2016/10/20

「シン・ゴジラ」への違和感3つ

もうそろそろネタバレしても良いですよね?

しばらく前のことだが、「シン・ゴジラ」を観た。評判に違わぬ面白さで、ことに〈水ドン〉のシーンでの「まずは君が落ち着け」に、嗚呼!ネットで流行っていたのはこれであったかと感動。ゴジラの出番が少ないという不満の声もあるらしいが、作り物というのは詳細に見せたらボロが出るもの。着ぐるみ怪獣は子供騙しの域を脱しにくいし、CGを過信すればそれは落とし穴に。だから、巨大不明生物災害対策に奔走する人々を中心に据えたのは正解だろう。それゆえに全身からの破壊光ビームはむしろ〈やり過ぎ〉に感じた(爆撃機に対抗したり首相の乗ったヘリを撃墜したりするには旧来の火炎放射では無理であるが)

いかにも派閥順送りで就任したような農水大臣が臨時総理に祀り上げられ、「ラーメン伸びちゃったよ」と昼行灯っぷりを発揮していたかと思うと、「生活があるんだ。簡単に避難なんて言ってほしくない。」と生活者の姿勢を見せ、国連安保理の介入を遅らせるのにフランスに働きかける離れ業を成功させる(実務は官僚が担い、この人がしたことといえば事が済んでから駐日フランス大使に深々と礼をすることだけみたいだが)のも見物。

恋愛とか家族愛みたいなものを排除したというのも評判だが、これまた映画によく出る、権威を笠に着て主人公の邪魔をしたあげく、あっさり殺される(いわゆるフラグの立った分かりやすい悪人が出てこないのも良い。あれは図式的過ぎる。

そんな「シン・ゴジラ」なのだが、納得がいかないというか、違和感を覚える点が3つある。

まず造形。太腿は小錦関みたいだし、尾はワオキツネザルのように長い。はっきりいって長すぎないだろうか。

次に、なぜ血が固まると凍るのか。放熱機構が停止したら過熱するはずで、メルトダウンしたゴジラが親指を立てながら溶岩の中をアルゼンチンに向かって沈んでいく姿こそふさわしいラストではないか! この2つはゴジラという架空の生物の設定に関することなので突っ込んでも仕方が無いとも言えるし、もしかしたら劇中で言及されていたのを見逃した可能性もある。だからもう一回見てからにしようかと思っていたら、なんと日経サイエンス12月号が「シン・ゴジラの科学」を取り上げるという。これは期待。

3番目は自衛隊の攻撃が全弾命中とは精度良すぎないだろうかという点。むかし、第十雄洋丸事件というのがありまして、最初の砲撃で沈めることができなかったのは当初の射撃は「第十雄洋丸」の側面を破壊して浸水を促すとともに、積み荷のナフサやLPGを燃やすのが目的だったとはいえ、魚雷攻撃は1本が不発(ウンともスンとも云わないまま海底へ)、もう1本は目標の下を潜り抜けてはるか彼方でこれまた海底へ(残り2本は命中したものの沈没には至らず)という不始末。停まっている船すら沈められないのかと散々の評判だったとかすかに記憶する。もちろん時代は変わり、技術も進化したからありえない話ではないのだが、やはり引っかかる。

そして大好評の無人新幹線爆弾と無人在来線爆弾。架線が切れていても電車は走るのかなぁ。脚に命中したということはゴジラは線路上に乗っていたわけで、当然架線なんてぶった切られていると思うのだが。それともあれは命中ではなくて、無線誘導か何かによる近接爆発だったのだろうか。日経サイエンスに登場する専門家は「極限環境の生物学及び海洋生物学」「放射線生物学」「深海生物生態学」なので、これの解明は期待薄。

えっ、「4つある」って? それはアレ、お約束ですよ(ビグルス枢機卿を演じるテリー・ジョーンズの姿を思い出に)

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2016/06/06

つながらない線路:上総中野駅

太平洋に昇る朝日を見に来たついでに巡る房総半島の旅。椿公園の次は御宿にある「月の砂漠の像」の予定であったが、自動車を停める場所を見つけられなかったので場所だけ確認して通過(駐車場はいくつもあったが、早朝のことで管理人はおらず、かといって無断で停めていると揉めそうな雰囲気があって、「もういいや」ということに)。この辺りで疲れが出てきたのか、勝浦まで海沿いの道路を走ってから大多喜街道を北上するつもりでいたのに、ナビへ粟又の滝(別名「養老の滝」)の位置を設定してしまったため、すぐ半島中央部に向かってしまった。粟又の滝近くまで来て上総中野駅のことを思い出し追加設定したのだが、カーナビというのは基本的に「ここでUターンしろ」とは言わないようだ。方向転換するためにかなり大回りをすることに。ともあれ6時半ころに駅前に到着した。

2つの鉄道が出会った駅


この駅は2015年6月21日に放送された「ヨルタモリ」の「始点・終点」に登場している。印象的なナレーションを書き起こしたページがある。



つまりここは、

ふたつの車止め標識が向かいあう

極めて珍しい始点・終点。


鴨川を目指して五井から南下してきた民間の小湊鐵道と、日本国有鉄道が内房の更津と外房の大を結ぶために建設してきた国鉄木原線(国鉄民営化後いすみ鉄道いすみ線に)は、この上総中野駅で出会ったところで力尽きたように延伸が止まり、今に至っている。そして駅は列車が互いに乗り入れられない構造になっている。ナレーションの結びは繋がらない線路のもどかしさを語っているようだ。



上総中野駅の二つの車止め標識は、

70年以上もの間、

複雑な思いを抱きながら

行きかう電車を見守り続ける。

ところがである。実は小湊鐵道といすみ鉄道とを結ぶ線路は存在する。Googleマップで見てもらえば分かるように、東から来た小湊鐵道線は駅舎寄りに、西から来たいすみ鉄道線はその南のホームに引きこまれているが、もう1本、ホームのないところを通っている側線がある。

つまり、「ここはあくまでリレーの中継地点。」というのは一種のフィクション(実際、保守用車両ではあるけれどいすみ鉄道から小湊鉄道へ乗り入れた例もある)。それを知ってやや興ざめした思いで見回すとそもそも電車は走っていないということにも気付く。幻想を打ち砕いてから現地に赴くというのも旅の醍醐味(ぉぃ)。

駅全景


左からいすみ鉄道、右から小湊鐵道の線路が来る上総中野駅のホーム

パノラマ写真は縮小して全体を見るより、ダウンロードしたものをウィンドウ幅1000ピクセル程度で原寸大表示にしてスクロールした方が実際に見渡しているのと似た見え方になる(ココログは仕様上1600ピクセルより幅広い画像をアップできないので、外部に幅8416ピクセルの画像を載せた)。向かって左端に駅前駐車場が見える。車止めで終わっている手前の線路は小湊鐵道のもの。左手から伸びてきている線路は大多喜を経て大原と繋がるいすみ鉄道。無人駅なので改札口はなく外から直接いすみ鉄道のホーム(1面1線)へ渡ることができる。いすみ鉄道のホーム右端には車止めが見える(その奥に側線が通っている)。小湊鐵道の線路はその右側を伸びている。駅舎は手前の小湊鐵道ホームにある。


一両編成の大原行き始発列車がホームに停まっている駅前に着いたとき、ちょうど大原行きの始発列車の出るところであった。見ての通り気動車(ディーゼルカー)であり電車ではない。小湊鐵道も電化されていないことは架線がないことで確認できる。


手前に駅舎のある小湊鐵道のホーム、線路を挟んでいすみ鉄道のホーム駅舎の五井寄り右半分は禁煙の開けた待合室駅舎の大原寄り左半分は喫煙可の開けた待合室
小湊鐵道ホームには木造の駅舎がある。無人駅なので改札口も券売所もない。外から来て右手(五井方面)は禁煙、左手(大原方面)は喫煙可となっている。扉がなく中央部が吹き抜けなので煙が漂ってくることはないだろうが、実におおらかな〈分煙〉である。なお、トイレは外へ出たところに竹筒型の公衆トイレ(写真は撮ってこなかったのでwikipedia参照。この写真には側線もはっきり写っている。)がある。


大原寄り、いすみ鉄道の線路から側線が分岐しているwikipediaの駅舎写真にはっきり写っているので、今さら載せる価値もないのだが、いすみ鉄道の線路と側線の分岐部分は撮ってきてある。手前の車止め標識は小湊鐵道の終点。


こうして出かけたときはなにかしら地域経済への貢献を考えるのだが、この時刻では開いている店もない。やむなく待合室の外にあった自販機で入場料代わりに飲み物を1本購入するにとどめた。次の目的地は粟又の滝(別名は養老の滝、正式?名称は高滝)。

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2014/07/01

「全部載せ」の好きな人達

ツイッターでフォローしている人が、放射能の危険を過剰に訴え「福島に来ないで」「福島のものを食べないで」と主張する人は同時に予防接種にも反対していると指摘していた(なお「矯正接種」は「強制投与」の誤りで、HPVVとはヒトパピローマウイルスワクチンいわゆる子宮頚がんワクチンのこと)

この写真がいつ・どこで撮られたものかは明らかでなく、したがって誰が掲げているのか不明なのだが、よく見るともう一種類「立ち上がろう」というメッセージがある。それが何かは分からないものの、少なくとも2種類の互いに関連の薄い主張を同時に掲げている。

これとよく似た現象が、先日参加した映画上映会でも見られた。映画「原発の町を追われて」の正・続2編が上映されたのだが、会場で主催団体が配布したものは「労働者派遣法改正案」「武器輸出」「袴田事件」「イラク派遣」「集団自衛権」等とてんこ盛り(肝心の福島核災害関係も井戸川鼻血前町長とか集団疎開訴訟とか「もうやめて」と言いたくなる代物で、評価できるのは福祉作業所の障害者が避難時にどういう扱いを受けたかという指摘)。共催や協力・友好団体が自分の活動アピールをするのは分かるけど。

「全部載せ」しないと気が済まないのだろうか。でも、そうやって論点を多数並べると「全部で一致できなければ敵っ!」という不毛な選別に行き着きやすい様な。

この映画に関して言えば、加須(かぞ)市に設けられた避難所の中に入り、双葉町町民の声を記録したという点においては評価する(娘婿がFukushima50の一人だと誇らしげに語る町民には感動した)。また全編にわたって字幕をつけたことも、かつて学祭での映画上映に際し、聴覚障害を持つ学友のために手製字幕をつけた経験のある者として賞賛したい(「4号機は危ないよ、たぶん」という発言の「たぶん」をカットしたことは看過しない)。だが、その現実認識には首をかしげたくなることが多々。歪んだ認知に基づく行動が実害をもたらすのではないかとも懸念する。

それでもこの映画は一見の価値はあるとは思う。言ってみれば、チャーシュー好きなら麺やスープに不満はあってもチャーシュー麺を注文できる、みたいな。

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2014/06/22

「ゴジラ」鑑賞の妨げ

映画「ゴジラ」(1954)をデジタルリマスターで観た。映画館のスクリーンで見るのはテレビとは大違い。しかしなんとなく不安は覚えていたものの、予想以上に突込みどころが多くて困惑。

