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2014/01/30

「建設反対」はまだ楽だけど

前のエントリーで、政府が2001年には「原発は絶対安全」の看板をおろして対話の緒ができていたのに、それを活用しなかったのは反対派の怠慢だと書いた。

しかし、公平のために言えば、原発建設に反対するのと、できてしまい稼動している原発を廃止するのとは難しさが桁違いではある。原発が建設着工し稼働すれば雇用やそれに伴う消費が発生する一方で、漁業権は売ってしまったから原発に依存しない生活は難しくなる。建設決定前であれば「事故が起きたらみんな死ぬ」的な危機煽りも役に立つけれど、稼動している原発を前に「だから止めろ」と言っても聞く人はいない。小さな確率の危険性と確実な不景気を秤にかけて、後者を選びとる人がどれほどいるだろうか。

都市型反原発は勝ち目のありそうな建設予定地を転戦するばかりだったのではないか。地元で反対運動を続けた人にしても、微量の放射能汚染の検出には熱心だったようだけれど、「甚大な放射性物質の放出を示す」事故には備えていなかったのではないか。チェルノブイリ原発事故の汚染は国境を越え、遠く北欧にまで及んだのだから、日本での原発事故を本気で心配した人ならば、近くに原発がないからと言って油断をするのはありえない。広瀬隆の『東京に原発を!』(1981年)にも、東海原発で事故が起きたら東京にも放射能雲が来て人がバタバタ倒れるという描写があった。真面目に心配したのであれば、実現性の低い「原発止めろ」よりはサーベイメーターの用意、線量ごとの行動基準決定などできることから手を着けているべきではなかったか。

もしかしたら大事故に備えていた人はいたかもしれない。「私はきちんと考え、できることをやってきた。その成果はカクカクシカジカ」という方には申し訳ない。しかし、それはたぶん少数派(=事故前の原発反対派)の中のさらに少数派だろう。

事故後の反原発行動の報道に、参加者の「ほれ見たことかという気にはなれない。事故を防げなかったことを悔やむ」という趣旨の発言があったと記憶するが、防げないなら被害を小さくする工夫を重ねるべきだった。原発事故や被曝被害について仔細に調べていれば、何が危険で何が注意を払えば済むことなのかの区別は付いていただろう。そして、推測に推測を重ねてしまうことになるけれど、「原発大事故が起きたらこの世の終わり」という悲観論が刹那主義を引き起こし、「原発をなくせなければ何をしても無駄」という無気力に陥っていたように感じる。

止まっている原発も電力供給が止まれば危険だ(事故を起こした1Fの原子炉もみな運転は停止していた)。使用済み核燃料も、すでに2万トン近くあり、再稼働の有無とは無関係に最終処分方法を決めなければならない。すでにある原発の脅威を下げることを怠ったのと同じ間違いを、すでにある使用済み核燃料の処分問題でも繰り返すのだろうか? 双方とも。

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