電子書籍は学会誌か広報から
電子書籍の普及を妨げる要因はいろいろあるだろうが、その中でも複製(防止技術)は大きい。
発行側は複製されたら堪らないと考えている。それはそうだろう。保護されていないデジタルデータは複製が容易だし、ネットワークに拡散されたら回収はほとんど不可能。心血注いで作成した電子書籍が複製されて闇流通したら、製作費を回収できない。
かといって、ガチガチの複製防止をかければ良いかというと、それもまた問題を抱えている。これは音楽ファイルなどで先行して発生した。携帯電話で購入したものをパソコンでは閲覧できないとか、機種を変更したら読めなくなるとかいった制限があれば、購入意欲は減退する。角を矯めて牛を殺すのと同じ。
また回し読みができない。発行側としては一人一冊購入して欲しいと思うだろうが、個人間の本の貸借が結果として読者を増やす効果は無視できない。出版界が古書店というものをどう評価しているのかよく分からないが、古書店がなければ読書はかなり貧しいものになっているのではないだろうか。もちろん、書籍を電子化することで、絶版・品切れなどというものは今後一掃します、出版社が倒産しても債権者が継続して提供します、というのなら話は別であるが。
つまり現状の電子書籍には、複製は制限したいけれど、制限し過ぎると売れ行きが悪くなるというジレンマがあるわけである。
広報・公報
その軛から自由な出版物がある。無償で配布されるものならば、複製を制限する必要がない。
無償で配布というと、まず広告宣伝が思いつく。広報も、内容の伝達が目的なので売り上げは二の次(第三種郵便を使う場合はあまねく発売されていることが条件なので値段を付ける必要があった。) 。これらは、改竄されたり内容が古くなったものが最新版のように広まったりさえしなければ良いので、たとえば電子署名を付ける程度の対策で済む。
企業の広報誌は経費節減で青息吐息であろうから、電子化は極めて有望なはずだが、さてどうなっているだろうか。もっとも少数でも「パソコンはもってない」「紙の方が良い」というステークホルダーがいると、「両方出すのは大変だから旧来通りで」となってしまうのかもしれない。
学術誌・学会誌
売り上げよりも読まれることが大事なものといえば、学術論文がある。投稿誌の場合、原稿料をもらうどころか掲載料を支払って載せている。さらに「その論文を読みたい」という要望が来たときのために、リプリント(別刷あるいは抜刷ともいう)を用意しておき、無償で渡すのが慣習(全費用は著者が負担する)。従来は投稿料だけで雑誌を維持しようとすると大変な金額になってしまうので、読者にも応分の負担をしてもらっていたが、電子化によって製作費が軽減されれば、無断複製によって売り上げが落ちても影響を受けなくなる可能性がある。ここまで書いて、オンラインジャーナルの著者リプリントってどうしているのだろうか?と疑問に思って調べてみると、印刷回数に制限のかかったPDFをネットにあげて、希望者に案内して印刷させるという方式があった。そんなことしたってすぐ自炊されると思うけど。このE-printは冊子版にも対応しているのかな? つまり現物を送るのでなく、「ここで印刷して」。)
学会誌のように、あらかじめ会費として〈売り上げ〉の目処が立っていれば、それより多くの人の目に触れることは、歓迎こそすれ、忌み嫌う必要はない。非会員でも読めてしまうと会費納入の動機が薄れると思うかもしれないが、1)投稿するためには少なくとも一人は会員でなくてはならない、2)研究会で発表を聞いたり討論をしたりするのも会員が有利(非会員の参加費は一般に高く設定←非会員を排除していない点に注意)、3)支払う余裕があれば人は正規の料金を払う(いじましい節約を重ねていると良心が咎めるし節約疲れも起きやすい)。つまり、多くの人に読まれ、雑誌や学会の評価が高まることの利益は少しくらいの〈立ち読み〉による損失を上回る。多く読まれている雑誌なら広告も集まる。
商業出版は、売れないことには話にならない。読まれなくても良いから売れた方が良いと思っているのでは、というのは邪推が過ぎるかもしれないが、こんな事件があると、内容なんてどうでもいいと思ってたでしょ、と言いたくなる。
聖書の謎
ところで不思議に思うのは聖書。ホテルの客室で見かけるように書籍版は無償で配布されているのに、電子版では販売されていること。ホテルによっては聖書の代わりに「仏陀の教え」のような書籍を客室に備えているけれど、これは電子版が見当たらない。各宗派の教えの中には電子化されたものもあるようだが、ざっと見たところみな有償。なんで無料公開しないのだろう?
以上、3つは現状でも取次に依存していないという特徴がある。その点からも電子化へのハードルは一般書よりも低い。
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