遺伝的要因がないのにがんになったから被爆のせいって、コンビニ弁当のせいかもしれませんよ。) また語り部たる被爆者が全員鬼籍にはいる遠くない将来に対する備えが必要とも。

峠三吉「人間を返せ」の朗読を聞いてから灯籠流し。去年は川筋が悪くて流すのに苦労したが、今年は冒頭に書いたように流しやすい。ただ、流れの向きが変わる所で死水域ができている。その手前にスタッフが立って交通整理。

川の中に立って、灯籠を流れに乗せるスタッフ

灯籠は下流ではゴミになってしまうので、最近は経費節減も兼ねて下流で回収していたが、今年はその様子が丸見え。うーん。 (と思いつつ去年のビデオを見直したら、回収班らしい人が映っていた。見れども見えず、ですな。)

帰りは高坂駅まで歩く。高をくくっていたら一時間近くかかってしまった。途中、かなり恐い思いもしたので、特に暗くなってからはお勧めできない。ただ懐中電灯を持っていればかなり楽(こういう時に限って携帯電話は電池残量わずかで明かり代わりに使えない)。

次の予定、池袋でのビッグイシュー販売員勧誘の集合時刻まで2時間という中途半端さ。とりあえず各駅停車でゆっくりと行く。

勧誘活動とは、野宿している人を回って、雑誌ビッグイシューの販売員にならないかと誘って回ること。この雑誌は「慈善ではなく、仕事を与えることで自立を促す」というコンセプトで発行され、登録したホームレス状態の人しか売ることができない。売上げ300円のうち160円が販売員の取り分。ただし完全買取制なので、仕入数を調整しながら完売を目指す工夫が必要。この能動的な取り組みが現金収入と共に社会復帰に資している。

さて平日夜ということもあり、集まったのはビッグイシュー基金スタッフを含めて4人。内女性が3人。2人は勧誘活動未経験。というわけで4人一組でゾロゾロと活動開始。

段ボールを敷いて寝ている人はホームレスと識別できるが、ただ座り込んでいる人との区別は難しい。大きな荷物が目印の一つだが、長距離バスの発車場そばはまた紛らわしいのがゾロゾロ。

この日はあまりホームレスと遭遇できず、また眠っている人が多かったためほとんどパンフレットを置いて来るだけで、話をできた人はほんの数人。ただ、そのうちの一人は早速7日から街頭に立ち、夕方の時点で30冊以上を売り上げている(30冊で売上げは9000円、6200円の所得)。時間をかけて説明をした甲斐があった。

※麻生太郎の差別発言

この件が広く知られるようになったのは、おそらく魚住 昭の『野中広務 差別と権力 』(講談社)でしょう。wikipediaの典拠にあげられていますし、amazonのレビューでも6人が触れています。

麻生本人は国会において、そういう差別発言はしていないと主張しつつも、自民党の総務会で指摘を受けた事実は認めています。

読んでいただければ分かると思いますが、麻生の答弁は、その日は政調会長ではない(前日まで政調会長)だとか、何大臣になるかは分からないとか、枝葉末節の解説が多く、「ははん。やっぱり言ったな」と思わせる所があります。

この議事録は膨大なので該当部分を引用しておきます。

中村(哲)委員 つまり、野中当時の議員が自民党の総務会でそのような趣旨の発言をされたということは事実であるけれども、麻生当時の議員が大勇会においてそのような、野中氏を誹謗中傷するような発言をしたことはないということでよろしいですね。

麻生国務大臣 そのように御理解いただいて結構です。

質問で「麻生当時の議員」とあるのは、その前の答弁で、当時は麻生大臣でもなく麻生政調会長でもなく「麻生議員と言っていただくのが正しい」と枝葉末節にこだわっていることへの皮肉? 「あそう」の後に一拍おいてから「とうじのぎいん」と読みましょう。

※※館野公一さんの歌

歌の背景が「今を去ること 50年前」なので、それを聞き落とした以下の感想は全く的外れ。50年前ならシアン垂れ流しの工場、開発命の小役人になんの違和感もない。

また「フルバージョンは27分」は司会者の誤解。いずれもmixiにおいてご本人から教示いただいた。感謝。

乱暴にまとめると「田園地帯にメッキ工場ができたら魚が捕れなくなった」という歌で、工場の排水口の上流と下流に魚のはいった生け簀をおいてみたら下流の魚は一晩で死んだ、と。

いつの話か分かりませんが、50年代ならまだしも、一晩で魚が死ぬほど有害物質を川に流す工場が今どきあるとは思えません。下流に魚の死体が浮いて、役人が飛んできます。おそらく工場内でも、処理済みの水をはった水槽に魚を入れてモニタリングしている筈で、急性毒性を示す物質が流れ出るとは考えにくい。もっとも石原産業やJFEスチールみたいな会社だったら別ですが(これも役所が発見・摘発しました)。

「それは図式的とは違うのではないか」と言われると、そうかもしれませんが。

ともかく「魚が浮く」みたいな分かりやすい公害は、役所が黙っている時代ではないでしょう。(工場の恩恵に浴さない下流の自治体とか県、国も控えている)

しかし慢性毒性や生殖毒性(不妊になる、仔が不妊になる等)となると話は別。たとえば毎年産卵する魚で、仔が不妊(孵らない卵を産む)になった場合、影響はその年にも翌年にも出ません。3年目になって稚魚がいないことで異変に気づく。そうすると、工場は一昨年から操業していて、去年は何ともなかった、だから無関係と推定される。地球温暖化のせいにされるかもしれません。

あとは特定の魚種とか特定の生育段階(卵、稚魚)とかにのみ毒性を示す場合も、通常の水質検査では見落とされますね。

耳で聞いて分かる歌にするのは難しいでしょうけど。(^^;

「いつの話か分かりませんが」と入れておいて首の皮一枚のこった。

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2008/02/24

ワルシャワ労働歌

ふと自分を鼓舞したくなって「ワルシャワ労働歌」の音源を探してみた。

すぐに見つかったのはなんとポーランド語版だった(題名から分かる通り、ポーランドで作られた歌)。

日本語の歌詞は鹿地亘の手によるという(この人は占領中に米軍情報機関に拉致され、スパイになるよう強要された)。

ところが歌詞は2バージョンある。ご存じの人も多いだろうが、敵の嵐は「荒れ狂う」と「吹きすさぶ」(以前、「荒れすさぶ」というのも目にした覚えがあるが、漢字で書くと「荒れ荒ぶ」なので「吹きすさぶ」になったのだろう)。

「狂う」が精神障害者への差別ではないかという議論の影響らしい。時計が狂う(=時刻が不正確)も差別発言として糾弾されたという話を聞いたことがある。それに対して「そんなバカな」などと言おうものなら大騒ぎだったとも。1980年頃だろうか。

82年に死去した鹿地が、そんな議論を受けて訳を書き換えたとも考えにくい(そもそも対立する党派の主張だし)。ということは誰かが気を回して著作者人格権を侵害している、ということだろうか(少なくとも鹿地訳として載せるのは問題)。

それはさておき、能天気に胸をジンとさせていた「今や最後の闘いに 勝利の旗はひらめかん」の部分、考えてみれば「負けたら最後」という闘いは歴史上いくらでもあったろう(そして負けてしまったことも多々)。だが、「これに勝てば千年王国成就」というようなありがたい闘いはなかった。勝っても勝っても新しい敵がしぶとく出てくる。しかも旧敵がよみがえるだけでなく、かつての味方が敵になることもあった。いや、自分自身が当の闘いの相手と同じになってしまうことさえ...

