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2012/10/15

ググレカスと返す前に

「ググレカス」(グーグルで検索しろ、カス野郎)という言葉はかなり知られてきたようだ。カス(滓)は罵倒語だからさておき、「ググる」という言葉自体、既に『ググる』という書籍が2004年に出版されている(当時は気づかなかったが、筆者は津田大介。アマゾンレビューは星4つ半と高いけれど、この手の書籍の常として陳腐化が早く、今では品切れで、中古品が1円から出品されている。)。「ググレカス」とは「人に質問する前に、グーグルで検索しなさい(それで分かるような初歩的な質問で人の手を煩わせてはいけない)」という意味。

だが、この言葉には矛盾がある。「そんな自分で調べれば簡単に分かることを人に聞くな」は正論である。正論ではあるけれど、そんなに簡単なことならば、手間惜しみをしないでやってあげれば良いではないかもまた正論ではないだろうか。

自分ですべきことをしないで人に頼る「教えて君」(これがいかに嫌われる存在かは、教えてクン養成マニュアルアンサイクロペディアの記事あるいはwikipediaの記載に見ることができるが、一方ではニューカマーにはこれが横暴にも見えるらしく(見えるのを利用して?)教えて君.netなどというサイトもある)の理論武装に使われるのは不本意であるが、携帯電話で迷いこんできたような初心者は基本的な検索の知識もないようだし、本当に手間ではないのなら厭うべきではないだろう。


このことを考え出したきっかけは、風説をツイートしておきながら、情報源を求められると「ソースを尋ねる前にご自分でググったりする習慣をつけてください。」と返す御仁を見かけたこと。これは「セブンイレブンのお弁当は放射能汚染地域の食品つかっています」とツイートし、確認できる情報ソースを尋ねられて「セブンイレブンが放射能地域の食品使ってると言う情報ソースお持ちの方いらっしゃいますか?」とツイートした(今から探すんかい!)のに匹敵する茶番。そのあとで「ヒント」なるものは教えたらしいけれど、何様のつもりだろうか。

というのも、まず「本当に簡単なら」は怪しい仮定だからだ。

検索は実は難しい


検索一般の問題として、今のシステムは適切な検索語を知らないと求める情報は手に入りにくい。ある程度は自然文での検索もできるようになってはいるものの、分かりやすい例を挙げるならば「名前の分からないものを探すのは困難」ということ。あるいは「かっこいい女の子が登場するアクション小説」という文章で本を検索してもAmazonでは見つけられないということ(ちなみにグーグルで検索したらYahoo!知恵袋などがヒットしたが、これはまさに「人に聞く」)

検索語が適切でも、場合によっては数千数万のページがヒットする。それを絞り込むためには検索語を追加したり、否定検索を組み合わせたり、対象ドメインや時期を限定したり、と比較的高度な技法を要求される。


さらに、表示された検索結果は内容の正しさが保証されていない。一般的に言えば上位に表示されるページの内容は多くの支持を集めているわけだけれども、世の中には多数決では決められないこともたくさんある。

そして、そのことが単に「親切は惜しむもんじゃない」という道徳を超えた、ググれと安易に返すことの危険性に結びつく。

質問の意図は本能寺にあり?


たとえばツイッター。ツイートに対して「本当ですか」「それはどこで手に入りますか」などと質問が来た場合を考えよう。元になるツイートをする際に、ググって内容を確認しているだろうか? 否。たいていは記憶に基づいて、あるいは検証もしていない思いつきを書いて、読み直しもしないで送信しているはずだ。とすると、とんでもない勘違いをしている可能性がある。聞いてきた人はググるなり別の確実性の高いソースなりに当たってそれを確認したうえで、弁明の機会を与えるために質問してきているのかもしれない。そうすると「ググって(カスめ)」と返信すると間髪を入れずに「ググッたけれど見つからない」「こんなページもヒットする」「私は学長です」というカウンターを食らう恐れ大。

ことに、自分が学習した当時は正しかったけれど、その後に新しい説が出て主流になった、なんてことは中々気がつかない。本当は自発的に振り返るべきものではあるが、それが無理なら、せめて人に聞かれたときにチェックしてみてもバチは当たらないだろう。


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2012/10/11

特別展「元素のふしぎ」を楽しむ

国立科学博物館で開かれていた特別展「元素のふしぎ」に行ってきた。

この夏に旧・生花若手の会関東支部年長組の暑気払いで元若手が集った際、北海道から帰省していた福井元支部長が家族を連れて見に行ったという話を聞いてそそられはしたものの、手元不如意ということもあって諦めていた。