志村喬演じる山根博士が原爆と水爆の区別が付いていないようなのは仕方あるまい(専門は古生物学だし)
ジュラ紀を200万年前というのもご愛嬌(wikipediaの「ゴジラ (1954年の映画)」2014年6月7日 (土) 08:10版によれば「香山滋の「原作」からこうなっている」)
山根博士が自宅でも白衣を着ているのも「映画的な嘘」と認めよう、
ゴジラはまだ海中にいるのに山根博士宅で地響きが聞こえる(「ジュラシックパーク」のティラノサウルス登場シーンは、このシーンへのオマージュか)のもゴジラのライトモチーフと納得しよう、
警戒線を越えようとして阻まれ「山根博士だ」と名乗るのも許そう(自分のことを〜博士ということはない)
ゴジラに比べて電車が小さすぎるのも、
海岸沿いに高圧鉄塔があっという間に建ち並ぶのも、
それら鉄塔が赤熱して融けていくのに架線が切れないのも、
海上保安庁の名前は出ても自衛隊の名前は出ない(防衛隊というものが登場する。ちなみに防衛庁も協力したらしい)のも、
日本の安全を保障する名目で駐留するアメリカ軍の姿が一切見えないのも、
戦闘機からのミサイルがことごとく外れているのも、
GMカウンターで人体の汚染を確認しても除染しないのも(救護所では汚染した児童を部外者である山根嬢が無防備に抱き上げる始末)
芹沢研の実験室にテレビがあるのも(当時であれば1台あれば御の字だし、オキシジェン・デストロイヤーを作用させる際には高電圧機械っぽいものを動作させており、テレビを置くには不適切な環境)
応接から階段を降りるから実験室は地階かと思ったら窓から日が差しているのも(崖っぷちに建っているのなら理解できる)
海中のゴジラをGMカウンターで見つけるというのも(ガンマ線といえども数十メートルもの水があれば遮蔽される)
実験室では電気機械が始動して反応を始めたオキシジェン・デストロイヤーが海中ではあっさり〈酸素破壊〉を始めたのも、
パカっと割れたオキシジェン・デストロイヤーの球が中空だったのも、
いつの間にそんな大量のオキシジェン・デストロイヤーを製造したんだというのも、
オキシジェン・デストロイヤーでゴジラ退治に向かう船に、山根嬢が乗り込んでいるのも(そればかりか少年まで乗船している)

みーんな許そうではないか(詳細を詰められなかったので挙げていない疑問点は未だある)。しかし、

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2014/06/10

象牙と象の密猟と

「ビッグイシュー日本版」にコラム「ノーンギシュの日々」を書いている滝田明日香さんが一時帰国して精力的に講演会を開いている。その一つ「アフリカケニアで野生動物と生きる~滝田明日香さんを囲む市民の集い」に参加した。会場は久しぶりの四谷ひろば(旧・新宿区立四谷第四小学校)。大雨にもかかわらず体育館には百人近い聴衆が。

5月末にNHKのクローズアップ現代「追跡 アフリカゾウ密猟とテロ」に出演された効果もある? (なぜか「動物園クライシス~ゾウやキリンが消えていく」と勘違いしている人もいたようだが)

受付で「ボランティアをされましたか?」と聞かれたが、きっぱり「いいえ」と答えて資料代を払う。もう基金会員もやめちゃったしね(寄付金控除を受けるため)。

お話は、イヌを使って家畜を獣害から守る仕事から始まり、現在のアフリカゾウ保護まで。野生動物が密猟されるのは、その肉(ブッシュミート)が珍味というか高級食材というか、とにかく市場で良い値で売れるからというのに最初の驚き。現金収入は魅力なのだ。

で、本題のアフリカゾウ。密猟のために絶滅の危機に瀕しているという。なぜ密猟されるのか? 象牙が高値で売れるから。ただし、ここから話は少々複雑になってくる。

整理してみると、こうなる。


  1. 現地では開発に伴い野生動物との接触が増え、獣害が問題になっている(特にそれまで象の通り道だったところに作った農場は侵入されがち)

  2. それゆえ現地農民はアフリカゾウに好感を持っていない

  3. アフリカゾウも人間を「危害を加えてくる対象」として敵視

  4. アフリカゾウから採れる象牙は(ホワイトゴールドと呼ばれ、闇市場で)価格が高騰し続けている

  5. 日本と中国が大消費国として象牙需要を支えている

  6. 各地の反政府武装勢力が資金源として象牙取引に着目

  7. 今では密猟には自動小銃が使われるありさま

  8. 密猟監視人との間に銃撃戦も起こるようになり「完全に戦争状態だ。」

  9. アフリカゾウを一頭倒せば年収に匹敵する現金が手に入るので密猟組織の手先になる現地人も

  10. 経験豊富なリーダーを失ったアフリカゾウの集団は、未熟なリーダーのもと、子象を守りきれず、また農民との衝突を回避できず、ますます危機的状況に陥る

つまり、象牙取引が完全になくなっても、農民とアフリカゾウの間に軋轢があれば密猟は止まらない。しかしながら、現在は象牙取引がおいしい商売であるため、密猟が過剰殺戮になっている。また、現地農民とアフリカゾウの関係が修復されても、象牙目的の密猟をなくすことはできない。そしてこれは個人的な推測だけれども密猟組織は協力的でない現地住民にも銃を向けるようになるだろう。これは容易に解決しそうにない。

また、非常に根本的な問題として、アフリカゾウって絶滅したら困るの? に対する答えも必要。農場を荒らされている側からすれば、いなくなって、おまけに現金まで手に入るなら一挙両得と思っても不思議ではない(絶滅させたら、象牙による収入は絶えるけれど、それはまた先の話)。一方で、イスラム過激派の資金源を断つためにアフリカゾウを絶滅させてしまえ(たしかに象牙取引は不可能になる)という乱暴な考えが出ないとも限らない。麻薬ではこの考え方は実行に移されていて、ケシ畑の破壊が行われている。

保護キャンペーンに協力しているヒラリー・クリントンの本当の関心はアフリカゾウの絶滅だろうか? イスラム過激派対策が真の狙いというのは穿ち過ぎか。中国を牽制できる話題だから乗り出したのではないと言えるだろうか。アンケートに「USAの思惑も真意がどこにあることやら」と書いたのはそういうこと。そっちの片がついたらサッサと手を引いたりしないだろうか。現地の親米的政権が〈合法的〉に乱獲を始めてもだんまりを決め込む可能性は?

この点、滝田さんにとってアフリカゾウを保護し絶滅から守ることは自明のようだ。もちろん、それは世界でも公式の常識である。でも、そういう常識を共有していない人が相手なのだから。(滝田さん自身は過激な反捕鯨派のような「アフリカゾウが第一」論者ではなく、ミツバチフェンスのように人間にも利益のある共存策を探られている)

休憩時間に水口編集長?と名刺交換する滝田さん。とても美しく迫力のある方でした。


取り組む相手は、「象牙取引の規制が厳しくなれば、値段は高くなる」と算盤を弾くような人間なのだ。その発想に従って密猟者は〈増産〉に、販売者は在庫の確保に、消費者は駆け込み購入に精を出す。講演に感銘を受けた聴衆が「私は象牙を買わないようにしよう(それまでだって買ったことはない)」と決意したところで、ほとんどなんの効果もないだろう。象牙をありがたがっている人に諫言しても「大きなお世話」と返されるのが落ち。幸か不幸か「これは合法象牙です」に対しては、違法象牙がロンダリングされているため、合法取引が密猟の後押しをしているという再反論が可能なのだが。

日本国内に限って言えば、象牙の用途は印鑑や根付といった小物であり、人工象牙など代替品の開発や印鑑文化の衰退(期待するのはまだ早いか?)によって需要は減っていくのではないかと希望的観測。問題はイケイケドンドンの最中にある中進国ではないだろうか。経済的に成功したエネルギッシュな彼らは〈ステータスの象徴〉を求める。それは希少であり高価でなければならない。「このまま消費すれば絶滅してしまうから」という説得はブレーキではなくアクセルになってしまいかねない。もっと相応しいと思えるものを提供するか、「象牙を持つのは格好悪い」というような文化を生み出すか。

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2012/09/05

反原発の知人への返信

1日に「放射線情報を正しく理解するための基礎講座」を聞いた後で、知人からのメールに次のような返信をした。

反原発派の端くれとして微妙なのですが、つまり「今回の事故は当初悲観したほどひどくはなかった」ということなのですね。いまでも避難を強いられている方々には申し訳ないけれど、広瀬隆が昔『東京に原発を』で書いた、人がばたばた倒れるの目の当たりにして「大変なことが起きた」と慄くような事態ではなかった。
以前、映画「アレクセイと泉」を観た時は、政府の避難勧告を無視して汚染された村に住み続ける住民を「無謀な」と思ったものだ。泉だけは汚染されていないと言っても「百年前の水が湧き出る」なんてのは事実の裏付けがない伝承であって、翌年から汚染水が湧き出すかもしれないじゃないかと憤ったりもした。原爆の図 丸木美術館の展示にも、汚染された村での生活を選択する住民を描いた作品群があり、たしかに天秤の一方には〈故郷を喪うことによる精神的打撃〉があると理解したものの、もう一方に載る〈放射能の危険〉を重視していたので、腑に落ちない思いをしたことを記憶している。

多くの人がそうであろうが、私の放射能への恐怖感は広島・長崎に代表される核攻撃の事例で形成されている。ところが瞬時にエネルギー(放射線)を放出し放射性物質を広範囲にばらまく核兵器と、じわじわ反応型の原子力発電所とでは様相が異なる。これについては以前の記事に書いた。

といっても、原発事故は恐くはない、と楽観しているわけではない。


これはいろいろな幸運が重なった結果であって、〈次回〉もそんな僥倖に恵まれる保証はないわけですが。

言霊の幸わう国で「次回」などと口に出したら非難轟々だろう。だが、世界はもちろん日本に限っても脱原発には悲観的なので、次の事故はいずれ起きる。それが10年後か50年後かは分からないが。

そしてその時には緊急停止に成功しないかもしれない。複数の原発が連鎖的に制御不能に陥るかもしれない。風が大量の放射能雲を大都会へ運んでくるかもしれない。水源地帯が汚染されるかもしれない。収穫直前の作物が高濃度の90Srで汚染されるかもしれない(ストロンチウム90の検出には2週間かかる)。...

