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2013/02/09

有機栽培というブランドの価値があらわになった

私は農学部の出身ではあるけれど、農芸化学という農業実務とはやや離れた分野であったせいか有機農法というものに憧憬をいだいていた。あるいは青年にありがちな、「正統派に与しないことへの陶酔」もあったかもしれない(科学から逸脱しなかったのは幸いである)。農薬化学の教授は、種子殺菌に水銀剤を使うと味が良くなるとか成長が良くなるとか(もう詳細は覚えていない)言って、反農薬の風潮には軽侮を示しつつ無視。それに軽く反発してこっちも単位だけは頂戴するという態度で卒業(作用機作とかそういう話だから別に節を曲げる必要もない...が、ちゃんと話を聴くべきであった。)

しかしながら、2011年の3月以降、有機農法大好きで農薬や化学肥料は嫌いであろう人達(なんと呼ぶべきであろうか)の無残な壊れっぷりを目の当たりにし、それ以前から遺伝子組換え体やEMの評価で疎遠になっていたこともあり、「あの人達の主張はすべて再吟味が必要」ということで有機農法には相当懐疑的になってしまっている。

というわけで、「どうすれば「みんなで決める」ことができるのか?(『みんなで決めた「安心」のかたち——ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』(亜紀書房)刊行記念イベント)に参加して、渡された自然農園レインボーファミリーの資料に有機農法で頑張ってます的なことが書いてあるのを見て、開始を待つ間、裏に次のような走り書き。

もう少し酷い事故だったらどうするんだろう?
「自給のふり」というフレーズが浮かんだ。
ある種のぜいたく、オーバースペックではないか。

もう少し酷いというのは、20Bq/kgなんて言っていたら食べるものがなくなるような汚染をもたらす事故。ただし100Bq/kgという国の基準はぎりぎり超えないので、基準を信頼すれば食べるものには事欠かず、おそらく健康被害は生じない。少量の放射性セシウムも拒否する人は伯夷叔斉のように飢えて死ぬ道を選ぶのか(事故前に作られた缶詰や冷凍食品で生活するには相当の経済力が必要になるだろう)

自給の振りというのは、化学肥料や農薬抜きでの生産量では、おそらく現存の人口を維持できないということ。日本に限ってみたところで、全稲作農家が有機栽培に踏み切れば米不足に陥る。一部の人間がロハスな生活を満喫するためには、その他大勢は化学肥料と農薬で育った作物で命を繋ぐ必要がある。物の価値が分からぬ人間に、無意味に手間の掛かったものを高額で売りつけているとも解釈できるが、金にあかして〈良い食べ物〉を独占する姿はかなり醜悪だ。

ある種の贅沢というのもそれを指している。本当にそんな手間をかけただけの価値はあるのだろうか?という疑問。

そういう暗い気持ちでトークセッションの始まりを待った。スピーカーの一人、五十嵐泰正さんが「「My農家を作ろう」方式の放射能測定がもたらしたもの」の中でとんでもない間違い(指摘に応じて現在は修正済み)を書いていたことも影響している。20Bq/kgという自主基準も、数値だけ聞くと「なんだかなぁ」(これは次の「地産地消のためのセカンドオピニオン」まで読めば諒解できる値)

しかし、実際にトークが始まってみるとそれらは杞憂だった。第二部では農薬・化学肥料抜きでは食料供給は支えられない旨の発言もあり、とても常識的な展開。そしてとても参考になった。

なかでも、事故直後の不安でいっぱいな状況ならいざしらず、1年経ち2年経ち、計測結果も蓄積してきたにもかかわらず、相変わらず0ベクレルでなければ一口でも食べたら病気になると言わんばかりに忌避している人たちがいるけれど、そういう人たちを「自分たちが相手にする対象ではない」と言い切ったところに感心(それではどんな人が対象なのかというと、「柏という地元を愛する人」)。これは民間団体だからできたことで、少数派へも目配りしなければいけない行政ではとても(部局を限定すれば可能かもしれないが)できない。

行政にはできないことをやる以上、「行政をせっつく運動」にならなかったのが成功の要因だろうか。せっつく運動はともすれば外部に悪者を設定する運動になりやすい。そして人を攻撃していても前には進まないことが多い。そういう不毛さを回避したのは立派。

ただ、柏を離れた概論のところで述べられた「震災は隠されていた問題を顕在化させた」という指摘はその通りだし、大きな原因である人口減少が進行する時代を迎えてコミュニティのコンパクト化を進めるのは合理的選択だとは思うけれど、これも外部の人間があれこれ指図することはできない反面、広域(地域間)での調整も必要で、いくら〈地域のみんなで決めたこと〉であっても通らないことが多々出てくるだろう。これは難しい問題。