かつて口ずさんだ戯れ歌が無難かもしれない。

取手の上に 我らがキセル 築き固めよ こっそりと (詠み人知らず)

(実際にキセルをした訳ではありません。「できるなぁ」と理論的に?検討しただけで。)

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2007/11/24

やっぱりマルチだった

以下は5月に書いたmixi日記から。この8月に経済産業省から業務停止命令(リンク先はPDF)を受けていたのを今さら知る。円天の破綻より早かった。新聞記事によれば「過去に東京都と福井県から是正指導を受けており、経産省は厳しく処分する必要があると判断した」とのこと。

先週、法事で父の郷里に行ってきた(厳密には祖父の郷里らしいが)。

そこで親類の一人がユナイテッド・パワーのセットトップボックス(STB)を売っていることを知った。
http://www.unitedpower.co.jp/rakuichi_top.html

「TVでインターネット」は、かれこれ10年近く前から現れては消えてきた。だが一向に芽が出ない。

ただ、「PCを使えない(使わない)」というのは私の想像を絶する世界なので(なにしろ携帯電話でインターネットがここまで普及するとは思いもしなかったパソコン中心派)、もしかしたらまだ商機はあるかもしれない。

とはいえ、この仕組は怪しすぎる。いやWindowsCEの話ではなくて、まるでマルチ商法なのだ。それに気づいたのは本人が居なくなってからだったので、叔母にはそれとなく「怪しいよ」と伝えるにとどめたのだが。

いろいろ大人の事情があるらしい。うむむ

私が「オヤジのオウム真理教」と呼ぶ船井幸雄がここの社長と本を出している。あんた「能ない脱税」で懲りたんじゃないのかよ。アマゾンの書評はこてんぱんだが、これならまぁ「年内に破綻」ということはないだろう、たぶん。(ん、本が出たのは2004年か... そろそろ刈り入れ時?)

(帰ってきたその日、ちょうど「円天」が報道番組に取り上げられていた。円天といい、楽市といい、楽天のパチモンみたいな名前を良くもまぁ恥ずかしげもなく...)

(「楽市」は楽天の「楽天市場」をパクったものではなくて「楽市・楽座」からという可能性もなくはないが)

あらためて調べてみると、3年くらい前には既に「教えてgoo」に相談が載っていた。また去年の3月には中身の無いITとネットワークビジネスで人々を陥れる企業「ユナイテッド・パワー」というセミナーレポートが公にされている(5月のときは見なかったような)。こういう「自らが本気で体験したことがないのに、良し悪し言うは、愚なりけり」なんて中傷にめげない人を大切にしなければ(幸いニフティからの削除要請も出なかった模様)。

今にして思えば親戚へ「もう一押し」しておいた方が良かったなという反省があるので、業務停止で一安心。詳しくは書けないけど、野放しだと相当まずい結果を招来しかねなかったから(手遅れになっていなければ良いが...)。

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2007/11/03

「ビッグイシュー」の折り紙職人

施しではなく、仕事を与えることで生活の糧を得られるようにする。この援助の基本(「パンではなく小麦の種を」「魚ではなく釣り竿を」)を実践しているのが雑誌「ビッグイシュー」だ。

「ビッグイシュー」は月2回発行で、ホームレス(路上生活者やそれに準ずる人)だけが販売することができる。一冊140円で仕入れて300円で売り、差額160円が販売者の手取りとなる(一部地域は90円で仕入れて200円で販売)。

NHKの「おはよう日本「首都圏」」や日経ビジネスオンラインでも取り上げられたので、だいぶ知られるようになったと思う。

この雑誌とは、東京は御茶ノ水橋の上で売っていた、その名も「お茶の水博士」から買ったのが最初の出会いだった。彼は手製の路上新聞を発行し、ブログを開設し、多くの固定客を得てカリスマベンダーと呼ばれ、蓄えで部屋を借り、再就職に成功した。今はビッグイシュー日本の佐野代表に請われて東京事務所で後進の指導に当たっている。

御茶ノ水橋の上に開拓された販売場所は現在も引継がれているが、私は個人的な事情で新宿で購入するようになった。

そこで出会った販売員が長倉さん。上記の日経ビジネスオンラインに登場するし、朝日新聞9月14日朝刊31ページに紹介されたこともある。(ビッグイシュー本誌の「今月の人」にも登場)

写真:表紙を飾る女優J.フォスターの顔の上に鎮座するお狐様(折り紙)

彼は一冊に折り紙を一つ付けて売っている。もらっても持て余してしまうのは分かっているが、販促努力の一つとして頂戴している。アクションが一つ増えることで購入客との会話につながるのが楽しみなのかもしれない。

ジョディ・フォスターが表紙を飾る82号に付けられているのはお狐さん。現世利益の代表格、稲荷神のお遣いですから、売上げ増と路上生活脱出をお願いしましょう。

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2007/10/08

紅葉に張り替えますか

いつのころからか駅の広告に木々の緑が貼り出されていた。
新緑の広告

広告主の名前はない。ひょっとして立体視できる?と思って平行法と交差法を試してみたが、どうも違う。

季節との食い違いが目立ちだして気づいた。広告が取れないのだ。

白塗りよりはましだけれど...(別の駅で一昨年撮影)
広告の少ない構内(別の駅)

葉っぱが目立つ

景気はまだまだのようだ。

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2007/04/08

五人組

アテネ・フランセ文化センターで開かれている上映会「小川紳介と小川プロダクション」で「パルチザン前史」を見てきた。開場前に列はできていたけれど、蓋を開けてみれば観客は60人程度か。 昔笑いが起きた、時計塔で裏返しなっていた旗のシーンは誰も笑わず。

台本と、ついでに「辺田部落日録'71.9-'72.11」を購入。計400円。よく残っていたな。(日録は見覚えがあるので昔購入した事があるのかも)

議論、と言うか言い争いのシーンになると何を言ってるのかわかりにくいので台本は助かる。もっとも、読んでみても論理展開がつかめない個所はあるが。またあたかも現地録音のように「今こそ 別れめ (聴取不能)」となっている大阪市大陥落時に学生が歌う「仰げば尊し」は実はアフレコ

議論の場に女性の姿はない。救対(逮捕時の救援対策本部)が女子学生なので京都大全共闘も性別役割分担か、と思っていると再封鎖された文学部棟にやってきた見るからにノンポリチックないでたちの女子学生が、柱に書かれた「再封鎖」の字をしばし眺めてから、やおら下に置かれていた筆をとって「斗うぞ」と書き足すのでびっくり。学生の会話から、その決意はファッションではなく実践に基づいていたことが分かる(「あの女の子な、勇敢だったぞ!ものすごく!」)。