しかし、今回は緊急停止に成功し、事故を起こしたのは東京電力1F(福島第一原子力発電所)に限られ、風は放射能雲の多くを海へと運び、多くの農地は作付け準備中であり、そして陸地の90Sr汚染は少なかった。住民の被曝線量は低く、毛が抜けて吐いて死ぬようなことが起きないのはもちろん、白内障でさえ起きそうにない。なによりも汚染源である1Fで多くの作業員が働いている。彼らが将来がんに罹って死ぬ可能性はいくばくか高くなってはいるけれども。

で、本来なら「ああ、良かった」と安堵すべき(繰り返しますが、これは遠隔地の勝手な安堵)ところ、なぜか健康被害が出ないと納得しない人達が蠢き始めた。福島県からの避難援助くらいなら構わないけれど、避難しない人を攻撃する、東京も危ないと煽る、瓦礫処理を妨害する...とどんどん素っ頓狂で有害な行動が目立ちだした。

懲りていないように見える原発業界の監視も必要なのに、とんだ二重対峙です。共産党を警戒していたら、反共が看板のヒトラーとかムッソリーニとかの変な連中が台頭してきたみたいな。


「反原発をファシスト呼ばわりした」と誤読して非難されるかもしれないが、文章をちゃんと読めば分かるように反原発勢力がファッショであるとは書いていない。書いてはいないが、「ヒトラーと対抗するために手を結んだら相手がスターリンだった」という比喩にしなかった理由はご賢察の通り。

あと、このメールの相手のような年齢の方に「二重対峙」なんて用語を持ち出すとピクッとされるかと心配したが、今のところ看過されている。

特に小さい子を抱えた母親たちの怯え方は想像以上で、東京から沖縄に避難する、沖縄で青森からの雪の搬入に反対する、親の情緒不安定は子供に悪影響必至で、ちょっと座視できない。(中略)「放射能を帯びた土埃を吸い込んだって、痰や鼻クソで出ていくでしょ」と説明したらとても晴れやかな顔をしていたのが印象的。理屈で判断する手がかりを得たら、不安に振り回されずに済むようになった。セシウムが検出された食品の話でも、「干し椎茸を1kgも一度には食べない」と気づくと、実際の被曝量を考えることができる。

あと気づいたのは、意外なほど「量の概念」が共有されていないこと。きくまこさんの「5時間講義」では冒頭延々と指数とSI接頭辞が解説されるのはそのせい。


「5時間講義」については、翌2日に荻窪で開かれIWJが中継したものよりも以前に録画したもの推奨されている。

ベクレル(Bq/kg)とミリシーベルト(mSv/y)は似たような桁(1以上100以下)で出てくるので等価に感じている人が多いみたいだが、セシウム137(137Cs)を10,000Bqを経口摂取しても(預託)実効線量は0.13mSvにしかならない。外部被曝の場合は1mの距離に100万Bqの137Csがあっても、1日に0.0019mSvしか被曝しない(原子力資料情報室の説明)。これは年間でも0.7mSvに満たない線量で、避けるべき無駄な被曝の基準1mSv/yを下回っている。それなのにエアコンの埃から7万ベクレル!と大騒ぎする人がいる。100万Bqでも0.7mSv/yなのだよ。その1/10以下(実際には134Csも検出され、これは137CSよりも強い比放射能を持つけれどここでの結果には影響しない)。しかも7万Bqがそこにあったのではなくて、7万Bq/kgのセシウム(134+137)。エアコンのフィルターに埃を1kgもためたら、放射能は関係なくそっちの方が問題(フィルターごと測定と訳のわからないことが書いてある)。実際の埃の量はせいぜい数グラムであろう。なら放射性セシウムの絶対量は? 計算するのもバカらしい。

こうして放射線による被害がなさそうだと知られてくると、今度は化学毒性を持ち出してくる。前の記事にも書いたように、量的にお話にならない。化学毒性が問題になるほど放射性セシウムを摂取したら、その前に放射線障害で死んでいる。

メールをくれた知人からは、旧知の反原発仲間との討論会を提起された。「ぼくらが、きちんと討論できないようだったら、日本全体での総意形成など不可能と考えます。」

うーん、重たい。

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2012/03/30

「勘助のかなしみ」

26日に朝日新聞紙夕刊2面のコラム「窓 論説委員室から」に書かれた「勘助のかなしみ」という一文を読み、ほとんど泣きそうになってしまった。

NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」のエピソードをこう取り上げる(有料だが朝日新聞デジタルで読める模様)。

勘助はひどいめにあわされた、あの子はやられて、ああなってしまったと思ってた。けど違った−−と。
「あの子は、やったんやな。あの子が、やったんや」
(原文では  部は傍点)

兵役から帰ってきた息子(後に再出征して戦死)が魂が抜けたようになっていた理由を、四半世紀後に母は突然さとる。

だが、慰めようにも息子は既に戦死している。代わりに詫びようにも誰も糾弾してくれない。文句を言おうにも誰を責めたら良いのだろうか? 気がついても何もできない。これは実に恐ろしいことだ。

余談になるが、この「あの子は」から「あの子が」の変化も胸に迫るものがある。


コラムは続けて戯曲「こんにちは、母さん」(永井愛)から、戦地から戻ったが戦争の話は一切しない夫の胸の内に妻が気づく場面が紹介される。

「ああ、この人は、実際に人を殺したんだ。しかも、子供を、子供を殺したことがある...」

愛する夫が加害者だったという暗転。苦しい経験を語らないのは自分が信頼されていないからか。目の前の夫は生きているけれど、死者よりも遠い... この妻の苦しみは誰が受け止めてくるのだろうか。

この戯曲は後にTVドラマ化されたようだが、番組紹介を見ても、それらしい様子は見られない。ただ、サイトに紹介のない第四回について、「鳥肌が立った」と感想を載せているブログがあるので、「延々と続くダイアローグ」の中に出るのでしょう。

どちらもファンクションフィクションではある。そこを衝いて「事実ではない」に持って行こうとする人がいるのではないかと気になって調べてみたが、幸いにもそういうエントリーは見当たらず、逆に共感する日記を発見して安堵した。

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2011/06/15

放射能の呪い

611ガイガーカウンターミーティングについて書こうとすると、どうも私は「分からないことに大騒ぎしてもしょうがないでしょ」的になってしまう。そこで、それはしばらく寝かせることにして、書きながら気がついた〈放射能の呪い〉について先に。

放射能の呪い〉とは、科学的な事実とは離れて、市民の間に定着してしまった放射能のイメージのこと。

放射能は魔法なのか


あまり詳しくはないけれど、映画を例に見てみよう。まずはアメリカ映画「放射能X」(1954)。これは核実験による放射線の影響で巨大化したアリが人間を襲うというパニック映画。巨大化したからってアリが人を襲うとは限らないんですけどね。それも放射能の影響?

続いて言わずと知れた「ゴジラ」(1954)およびそのシリーズ。これも核実験の影響を受けた生物が人間を襲うという設定。映画ごとに設定が異なるが、核実験による放射線の影響で巨大化し、かつ口から炎を吐くようになったという点は共通。口から出ている炎は放射線なのか放射性物質なのかはSFファンなら一度は論じたことがあるのでは? ちなみに当時は「放射能を吐く」と言われていたと記憶するが、activityを吐くというのは実に謎。もしかするとゴジラが吐いていたのはなのだろうか!? このように放射能は理屈の介入を許さない、摩訶不思議なマジックワードになっている。

わからない人のための解説:放射能とは放射線を出す性質のこと、放射線を出す物質(=放射能を持つ物質)が放射性物質、放射線とは放射性物質から出てくる電磁波や粒子線。この説明が円環を形成していることに気づいた人はえらい! 一般には放射能は放射線と放射性物質の両義で使われていた。しかし311東京電力原子力発電所事故以来、政府は放射能という言葉を使わず、正しく使い分けているようだ。

アメリカに戻って「戦慄!プルトニウム人間」(1957)およびその続編「巨人獣」(1958)。放射能Xやゴジラから一歩進み、〈放射能〉は人間に直接の悪さをするようになる。放射線を浴びた人間が巨大化して暴れだすのだ。

基本的なことだが、放射線を浴びて起きる突然変異は次世代以降にしか現れない。その点でもこれら〈巨大化〉はおかしい。

最後にちょっと変わったところで「美女と液体人間」(1958)。これは第五福竜丸事件をモチーフにしていると考えられるが、いま思うととんでもない差別映画。水爆実験で被曝した漁船員が、その影響で液体化し人間を襲うようになるという怪奇映画。最後は警察に追いつめられて皆殺しにされてしまう。漁船員は本来被害者であるのに、いつの間にか加害者、しかも化け物扱い。安部公房は、液体化させられてしまった漁船員の視点で作るべきだったと批判している(wikipediaにも「劇中に液体人間の視点からの描写はなく」とある)。それはともかくとして、この映画で放射能は怖いという思いを強くした人も多いのではないか。古い映画ではあるがテレビでも放映されていた。

以上4つはいずれも核実験による放射能汚染をモチーフにしている。核戦争に対する恐怖心を持たせたいという意図があったのかもしれない(たぶんそうだろう)が、正確さを犠牲にして恐怖ばかりを煽るこの手法が、結果として核に対する理解を妨げてしまったのではないだろうか? 

もちろん核兵器を〈強力な爆弾〉としか描かない脳天気な映画が溢れる中でよく頑張ったといえなくもないが。

最近はマジックワードの地位をDNAに奪われてしまったようだが、それでも新しいところでは、核兵器ではないけれどγ線(放射線の一種)によって人が怪物化してしまう「ハルク」(2003)がある。

映画ではないが、放射能が魔法と同等に扱われている例としてiMacやiBookにバンドルされていたゲームOtto Maticが挙げられる。このゲームには三角フラスコに入った緑色の液体を飲むと巨大化するという設定がある(レベル6)。解説を見るとDrink radioactive potions to grow to 50ft tall!(放射能を一服すると身長50フィート=約15mに巨大化)と。ちなみに巨大化するのは生物ではなくてロボット! 舞台設定が1957年なので取り入れたのかもしれないが...このおかしさは「南無阿弥陀仏を唱えると身体が大きくなって銃で撃たれても傷つかない」に等しい。

放射能の呪い


放射能の呪い〉、それは科学で扱うべきものが魔法の世界に送り込まれてしまった、つまり放射能にかけられた呪い。

そう考えると被曝者や被曝を疑われた東日本大震災避難民への不当な扱い、風評被害、奇想天外な様々な流言も理解できる。科学的につじつまの合わない行動をして平然としていられるのは科学の対象とは思っていないから。

この呪いを解くことはできるだろうか? 忌み嫌われた結核やハンセン病(これも相矛盾する〈遺伝と伝染〉が患者を差別するのに都合よく使い分けられていて、遺伝学や感染症学は出る幕がない...)への露骨な差別が影を潜めたのは、病気自体が制圧されて〈恐ろしさのリアリティ〉を失ったからだろう。残念ながら放射線障害はまだ出てもいない状態でこれだから、〈恐くない〉は無力だろう。

一所懸命に〈放射線ホルミシス仮説〉を強調している向きもあるが、パーティントン夫人のモップの観がある。セシウムなら◯◯温泉にある!と叫んだら、◯◯温泉に閑古鳥が鳴きかねない。(◯◯温泉は日本有数の名泉だが、影響が出ると悪いから敢えて名を伏す。なにしろ療養地として有名だったガラパリ(記事ではグアラパリ)も「フクシマより放射線量が多い」と報道されてから客足が遠のいてしまったそうだから。)

