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2016/09/22

「難しい医療・看護・介護の言葉をやさしく」

ツイッターで見かけた第3回コトノハカフェ「難しい医療・看護・介護の言葉をやさしく」というイベントに心惹かれて参加した(9月17日)。

会場はバルトという「ベルギービールとお料理のおいしいお店」。参加費は1000円とやや高めの設定であったが、ちゃんとドリンクが出た(サイエンスカフェに代表される「××カフェ」の中にはカフェとは名ばかり、水も出ないところがあって「言葉を大切にしない人たちだ」と困惑した経験がある)

困っているのは外国人

医療の言葉が難しいことについては以前から話題になっていて、改善の努力が続けられているが、今回の中心は介護の言葉。それはEPA(経済連携協定)によって、8年前からインドネシアとフィリピン、そして最近はベトナムから日本で看護師や介護士として働こうとする人々が来日しているから。日本の施設で実地研修を受けながら国家試験を受け、日本の資格をとって日本で働こうという訳だが、そこに言葉の壁が立ちふさがる。

国家試験に合格しなければ帰国しなければならないのだ。来日するのは既に故国で一定の資格を持っている人。それが日本に4年間滞在して試験に合格しないからと帰国させられると、本人にとって損失だし、送り出した国としても面白いはずがない。ところがたとえば看護師試験は、合格率は約90%なのに、EPAで来日した研修生は10%に満たない時期があったという。そんな状態が続けば、日本で働こうとする外国人は減ってしまい、医療・福祉業界は深刻な人手不足に見舞われかねない。難しい言葉は人材育成を阻害しているのだ。

話題提供者は留学生の日本語教育に携わってきた文教大学教授の遠藤織枝さん。国に働きかけて国家試験の問題文見直しを実現させるなど功のある方なのだが、医療福祉については門外漢という弱みも垣間見られた。

当日のツイート

翌日のツイート

よくわからないままに研修地に青森を選んで苦労した、というのは初期の話。

現場ではスピードが要求される

医療や介護の現場では、意思伝達にとりわけスピードが要求される。モタモタしていたら命に関わることもあるだろう。勢い用語は略されがちになる。その、門外漢から見たら宇宙人の会話みたいなものついていけるのがプロの証とも言える。なによりも言葉は集団のアイデンティティであり、仲間を識別するシグナル 。伝えるだけでなく、敢えて分からせないことにも言葉の機能がある。そういうこともあって、質問票に「②なんでも日常語にするのが解決か?」と書いたがこれは取り上げられなかった。その代わり、参加申し込みの際に書いた「難しい専門用語には、覚えると嬉しくなって無闇と使いたくなる魔力があると感じています」が読み上げられ、これは一部の参加者(さしたる根拠はないけれど、看護師のような専門職)に受けていた。
言い換えると一般に長くなる
遠藤さんが編著した『やさしく言いかえよう介護のことば』を版元が持ち込んで販売していたので購入したが、目次を見ると「言い換えたら長くなるだろう」という予感が当たっていた。短くなるのは「頸部→首」「眼瞼→まぶた」「残渣→かす」「疼痛→痛み」「振戦→ふるえ」くらい。吐血と喀血がまとめて「血を吐く」になっているのもいただけない。「消化管から血を吐く」「呼吸器から血を吐く」のなんという冗長さ。
相手が変われば言葉も変わる
もちろん利用者やその家族に説明するときは別である。専門家ぶる必要もない。誤解されない範囲で(実は日常語だとそれが難しいのだが)平易な言葉を使ってゆっくり丁寧に説明すべき。

ただ、庶民の中には知識レベルが驚くほど違う例があることも忘れてはいけない。ある老人とコンピュータの話をしていると頻りに「言語」とおっしゃる。Cとかコボルの話かと思ったらそうではなく、どうも日本語変換機能(当時はFEPと呼ばれていた)のことだったということがある。また別のやや若いご老人とやはりコンピュータの話をしているとどうも話が通じない。突き詰めてみるとプログラムという用語を「演奏プログラム」「運動会プログラム」「入学式プログラム」のような番組表、進行予定、式次第という意味で理解しようとしていることが分かったことがある。通じる訳がない。ちなみにこの方はコンピュータのハードの説明書に、バンドルされているワープロソフトの使い方が書いていないとご立腹。テレビの取説に番組解説はないでしょ?と説明しても納得しない。実はお二人とも世間では街のインテリで通用する人物なのである。それでこの惨状なのだから、自他共に認めるブルーワーカーが日常化した用語をどう誤解しているかは想像を絶する。