また時計塔で篭城準備を進める中核部隊のなかにもきりりとした女性達が映っている。このシーン、台本には「女子“工兵”がめだつ」「汗で髪がひたいにはりついたまま、わきめもふらずに働いている、白ヘルメットの女子学生。」と書かれていた。

余談になるが、目立つ女性活動家は当時「〜のローザ・ルクセンブルグ(またはゲバルト・ローザ)」と呼ばれたようだ。第一号は東京大の院生らしい。

ちなみに映画では、本名でローザ・ルクセンブルグに関する論文も発表している滝田修が蔵書からルクセンブルグの腐乱死体(ドイツ革命のさなか、右派に殺害され、川に投げ込まれた死体が確認されたのは半年後だとか)の写真を示し、繰り返し「ごっつい写真ですわ」と繰り返していた。革命家の過酷な運命を思ってのことだろうが、このとき彼は自らが無実の罪に問われて10年余の逃亡生活と7年近い拘禁生活を強いられることを知らない。

さて本題。ここに登場する滝田らは党派に所属していない。党派がそれなりの力量を発揮していることを認めつつ、その「丸抱え」を批判して自分たちの闘い方を模索する。そして出てくるのが五人組。キーワードが「義理と人情」というのが面白い。

この手のものは、一方に偏ると相互批判が高じて相互批難から内ゲバへ、他方に偏ると現役ならば傷の舐めあい、「卒業」後は思い出を語りあうだけの同窓会になってしまう。後者を食い止めるのが義理、前者を防ぐのが人情なのかなぁと漠然と思う今日この頃。

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2006/12/10

現代の貧困(論座1月号)

月刊「論座」1月号の特集は「現代の貧困」。

特集の前の「潮流07」にも「インターンシップという美名に潜む使い捨て労働者」という恐い記事がある。日本人も中国からの研修生のように使役されるのだろうか。

さて内容は、さきの『ワーキングプア』を裏付ける実態。そしておぞましい「貧困ビジネス」の繁盛ぶりも。

「on the edge 〜崖っぷちに立つ若年フリーター」を読むと、ちなみにオンザエッジと読むとライブドアの旧社名というのも皮肉な気がするが、オンジエッジであろう、追い詰められて人間としての尊厳を忘れさせられた青年が登場する。

アルバイト生活なのに「ちょっとした余裕」が欲しくて消費者金融(高利貸し)から借金し、数年後に200万円に膨れ上がらせ、夜逃げをしてホームレスなったなんて読むと呆れ返るばかりだが、よく考えれば義務教育は彼に「人類最大の発明」を教えたのだろうか? 

性格的にいくぶん問題はありそうだが、この程度の性格でもっと能力が低くても、今までは十分社会生活を営めたし、今でもちゃんと納まっている人は多くいるだろう。彼が脱落したのは本人の問題なのか、それとも社会に余裕がなくなった結果なのだろうか。自己責任論者はカナリアがもがき苦しむのを見て面白がっているのではないだろうか。

次に登場するフリーター 氏は、貧困の固定化を呪い、社会の流動化の手段として戦争を渇望する(かのよう書く)。そんなに戦争がしたければ自衛隊でも外人部隊でもアルカイダにでも行け、で終わらせられれば話は楽だが、幸か不幸か「論座」もそんな釣餌をぶら下げるまで落ちぶれてはいなかった。

できることなら戦争なんて起きない方が良いと断った上で、こう結ぶ。


しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することを躊躇しないだろう。

あれ、どこかで読んだような気がするフレーズだな。と思って記憶をたどると見つかった。鈴木貴博のコラム「ビジネスを考える目」だ。

そんな世代間の闘争が、残念ながらこれから先、再び、そして三度(みたび)起きてくる。我々の世代が、若者の世代に雇用機会をはじめとする様々なチャンスを平等に与えられなければ、きっとそうなることだろう。

そして、なんとかそれらの若いパワーを権力で押さえ込まずに、解決の道を見つけてあげられないと、我々の世代も含めて未来は暗いものになるだろう。

なぜそう思うのか? もし三度、若い世代の闘争を権威でつぶしてしまったとすると、四度目に現れる若き挑戦者はおそらく武力と集団を武器に現れる。そしてそれは先進国としての終わりを意味するであろうからだ。

フリーターが言えば誤読されるけれど、コンサルタントが言えばエスタブリッシュメントも耳を傾ける(なにしろ日経のプレミアムサイトに載ったコラムです)。そのことがまた彼を苛立たせるのだろうなぁ。

ご本尊のblogについたトラックバックによると、論座を読まない批判もあるという。お望みのB vs. C の闘いも同様に仁義なきものになることは織り込み済みだろうか。

また別のTBは突き動かす名状しがたい諸々にシンクロ出来ないと書いていて、私にはこの方が得心がいく。一言で済ませるなら、彼は蜃気楼に向かって石を投げているのだ。

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『ワーキングプア』

働いても生活保護水準以下の収入しか得られないのがワーキングプア(働く貧困層)。これで居住地の制限があったら農奴と同じ。日本におけるワーキングプアの深刻な実情が報告されている。

ただ、巻頭に石川琢木の歌を引いているのには違和感を覚える。確かに彼は貧窮の中に没したけれど、それはたぶんに本人の浪費が原因であって、ワーキングプアと同列には論じられないだろう。東京朝日新聞時代の給与(25円+夜勤手当で実質30円)は「悪くない」よりは「良い」部類であったそうだし。

月に三十円もあれば、田舎(ゐなか)にては、
楽に暮せると——
 ひょっと思へる。
悲しき玩具

もっとも実際のワーキングプアの中にも自堕落、は言い過ぎとしても本人の問題が大きく思える例がある。その点、その子供達が人生のスタート地点からハンデを負い、いわば貧困を相続していることには100%同情するし、危惧される。階層の固定化につながり、社会の闊達さが失われかねないからだ。

なお本書を購入しようと思う人は、下記のお茶の水博士のブログからどうぞ。
http://big-ogawa.seesaa.net/

(なぜかアクセスできない...マイミクからも消えているし...胸騒ぎ)

お茶の水博士(仮名)はビッグイシューの元販売人、つまり元ホームレス。ワーキングプアどころか仕事も、住むところさえ失っていた。本書に収められた経験談によれば、それはあっと言う間のことらしい。上に書いたことと矛盾するようだが、普通の暮らし、むしろ羽振りの良かった人の方が、いったん歯車がずれると立ち直りが難しく、事態を悪化させてしまうのも恐ろしいところだ。

かくいう私もこの2月に整理解雇され、ながく失業状態にあったので他人事ではない。不安定で低賃金でも職があるとないとでは大違いのように思えるが、新たな職探しが難しくなればそれ以上の改善は望めないわけで、「なんでもいいから」に追い込まれなくて本当に良かったと思う。(勤めだして振り返ると、なにしろ今度は面接する側に引っぱりだされるので否応無しに思い出されるのだが、自分はずいぶんと認識が甘かったと冷や汗が出る思い。)