また強い放射線を不用意に浴びれば有害なのだから、〈恐くない〉は好ましくない。適切に用心し、かつ過剰には怖がらないバランスが要求される。

呪いは解けるか


いま恐れられているのは放射能ではなく、放射能に一見似てはいるが実は別物の〈呪われた放射能〉だというのが私の仮説。だから放射線についての知識を増しただけでは恐怖から解放されることはないのではないか。なにしろ現在の知識では〈よくは分からない〉ことも多々あるし。

知識の外部注入は説得であって、納得をもたらすとは限らない。

してみると、線量計を手にして継続してあちこちを測ってみるというのは、本当の放射能を理解する良い方法と言えるかもしれない。初めのうちこそ大騒ぎをするかもしれないが、何日か経てば落ち着くのではないか。危険を煽りたい人は〈正常性のバイアスだァ〉と言うかもしれないが。

「もし女子高生が線量計を手にしたら」はターゲットが異なりすぎるから、「ひとりでできるもん!(放射線測定編)」とか「はじめての線量測定」あるいは「できるかな(放射線測定編)」や「しまじろうと一緒に放射線測定」のようなビデオを作って、子供と一緒に見ていただくのが効果的か。最終的に無頓着なお父さんは子供からも叱られるわけだが。「お父さん、タバコからはα線が出てるよ!」とかね(子供がα線線源を検出できるようなら希望はある)。

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2010/03/22

閉じ込められても生きていける

NHKスペシャル「命をめぐる対話 “暗闇の世界”で生きられますか」を見た。

意識はハッキリしているし、感覚系つまり視覚聴覚嗅覚味覚触覚は正常なのに、運動系がやられてしまい全く動く事ができない、したがって意思表示が全くできない「閉じ込め状態」に陥る人が増えているという。脳出血や外傷でも起こるけれど、これらが場合によっては意識障害も併発しているのに対し、特異的に随意筋だけが冒される筋萎縮性側索硬化症(ALS)では意識があるまま意思疎通が不可能になること(=閉じ込め)が明白だ。以前であれば呼吸筋が麻痺した時点で死亡していたが、人工呼吸器のおかげで生き延びる事ができるようになって顕在化した問題。

「ジョニーは戦場へ行った」のジョニーや全盲聾に比べれば、光は感じるし、音ははっきり聞き分けられるので恵まれているようにも思えるが、たとえるならば永遠の金縛り状態にあるわけで、その苦痛は想像を絶する。俗にいう幽体離脱状態(自分の体に家族が取りすがっているのが見えるけれど、いくら話しかけても誰も気付かない)にも似ており、これを信じる人ならば臨死状態だと思うだろう。

(タイトルに「暗闇の世界で」とあるのは不適切ではないだろうか。たしかに瞼が垂れて自力では眼を開ける事はできなくなるし、眼球を動かせないから焦点を定めるのも難しいだろうけれど、光を感じる事はできるはず。)

ICTの発達に助けられて、瞬きや頬の筋肉を使ってコミュニケーションを図って来たけれど、その最後の希望が絶たれる事態を前に、ALS患者の中には人工呼吸器の停止を要望する人も出てきた。

実を言うと、この番組を見るまでは、完全な閉じ込め状態になって生き続ける事に意味を見いだせなかった。

だが、一足早く完全な閉じ込め状態に陥った患者とその家族の様子を見た時に、それも一つの選択肢かな、と思えるようになった。

何の反応も示さない(まさに「まるで屍のような」)夫に対し、妻は語りかける。子どもたちも父に話しかける。その様子はまるで位牌に向かってあれこれ話しているようにも見える。だが夫(父)は聞いている事を彼らは知っている。妻は「お父さんがいるといないとでは子どもたちの態度がちがう」ともいう。家族にとって患者が生きている事は意味がある。

では患者の方は? 果てしない金縛りの苦痛を上回る悦びはあるだろうか? これは軽々しく決めつけられないけれど、可能性はあると思う。

不謹慎に聞こえるかもしれないが、胃ろうから毎晩お酒を注入してもらったら私の場合はQOLは高くなる。

モーツァルトの全曲をエンドレスでBGMとして流してもらうのも良いかもしれない。新しい演奏が出るたびに追加してもらい聴き比べをするとか。


前提として、虐められたり不本意な安楽死をさせられたりする事はないという信頼関係が必要であるけれど。ん? そーっと麻酔薬を増量されたら陶酔状態のまま逝ってしまうから心配する事はない? というのは冗談として、介助者(家族)との信頼関係、そして楽しい思い出があれば、立ち向かえない事もない、のではないかと思う。そういえば映画「父の祈りを」の中で、無実の罪に問われて投獄されてしまった父ジュゼッペは、獄中にあっても心の中では常に妻とともにいると言っていたな。だから耐えられる、と。

また治療法が開発される希望、はさておくとしても、意思疎通を可能にする技術の開発なら実現可能性は高い。それを楽しみにしても良いだろう。思考をダイレクトに音声化されたりすると、若い看護師が近づいて来たときにスピーカーからあらぬ音声が出る心配もあるけれど。:-p

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2009/12/13

NHKの公開ライブラリーで千葉敦子の声を聞く

突然、思い立ってNHK放送センターにある番組公開ライブラリーを見に行った。
NHKふれあいホール
ライブラリーはNHKホールの隣「みんなの広場ふれあいホール」3Fにあるのだが、正面に案内はない。ガラスドアを押して入ったエントランスは2階なので左手の階段を上るとすぐライブラリーになる。

受付で名前を書くと(空いていたので)好きな席で視聴できると言う。利用は2時間まで。

目的は千葉敦子の追悼番組。据え付けのPCで番組検索をし、再生ボタンを押すと大型液晶画面で始まった。(出演者に「伊藤律子」とあるが、テロップでは「伊東律子」となっていた。おそらくウェブの誤り。念のため受付には言い残して来たが。)

本人の声は、死の前年、上智大学での講演の録音だけ。映像はないので静止画での紙芝居。肝心の声は...ちょっと予想と異なった。やや急くような話し方で、昔は高かったのだろうがやや濁りの感じられる音質(この後しばらくして声が出なくなる)。適当な「似ている声」は思いつかない。

話はちょうど、がんが再発して死を意識し、その治療を終えてから棺桶リストの実行よろしくニューヨークへ転居して半年した頃。2度目の再発が発見される(非常に危険な兆候)。7か月に及ぶ化学療法(髪は抜け、食欲は落ちる辛い治療)に加え、原稿の売り込みは不調で経済的な困難まで現実化して来る。この畳み掛けて来る困難に対して、なんと「人は鍛えられる」と言う。「こういう困難が重なると、人は」に続けて「落ち込む」とか「参る」という言葉を予想していた私はつんのめる。ああ、たしかに古人は「艱難汝を玉にす」と言ったっけ。

ゲストは上智大学のデーケン学長(当時)と朝日新聞科学部の大熊由起子。大熊は日比谷高校以来の親交だそうだが、連絡がエアメールかファクス(か電話)というあたりに時代を感じる。ちなみに画質はとてもよくて、今年の番組と言っても通用すると思うほどなので、よけいギャップを感じた。Skypeなんかを手にしたら喜んだだろうな...

デーケンと大熊は口を揃えて、書いたものは硬質だが、千葉本人はユーモアのある人だったと回想していた。自分の書いた物は日本のがん患者やその家族が読む、だから弱気なことは書けない、という制約を意識もしていたらしい。


それにしても録画も録音もできないとはいえ、20年前の番組を高画質かつ無料で視聴できるとは。権利関係処理の問題があってNHK内部でしか視聴できないが、全国の放送局には配信可能である。千葉敦子に関心を持った人は是非出かけて見てほしい。

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2009/11/24

持つべきものは優秀で忠実な秘書

少し前になるが、映画「最高の人生の見つけ方」を観た。

いろいろな人がいろいろな感想を述べている訳であるが...私が注目したのはエドワードの秘書。

ビッグイシュー日本版(95号)での紹介では、エドワードは大富豪なのに入院しても見舞いに来るのは秘書だけ(の孤独な男)というニュアンスがあったと思う。ところがこの秘書、「余命半年と宣告されたらどうする?」「秘書に全財産を譲ると遺言します」なんてとぼけたことを言いながら、エドワードとカーターの旅行手はずを万端整える。疎遠になったエドワードの娘の住所もちゃんと把握している。それどころかカーターの死後には、その遺骨を(よくわからないがヒマラヤ級の)高山に持っていく。「荘厳な景色」を見せるために!

「棺桶リスト」(死ぬ前にしておきたいことの一覧)を埋めるにあたってはエドワードの財力がものを言ったのは言うまでもない。しかし、秘書トマスがいなければ完結することはなかっただろう。そしてエドワードの死後に、その指示などうっちゃってしまうこともできたのに、忠実に実行する。

持つべきものは優秀で忠実な秘書である。

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2009/10/25

ホームレスワールドカップ

22日深夜にフジテレビのNONFIXで、9月にミラノで開かれたホームレス・ワールドカップに出場した日本代表「野武士ジャパン」のドキュメンタリーが放送された。

IT研修講座が終わってから出番がなく、ビッグイシュー基金とはご無沙汰気味だったのでビデオに録り、金曜夜にやっと見た。

基金便り(No.48)に「勇気をふりしぼって5年ぶりに帰省、父親と酒を酌み交わし、住民票取得の協力も得られた」とあったのは佐々木さんと判明(番組で名前を出していた)。彼は...悪い人間ではないと思うのだが、不器用というか、社会性を身につけていないというか...「憎めない困ったちゃん」から「避けられるトラブルメーカー」になりかかり、見かねた東京事務所のマネジャーが懇々と説教をし、その場に居合わせたものの私は可哀想に思って見に行かなかったけれど、様子をうかがいに行った人が戻って来て「正座してる〜」と笑い転げているのを見て「ああ、ホントに疎まれちゃってる」とやや同情し、後日マネジャーから事情らしきことを聞いてさらに見る目は少し変わったけれど、なんか自分の悪いところを強調して見せられているような気がして、あまり近づきたくはない存在。

放送された大会中の様子でも、大敗した悔しさからか、試合後に相手チームから求められた握手を振り払ってしまったり、チームメイトに「勝ちに来たのか、負けに来たのか」と迫ったり(どちらも非難囂々)と「佐々木さんぶり全開」にはハラハラさせられる。

でも、きっと成長して戻って来たことでしょう。(1回は振り払ってしまった相手チームへも、出直して握手をして来たし...しかし2月のパーティーの後の出来事もそうだけど「評判を落とすようなことをしてから名誉を回復する行動」って、しないよりはマシだけど誉められたことじゃないよ...ちがうかな?)

