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2011/02/08

「オープンアクセス、サイバースカラシップ下での学術コミュニケーションの総合的研究」の報告を聞く

先日のMEBIOS オープンセミナー「Inside Nature」で案内をもらった「オープンアクセス、サイバースカラシップ下での学術コミュニケーションの総合的研究」研究成果報告会に行ってみた。

以下は個人的な関心に基づくメモ。延々4時間に及ぶ大発表会なので内容紹介はほんの一部です。

最初に海外学術雑誌に発表した日本人は誰なのか


上田修一 (慶應義塾大学文学部)

質問の一番手が「面白い研究だが、どういう意義が?」と厳しい追及。それに対して、西洋の科学を日本が受容する過程が明らかになると。なるほど。また冒頭では外国誌に投稿することに批判があることへの疑問を表明されていた。

日本における電子ジャーナルの発行状況


時実象一 (愛知大学文学部)

1958年にオンライン雑誌?
発表要綱とは別にパワーポイントのスライドが配布された。「オンラインのみの新規雑誌数」というグラフで、1958年にすでに一誌あることになっているが、ARPANETさえ存在しない時代にどんな「オンライン雑誌」があったのだろう。

また「電子化」の定義を聞き漏らしてしまった。ネット経由で見られれば画像データでも電子ジャーナルと言えると思うが、データベースとして考えると全文検索の対象とならないのは心許ない。実際CiNiiでも画像形式のPDFをよく目にする。

MEDLINE収録の日本の医学系雑誌の電子化状況とインパクトの変化


林和弘 (日本化学会、科学技術政策研究所)

癌学会や生化学会の論文誌がMEDLINEではEnglandの雑誌となっているのは興味深い。生化学会は会員に国内誌(JB)への投稿を呼びかけていたと思うが、あにはからんや。
なお、「プラットフォーム」という用語があったが、これがよく分からない。おそらく検索と一体となった提供システムなのだろうが、ファイル形式は何を採用しているのだろう。何が心配と言って、何年か経ってコンピュータシステムがガラっと変わったら読めなくなるというのが一番困る(電子書籍でも遠からず問題になるだろう)。PDFやHTMLならそうそう「絶滅」することはないと思うが。

オープンアクセスの進展と電子ジャーナルの利用統計


加藤信哉 (東北大学附属図書館)

学術書・学術雑誌がネット経由で閲覧可能になれば、図書館が蔵書することは意味をなさなくなる。極端なことをいえば、国立国会図書館一つがあれば足りる(外国図書・外国雑誌はアメリカ議会図書館任せ?)。もちろんそれはだいぶ先の話ではあるが、個々の図書館が個別に蔵書の充実を図る必要は低下するであろう。

ただし、検索というのは適切な検索語を思いつかない場合にはまったく役に立たない。だからおそらく司書の役割は検索支援や検索代行になるのではないだろうか。いまでも図書館にはレファレンスサービスというものがある。

ところで「タイトルレベルでの利用統計ではなく、論文レベルの利用統計が求められている」の意味が分からなかった。このタイトルというのは雑誌名のことか?

大学図書館の提供雑誌が研究者の引用行動へ及ぼす影響


横井慶子 (慶應義塾大学大学院)

非常にそそられるタイトルであったが、結論は「変化は確認できたが、その変化に影響を及ぼす要因が大学図書館の提供雑誌であるかという点までは明らかにはできなかった」と肩透かし。

この発表を聞きながら、文学研究への揶揄−−文学研究とは百年前の今では忘れ去られた作家に対して、同時代のやはり忘れ去られた作家が与えた影響を調べること−−を想起したけれど、そうバカにしたものではないかもしれない。影響の具体的内容にあまり意味はないにしても、何を媒介にしたとかどのように受容したかとかの解明は、現在でも価値を見いだせる。

遺伝の3法則がメンデルの死後16年(発表から35年)にして再発見されたようなことがもっと頻繁に起きるかもしれない。文献調査はますます重要に。それから前々から言われていることだが、ネガティブデータの共有も重要に(前にやった人が失敗したからと言って、端から諦める必要はないが、同じ失敗を繰り返すのは賢くない)。

生物医学分野においてオープンアクセスはどこまで進んだのか:2005年、2007年、2009年のデータの比較から


森岡倫子 (国立音楽大学附属図書館)

音大の図書館員がなぜ生物医学分野を対象に? という疑問は別の人が質問していた。国立(くにたち)音大を国立(こくりつ)と勘違いされたのはご愛嬌。ちなみに国立とは国分寺と立川の間にできたからという安易な命名(一橋大の学生をそれでからかったら悔しそうな顔をしていたものだ)。それはともかく、理由の一つに、職を得ないことには研究を続けられないという深刻な事情がうかがわれた(これは聞き違いかもしれないが)。もう一つは、生物医学分野はオープンアクセスが進んでいて研究しやすいという事情もあるらしい。ここで手法を確立できれば他分野でも分析可能、と。