それが閉幕直前になって、結晶美術館を主宰する山猫だぶさんが入場券付きで鑑賞ツアーを開催するというのをツイッターで知り、急遽参加することにした。

集合場所のクジラ前に集まったのは、主催者(研究員)、その夫人、化学系院生、中学教師、ウェブデザイナー、阿久悠botの中の人そして失業者。招待券に加え特製クリアファイル特製ポストカードセットまでいただいて、いざ出発。

閉幕直前なので混雑を心配したけれど、午前中ということもあってかさほど混んではおらず、比較的ゆったりと見ることができた。観覧ツアーと言っても、旗について歩くわけではなく、自由に観覧し、ときどき説明を聞くという形式。

こういう展示はある程度知識がつくと、単純に驚嘆してばかりもいられない。入場してすぐに「尾形光琳も元素のおかげで絵を描けた」と「紅白梅図屏風」の川の部分に銀箔が使われたという説明。「あれ? これはNHKが取り上げた、X線分析で箔ではないと分かったものでは?」と疑問がわく(これは二重の勘違いで、問題となったのは金地の部分であり、この展示の中盤で「長らく議論となってきた下地は金粉ではなく金箔を押したものであることも判明した」と説明されていた。)。疑問を覚えたらすかさず写真で記録(館内はストロボを使わなければ撮影自由。ただしなぜかビデオは不可と。)

周期表の前では、「原子番号の順に並べたっていうけど、その原子番号はどうやって決めたの」と同行者にふっかける(原子番号はモーズリーが特性X線の波長から求めたもので、そういう話は立ち話では無理)

原子核と原子の比率がせいぜい1:30の原子模式図

原子の模式図の前でもツアーコンダクターを差し置いて、「原子核の大きさは原子の1/10,000以下なのだから、この図はおかしい」と一席。

Imgp4986

しかし電子雲のガラス模型の前では素直に驚嘆。原子の構造と太陽系構造が相似とか何とか聞いた風なことを言う奴は、なんて悪態は仕舞っておく。

ガラスアンプルの中で鉱油に浮く金属リチウム塊
「元素のふしぎ」展の特徴の一つは現物展示。これはツアーコンダクターに言われて気づいたのだが、金属リチウムは比重が0.534なので、保存用の鉱油中で浮いている!(これじゃ鉱油に浸す意味が無い。)

黄リンと白リンを別のものとした説明
ついに見つけました。リンの説明。「黄リンは空気中で自然発光し、白リンは湿った空気中で発光する。」 えーっと、まず黄リンとは白リンの表面に赤リンの膜ができたもので、実質的には白リン。そして白リンの発光に湿気は関係しない。この説明は明らかに変。

金属カリウムの前では「やさしお®なんかよりもβ線は強いだろう」としたり顔。

セレンの整流器
セレンの整流器を見て「セレンの洗面器」という空耳を思い出す。

柄が可愛らしいセラミック包丁
ジルコニウムの用途としてセラミック包丁が展示されていた。「これなら金属探知機に見つけられずに旅客機内に持ち込めますね」「でも、こんなピンクの包丁ではハイジャックしても様になりませんね」とおばかな会話。

前述したように現物展示が特徴の一つ。重さに驚かせる金のインゴットとか、やや玄人受けするような巨大石英ルツボ(シリコン精製用)の陰で無色のガスはひっそりと。しかしクリアファイルではガラス容器に入って写っていたフッ素ガスは現品展示なし。理由を聞くと、乾燥フッ素でもガラスは徐々に腐食されて長期保存はできないからだと。前述福井元支部長のお嬢さんは(「好きな元素アンケート」があったので)「好きな元素はフッ素」と言っていた。理由は自分のイニシャルがFだからと。「名前のイニシャルSは」と聞くと「匂いが変だからいや」と。思わず「君はフッ素の匂いを知っているのかね」と突っ込んでしまった(大人げない)。現物が展示されていないと知っていたら、もう少し説得力のある説明ができたかも。

主な用途として「用途はない」
第七周期元素になるとさすがに現物展示はほとんどない。わずかにウランガラスの製品があるのみ。気に入ったのはフランシウム(87Fr)の用途。「用途はない。」

主な用途の説明として「研究上の興味だけで、用途はない。」
これがアクチノイド以降になるとダメ押しで「研究上の興味だけで、用途はない。」www (アメリシウムあたりだと煙探知機に使わていることがあったりする。)