そうそう、出発前の交流試合でボロ敗けし、人目も憚らず大泣きしていた様子が映されていた。それだけ(本人としては)真剣だったのだ。見直したぜ。番組を締めくくるナレーションは「彼らは努力が足りなかった。サッカーにも、人生にも」と突き放していたけれど、努力しても及ばなかった人間に対して、あれはちょっと冷淡が過ぎる。少なくとも人前で涙を見せた佐々木さんは悪い人間ではない、と重い鯛。

ちなみに結果は不戦勝2つで、事実上の最下位でした。世界のチームはレベルが高い(年齢が若い/プロチームからのスカウトも狙っているなど)。「点を恵んでもらう」に至っては、ありがたいやら情けないやら(正論としては手を抜かずに徹底的にやるのがスポーツマンシップではあるが、ホームレスが叩かれ弱いことへの配慮だったかもしれない)。

そういえば番組では選手は基本「さん」付けで呼ばれていたな。身障者のスポーツ大会を取り上げた新聞記事で、さん付けで書かれているうちはスポーツ記事ではなくて三面記事と喝破した人がいたっけ。実際、社会復帰訓練の一環ではある。しかし、いつか「スポーツ大会」として認められる日が来ることを願おう(そのとき社会復帰はどこが担うんだ?)。

ところで、寄付は足りたのかな?

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2009/02/14

ハチミツ梅干し

蜂蜜漬けにした梅干しって、どんなものだろう。どこで売っているのだろう。

明日には検索ワードの上位になっていたりして。

ハチミツ
はちみつ
梅干し

「梅干し はちみつ」でググると539000件ヒットします。

なにも新しい情報を提供しないで恐縮ですが、よろしければコメントをいただければと。たとえば「ンコ 平気 ですか」とか。

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2008/11/29

瞬く星

夜空の星が瞬(またた)くのは大気の揺れのため、とは常識だと思っていた。

ところが、映画だったかテレビ番組だったかで、宇宙船(あるいは月とか火星だったかも)から見た宇宙のセットを作らせたところ、そこにあったのは煌(きら)めく星々。しかも製作者はそこに力を入れたらしい。

大気がないのだから、当然、星は瞬きはしない。

サイエンスアドバイザーだったら「作り直しっ!」と叫ぶことだろう。

言い方にはいろいろあるにしても、基本的にはそのまま使うか使わないかの二者択一。

使う側の論理として考えられるのは、
 きれいだから気に入った
 星空のイメージにぴったり
 視聴者は大気圏外で見る星は瞬かないなんて知らないアホだから大丈夫
 視聴者は気づかないだろう
 視聴者に気づかれてもきれいだから許されるだろう
 作りなおす余裕(予算/時間)はない

フィクションやバラエティだったら「科学的に間違っている」は通用しないんじゃないだろうか。

では政治経済を扱うものだったら? ありえない「瞬く星」を見せて平然としているのは、「事実よりも見た目」「思い込みに依拠」という制作態度の表明であり、知的誠実さの欠如と判定されるのではないだろうか。

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2008/10/24

地球爆破作戦

ニューズウィーク(日本語版 2008.10.29)を立ち読みしていたら、レッシグがコラム冒頭で映画『地球爆破作戦』に触れていた。

米ソの軍事用コンピュータ同士が手を結んで人類を管理するという作品で、地上波放送で見た事はあったが、タイトルを忘れてしまっていたもの。いやぁ、こんなところで作品名と監督が分かるとは。

ちなみに原題はCOLOSSUS : THE FORBIN PROJECT。(しかし邦題はいかにもB級映画っぽくて関係者の見識を疑ってしまうね。名前を決めた連中は映画を見てないよ、きっと。)

MSNムービーでは間違って紹介されている。やっぱりマイクソソフトって糞ね、と思ったらgoo映画も全く同じ間違い。どっちかが他方をコピー、あるいは双方同じソースに頼ってるんだろうけど、しょーがねーなぁー。wikipediaを見ると、この8月にDVDが発売されたとの事。1970年の映画だけど、今でも見応え十分だと思う。慎重な人はまずはレンタルで。

最後の「君(フォービン博士)は私(たち)を愛するようになる」というコロッサスの言葉は、オーウェルの「1984」へのオマージュか?

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2008/10/21

香川照之演じる

先日、映画「憑神」を見た(途中から)。侠気があるようでいて頼りない蕎麦屋の親父が気になったので調べてみると、演じているのは香川照之。

出演作を見ていくとNHK大河ドラマ「功名が辻」に望月六平太役でと。ああ、思い出した。たまにしか見なかったのでよく分からないが、六平太は忍びの者で、なぜか局面局面で千代に重要な情報をもたらし、土佐ではいつの間にか家臣に混じり、最後は種崎浜での一領具足鎮圧を果たしてから自害した男。派手な演技はなかったが妙に存在感があり、心惹かれるのだ。なぜだろう。

だいたい千代との関係が分からない。

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2008/08/21

胃が重たくなる映画「闇の子供たち」

時間調整で、映画「闇の子供たち」を見てきた(ブログなどでは「闇の中の子供たち」と誤記している人が多い)。

聞いていたよりも複雑な話で、もういっぺん見ないと細部が理解できない感じ。以下ネタばれあり。

続きを読む "胃が重たくなる映画「闇の子供たち」"

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2008/08/02

悪魔のプール

テレビをぼーっと見ていたら、ビクトリアの滝の縁で水浴びをする人の姿が映し出された。

どうなってんの、とキーワード「悪魔のプール(Devils Pool)」で検索するとまとめページがヒット。

写真や動画がたくさんあります。ヒェ〜、こんな恐ろしい。

youtubeでも見られます。↓
http://jp.youtube.com/watch?v=26O5miWH0Cg

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2008/07/09

氷の作り方


今日のNHK総合「ためしてガッテン」は面白かった。

南極で風呂の湯を撒いたら空中で瞬間的に凍った、という写真を見たときは「寒いのね」くらいにしか思っていなかったが、まさかお湯の方が凍りやすいとはね。

しかし、前半で「おいしい/きれいな」氷の作り方はゆっくりと凍らすことだと紹介しておいて、後半に早く凍らせる方法を紹介するのは、なんか矛盾してないか?

キーワードは「ゾーンメルティング(帯融法)」「過冷却」ともひとつ(人名だけど忘れた)。

続きを読む "氷の作り方"

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2007/12/15

逮捕は刑罰ではない!

さきほどNHK総合で放送された週刊こどもニュースの中で、「逮捕」が刑罰であるかのような表現が繰り返されていた。

逮捕というのは被疑者の身柄を確保する手段であって、刑罰とは全く異なるもの。

(もっとも実際には取り調べのため(自白強要)、見せしめのためなどに逮捕が使われている。だが、それを普遍的と考えてはいけない。だから日本国内で犯罪を行った(と疑われる)アメリカ軍人の逮捕にアメリカ軍は難色を示すのだ。)

大人でも理解していない人が多いので酌量の余地はあるものの、こどもに間違った知識を与えては困る。

特に「逮捕されたのだから犯人」という短絡的反応は、裁判員制度が始まるまでに払拭しなければ「有罪の推定」というハンディキャップを被告人に与えかねない。

週刊こどもニュースは、嫌みでなしに「さすがは公共放送!」と言える良質な番組なだけに残念なこと。

というわけで、思わず質問・感想を送るページから苦情を送信。

もっとも、勇み足で逮捕状発行要件と勾留要件(住所不定・逃亡の恐れ・証拠隠滅の恐れ)とを混同してしまった。ごめんね>NHK

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2007/09/26

Ni! の騎士

板東英ニをご存じだろうか? 板東英二のニセモノ(山口白恵とか船本一夫の類)ではなくて、TBSでもやっている誤記(修正された場合は2007年3月のウェブ魚拓を参照)。

フォントによっては区別がつき難いから同情はするけれど。

こういう誤表記は翻訳ソフトにかけると発見しやすいと聞いてやってみた。

まず、正調の「板東英二」。ライブドア翻訳を使うとEiji Bando。では「板東英ニ」はというと

Bando English NI
でした。

これを見た時、私の脳裏には
We are the Knights Who Say... 'Ni'!
が浮かんだ(モンティ・パイソンのHolly Grailをご存じない方は、下記動画をご覧あれ。但し英語。http://www.youtube.com/watch?v=bIV4KLCmJ98 )。

字幕・吹き替えはDVDがある。

モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル
モンティ・パイソン・アンド・ザ・ホーリー・グレイル(楽天ブックス)

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2007/07/26

名を取って実を捨てる

先日、私的な勉強会で、某放送局の記者を話題提供者にして報道における実名・匿名問題を議論した。

テキストは『報道被害』。著者は弁護士で、誤報やメディアスクラムなどの被害者の側に立って来た人。で、当然、(私人の)犯罪報道の匿名化を主張。

一方、記者さんは実名報道の擁護者。で、話を聞いてみると確かにメリットはある。納豆騒動の某番組に限らず、モザイクと音声変換を使えばいくらでも架空の話が作れてしまうと言う。名前を出して顔を映すのが報道の真実性の担保である、と(私はそう理解した)。

ただ、なぜか話は少年犯罪の匿名問題にそれて行き、いつ実名報道に踏み切るか、という興味深い話を聞いた。少年法が少年の氏名などの報道を禁止するのは更正の可能性を保証するため。それゆえ更正の可能性が断たれた場合、被疑者死亡とか死刑確定とか、は堂々と実名報道できると手ぐすねを引いているらしい(社によって方針は異なる)。

またかつて凶悪事件を起こしながら、少年故に匿名扱いだった男が成人後にまた事件を起こした例。もちろんネットでは過去の事件と実名(と称するもの)バンバンだったが、マスコミは対応に苦慮したらしい。二度目も同じ凶悪事件なら躊躇はしなかったが、微妙な粗暴犯だったとか。さて少年時代の事件に触れて良いものか。結局、その社では今の事件は実名報道する代わりに過去の事件には触れなかったそうだ。うーん、ニュースとしては「かつての少年凶悪犯が、性懲りもなく」の方が報道する価値があるのだから、匿名にして少年時代の事件に触れた方が良かったのではないだろうか。「そんな悪い奴をなぜ匿名にする」という感情論に押されたのだろうが。これを名を取って実を捨てると言う。

あと、実名原則と言いながら、実際には微罪は匿名化に向かっている。問題は被疑者が公人、あるいは公人に近い場合。事件の性格や規模、被疑者が私人かどうかを勘案し、偉いさんが毎回合議で決めているらしい。でも、そんなものは「アキレスはカメに追いつけない」。「これは実名、これは匿名」と規準を決めたところで、その中間は必ずあるのだ。傍目には甚だしく労多くして実りの少ない仕事に思えた。


この本の80ページは注目に値します。優秀な日本の裁判所は、事件の起きる一か月前に犯人に死刑判決を出しています。どうしたの、岩波書店。

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2007/06/24

麻暖簾

臨時の寄席で落語を聴いて来た。噺家が気を利かせてくれたのか「テレビではやらないもの」と演じたのが「麻暖簾」。

蚊帳も按摩も通じ難くなって来たというのもあるだろうが、なんと言っても盲人を笑いものにしているのがマスメディアで取り上げない理由だろう(差別だと判断したというより差別だと言われるのを恐れて)。