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土・くらし・空港

成田国際文化会館で開かれていた「土・くらし・空港」展へ2日に行ってみた。お目当ては小川プロの映画「第二砦の人々」。開演までに少し時間があるから、と先に展示を見ていたら、危うく満席で見られなくなるところであった。その辺の様子は「共有される歴史」に詳しい。

これは第一次強制代執行を記録した、三里塚6部作の中ではもっとも激しい映画だ。ところが久しぶりに見て、次の「辺田部落」に通じる“語りの映画”の面が強いことに気がついた。とにかく長回し。砦の中で、バリケードの下で、地下壕で、まとまりなく話し続けるのをひたすら撮る。地下壕の通気口のところなど「もうわかった」と言いたくなるほど繰り返しろうそくを近づけて空気の流れを見せてくれる(これは覚えていた)。ラストの穴掘り(地下壕拡張)シーンは暗いし方言だし、わかることと言えば若者達が穴を掘っていることとそれが大変な作業と言うことのみ。それがまた延々と続くのだ。今回は真面目に見続けたので、使っているのがトンビ鍬(展示されていた)とわかったのが収穫。

(公開当時は「七月仮処分」「第二次強制代執行」を前にしていたので、今とは受け取られ方もずいぶんと違っていただろう。)

次に上映された「映画作りとむらへの道」によってそれが意図的なものであることが明かされる。作中登場する小川監督は、「辺田部落」のラッシュを見てだと思うが、東京から来た人ならカットして編集してしまうだろうということを語っていた。ところが地元でそのまま見せると食い入るように見て、良かったという。別に自分らが映っているからでもなさそうで、どうも村に流れる時間は都会とは違うようだ。

それにしても、その地味の権化のような「辺田部落」の上映を、「不測の事態」を理由に禁止した78年当時の筑波大当局者は、よほどの慧眼かただのバカであろう。慧眼というのは、あの地味地味を見て共感したら、若気の至りとは別のレベルで「空港を、この地にもってきたものを にくむ」ようになるだろうから。

東山薫についてははっきりとガス弾直撃による死と展示されていた。主催は航空科学振興財団歴史伝承委員会だが、後援には国交省や千葉県も名を連ねている。警察の不祥事は県の責任。機動隊員によるガス弾水平撃ちは証拠映像もあって否定しきれるものではないが、それでも国・千葉県は投石(同士討ち)説を主張し続けてきた。もはや特別公務員暴行凌虐致死罪は時効だから譲歩しましょうということか。それにしては去年、管制塔事件元被告人に1億300万円を請求するなんて、あー、つまり「良い過激派は死んだ過激派」ということか? ちなみに東山さんは救護所防衛隊員であって石を投げていた訳ではない。

他に目を引いたのが「七夕会」からの扇屋旅館への感謝状。三里塚への「不時着」3日後の7月7日に現地入りした運輸省(当時)職員は、空港反対の空気が強い中で宿泊場所の確保に苦労したようだ。それを引き受けたのが扇屋。いかなる事情あるいは思惑があったかはわからないが、これはやはり立派と言うべきだろう。「旅館は客を歓迎する」というシンプルな思想かもしれないが。

それに応えて「七夕会」という感謝の集いを続けた職員も礼儀を知っている。(でも、その気遣いを地権者にも示していれば、あそこまではこじれなかっただろう。引き返すには十分すぎる余裕があったのに。)

こういう展示があるにもかかわらず、貼り出されていた入場者アンケート(感想)には、「反対派一辺倒の偏向」みたいな寝言が書いてあって、まったく「見れども見えず」、自分の枠組みに収まらないものは目に入らないのねと悲しくなった。(これは自分にも返ってくる批判だが)

展示はいくぶん改良の余地があるとは言え、よくまとめられていた。常設展の実現を望みたい。これもアンケートに書かれていたが、空港内に展示室を設けるのはかなり適切に思える。

帰りは途中、千葉駅で降り、銚子電鉄の「ぬれ煎餅」を購入。


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2006/06/27

今年も好調空調服

アクセス解析を見たら「空調服」で当ブログに来ている人が多い事がわかった。TVで取り上げられた影響か。テレビ東京のWBSでは新製品「空調ベッド」が紹介されている(動画あり)。

楽天市場で販売しているので行ってみると空調服の品揃えも増えていた。嬉しいのはUSB給電ケーブルが発売された事。これでデスクなら長時間作業が可能になる(現在は電池を2セット用意して取っ替え引っ替え)し、電池残量が心配でLoでちまちま使っていたが遠慮なくHiにできるぞ。

空調服用USBケーブル

服内に風の流路を確保するため布地は風を通しにくい。したがってファンが停まると途端にサウナスーツに早変わりするのが難点だったので、これは嬉しい。

ファンなしの服地だけも販売するとはなかなか細やか(更新日不明のFAQでは対応予定となっているが服地別売は既に対応している)。もっともブルゾン用とワイシャツ用ではファンが違うようだから、ワイシャツタイプはフルセットが必要か。
混紡半袖Yシャツタイプ空調服

シートに寄りかかっても大丈夫な自動車用(ファンが脇についている)とかインナースペーサー(流路を確保)とかもある。

お買い求めは以下からどうぞ(メーカー直営ショップにリンク)。

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2006/06/05

エコカーワールド2006


横浜で開かれたエコカーワールド2006(公式サイト:ボリュームを絞ってからアクセス)に行ってきた。

電気バイク

まず電動二輪車に試乗。ヤマハのEC-02Passol-L

驚くほど静か。エンジンではなくモーター駆動だから当然か。暖機運転はおそらく不要だし、早朝の出発でもご近所に気兼ねは不要だろう。加速は、競走なんてしようとしない限り十分に思えた。原動機付自転車扱いなのでヘルメットは必須だし、飲酒運転は不可だけど、安全のことを思えばそれはやむを得まい。

ただ課題もある。公表されている写真ではわかりにくいけれど、あのペンタゴン部分はえらくスリムなのだ。ニーグリップを効かせにくい。あそこを横から見たイメージ通りにたくましくしてバッテリを大容量にしてくれれば良いのに、と思った(Passol-Lと共通部品にしたせいか!)。また出先で気楽に充電できるなら遠乗りにも心配がなくなる(地図にヤマハショップを書き入れていく?)。

あと、これはEC-02固有の問題ではないが、オートバイの経験しかないので、リアブレーキが左レバーというのがなんとも。試乗の際はかなり慌てた。緊急操作だから、身体をよく慣らす必要がある。

ハイブリッドカー

ハイブリッドカーには2種類あるという。エンジンで発電して駆動はすべてモーターで行うもの(シリーズ式)と、駆動にエンジンとモーターを併用するもの(パラレル式)と。ちなみにディーゼル機関車も同じように複数方式があるという。そうだよね、運転席でクラッチ踏んでるようには見えないものね(昔はあったらしい)。

