ググレカスと返す前に
「ググレカス」(グーグルで検索しろ、カス野郎)という言葉はかなり知られてきたようだ。カス(滓)は罵倒語だからさておき、「ググる」という言葉自体、既に『ググる』という書籍が2004年に出版されている(当時は気づかなかったが、筆者は津田大介。アマゾンレビューは星4つ半と高いけれど、この手の書籍の常として陳腐化が早く、今では品切れで、中古品が1円から出品されている。)。「ググレカス」とは「人に質問する前に、グーグルで検索しなさい(それで分かるような初歩的な質問で人の手を煩わせてはいけない)」という意味。
だが、この言葉には矛盾がある。「そんな自分で調べれば簡単に分かることを人に聞くな」は正論である。正論ではあるけれど、そんなに簡単なことならば、手間惜しみをしないでやってあげれば良いではないかもまた正論ではないだろうか。
自分ですべきことをしないで人に頼る「教えて君」(これがいかに嫌われる存在かは、教えてクン養成マニュアルやアンサイクロペディアの記事あるいはwikipediaの記載に見ることができるが、一方ではニューカマーにはこれが横暴にも見えるらしく(見えるのを利用して?)教えて君.netなどというサイトもある)の理論武装に使われるのは不本意であるが、携帯電話で迷いこんできたような初心者は基本的な検索の知識もないようだし、本当に手間ではないのなら厭うべきではないだろう。
このことを考え出したきっかけは、風説をツイートしておきながら、情報源を求められると「ソースを尋ねる前にご自分でググったりする習慣をつけてください。」と返す御仁を見かけたこと。これは「セブンイレブンのお弁当は放射能汚染地域の食品つかっています」とツイートし、確認できる情報ソースを尋ねられて「セブンイレブンが放射能地域の食品使ってると言う情報ソースお持ちの方いらっしゃいますか?」とツイートした(今から探すんかい!)のに匹敵する茶番。そのあとで「ヒント」なるものは教えたらしいけれど、何様のつもりだろうか。
というのも、まず「本当に簡単なら」は怪しい仮定だからだ。
検索は実は難しい
検索一般の問題として、今のシステムは適切な検索語を知らないと求める情報は手に入りにくい。ある程度は自然文での検索もできるようになってはいるものの、分かりやすい例を挙げるならば「名前の分からないものを探すのは困難」ということ。あるいは「かっこいい女の子が登場するアクション小説」という文章で本を検索してもAmazonでは見つけられないということ(ちなみにグーグルで検索したらYahoo!知恵袋などがヒットしたが、これはまさに「人に聞く」)。
検索語が適切でも、場合によっては数千数万のページがヒットする。それを絞り込むためには検索語を追加したり、否定検索を組み合わせたり、対象ドメインや時期を限定したり、と比較的高度な技法を要求される。
さらに、表示された検索結果は内容の正しさが保証されていない。一般的に言えば上位に表示されるページの内容は多くの支持を集めているわけだけれども、世の中には多数決では決められないこともたくさんある。
そして、そのことが単に「親切は惜しむもんじゃない」という道徳を超えた、ググれと安易に返すことの危険性に結びつく。
質問の意図は本能寺にあり?
たとえばツイッター。ツイートに対して「本当ですか」「それはどこで手に入りますか」などと質問が来た場合を考えよう。元になるツイートをする際に、ググって内容を確認しているだろうか? 否。たいていは記憶に基づいて、あるいは検証もしていない思いつきを書いて、読み直しもしないで送信しているはずだ。とすると、とんでもない勘違いをしている可能性がある。聞いてきた人はググるなり別の確実性の高いソースなりに当たってそれを確認したうえで、弁明の機会を与えるために質問してきているのかもしれない。そうすると「ググって(カスめ)」と返信すると間髪を入れずに「ググッたけれど見つからない」「こんなページもヒットする」「私は学長です」というカウンターを食らう恐れ大。
ことに、自分が学習した当時は正しかったけれど、その後に新しい説が出て主流になった、なんてことは中々気がつかない。本当は自発的に振り返るべきものではあるが、それが無理なら、せめて人に聞かれたときにチェックしてみてもバチは当たらないだろう。
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