視覚障害者を「一人では何もできない無能力者」とするのはもちろん差別だが、「なんでもできる」と持ち上げるのも、一見能力を高く評価しているようで、実は「個人を見ないで“視覚障害者一般”でくくる」点で同じだし、さらには「介助をしない口実」になるからよろしくない。

この話には、自信家の盲人が一晩中蚊に悩まされるなど底意地の悪さも垣間みられる。しかし、晴眼者の中途半端な気配りが一番悪いこともわかるようにできており、もっと聞かれて良い話ではないだろうか。下げのところを少々工夫して。

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2007/04/08

五人組

アテネ・フランセ文化センターで開かれている上映会「小川紳介と小川プロダクション」で「パルチザン前史」を見てきた。開場前に列はできていたけれど、蓋を開けてみれば観客は60人程度か。 昔笑いが起きた、時計塔で裏返しなっていた旗のシーンは誰も笑わず。

台本と、ついでに「辺田部落日録'71.9-'72.11」を購入。計400円。よく残っていたな。(日録は見覚えがあるので昔購入した事があるのかも)

議論、と言うか言い争いのシーンになると何を言ってるのかわかりにくいので台本は助かる。もっとも、読んでみても論理展開がつかめない個所はあるが。またあたかも現地録音のように「今こそ 別れめ (聴取不能)」となっている大阪市大陥落時に学生が歌う「仰げば尊し」は実はアフレコ

議論の場に女性の姿はない。救対(逮捕時の救援対策本部)が女子学生なので京都大全共闘も性別役割分担か、と思っていると再封鎖された文学部棟にやってきた見るからにノンポリチックないでたちの女子学生が、柱に書かれた「再封鎖」の字をしばし眺めてから、やおら下に置かれていた筆をとって「斗うぞ」と書き足すのでびっくり。学生の会話から、その決意はファッションではなく実践に基づいていたことが分かる(「あの女の子な、勇敢だったぞ!ものすごく!」)。

また時計塔で篭城準備を進める中核部隊のなかにもきりりとした女性達が映っている。このシーン、台本には「女子“工兵”がめだつ」「汗で髪がひたいにはりついたまま、わきめもふらずに働いている、白ヘルメットの女子学生。」と書かれていた。

余談になるが、目立つ女性活動家は当時「〜のローザ・ルクセンブルグ(またはゲバルト・ローザ)」と呼ばれたようだ。第一号は東京大の院生らしい。

ちなみに映画では、本名でローザ・ルクセンブルグに関する論文も発表している滝田修が蔵書からルクセンブルグの腐乱死体(ドイツ革命のさなか、右派に殺害され、川に投げ込まれた死体が確認されたのは半年後だとか)の写真を示し、繰り返し「ごっつい写真ですわ」と繰り返していた。革命家の過酷な運命を思ってのことだろうが、このとき彼は自らが無実の罪に問われて10年余の逃亡生活と7年近い拘禁生活を強いられることを知らない。

さて本題。ここに登場する滝田らは党派に所属していない。党派がそれなりの力量を発揮していることを認めつつ、その「丸抱え」を批判して自分たちの闘い方を模索する。そして出てくるのが五人組。キーワードが「義理と人情」というのが面白い。

この手のものは、一方に偏ると相互批判が高じて相互批難から内ゲバへ、他方に偏ると現役ならば傷の舐めあい、「卒業」後は思い出を語りあうだけの同窓会になってしまう。後者を食い止めるのが義理、前者を防ぐのが人情なのかなぁと漠然と思う今日この頃。

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2006/12/10

土・くらし・空港

成田国際文化会館で開かれていた「土・くらし・空港」展へ2日に行ってみた。お目当ては小川プロの映画「第二砦の人々」。開演までに少し時間があるから、と先に展示を見ていたら、危うく満席で見られなくなるところであった。その辺の様子は「共有される歴史」に詳しい。

これは第一次強制代執行を記録した、三里塚6部作の中ではもっとも激しい映画だ。ところが久しぶりに見て、次の「辺田部落」に通じる“語りの映画”の面が強いことに気がついた。とにかく長回し。砦の中で、バリケードの下で、地下壕で、まとまりなく話し続けるのをひたすら撮る。地下壕の通気口のところなど「もうわかった」と言いたくなるほど繰り返しろうそくを近づけて空気の流れを見せてくれる(これは覚えていた)。ラストの穴掘り(地下壕拡張)シーンは暗いし方言だし、わかることと言えば若者達が穴を掘っていることとそれが大変な作業と言うことのみ。それがまた延々と続くのだ。今回は真面目に見続けたので、使っているのがトンビ鍬(展示されていた)とわかったのが収穫。

(公開当時は「七月仮処分」「第二次強制代執行」を前にしていたので、今とは受け取られ方もずいぶんと違っていただろう。)

次に上映された「映画作りとむらへの道」によってそれが意図的なものであることが明かされる。作中登場する小川監督は、「辺田部落」のラッシュを見てだと思うが、東京から来た人ならカットして編集してしまうだろうということを語っていた。ところが地元でそのまま見せると食い入るように見て、良かったという。別に自分らが映っているからでもなさそうで、どうも村に流れる時間は都会とは違うようだ。

それにしても、その地味の権化のような「辺田部落」の上映を、「不測の事態」を理由に禁止した78年当時の筑波大当局者は、よほどの慧眼かただのバカであろう。慧眼というのは、あの地味地味を見て共感したら、若気の至りとは別のレベルで「空港を、この地にもってきたものを にくむ」ようになるだろうから。

東山薫についてははっきりとガス弾直撃による死と展示されていた。主催は航空科学振興財団歴史伝承委員会だが、後援には国交省や千葉県も名を連ねている。警察の不祥事は県の責任。機動隊員によるガス弾水平撃ちは証拠映像もあって否定しきれるものではないが、それでも国・千葉県は投石(同士討ち)説を主張し続けてきた。もはや特別公務員暴行凌虐致死罪は時効だから譲歩しましょうということか。それにしては去年、管制塔事件元被告人に1億300万円を請求するなんて、あー、つまり「良い過激派は死んだ過激派」ということか? ちなみに東山さんは救護所防衛隊員であって石を投げていた訳ではない。

他に目を引いたのが「七夕会」からの扇屋旅館への感謝状。三里塚への「不時着」3日後の7月7日に現地入りした運輸省(当時)職員は、空港反対の空気が強い中で宿泊場所の確保に苦労したようだ。それを引き受けたのが扇屋。いかなる事情あるいは思惑があったかはわからないが、これはやはり立派と言うべきだろう。「旅館は客を歓迎する」というシンプルな思想かもしれないが。

それに応えて「七夕会」という感謝の集いを続けた職員も礼儀を知っている。(でも、その気遣いを地権者にも示していれば、あそこまではこじれなかっただろう。引き返すには十分すぎる余裕があったのに。)

こういう展示があるにもかかわらず、貼り出されていた入場者アンケート(感想)には、「反対派一辺倒の偏向」みたいな寝言が書いてあって、まったく「見れども見えず」、自分の枠組みに収まらないものは目に入らないのねと悲しくなった。(これは自分にも返ってくる批判だが)

展示はいくぶん改良の余地があるとは言え、よくまとめられていた。常設展の実現を望みたい。これもアンケートに書かれていたが、空港内に展示室を設けるのはかなり適切に思える。

帰りは途中、千葉駅で降り、銚子電鉄の「ぬれ煎餅」を購入。


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2006/11/27

岡山訪問

所用で岡山に行ってきた(10/11,12)。

新幹線「のぞみ」に乗るのは初めてではないが、昼間は初めてというのを失念していた。油断して窓外の流れる景色を見ていたら気分が悪くなってしまった。帰りは通路側を取ることにしよう(念願かなって、帰路は新大阪まで通路側、それから同じ列車でB席(三列中央)だった)。

東京は雨だったが、岡山は曇り。翌日には快晴で、長傘は見事にお荷物。

雨の上がった岡山駅前

岡山市民会館で遠藤邦基と田中克彦の講演を聴く。偉い人が読み間違いをすると、おべんちゃらがそれを正しいものとして広め後世に残ってしまう話を聞くと、昔も今も人間って変わらないものだと改めて思う。古典を読むには批判的視点が大切だ。いま「聖書じゃないんだから」と書こうとしたが、実は聖書こそ筆写ミスの宝庫らしい。

閑話休題。田中克彦は名前くらいしか知らなかったが、現物は予想とだいぶ違った。日本の大学が「Brotstudium(飯の種になる学問)」ばかりに走って崩壊する、と大層悲観的。それもこれも勉強嫌いが政治家になって、その政治家が大学教育をいじるから、と首大学を作った障子破り都知事閣下などを引き合いに弾劾するが、実務を進める官僚は勉強一筋...あ、文部官僚は別格か(某官僚から個人的に聞いた話なので具体的には書けないが、旧文部省の感覚って、ほかの霞ヶ関の人間から見ても異次元世界のものらしい)。

教育の「恐ろしさ」は、かつて神州は不滅でB29は竹槍で落とせると信じた軍国少年(1934年生)なので骨身に染みているのだろう。

過日、田中の訳した『ノモンハンの戦い』(岩波文庫)を読んだ(不覚にも国境を巡る小競り合い程度にしか認識していなかったが、大規模な戦闘だったとしって驚く)。従軍作家の見聞記である第二部は興味深い。もし日本軍があの大敗をしっかり総括していれば、第二次世界大戦の悲劇は避けられたかもしれない。ま、そうだと今でも徴兵制や特高が残っていたかもしれないので、歴史を変えてやろうとは思わないが(歴史に「もし」はないとは言え、大日本帝国が賢く欧米との対立を避けていたら、核兵器は開発されなかったかも...うーん複雑な気持ち)。

講演内容とは関係のないことだが、市民会館の椅子の傷み具合から地方経済の疲弊が見えたような気がする。街に少しはお金を落としてくるべきだったな。

市民会館の傷んだ椅子

翌日は岡山大学へ。岡山大学と言えば糟谷孝幸(1969年、機動隊員に撲殺される)という人もいるだろうが、私は『思想としての風俗』で紹介されていた、関西全共闘最後の砦を見たかった。「パルチザン前史」にも描かれていた、時計台を占拠した学生が圧倒的な警察力の前に敢えなく落城する刹那、最後に歌ったのが「仰げば尊し」だった−−今こそ別れめ、いざさらば−−という伝説の大学。

だが、大学にある時計台は図書館のもので、どうも様子が違う。

岡山大学付属図書館の時計塔


帰ってきてから調べてみると、どうやら件の時計台は大阪市立大学だったらしい。あれぇ、記憶って当てにならない。

もっとも調べているうちに、「パルチザン前史」での歌声は、現地の録音はヘリコプターの轟音ばかりで、人の耳には聞こえた学生の歌声が入っていないため、別に録音した歌声を重ねあわせたものという文章も発見。これは映画を見た時に、ヘリコプターの音に比べて歌声が不自然に感じられたことに符合する。え、それこそ作られた記憶だろって? うむむ


岡山駅のホームで見かけた四国学院大学の学生募集看板。私がこの大学について知っていることはただ一つ、傑作アホ映画サマータイムマシンブルースロケ地だったということ。おーおー、あの時計塔も描かれているね。

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2006/06/07

閣下、映画をご覧になってのご批判ですか?