さて、事故後、二回の収穫を経て、農産物に放射性セシウムが取り込まれる条件が見えてきた。端的に言えば、土壌が強く放射能に汚染されていても、そこからとれる農産物を安全にする目安が得られている。きめ細かい測定をしている柏はもちろん、抜き取り調査をしている福島県産にしても、危険なほど汚染されたものが市場に出回る蓋然性はとても低い。そうなるとむしろ他県産だからと測定されていない農産物とどちらがより安全だろうか? にもかかわらず福島県産であるというそれだけの理由での忌避に正当性は認められるだろうか? もちろん心配な人が産地を選択するのは個人の自由だ。だが公に福島産農産物を非難し、たとえば店頭からの撤去を求めるような行動に出れば、それは不合理で反社会的なものとして指弾される時期が近付いているように感じる。そしてそういった〈市民の不安〉を尊重するあまり科学を蔑ろにするような擁護を続けてきた人達にも批判が向けられるようになるだろう。このあたり五十嵐さんは歯切れ悪く語ったけれど、私の脳裏には幾人もの人文・社会系の知識人の名前が浮かんだ。辛辣な予想を述べるならば、そうなった暁には「放射能が怖かったんだから仕方がない」と、追い詰められた外国人排斥派と同じロジックを持ち出して破産する者続出であろう(そんな浅ましい弁解が出ないことを切に願う)

(「同じロジック」というところを理解しない人はいるだろうか? いるだろうな...)

このトークイベントには「ふくしまの話を聞こう」を主催する福島おうえん勉強会のナカイ代表も参加されていた。なんと第一部についてはツダっていたようなので、そのツイートも参考にされたい(いま当日のツイートを朝の分から見ると、ほかにも興味深いツイートが。これとか)

第二部も愉快だった。遠藤哲夫さんを見て「もしかして船瀬俊介みたいな人?」と警戒したのもつかの間、「地域作りの運動をアートとか文化でやろうというのはあんまり信じてなくて」とかおっしゃる。相手をする五十嵐さんも、購買におけるストーリー作りを評して、はじめは胡散臭く思っていたが、ストーリー込みで消費するのも結構〈アリ〉なのではないか「GDPって、こうやって増やすものじゃないかな」と会場を笑わせる。

(ストーリーを付与されると味が良くなる件については、以前「私たちは騙されている、のだろうか」で触れた。しかし一言居士として付け加えるならば、どんな名産を使いどんな名人の手によって料理されたものであっても処刑前の最後の食事であれば、とても喉を通らない代物になるだろう。食事のシチュエーションも大事。その意味で「Hunger is the best sauce(空腹は最高のソース)」も誤りで、楽しい仲間こそが最高のソースではないだろうか。ツイッターで「ごはんたべたい同士を発見します」なんてお遊びが流行るのもむべなるかな。)

日本の食を実際に支えているのは化学肥料と農薬と認める発言があったのは前述の通りだが、どうも無農薬・有機栽培の虚構性を暗黙の了解にしているようにも感じられた。

その虚構も楽しむためのフィクションであれば有益であるのだが、「健康のためなら死んでも良い」と揶揄される執着に結びつくと笑ってもいられない。福島県の飯舘村がつとに有名だが、有機農業に取り組み、都会への直販に活路を見出そうとしていた農家は多い。ところが営農が難しくなった福島第一原発近辺はさておき、ほとんど汚染のなかった東北地方の有機栽培農家も事故後は注文が途絶えてしまったという。もともと有機栽培にこだわるような消費者は放射能にも人一倍敏感なのだから当然といえば当然なのだが、検査をしてほとんどあるいは全く放射性セシウムが検出されなくても、その人達は戻ってこない。手許のメモには「無農薬フリークに依存する危険性か」などと皮肉な走り書きがあるけれど、生産者は消費者のことを志を同じくする仲間だと思っていたのに、遠くの消費者は農家が仲間だとは思っていなかったという悲劇。この〈裏切り〉を農家はどう思っているだろうか。

と、第一部の後の「〈柏産柏消〉セッション!」での笠原秀樹さん自然農園・レインボーファミリーの発言、「農業は自由でいいですよ。矛盾なく生きられる。嫌な客には「お前に食わせる野菜はない」と言える。」がとても意味深に響いてくる。


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