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2014/07/05

優れた演劇は観る者の心を

不快にする、といったのはだれだっけ?

出所は不明(なので知っている人は教えてほしい)だが、英国の劇作家に「自分が体制批判の作品を書くのは、保守派の人びとの考えを変えようとしてではなく、むしろ固めるため」というような事をいった人がいたと記憶する。

また、先日参加した第2回LRGフォーラム・菅谷明子×猪谷千香クロストーク「社会インフラとしての図書館-日本から、アメリカから」で、菅谷さん(『未来をつくる図書館』の著者)が、USAの小学校に通うお嬢さんの担任教師から「あの子は本の読み方を知らない」という指摘を受けた話をしていた。「あんなに本好きなのに?」と訝る菅谷さんに担任は「自分好みの世界の本しか読んでいない(これを菅谷さんはFacebookで「いいね!」をつけるような読書と表現)。読書とは本来、自分の知らない新しい世界を経験するためにするもの」だから本の読み方が分かってない、と。読書とはすべてそうあるべき、には異論があるけれど、それが読書の王道であるというのなら、それはそうだ。

だから12月に観る「忠臣蔵」(あるいは「赤穂浪士」)のように定番を楽しむことは認めつつも、「優れた演劇は観る者の心を不快にする」にも賛成せざるをえない。

すなくいむし


というわけで劇団もっきりや公演「すなくいむし(砂喰虫)──そこから見た月は歪んでいて──」である。芝居は5年に1遍で十分と思っている人間であるが、このところ劇場には足を運んでいないし、さる筋からの要請もあって6月15日に本郷文化フォーラムへ足を運んで観劇した。

芝居そのものは、『砂の女』(安部公房)と、精神病院とは明示されていないが『河童』(芥川龍之介)を連想させる。

そして、どうやら放射能汚染をあつかっているようである。それは劇中に「ただちに影響はありません」という文句(ちなみに私はこのセンテンスを揶揄的に使う人間を警戒、というよりほぼ軽蔑する)が使われただけでなく、主宰者が「福島を忘れない!車座朗読会」に出演していることから推測できる。

しかし、「背後から撃たれて腹から出血しているのに、なんで上着の背中に血痕がないんだ?」(灰とダイヤモンド)とか「まだ上陸していないのに、なんで足音が響いてくるんだ?」(ゴジラ)などと、感動はしても分析は忘れない人間の目には謎が次々と浮かんでくる(生活費はどうしている?なんて下世話なものは省く)

役所の移住勧告を拒むのはなぜなのか
作者はそれを「故郷を愛する気持ち」として肯定するのか
主人公は〈砂〉が見えないのに、どうやってその侵入を防ぐ作業をしたのか
「砂が見えるようになる」とはどういう意味なのか

特に2番目「移住拒否を肯定するのか」が重要。ある種の人びとは、福島県の避難指示区域はもちろんその近隣、さらには福島市や郡山市といった中通りも居住には不適であると主張している。その同じ人びとは、10年前には「アレクセイと泉」(音楽:坂本龍一)なんて映画を見ながら「無理して避難しなくてもねー」などと言っていたはず。政府が廃村を宣言したチェルノブイリ原発事故による汚染地域に勝手に戻って生活しているという人々を描いた貝原浩「風しもの村 チェルノブイリスケッチ」を展示した丸木美術館は避難に賛成なのか反対なのか。

「放射能は見えない」を強調する人は得てして見当違いの防護策をとる。夏なのに子供に長袖長ズボンを着用させたなどその典型(ガンマ線は布地ではほとんど防げないし、毎日洗濯するのでなければ土埃除けにもならず、むしろ半袖で過ごしてまめに清拭する方が効果的だろう)。一方ベラルーシでは、家の全室で放射線量を住民が自ら測定し、線量の一番低い部屋を子供部屋にしてその中でも低い側にベッドを置く、線量の高い部屋には長く留まらないようにするといった意味のある対策をとっている(これは住民が自主性をもって生活と環境の回復過程に関わっていこうというエートス活動の成果)。過剰と思えるほどに汚染の脅威を主張する人はなぜか正確な測定に消極的で(中には市が貸し出している線量計を分解し、〈正しい値〉を示すよう改造した市民団体まである)、さらに大人の検査結果から小児の汚染は問題にならないことは自明だけれど不安を訴える保護者のために公費を使わずに小児用ホールボディカウンター(通常のWBCは大人用なので身体の小さな乳幼児の計測は無理)を開発させた早野龍五教授を「人体実験をしている」と非難する人までいる(その一方で、CsとKの区別がつかない不完全で意味のない〈測定〉は大好きなのだから、同一人物ではないにしても理解に苦しむ)。〈砂〉が見えて都度適切に対処できる登和ら3人が留まることを肯定するならば、除染と計測によって、以前よりはやや被曝線量の多くなった故郷に留まろう(戻ろう)という人々を応援するのが筋なのだが、その立場にあるのだろうか。

こういったことが気になりだすと、主人公がバイトで糊口をしのいでいる作家(志望)という設定も、全然それらしくないと不満になるし、下世話なことは省くといったけれど、孤立した家屋で女三人(うち1人は年増とはいえ)に囲まれた若い男が清く正しく過ごすというのもリアリティに欠け(2次元限定という伏線があれば話は更に膨らませられただろう)、最後は「妄想落ち?」(大事なところは主人公の妄想でしたで終わらせる手法で、夢落ちとも)という疑問を抱えたまま出てくる事になりきわめて消化不良。胃の辺りに不快感を残すということは、おそらく優れた演劇なのだと思いたい。逆は必ずしも真ならずというけれど。

その足で明治大学まで行ききりえや・偽本大全で大いに笑って精神の精進落し。

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