シリーズ式は構造がシンプル。エンジンを効率よく運転できるので燃費は良いし排ガスの制御も容易の筈。航続距離が長いほかは電気自動車と走行性能は同じだろう。

パラレル式は電気系統に異常が生じてもガソリン車(またはディーゼル車)として走行できるという。おお、それはそうだ。この方式は普通の内燃機関自動車と逆で、高速道路を巡航すると燃費が落ちる(モーターアシストなしで走行するため)。

電気自動車

通常の蓄電池でモーターを回して走るもの。普通自動車タイプではまだ実用化されているとは言いがたい感じ。ほとんどが販売価格未提示の参考出品だし、数少ない価格提示ものは400万円超もするくせに、一充電で150kmしか走れないのではね。また、運転席を覗いた限りでは、エアコンのついているものはなかった。あんなものつけたらアッと言う間にバッテリ上がってしまうだろう。ガソリンストーブ抱えて走るよりはましだけど、風だけというのは。

それと走行時に静かすぎるのも問題。先日テレビで、盲人はすぐそばに来るまで気づかないという実験をしていたが、晴眼者でも後ろから走って来られたらわからないと思う。前側に指向性スピーカーを載せて存在をアピールする音を出す等の工夫が必要だろう。でないと引ったくりに使う悪ガキも出る予感(電動バイクも同じ)。

燃料電池自動車

型式が統一されていないから燃料補給が一本化できない感じ。水素ガスの高圧注入は恐いな。吸着体を使えば低圧でも充填できるかもしれないが、高低両方を用意するのは容易じゃあるまい(間違えたら事故る)。メタノール改質も有力だし。

ガス自動車

LPG(液化石油ガス)車とCNG車(圧縮天然ガス)が出展されていた。LPGは古くからタクシーに普及している。天然ガス車を新たに普及させるメリットは何? 東京ガスの営業車には良いのかな。

DME車

ジメチルエーテルを燃料とする自動車。SOx(亜硫酸ガス等のイオウ酸化物)や煤をまったく出さないといい、NOx(窒素酸化物)の発生も少ないという。ディーゼルエンジンをそのまま使える(燃料供給系等には改造が必要)のも利点。


以上の他に低排出ガス車というものも出展されていた。従来のエンジンや排ガス処理装置の改良の延長と言って良いだろう。目新しさはないが、まだ自動車開発の王道?

総じて問題はインフラをどうするか。まず走行地域の限られた業務用車からの導入となるだろう。それから既存インフラの改良で対応しやすいものが有利かと(その点ではバイオディーゼル燃料は有望だと思う)。

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2006/05/27

業績を上げた個人を高く評価する事は

日経のbpspecial「こんなとき、あなたならどうする?」社員のモチベーション向上の方法にコメントしようと思ったが、もたもたしているうちに閉め切られてしまった。orz

お題は、社員のモチベーションを高めるために業績を上げた者を個人として大きく評価することの是非。

A社長方針は、チームの和を乱すから個人を大きく評価はしない。対するB社長方針は業績を上げた者を評価するのは当然のことである。

(毎度思うけれど一つの会社と考えたら社長が二人いるのって変じゃない? 方針Aと方針Bで十分なような。)

これについての私の考えは


A社長方針では、業績向上の果実が社員に行かないではありませんか!? チーム全体に一律ボーナス? 間接部門がやる気を無くしますよ。もっとも「経営者だけが美味しい目」が一番モチベーションを下げますが。

という訳で基本はB社長方針。ただし、その個人が「自分一人の功績」「部署の他の連中は寄生虫」といった勘違いをすればチームは崩壊しかねない。

そこで、表に出ない働きっぷりは人事や上層部よりもチームメンバーやリーダーの方がわかっている筈なので、「使い方は任せるから、メンバー全員に感謝して還元するように」と言い添えれば、より公正な報酬となる。それに現金で一万円もらうより、一万円の食事に招待されて「あなたのおかげ」と言われる方がモチベーションは高まるでしょう(特に地味なプレイヤーの場合。ローンを抱えていれば話は別)。

派閥形成の危険性はあるが、チーム内でいがみ合っていてはチーム全体の生産性が落ちる事は、会社全体の云々よりは感覚的に理解しやすいので、そう極端な事にはならないであろう。いざとなれば

「いざとなれば」の続きがでないままタイムアウトでした。会社の規模とか業種によって様々ですからね、具体的処方は。

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2006/05/19

「開発した者が売れ」は正しいですか?

日経のbpspecial「こんなとき、あなたならどうする?」へ回答した。

技術主導型で売上げに悩んでいる会社で、A社長の方針は「開発者をある期間、人事異動させて、営業担当にする」、一方B社長方針は「開発者はそのままで、営業への支援はしても、営業担当にはさせない」。正しいと思う方を1000字以内の理由を添えて送信しろ、と。

普通に考えればA社長の方針を選ぶ事になるが、あえてB社長方針に分がないかを考えてみる。

B社長の疑問はもっともである。ただ、A社長方針への反論が多く、前向きな提言がないのが難。

よく見るとA社長は「悪いのは開発側」、B社長は「営業側に問題がある」と言っているに過ぎない。二人とも技術系とすれば、自らが変わろうとするA社長に軍配を上げたくなる。だが営業側に問題はないのだろうか? 説明の中に「開発が営業の意見を聞かない」とはないので、営業が開発側に顧客ニーズを伝えてないのではないか。それに気づいているB社長は「開発者は今のままで良い」にとどまらず「営業をこう変える」と踏み込む必要がある。たとえば週に一つは技術クレームを持ち帰るよう義務づけるとか。一番大切なのは、営業(に限らず社員が)自社製品に誇りと自信を持つこと。


開発を営業を経験させるのは短期間で十分。「売るのって大変だ」と実感すればよろしい(新しいセンスで売り込みに成功すればもっと良い)。「技術開発側をコキ使う」とは、慣れぬ営業をさせて悲鳴を上げさせる事ではなく、本業で力を発揮させる事の筈。

31日に集計結果が出るそうだ。ひょっとするとコメントをいただけるかも。

あれ、同じ日経のIT Proにもこんな記事が。
営業担当者がSEに抱く不満とは


「SEに足りないと思うスキル」の上位3項目は、「顧客の課題などを聞きだす力」、「その場に応じた会話ができる力」、そして「専門知識を生かした積極的な企画提案」が占めた。

当然、読者(多くはIT技術者)からは猛反発。一言で言えば「SEがそれをやったら営業は何をするの? 客と天気の話でも?」。もちろん中には冷静な人もいて、SEは契約における関連法規(商法・派遣法・下請法等)を理解していないから営業担当は必要と擁護していますが、これも裏を返せば「営業、もっとしっかりせい」。

2ちゃんねるの「ビジネスニュース+」にこのIT Proの記事が載っていて、こっちは営業経験者?も交えてほとんど煽り合い(SEとはSirimasen EngineerとかSumimasen Engineerとかいうのは未見)。まぁ専用ブラウザで捻りの無い特定IDを非表示にすれば、息抜き+小さな発見になるかもしれませんが。