CNNに「映画「ホテル・ルワンダ」は誤り、ルワンダ大統領が指摘」という記事があった。

 どこか問題なのかと読んでみると

ホテルが襲撃を受けなかったのは、国連軍がホテルに滞在していたことと、武装勢力側が打ち合わせをしたり、ビールを飲むための場所として確保したかったからだ、と説明

それは映画でも描かれていますね。だれもルセサバギナが武器をもって英雄的に立てこもったなんて言ってない筈ですが。

ホテルに滞在していた人々が助かった理由として、武力勢力側と暫定政府側で話し合いが進んで、ホテル内の人々と、拘束中のフツ族兵士を交換する合意に達していたことを挙げた。

これも映画中で言及されていた筈。だからこそ前線に向けてバスで出発した訳で。

「(1200人以上が助かったのは)ルセサバギナと関係ない」「彼は、偶然にもあの時に、ホテルに居合わせただけで、生き残ったのは虐殺の対象になっていなかったからだ」

まさに「おいおい」です。閣下は映画をご覧になっているのでしょうか? ルセサバギナがホテルの安全をより確保したければツチの避難民を排除したでしょう。「ミル・コリン・ホテルに手を出すな」というビジムング将軍の命令をフツの民兵は目障りに思っていた訳で、家族(妻はツチ)を守るために難民を民兵に差し出してもおかしくない。実際そう要求されていた。でも、彼はそれをしなかった。それが感動を呼んでいる訳なのに、なんという的外れ。

8月にDVDが出るそうなので、映画を見られなかった人はぜひご覧あれ。上映情報は公式サイト参照。

もしかすると「虐殺を止めたのは我がRPFなのに、一民間人ごときがその栄誉を独り占めとはけしからん」と御立腹なのかもしれません。しかし前の記事に書いた通り、映画のRPF(当時の反政府軍)はあたかも正義の味方のように颯爽と現れてフツ民兵を蹴散らしていくんですよ。

(あんたもポール・カガメ大統領の声明を直接確認した訳じゃないだろ、という突っ込みは御容赦。)

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2006/05/10

「風の又三郎」を観てから読む

誘われて、映画「風の又三郎」を今年末に閉館となる三百人劇場で観てきた。

原作は1931年〜1933年にかけてまとめられたものだと言う。映画は1940年製作、ではあるが戦争の影は感じられない(37年の盧溝橋事件から宣戦布告のないまま日中は全面戦争状態)。生徒は登校すると国旗掲揚塔にお辞儀はするものの、それ以外に国家を想起させるようなものは出てこない。複式学級(全学年一教室)で先生も住み込み一人という小規模校という点を考慮してもちょっと不思議。原作に忠実であろうとしたためか。そういえば教師も、威厳はあるが優しく教導するタイプで、生徒が騒いだり怠けたりしても手を上げる事はもちろん、声を荒げる事さえほとんどない(原作の先生はもっと現実離れしている)。

そういえば大人たちも、面食らうほど物わかりが良い。わずかに実際には登場しない「専売局の役人」だけが恐い大人で(村の大人にとっても恐い存在?)、「遊んでないで手伝え」なんて言わないし、馬を逃がしても迷子になっても叱らない。そういえば子供も言われなくても農作業を手伝う物わかりの良さ。ひょっとして都会の映画人が夢見た「理想の農村?」(原作には汚れた足で床を汚す子供らは出てこない)。

風の効用問答で、映像化された風のする悪さには苦笑。帽子を飛ばされる、傘を壊されるくらいならまだしも、家が壊れる、屋根まで飛んだを実写する事はあるまいに(「シャボン玉」の歌詞勘違いを思い出す)。それに比べて、風車の効用はアニメーションで教科書的。

原作には無い鉛筆の後半エピソードは「又三郎は風の神の子ではない」を暗示しているようだが、相撲後に風を起こすところはいかにも「風の神の子でござい」で謎(この島耕二版を「原作の雰囲気をよく伝えている」映画と評価している風の又三郎の世界では「三郎が密かに空の雲行きを計算して歌を歌い出したことを明示的に描写しており、ここでは三郎が又三郎ではないことが示唆されている」とあるが、そこは記憶が曖昧)。

そういえば又三郎は風を起こせばよいのであって、雷雨は管轄外だと思った。

終わってから、「風の又三郎のオノマトペ表現の分析(レジュメ)」を読ませてもらう。表の作り方がイライラするほど稚拙(資料の作りは発表会でも不評だった由)なので作り直してみようか。

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2006/04/17

「死者の書」を読む

先日、誘われて映画「死者の書」を観た(岩波ホールにて7日まで)。

冒頭の短編映画があまりにたおやかだったせいか、始まるとすぐ半覚醒状態に。途中で意識は戻ったが、訳のわからないまま終了。印象に残ったのは「おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。」という台詞、それに鳴弦(つるうち)と反閇(あしぶみ)のシーン(上記サイトにある予告編で見られます)。

納得がいかないのは、処刑される大津皇子が肩までのざんばら髪なこと。ベアトリーチェ・チェンチを持ち出すまでもなく、首をはねるのにあの髪は邪魔。

あと、念仏を唱えられて退散するってことは悪霊の類なのに、それと仏姿がだぶらされていて、よくわからん。

実写でやったらB級オカルト映画になっていた可能性大(それで人形アニメにしたのか?)。

ネットをざっと探してみても、川本喜八郎の映像美を誉めるものばかり。

そこで青空文庫で釋迢空(折口信夫:おりぐちしのぶ)の原作を読む事に。

難しい。古文を読む素養のないことが暴露される。orz だが映画は原作をかなり忠実になぞっているらしく、文の難しいところは映像を思い出す事で、なんとか目を通し終えられた。もちろん結論は「やっぱりわからない」であるが。


誘ってくれた人がアニメーションとCGについて「一を聞いて十を語る」ので閉口。そのくせPIXARも「トイ・ストーリー」(劇場公開された長編映画作品としては、初のフルCG作品)も「ファインディング・ニモ」(フル3DCG)も「Mr.インクレディブル」(服や髪の物理的感触を極めて忠実に表現した点が特徴)もご存じないのだから開いた口が塞がらない。あー、口は閉じているのか開いているのか、ですって? 

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2006/03/22

「その前」を見たい「ホテル・ルワンダ」

映画「ホテル・ルワンダ」を銀座テアトルシネマで見てきた。

ルワンダ内戦の末期に起きた大虐殺の嵐の中で難民1200人余を救った男の物語。映画および背景の基本情報は公式サイトを参照。ちなみに外務省のデータによればルワンダ共和国の面積は2.63万km2(四国の約1.5倍)で人口は841万人(2004年)。このサイズの国で100日間に100万人(赤十字の概算)が殺害されたという。

他の人の感想はトラックバックセンターが設けられているので、そこでまとめて見られる。容易に読みきれる数ではないけれど。

まず基本的なところから。事件は「ツチ族とフツ族の部族紛争」と理解している人が多いと思う。しかしツチとフツは見分けがつかない。冒頭に説明的に挿入されたシーンで欧米からきたジャーナリストが理解できなかっただけでなく、ディプロマトのシーンでわかるように「ゴキブリ」退治に血道をあげる政府軍も民兵もIDカードをチェックしなければツチを判別できない始末。そしてツチとの融合を目指す穏健派フツも虐殺の対象となった。

※ゴキブリ=ツチ人のこと

ユーゴは民族紛争で、アフリカは部族紛争。この使い分けからしてアフリカ蔑視。ましてツチ・フツという区分け自体が、元の民族の違いはあったもののルワンダを植民地化したヨーロッパ人によって政治的に強化されたもので、現在では「完全に異なる民族集団としてとらえることはできない」という。日本で言えば縄文人と弥生人みたいなものか。あるいは関西人と東京人とか。したがってここでは映画のプログラムおよび公式サイトとは袂を分かち、「フツ人」「ツチ人」と表記する。


さて、この映画をものの見事に誤読している人がいるようだ。虐殺が始まってからの、主人公ポール・ルセサバギナの活躍物語として「楽しめ」ば、近未来の日本への警鐘とする解釈は鬱陶しいものだろう。その意味では映画自体に不満が残る(三ヶ月間におよぶ惨劇の中で理性を保ち、家族と同胞を救った男の物語しては素晴らしい)。

へそ曲がりの私が注目したのはホテルスタッフのグレゴワール。冒頭、支配人に対するサボタージュの態度で争乱を暗示した彼はフツ人で、大統領暗殺を合図に始まったツチ人虐殺を機に、あたかも特権階級にでもなったかのような勘違い行動を起こす。だが冷静に考えればフツ人はもともと多数派で、ツチ人を絶滅したところで全員が金持ちの支配階級になれる訳でもない(そもそも支配するべきツチ人を殺してしまっては、結局フツ人内部を序列化するしかない)。外資系四つ星ホテルのフロントを務められる男だから、それなりの能力と分別はあった筈だ。それがなぜ自分の天下が来たような勘違いをおこし、支配人(ポール)への私怨もあるにせよ国連保護下の難民を襲撃させるような挙に出たのか。

上記には当時のルワンダ情勢理解について混乱がある。日本公開を応援する会のサイトにある連載ルワンダ史参照(特に1-3と10以降)。フツ人はハビャリマナ政権下では人口的にも政治的にも多数派。但し、経済的にはピンからキリまで。コーヒー価格の下落や内戦によるフツ難民の流入でキリの方はかなり苦しかった模様。(3.24追記)

幸いにも「復讐の連鎖」を断ち切る政策により、彼は死刑を免れルワンダで服役していると言うが、彼を主人公とした方が良い映画ができるのではないだろうか。つまり「茶色の朝」が傍観者の物語だったのに対し、普通の市民が空疎なスローガンに酔って大量虐殺への荷担者に転落するまでの道筋を辿る映画だ。

地区の民兵を率いて虐殺を続けるルタガンダにしても元はただの商売人で、虐殺の小道具である中国製の鉈で一儲けを企む有様(鉈!日本で市中にある銃のほとんどは去勢されており、しかも徴兵制がないおかげで国民のほとんどが銃の取扱を知らないから、内戦は起きにくいと思っていたが、こういう間道があったか...それにカラシニコフ銃は女子供でも扱えるそうだし)。この男が何を考えていたのかも興味深い。

いったん始まってしまった「祭り」を傍から見ればただの気違い沙汰だ。あの鉈を手にした民兵を我が事としてみた観客は多くはあるまい。だからこそもっと遡って、日常の中に偏狭な思考が浸食して行く過程を映像化してもらいたいと切に思った。

そもそもこの映画を見に行こうと思ったのも、日本公開に尽力した町山智浩がプログムラムに寄せた一文に難癖を付け『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!と嘆かせた御仁がいる事を知ったから。