しかしこれらの元素を合成するには、運転時には「都市一つ分」の電力を消費する加速器をがんがん動かすわけで、「それって何の意味があるの?」という疑問をもつ人もいた模様。無理に「なんの役に立つ?」と問い詰めると苦し紛れに「高レベル放射性廃棄物の放射能を短期間に弱めることができるようになる(かもしれません)」とか言い出して変な期待を持たれても困るので「22世紀のためのもの」くらいが良いのではなかろうか。しかし、私の知識は103のローレンシウムで止まっていたことを再確認。104は暫定クルチャトビウム(正確には覚えていなかった)だもんね。

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電子学術論文誌の広告戦略

電子書籍(電子雑誌)の広告について、差し替えが可能なこと、閲覧数に応じて料金をかえられることを以前に指摘した(今度こそ来るか電子出版の時代(「電子書籍の衝撃」)」や「(電子)書籍がタダになる可能性」)。

現実は逆で、たとえば「原発事故から1年半で見えてきた放射能汚染の“正体”」を特集した週刊ダイヤモンド(9/15号)の電子版を購入したところ、広告がことごとく白ページになっており、表示エラーと誤認させるような素敵な作りになっている。

その後、東日本大震災に伴う原発事故の影響から門外漢も医学論文などを参照することが増えたのを見て、現在では次のように考えている。

・念頭においていたのはnatureのような学術論文雑誌(学会誌を含む)
・販売は1論文ずつで、それに広告を付随させる
・ダウンロード型でもウェブ閲覧型でも対応
・広告の内容は、利益相反にも注意しつつ
 ・使用した試薬や機器などの広告1)
 ・所属機関の広告
 ・著者本人の広告2)
 ・研究資金の提供を受けた財団などの広告
 ・関連する書籍(プロ向け/入門書)の広告
 ・翻訳サービス3)
 ・競合による「その論文よりこっちを読め」広告4)
・料金は基本掲載料+論文指定料+広告経由での注文歩合
・上記のように論文を指定した広告の他に、場所を指定しない一般広告もある
・IPアドレスによって「関西地方限定」のような地域限定広告も導入
・広告への読者のアクションは原則匿名保護されるが、同意のもとに読者属性を提供もできるようにする(その場合は値引販売が妥当であろう)
・発行後、一定期間経過後は更新(差し替え)自由となる
・キャンペーン終了などの場合は、期間内でも広告主による差し替えを受け入れる
・参照の多い論文は料金を上げ、参照の少ない論文は値下げする
・過去の広告はすべて保存される(フォレンジック)

  1. 競合メーカーが「うちのを使えばもっと効率良くできます」という広告を入れることも。誇大広告でなければ読者にとって有益な情報となる。
  2. 雑誌によっては「著者紹介」がないので、売り込みが必要なポスドクらは自前で用意する必要がある。
  3. オープンアクセスの普及で門外漢でも論文を手に取るのが容易にはなったが、英語では読むのに苦労する。専門家以外にも開かれた科学とは、このような実装によって保証される。
  4. 競争しあっている一方の論文しか読まないと見方が偏ってしまう。「〜に言及していながら*を引用していない論文には、この論文サマリーを表示」という依頼を受け付ける。citation index(CI)を上げたい著者やimpact factor(IF)を上げたい編集者が喜ぶだろう。むろん「相対論は間違っていた」「EM菌が世界を救う」のようなものは審査で排除する(EMにはpeer reviewの論文はないようだが)。

科学者だからといって、科学関係の広告にしか反応しないということはない。岩波の「科学」の表4には東芝EMIやタバスコの広告が載っていた。そこまで極端でなくとも、保育サービスであるとか家事代行サービスは十分に需要があるだろう。

また、広告とは別に、その論文の影響力(CI)や評価、その論文を引用している論文や総説の情報を付帯させることで、利用価値は大幅に高まる。あるいは「この論文を読んでいる人は〜も読んでいます」のようなレコメンド機能。もちろんその論文に引用されている論文・書籍(の本文または書誌情報)へのハイパーリンク、著者の現在の連絡先への連絡フォームなどは必須。

戦略というよりは戦術的な話になってしまった。

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2012/10/10

電子書籍は学会誌か広報から

電子書籍の普及を妨げる要因はいろいろあるだろうが、その中でも複製(防止技術)は大きい。

発行側は複製されたら堪らないと考えている。それはそうだろう。保護されていないデジタルデータは複製が容易だし、ネットワークに拡散されたら回収はほとんど不可能。心血注いで作成した電子書籍が複製されて闇流通したら、製作費を回収できない。