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2006/05/01

Creator's Table Vol.4でのアンケート

 28日に参加したCreator's Table Vol.4 「デザイナーが本当に聞きたい『Webの話』」へのアンケート回答。懇親会で知り合った方に内容の一部を話したら、なぜかすごく感心された。ということは他にもこれが役に立つ人がいるだろう(一人でもいれば意味がある)ということで公開。色字は補注。

2.今、マスメディアの、宣伝媒体としての実効果や有り方が問われています。これからの媒体はWebが主流となると思われますでしょうか?
 思う
 思わない
○どちらとも言えない

4.その理由(自由記述)
20年後なら(終末戦争がなければ)そうなっているだろうが、5年後だとわからない。まして来年再来年においておや。

5.今、宣伝やプロモーションの有り方が問われています。新しい手法にはデザインや見栄えだけでなく、心に響くメッセージや見せ方が必要になると言われています。マーケティングとデザインの今後の関係については、どうお考えでしょうか?(複数回答可)
 無縁でなく密接なもの
 マーケティングはクライアントの領域
 クリエイターはデザイン、センスが命
 出来ればマーケティング視点からデザイン提案をしたいと思う
○その他(プッシュ型プロモーションは禁止になるかも。)

(これは半分冗談、半分本気)

6.メディアミックスと言われて久しいですが、現実にWebと連動する宣伝媒体として、一番何を連想しますか?
 テレビなど電波
 広告(商業印刷)
 新聞・雑誌
 フリーペーパー
○ケータイ

11.本イベントについて伺います。内容についてはいかがでしたか?
 充実していて、良かった
 今ひとつ物足りなかった
 詰め込みすぎて、消化不足だった

(記載漏れ:「○充実していて良かった」)

13.もし有料となった場合、どの程度の金額でしたら参加を希望されますか?
 2000円

14.次回以降、ゲストで呼んでほしい方をお書きください。
 視覚障害のあるユーザー、デザイナー

(デザイナーではないが日本IBMの浅川智恵子や静岡県立大学の石川准、東京大の福島智らを想定)

16.その他、ご意見・ご感想など、なんでもご記入ください。
 このアンケートは字がテカテカしていて読みにくい。

(富士ゼロックスご自慢のプリンターなのだろうが...文字は艶消しブラックが良いよ)

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2006/03/22

「その前」を見たい「ホテル・ルワンダ」

映画「ホテル・ルワンダ」を銀座テアトルシネマで見てきた。

ルワンダ内戦の末期に起きた大虐殺の嵐の中で難民1200人余を救った男の物語。映画および背景の基本情報は公式サイトを参照。ちなみに外務省のデータによればルワンダ共和国の面積は2.63万km2(四国の約1.5倍)で人口は841万人(2004年)。このサイズの国で100日間に100万人(赤十字の概算)が殺害されたという。

他の人の感想はトラックバックセンターが設けられているので、そこでまとめて見られる。容易に読みきれる数ではないけれど。

まず基本的なところから。事件は「ツチ族とフツ族の部族紛争」と理解している人が多いと思う。しかしツチとフツは見分けがつかない。冒頭に説明的に挿入されたシーンで欧米からきたジャーナリストが理解できなかっただけでなく、ディプロマトのシーンでわかるように「ゴキブリ」退治に血道をあげる政府軍も民兵もIDカードをチェックしなければツチを判別できない始末。そしてツチとの融合を目指す穏健派フツも虐殺の対象となった。

※ゴキブリ=ツチ人のこと

ユーゴは民族紛争で、アフリカは部族紛争。この使い分けからしてアフリカ蔑視。ましてツチ・フツという区分け自体が、元の民族の違いはあったもののルワンダを植民地化したヨーロッパ人によって政治的に強化されたもので、現在では「完全に異なる民族集団としてとらえることはできない」という。日本で言えば縄文人と弥生人みたいなものか。あるいは関西人と東京人とか。したがってここでは映画のプログラムおよび公式サイトとは袂を分かち、「フツ人」「ツチ人」と表記する。


さて、この映画をものの見事に誤読している人がいるようだ。虐殺が始まってからの、主人公ポール・ルセサバギナの活躍物語として「楽しめ」ば、近未来の日本への警鐘とする解釈は鬱陶しいものだろう。その意味では映画自体に不満が残る(三ヶ月間におよぶ惨劇の中で理性を保ち、家族と同胞を救った男の物語しては素晴らしい)。

へそ曲がりの私が注目したのはホテルスタッフのグレゴワール。冒頭、支配人に対するサボタージュの態度で争乱を暗示した彼はフツ人で、大統領暗殺を合図に始まったツチ人虐殺を機に、あたかも特権階級にでもなったかのような勘違い行動を起こす。だが冷静に考えればフツ人はもともと多数派で、ツチ人を絶滅したところで全員が金持ちの支配階級になれる訳でもない(そもそも支配するべきツチ人を殺してしまっては、結局フツ人内部を序列化するしかない)。外資系四つ星ホテルのフロントを務められる男だから、それなりの能力と分別はあった筈だ。それがなぜ自分の天下が来たような勘違いをおこし、支配人(ポール)への私怨もあるにせよ国連保護下の難民を襲撃させるような挙に出たのか。

上記には当時のルワンダ情勢理解について混乱がある。日本公開を応援する会のサイトにある連載ルワンダ史参照(特に1-3と10以降)。フツ人はハビャリマナ政権下では人口的にも政治的にも多数派。但し、経済的にはピンからキリまで。コーヒー価格の下落や内戦によるフツ難民の流入でキリの方はかなり苦しかった模様。(3.24追記)

幸いにも「復讐の連鎖」を断ち切る政策により、彼は死刑を免れルワンダで服役していると言うが、彼を主人公とした方が良い映画ができるのではないだろうか。つまり「茶色の朝」が傍観者の物語だったのに対し、普通の市民が空疎なスローガンに酔って大量虐殺への荷担者に転落するまでの道筋を辿る映画だ。

地区の民兵を率いて虐殺を続けるルタガンダにしても元はただの商売人で、虐殺の小道具である中国製の鉈で一儲けを企む有様(鉈!日本で市中にある銃のほとんどは去勢されており、しかも徴兵制がないおかげで国民のほとんどが銃の取扱を知らないから、内戦は起きにくいと思っていたが、こういう間道があったか...それにカラシニコフ銃は女子供でも扱えるそうだし)。この男が何を考えていたのかも興味深い。

いったん始まってしまった「祭り」を傍から見ればただの気違い沙汰だ。あの鉈を手にした民兵を我が事としてみた観客は多くはあるまい。だからこそもっと遡って、日常の中に偏狭な思考が浸食して行く過程を映像化してもらいたいと切に思った。

そもそもこの映画を見に行こうと思ったのも、日本公開に尽力した町山智浩がプログムラムに寄せた一文に難癖を付け『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!と嘆かせた御仁がいる事を知ったから。

“エンターテイメントとしてもきちんとした作品”としか見られない人には、グレゴワールやルタガンダは自分かもしれないなどという想像はできないだろう。「秘密の大計画」に沸き立ち「ぬるぽ」などと書いたプラカードを用意して拉致被害者を迎えに行った連中と街頭デモで「フツパワー!」と踊っていた連中は五十歩百歩と思う(幸い、日本で未確認情報をコピペしまくった軽率の徒は多かったが、実際に足を運んだ人間は多くはない)。