“エンターテイメントとしてもきちんとした作品”としか見られない人には、グレゴワールやルタガンダは自分かもしれないなどという想像はできないだろう。「秘密の大計画」に沸き立ち「ぬるぽ」などと書いたプラカードを用意して拉致被害者を迎えに行った連中と街頭デモで「フツパワー!」と踊っていた連中は五十歩百歩と思う(幸い、日本で未確認情報をコピペしまくった軽率の徒は多かったが、実際に足を運んだ人間は多くはない)。

ところで彼らに感じるこの憎悪はなんだろう。ネタバレになるが、最後の脱出が民兵に阻まれそうになった時、突如現れたRPF(反政府軍)の攻撃によって民兵は潰走する。鉈と自動小銃では勝負にならない。RPF Go! Go! Go! 溜飲を下げたところで昔見た「暗い森のカッコウ」を思い出した。ナチス・ドイツによって親を殺されたチェコ人(スロバキア人かも? 区別できてません orz)少女は金髪と青い目を備えていたがためにアーリア人と認定され、孤児院でドイツ人教育を施されてから里子として売られて行く。買い取ったのは妻が子供を産めないドイツ軍の大佐。彼はアーリア人であれば元の国籍など気にしない、つまり理想的?ナチで、しっかり者の少女がお気に入り。ところが地元の悪ガキどもは外国人排斥がお好き。女一人をよってたかっていじめる訳だが、それに気づいた大佐は激怒。部下(たぶん親衛隊)を動員して成敗に乗り出す。豆ナチと本ナチでは勝負にならない。さすがに同国人だし子供相手なので銃こそぶっ放さないけれど、シェパードをけしかけ、鞭で散々にぶちのめす。ざまぁ見やがれ。このドイツ軍登場のシーンは、中国の抗日物語だったら「八路軍がきた」に匹敵するであろう頼もしさ、「戦艦ポチョムキン」ならラスト「ウラーッ」シーンに勝るとも劣らない感動。でも、これってヤバくね? DQNをもってDQNを制すとはいえ、敵の敵でも敵は敵。そして無辜の民に鉈を振るった民兵も人の子であり夫であり父であろう。死ねば家族は泣き悲しむ。それに爽快感を覚えるようでは...覗き込んだ深淵に引きずり込まれていないだろうか。

話変わって。ポールはとことん冷静なホテルマンだ。普通の人間なら怒鳴り出してもおかしくない状況でもホスピタリティに満ちた態度を崩さない。虐殺された死体の山を見た後に一時パニック状態に陥るが、それでも人前では、特に子供の前では自信と包容力に満ちた支配人であり父親で居続ける。もし彼が安手の勧善懲悪活劇のヒーローみたいな行動をしていたら、いや、少しでも不服従とわかる態度を示していたら、その命はなくホテルは屠場と化したであろう(血気にはやる若者が登場しなかったのは不思議)。剛に対して徹底的に柔で勝負した姿は見事。

そうして抑えに抑えてきた彼がついに反撃に出る。といって銃をとる訳でもないし拳を振り上げる訳でもない。RPFの猛攻で窮地に陥ったビジムング将軍が、賄賂で口にした久しぶりのスコッチに「スコットランドは良かった。また行けるだろうか。」と弱気を漏らしたところで突如タフな交渉人に変身する。それまで従順だった男の変貌に将軍びっくり。(かなり端折ってます)

書き出せばきりがない。サベナ社の社長役で出てくるジャン・レノが冷酷なのか頼りになるのかわからないハラハラ感を漂わせていたとか、ポールは贈賄文化に首まで浸かっているけど赤十字の職員には金を渡さないのは見識なのかとか、どうして自動車は夜でもライトをつけないのだろうかとか、避難するトラックの台数は少なすぎないかとか、ホテル敷地内での歌や踊りはフツ人に挑発と受け取られなかったのだろうかとか。

↓DVDではなくてサントラCDでした。24日以前に見た人ゴメン。

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草の乱

映画「草の乱」を観た。感想を書いたのにブログに載せないままでいた。ハードディスクの肥やしにならないよう掘り出した。

秩父事件(困民党ほう起)を、指導部の一人で欠席裁判で死刑を言い渡されながら北海道に逃亡した井上伝蔵の回想という形で描いたもの。

ほう起は緒戦でこそ勝利を収めるが、軍の出動とともに押しまくられ分裂潰走してしまう。政治的に革命を目指す部分が、高利貸し憎しではやる民衆や武装ほう起目的主義的部分を抑えきれず、あるいは見方を変えれば革命のマグマが自由党の政治戦略を乗り越えて噴き出したためと言えよう。まさしく「草の乱」だ。

革命の青写真も不明確だった。30日の猶予があったところで、上州・信州のほう起頼みで、勝利の展望はない。ま、たった7人の敗走ゲリラが政権を奪取できたりするのが革命と言えばそうなのだが、少なくとも映画の中の困民党はビジョンのある山県の敵ではない。


やはり事を起こすに当たっては、終わらせ方をよく考えておく必要がある(「案ずるよりうむが易し」は慎重居士が口にしてこそ意味があり、おっちょこちょいが言っても説得力ゼロ)。

指導部にもましてだめっぷり?を披露したのが最初に戦死した士族殿。あれは実話か。取り入れたのはどういう意味なのだろうか。

指揮系統の混乱も痛かった。困民党軍は厳しい軍律で知られるが、実際の所は大丈夫だったのだろうかと心配にもなる。


ところで当時の農民は「なんば」(手と足が同時に前にでる)で、あんな風には走れなかったと思うのだが。

もひとつところで、総裁田代栄助役の林隆三はキマッテいたが、あの人、私の中では「お荷物小荷物」の三男のイメージが抜けないのよね。

製作:埼玉映画文化協会

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2006/01/21

こういう「放送と通信の融合」はいかが

現在のアナログ受像機は数年の後に使えなくなる。はて、いつからだったか。そういうことには一番詳しそうな姪に聞いてもはっきりとしたことはわからない。まぁ、一般大衆の受け止め方なんてこんなものですよ>地上デジタル放送推進協会&総務省

彼女曰く、日本中のテレビ受像機を買い替えさせるなんて無理。対して、でも携帯電話はアナログを途中で中止したし、auはPDCを全廃したし、と私。もっともシチズンのアンケートによれば携帯電話は半数近くが1年以内に買い替えるそうだから、移行期間を2年もみれば円滑にサービス停止できるだろう。

そうだ、テレビも携帯電話方式、つまりメーカーではなくキャリア(放送局)が販売したらどうだろう。F901はフジテレビとか(違う)。ビジネスモデルは自局配信広告優先受信。NHKを見ていても商業コマーシャルが(笑)。逆にNHK仕様のテレビはCMスキップ機能付き。ただし受信料を払わないと見られなくなるとか。

上記調査によればパソコンでさえ個人は3年で買い換える人が46.5%。新規購入1円、機種変2万円なら2011年までにほとんどのテレビをデジタル対応に買い替えさせられますぜ。現在あまり買換えが進まないのはデジタル移行を理解している人も、「待てばもっと良い機械がより安く手に入るだろう」と思っているから。携帯電話ビジネスモデルならこの買い控えを抑制できます。♪

ついでだから携帯電話をテレビのリモコンにしてしまえ。同時に、テレビをつけていたら「番組からのお知らせ」をメールで届けるとか。

冗談から駒で、考え出すとなかなかイケそう、と酔った頭で考えた。

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2005/11/05

情けないぞ?NHK

3日の夜、ぼーっとNHK総合テレビを見ていたらとんでもないテロップが。

静かに寝むる
女は静かに寝むる
(河島 英五「酒と泪と男と女」)

これは「眠る」でしょう、普通。生放送中に大物歌手が歌詞を間違えた途端にテロップを消した技術力があるNHKなのに、なんという初歩的な... (大物というだけではダメで、別のファクターも必要?)

それともオリジナルが「寝むる」なのでしょうか。そう思って「酒と泪と男と女 寝むる 眠る」で検索をかけると、

「眠る」と書くべきところを「寝むる」と書くところが、河島」
というブログ記事を発見。でも「河島英語である。」なんて書いてあるので信憑性減。

もっとも2001年の紅白歌合戦では「眠る」だったことが批判されているらしいので、やはりミスではなくて原典忠実路線で合っている?

それでも教育的な配慮から、眠るに直す(歌詞中のポルシェをクルマと言い換えさせたという天下のNHKなのだ)か、せめて「寝むる」と、「普通の用法じゃありませんよ〜」を強調すべきでは無いだろうか。

それにしても、検索してみるとなんの疑問ももたずに「寝むる」と書いている人の多いこと(平然と「寝むる」と「眠る」を混在させている人も)。心配になって辞書を引いてしまいました(「寝むる」は大辞泉にも大辞林にも載ってません)。

こういう混乱は、原典にすぐ当たれるようにしてあればかなり防げる。複製権を盾にネットでは検索できないようにしてあるのでしょうが、間違った複製の多発でかえって同一性保持権がぼろぼろに。複製権と同一性保持権、無理に比較したら人格権である後者の方が重要だと思いますがね。複製権が切れた時に紛い物コピーだらけという状態が、果たして好ましいことなのか。


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2005/08/07

猫の経穴・経絡模型

テレビ東京の「出没!アド街ック天国」で紹介されていた猫の経穴・経絡模型を見に行こうと思っていたが、あまりの暑さに断念。まぁ、心が動いて買ってしまうことを恐れたせいもあるが。ネコのための指圧本『にゃんこの指圧』で拮抗阻害をかけてしまおうか。

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2005/06/18

spam a lot!

今年のトニー賞、日本の新聞は宮本亜門が受賞を逃した、を見出しに持ってきたせいで、記事を読まず、したがって何が選ばれたのか知りませんでした。

と、12日の「芸術劇場」(NHK教育)を観るともなしに流していると、不意に聞き覚えのある音楽が。

Bravely bold Sir Robin rode forth from Camelot.♪

おお、モンティパイソンの映画「モンティパイソンとホーリーグレイル(MONTY PYTHON AND HOLY GRAIL)」をもとにした「スパマロット」がミュージカル部門最優秀作品賞に選ばれたというのだ。画面にはエリック・アイドルが。この人は歳をとってもあまり容貌が変わらない。ジョン・クリーズ(ハリー・ポッターにでている)がすっかり老けてしまったのとは大違い。

「ホーリーグレイル」は、今では伝説のコメディ集団「モンティパイソンズ」がアーサー王伝説を徹底的におちょくった映画。

ちなみに迷惑メールのことをspamというが、これはスパイスの利いたランチョンミートの缶詰(ホーメル社のSPAM:大文字)をネタにしたモンティパイソンのスキットが元。(お堅いBBCの放送の中でspermと連呼するための偽装ではないかと推測している。)

ミュージカルのタイトルspamalotはアーサー王の居城Camelotとa lot of spamの両方にかけているのだろう。

トニー賞授賞式の模様は18日、NHK-BS2で19:30から放送されます。たぶんスパマロットの触りも放送されるのではないかと期待。

またネット上を探してみるとThe Ballad of Brave Sir Robinなどを聞くことができます。

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