常識といえば、SI接頭辞というものがある。小学生向けの暗記物に「キロキロと、ヘクト出かけたメートルは、弟子に追われてセンチミリミリ」なんてのがあったくらいだし(いつの時代だ?)、コンピュータではキロバイト、メガバイト、ギガバイト、テラバイトがお馴染みだから、テラ(T)は一兆倍、ギガ(G)は十億倍、メガ(M)は百万倍、キロ(k)は千倍、ヘクト(h)は百倍、デカ(da)は十倍、デシ(d)は十分の一、センチ(c)は百分の一、ミリ(m)は千分の一を表すなんてのは常識だと思っていた。ところがmBq(ミリベクレル)をメートルベクレルか?としたり顔で述べつつ「勉強した方がいい」と他人に説教する自称原発事故の専門家がいたのが現実。

用語に対するイメージの違い
汚染という言葉がある。『やさしく言いかえよう介護のことば』ではなぜかたいそう忌み嫌われており「人の行為に対して使うのは不適切」とまで。そして「汚れ・汚れる」で良いではないかと主張されるのだが、どうであろうか。たとえばノロウイルス感染により嘔吐したとする。吐いた物をチリ紙で拭き取ってから水拭きすれば「汚れ」はなくなる。しかしウイルスによる汚染は残っており、次の感染源となりうる。逆に吐瀉物をざっと取り除いてから次亜塩素酸塩水を噴霧すれば、それで汚染はなくなる(だろう←現場を知らない机上論)。極端な話、後片付け=汚れを取るのは資格のない職員でもできる。

また疾病の中には血液はもとより唾液や汗、尿にもウイルスが出るものがある。ゴム手袋をして介護するなど汚物扱いと憤慨されるかもしれない。しかし、これを怠れば他の利用者にも感染が広がりかねない。そういう被介護者はキャリアとかポジティブとか呼ばれるであろうが、分かりやすく「ウイルスで汚れた人」と言うべきだろうか? そんなことをすれば体液に濃厚に接しなければ安全な人に対しても、素人は「隔離してください」と言い出すだろう。逆に感染に弱い人も、それと分からないような符丁でスタッフ間に共有されていると思うが、こちらを「病弱」等と呼ぶことはやさしい言葉だろうか。

医療・福祉とは離れるが、植物組織培養とか微生物培養とかは専門学校でも学ぶ基礎的な実験操作であり、そこでは汚染を理解することは重要(理解していないと実験がパーになる)。そして嫌というほど思い知らされるのが、「最大の汚染源は人間」ということ。ちなみに応用微生物学では培養している菌に雑菌が交じる汚染を忌み嫌うが、その菌が床に溢れようが手に付いていようがあまり気にしない。口に入っても平気だろう。一方、医学部の細菌学では、何しろ扱うのが病原微生物であるから、一番気にする汚染は扱っている菌が外に漏れること。汚染対策の意識は向きが全く逆。応微の人間がいつものように結核菌を扱ったらバイオハザード必至だそうだ。

閑話休題。もう一つ、具体例は忘れたが、遠藤さんと参加者(の一部)との間に「それは違う」という緊張感が走ったことがあった。

テスト学

そういえば、ピントがズレているなぁと思ったのは試験問題の量についても。1題1分とか、そういう短い時間で解かなければならないと憤慨されていた。医療・福祉の知識ではなく、日本語の能力で選抜するような試験はおかしいというのはその通り。ただ、良い試験問題というのは満点が出ないようにするものとも聞く。つまり全問解答は不可能にしてある可能性がある。0点が続出するのは出題に不備があるというのは納得してもらえるだろう。同様に全員が100点を取るテストというのも問題がある。易しすぎるのだ。平均点を中心に得点分布がベル型曲線を描くのが良いらしいが、これは自信がない。

また「正しいものを選べ」と「間違ったものを選べ」が交互に出るのはクイズ的と非難されていたが、これは出題パターンを記憶して意味を考えずに解答する受験生を弾くテクニックだと思う(が、自信はない)

それで次回テーマとして、話の中で出てきたテスト学会を希望しておいた。

感想

多種多様な参加者がいて発展性がうかがえる会であった。次の予定が入っていたこともあり、懇親会は失礼してしまったが、次の機会があれば出席したいものだ。

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