ところで彼らに感じるこの憎悪はなんだろう。ネタバレになるが、最後の脱出が民兵に阻まれそうになった時、突如現れたRPF(反政府軍)の攻撃によって民兵は潰走する。鉈と自動小銃では勝負にならない。RPF Go! Go! Go! 溜飲を下げたところで昔見た「暗い森のカッコウ」を思い出した。ナチス・ドイツによって親を殺されたチェコ人(スロバキア人かも? 区別できてません orz)少女は金髪と青い目を備えていたがためにアーリア人と認定され、孤児院でドイツ人教育を施されてから里子として売られて行く。買い取ったのは妻が子供を産めないドイツ軍の大佐。彼はアーリア人であれば元の国籍など気にしない、つまり理想的?ナチで、しっかり者の少女がお気に入り。ところが地元の悪ガキどもは外国人排斥がお好き。女一人をよってたかっていじめる訳だが、それに気づいた大佐は激怒。部下(たぶん親衛隊)を動員して成敗に乗り出す。豆ナチと本ナチでは勝負にならない。さすがに同国人だし子供相手なので銃こそぶっ放さないけれど、シェパードをけしかけ、鞭で散々にぶちのめす。ざまぁ見やがれ。このドイツ軍登場のシーンは、中国の抗日物語だったら「八路軍がきた」に匹敵するであろう頼もしさ、「戦艦ポチョムキン」ならラスト「ウラーッ」シーンに勝るとも劣らない感動。でも、これってヤバくね? DQNをもってDQNを制すとはいえ、敵の敵でも敵は敵。そして無辜の民に鉈を振るった民兵も人の子であり夫であり父であろう。死ねば家族は泣き悲しむ。それに爽快感を覚えるようでは...覗き込んだ深淵に引きずり込まれていないだろうか。

話変わって。ポールはとことん冷静なホテルマンだ。普通の人間なら怒鳴り出してもおかしくない状況でもホスピタリティに満ちた態度を崩さない。虐殺された死体の山を見た後に一時パニック状態に陥るが、それでも人前では、特に子供の前では自信と包容力に満ちた支配人であり父親で居続ける。もし彼が安手の勧善懲悪活劇のヒーローみたいな行動をしていたら、いや、少しでも不服従とわかる態度を示していたら、その命はなくホテルは屠場と化したであろう(血気にはやる若者が登場しなかったのは不思議)。剛に対して徹底的に柔で勝負した姿は見事。

そうして抑えに抑えてきた彼がついに反撃に出る。といって銃をとる訳でもないし拳を振り上げる訳でもない。RPFの猛攻で窮地に陥ったビジムング将軍が、賄賂で口にした久しぶりのスコッチに「スコットランドは良かった。また行けるだろうか。」と弱気を漏らしたところで突如タフな交渉人に変身する。それまで従順だった男の変貌に将軍びっくり。(かなり端折ってます)

書き出せばきりがない。サベナ社の社長役で出てくるジャン・レノが冷酷なのか頼りになるのかわからないハラハラ感を漂わせていたとか、ポールは贈賄文化に首まで浸かっているけど赤十字の職員には金を渡さないのは見識なのかとか、どうして自動車は夜でもライトをつけないのだろうかとか、避難するトラックの台数は少なすぎないかとか、ホテル敷地内での歌や踊りはフツ人に挑発と受け取られなかったのだろうかとか。

↓DVDではなくてサントラCDでした。24日以前に見た人ゴメン。

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2006/01/21

こういう「放送と通信の融合」はいかが

現在のアナログ受像機は数年の後に使えなくなる。はて、いつからだったか。そういうことには一番詳しそうな姪に聞いてもはっきりとしたことはわからない。まぁ、一般大衆の受け止め方なんてこんなものですよ>地上デジタル放送推進協会&総務省

彼女曰く、日本中のテレビ受像機を買い替えさせるなんて無理。対して、でも携帯電話はアナログを途中で中止したし、auはPDCを全廃したし、と私。もっともシチズンのアンケートによれば携帯電話は半数近くが1年以内に買い替えるそうだから、移行期間を2年もみれば円滑にサービス停止できるだろう。

そうだ、テレビも携帯電話方式、つまりメーカーではなくキャリア(放送局)が販売したらどうだろう。F901はフジテレビとか(違う)。ビジネスモデルは自局配信広告優先受信。NHKを見ていても商業コマーシャルが(笑)。逆にNHK仕様のテレビはCMスキップ機能付き。ただし受信料を払わないと見られなくなるとか。

上記調査によればパソコンでさえ個人は3年で買い換える人が46.5%。新規購入1円、機種変2万円なら2011年までにほとんどのテレビをデジタル対応に買い替えさせられますぜ。現在あまり買換えが進まないのはデジタル移行を理解している人も、「待てばもっと良い機械がより安く手に入るだろう」と思っているから。携帯電話ビジネスモデルならこの買い控えを抑制できます。♪

ついでだから携帯電話をテレビのリモコンにしてしまえ。同時に、テレビをつけていたら「番組からのお知らせ」をメールで届けるとか。

冗談から駒で、考え出すとなかなかイケそう、と酔った頭で考えた。

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2006/01/03

岸信介はA級戦犯 ではなかった

お屠蘇で緩んだ頭を引き締めるため少し堅めの雑誌を手にとった。月刊「論座」(2月号)。

巻頭記事が「渡辺恒雄氏が朝日と「共闘」宣言」と刺激的なタイトル。これなら読めそうだ。

読売新聞は昨年6月の社説で、「A級戦犯が合祀されている靖国神社に(首相は)参拝すべきでない」と主張した(p.28)...知らなかった。(少しネットを調べると梯子を外されたといわんばかりの発言が発見できた)

岸信介はA級戦犯ではない(p.35)...エッと思って調べると、確かに戦犯容疑者として拘束はされているが、訴追はされていない。しかしニキサンスケと呼ばれた男に責任がない筈はないし、日本人として戦争責任を追及すれば東京裁判に訴追されていないからといって見逃すわけにはいかないというのだから、あまり重要視する事では無いだろう。ただ不用心に「岸は」とやれば突かれるだろう。用心用心

吉田茂は自衛隊を「戦力なき軍隊」と言っていた(p.36)...これまたエッ。そっか、憲法九条二項が否定するのは「戦力」と「国の交戦権」だから、戦力なき軍隊なら問題ない(ワケネーダロ)。某自衛隊基地のウェブサイトがair base(空軍基地)と書いているのは勇み足でもなんでもなく、政府の公式見解に沿っての事だったのね。

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2005/06/05

空調服を着てみた

昨年発売されて話題を呼んだ空調服。最初の報道を見た時にさっさと購入すれば良いのに、もたもたしているうちに売り切れとなって切歯扼腕したので、今年は発売開始とほぼ同時に注文し、無事入手できた。