かといって、ガチガチの複製防止をかければ良いかというと、それもまた問題を抱えている。これは音楽ファイルなどで先行して発生した。携帯電話で購入したものをパソコンでは閲覧できないとか、機種を変更したら読めなくなるとかいった制限があれば、購入意欲は減退する。角を矯めて牛を殺すのと同じ。

また回し読みができない。発行側としては一人一冊購入して欲しいと思うだろうが、個人間の本の貸借が結果として読者を増やす効果は無視できない。出版界が古書店というものをどう評価しているのかよく分からないが、古書店がなければ読書はかなり貧しいものになっているのではないだろうか。もちろん、書籍を電子化することで、絶版・品切れなどというものは今後一掃します、出版社が倒産しても債権者が継続して提供します、というのなら話は別であるが。

つまり現状の電子書籍には、複製は制限したいけれど、制限し過ぎると売れ行きが悪くなるというジレンマがあるわけである。

広報・公報


その軛から自由な出版物がある。無償で配布されるものならば、複製を制限する必要がない。

無償で配布というと、まず広告宣伝が思いつく。広報も、内容の伝達が目的なので売り上げは二の次(第三種郵便を使う場合はあまねく発売されていることが条件なので値段を付ける必要があった。) 。これらは、改竄されたり内容が古くなったものが最新版のように広まったりさえしなければ良いので、たとえば電子署名を付ける程度の対策で済む。

企業の広報誌は経費節減で青息吐息であろうから、電子化は極めて有望なはずだが、さてどうなっているだろうか。もっとも少数でも「パソコンはもってない」「紙の方が良い」というステークホルダーがいると、「両方出すのは大変だから旧来通りで」となってしまうのかもしれない。

学術誌・学会誌


売り上げよりも読まれることが大事なものといえば、学術論文がある。投稿誌の場合、原稿料をもらうどころか掲載料を支払って載せている。さらに「その論文を読みたい」という要望が来たときのために、リプリント(別刷あるいは抜刷ともいう)を用意しておき、無償で渡すのが慣習(全費用は著者が負担する)。従来は投稿料だけで雑誌を維持しようとすると大変な金額になってしまうので、読者にも応分の負担をしてもらっていたが、電子化によって製作費が軽減されれば、無断複製によって売り上げが落ちても影響を受けなくなる可能性がある。ここまで書いて、オンラインジャーナルの著者リプリントってどうしているのだろうか?と疑問に思って調べてみると、印刷回数に制限のかかったPDFをネットにあげて、希望者に案内して印刷させるという方式があった。そんなことしたってすぐ自炊されると思うけど。このE-printは冊子版にも対応しているのかな? つまり現物を送るのでなく、「ここで印刷して」。)

学会誌のように、あらかじめ会費として〈売り上げ〉の目処が立っていれば、それより多くの人の目に触れることは、歓迎こそすれ、忌み嫌う必要はない。非会員でも読めてしまうと会費納入の動機が薄れると思うかもしれないが、1)投稿するためには少なくとも一人は会員でなくてはならない、2)研究会で発表を聞いたり討論をしたりするのも会員が有利(非会員の参加費は一般に高く設定←非会員を排除していない点に注意)、3)支払う余裕があれば人は正規の料金を払う(いじましい節約を重ねていると良心が咎めるし節約疲れも起きやすい)。つまり、多くの人に読まれ、雑誌や学会の評価が高まることの利益は少しくらいの〈立ち読み〉による損失を上回る。多く読まれている雑誌なら広告も集まる。


商業出版は、売れないことには話にならない。読まれなくても良いから売れた方が良いと思っているのでは、というのは邪推が過ぎるかもしれないが、こんな事件があると、内容なんてどうでもいいと思ってたでしょ、と言いたくなる。

聖書の謎


ところで不思議に思うのは聖書。ホテルの客室で見かけるように書籍版は無償で配布されているのに、電子版では販売されていること。ホテルによっては聖書の代わりに「仏陀の教え」のような書籍を客室に備えているけれど、これは電子版が見当たらない。各宗派の教えの中には電子化されたものもあるようだが、ざっと見たところみな有償。なんで無料公開しないのだろう? 

以上、3つは現状でも取次に依存していないという特徴がある。その点からも電子化へのハードルは一般書よりも低い。

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