5月28日、あまり暑くはなかったが、思い切って着用して外出。脇に着いている吸気口が異様...と心配したが、一緒に晩飯を食ったGT会の面々は誰も気にしなかった模様。

満員電車は避けた方が良いけれど、着用しての通勤も不可能ではなさそう。しかし職場で一人これを着て、冷房を止めたらひんしゅくを買うだろうな。休日出勤専用か。

肝心の冷却能力は...よくわからない。というのも、なかなか「暑い!」というほどの日がないから。冷房なしで平気な日にこれを着るとLoでも寒い(当たり前か)。今日(6/5)は気温が高めだったので期待して着用し、Hiにしたところ...風は十分に回ったが「涼しい」というほどではない。あるいはまだ汗腺が十分に機能しておらず、肝心の汗が少ないせいかもしれない(温度計を扇いでも表示温度がさがらないのと同様、乾いた皮膚に風を送っても涼しくはならない)。風呂に入って汗を流してきましょう。


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2005/05/05

平和の行方

韓国・中国での日本非難に対して「日本の軍国主義復活など、余計な心配」という人がいる。たしかに今の日本人が近隣諸国へ武力侵攻する姿は想像しにくい。しかし、本当に大丈夫だろうか?

20世紀の末にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争というものがあった。「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」としてまとまっていたユーゴスラビア連邦は血で血を洗う内戦に突入し、非戦闘員の虐殺まで起きる始末。激戦地の一つとなったサラエボは、そのわずか8年前には冬季オリンピック開催都市であったのにと異様に感じたのを覚えている。50年間近く平和にやってきて、平和の祭典オリンピックまで開いて、それが国際介入を受ける「歯止めなき内戦」に突入してしまうとは!(セルビア人勢力の主体はボスニア外からの応援かもしれないが)

だから、今は「そんな面倒なことには関わりたくない」という人が、いきなり「暴支膺懲」とか喚き出すのではないかと心配。いったん流れが勇ましい方向に定まったら、それに逆らうのはそれこそ「そんな面倒なこと」。ネコの毛は茶色だっていいじゃないか。戦争になっても自分が前線に行く事はないだろう...あれあれ、話が違うよ。でももうシカタガナイ。兵隊の身分は安定だし給料もちゃんと出るし、隊伍を組んでの行進って結構かっこいい。(「華氏451」を読んでいたら、あの呑気な銃後の妻達を思い出してほしい)


もっとも、念のためにボスニア紛争の概要を調べようとしたところ、サラエボオリンピックで大惨敗というページがヒットし、実はオリンピック開催当時から危険な兆候はあったという話。

オーストリア共和国の選手に対して、市民(の一部)がオーストリー=ハンガリー二重帝国時代の恨みをぶつけ、コンデションをめちゃくちゃにしたという(閉会後には宿舎への投石騒ぎまであったと)。

あのときのオーストリア選手団に対する110年前の歴史の恨みが行き着いた先は、「人を呪わば穴2つ」という悲しい結末でした。もし1988年のユーゴスラヴィアの人々にオーストリア選手団を暖く迎えるような心のゆとりができていたなら、ひょっとするとあの内戦は避けられていたかも知れません。
(「サラエボオリンピックで大惨敗」) この分析が妥当かはわかりませんが、憎しみを原動力とする事の危険性には同感です。

さてサッカーワールドカップの日韓共同開催は無事に済んだし、中国の反日暴動に呼応するようなおっちょこちょいも一つまみより多くはなさそうなので、すぐに憎悪の火が燃え上がる心配はありませんな。

でも「なんだかんだ言っても中国経済は日本なしには立ちいかない」という優越感に支えられた余裕の対応ですから、それが相手の感情を煽る心配がありますし、日本側に余裕がなくなれば「降り掛かった火の粉は払わねば」などと売り言葉に買い言葉の応酬になり、抜き差しならない事態に陥る懸念は残ります。局地的ではあれ、人民解放軍と自衛隊の衝突なんて事になれば、これは国難。国難に際して足並みを乱すような言動を許容できるほど日本社会は成熟しているでしょうか? 「言論の自由は保証するが、お前のは反日活動だから駄目」となる気がします。

そうなってからでは遅い。どうしたら未然に防げるでしょうか。「憎しみに駆られるのではなく幸福の希求を動機とする」と思いつつも、「愛国」くらいにしか自らの存在意義を見いだせない者への蔑みを禁じられません。私は連中を憎んでいる... 対話ができるだろうか...

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2005/05/03

ビッグイシュー日本へのメール(サポーター・定期購読)

ビッグイシュー日本 御中

昨日(2日)、振込を済ませました。

さてお送りいただいた「パトロン・定期・サポーター制度案内.doc」ですが...
・わざわざMS-Wordを使うような内容だろうか
・印刷を考えた体裁保持ならPDFで足りるだろうに
・「ビッグイシューの概略」は読み取れないけれど
・どうしてURLを記載してないの
・どうしてウェブにこの内容が公表されてないの
・戻るけど、ウェブに載せるならPDFの方がMS-Wordファイルより向いている
(個人的にはPDFは好かないけれど、検索エンジンはPDFを拾って上位に載せるらしい)


建設的に書き直しますと、
1)定期購読・市民パトロン・サポータの募集はウェブでも行う(「販売場所」の下端から昇格させる)。但し、定期購読については販売員と競合しないよう、地域制限など配慮が必要。市民パトロンへの送本も、買い逃し対策としてバックナンバーのみ請求に応じて送付がよいのでは(居ながらにして最新号が入手できるのは便利ですが)。
2)印刷を念頭に置いた趣旨書は(MS-wordではなくて)PDFで提供する。
3)日付も入れる(ウェブにはいまだに「来年1月 から月2回発行を目指します」なんて文章が)
4)会社概要は必須(前回連絡した「ビッグイシュー財団」へのリンク切れも直っていません)
5)定期購読者等の数が増えて、個人情報取扱事業者に該当する場合の準備も怠りなく。

記事企画についても考えがありますが、それはまたいずれ。

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2005/03/07

末子相続

昔、戸籍に関する本を読んでいた時に、長子相続が日本の伝統のように考えられているが、地方には末子相続というのもあった、という記述を読み、それはどのようなシステムなのかと疑問に思った。しかし疑問を放置する悪癖のため解明しないまま年月が経過。

先日、ビッグイシューという雑誌(2005.3.1 No.23)を見ていたところ、モンゴルの家族形態の説明があり(p.22)

子供は幼いうちから羊番や乳搾り、家事など親の仕事を肩代わりしていく。そうして家畜の数も増え、弟妹たちが自分の代わりに仕事ができるようになると結婚し、家畜を分けてもらって親から独立する。最後に残った末の子が最終的に親の面倒を見て、親の財産を引き継いでいく。

おお、これぞ末子相続ではないか。と?年来の疑問が解けた。

ちなみに思い立ってググれば、たくさん解説がヒットします。日本の末子相続も似たようなシステムだったようです(家畜と違って田畑はふえませんが)。

疑問を放置していたのは誉められないけれど、何気ない日常の一こまから思い出したのは、まだ見込み(なんの?)があるといっても良いでしょうか。

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