医学分野の学術文献検索サービスPubMedから抽出した論文を対象に、1.制約なしの全文公開(Open Access)、2.登録など制限付き、3.有料全文(購読電子ジャーナル)、0.電子的全文を発見できないの4つに分類して、その割合の変化を見た研究。2005年には27%だったOAが2009年には50%に達していたという。その増加は主に「発見できない」と「有料全文」の減少(それぞれ19.8→5.0、53.2→44.0)によっている。

ただ、思うにこの調査方法では、いつOAになったのかは分からないのではないだろうか。つまり最新号は購読者限定(有償)で、次号が出たら無償公開という形態は把握できない。そこを無視して、時代の趨勢はオープンアクセス、有償購読は古いなどと主張されると、特に商業出版社は困るだろう。いや、工夫すれば商業出版社でも無償公開は可能だけど(著者から掲載料を徴収するなど)。ちなみに、この「古くなったら無償公開」は有料メールマガジンで実施しているところがある。

オープンアクセス実現手段の新機軸:すべてはPubMedのもとに


三根慎二 (三重大学人文学部)

無償公開(オープンアクセス)されている学術論文の所在情報を提供する無料論文提供サイトの紹介。取り上げられていたのはFind ArticlesThe Free LibraryHighBeam ResearchnovoseekPubgetMedscape

操作性の統一や関連文献の提示が期待できるだろう。また「この論文に興味を持った人は以下の論文も」というレコメンデーションも、洗練されたものがあるならば今までの文献調査とは違った展開を期待できる。

面白いのは自身でのアーカイブはHTMLが多いこと、またほとんど(?)の例で図表がカットされていること。

オープンアクセス化の進む医学論文が一般市民に読まれる可能性はあるのか


酒井由紀子 (慶應義塾大学信濃町メディアセンター)

これも興味深い発表。インフォームドコンセントの導入やEBM(根拠に基づいた医療)の普及などにより、患者やその家族が医学情報を求めるようになってきた。今のところ「医者・病院の評判」以外は医師に直接尋ねることが多いが、インターネットで情報を探す人も増えてきた。調査結果で意外だったのは、「有償の英語論文でも読みたい」という人も含め56.1%が医学論文を読みたいと思っていること。もっとも実際に読むかどうかは別の話だろうが。

いわゆる医学論文(原著論文)は、切り離したテーマについての研究だから、それだけ読んでも患者が求めるようなことは書いてないことが多いと思う。たとえばある薬をマウスに与えたら、ある検査値がこれだけ変わったという論文があったとする。その薬はヒトでも同じ効果があるのか?副作用はないのか?そもそもその検査値が下がれば病気は治るのか?(血糖値が下がっても糖尿病網膜症は治らない等) 患者が知りたい情報は医学論文よりは医学総説にあると思う。

仮に原著論文に知りたい情報があった場合でも、それを見つけるのは素人には難しすぎる。また反論が出されて事実上意味のない論文になっていてもそれが分からない(もっとも取り下げられていれば分かるのは紙ベースの文献調査にはないオンラインサーチの利点)。さらに間違った論文に必ず反論が出ているとは限らない。だから後追いのない古い論文を信じるのは考えもの。オンラインジャーナルなどでは最新のCI(どれだけ引用されたか)を提供してくれるのだろうか。できれば自家引用を除いた数値がほしいもの。

しかし、非専門家にもこれだけ知りたい需要があるのなら、レファレスサービスや翻訳・解題サービスは商業的にも成立するのではないだろうか。聞きながらそんなことを考えた。

医学・医療情報源としての「一般雑誌」:10年の変化とその位置づけ


國本千裕 (駿河台大学メディア情報学部非常勤講師)

情報源としての地位は低下しているものの、質の高い医学・医療情報が雑誌にはあるという。しかしそれを見つけ出すのは難しい。

学術雑誌のIFやCIに相当するような、雑誌や掲載記事の質を評価する指標があれば、と思った。

医学ジャーナリストと言っても、医師資格を持った人から、単に自称しているだけの人までいる。もちろん医学教育を受けていなくても良質の医療ジャーナリストになることは可能なので、筆者の経歴だけで記事の良否を判定することはできない。たとえば単行本への収録率とか、その本の売れ行きは評価の指標にならないだろうか。しかし『脳内革命』も一時的とはいえよく売れたからなぁ。

情報源としての雑誌の地位低下を考えれば、ウェブサイトの情報源としての評価はより重要だ。病名で検索すれば怪しげな代替療法が上位にヒットする事もあるだろう。ホメオパシーのように、それにすがって標準医療を拒否したために、悪化させてしまうことも十分にあり得る。そのような悲劇を避けるために、「この雑誌/記事/サイト/エントリーの信用度はこれくらいです」が大まかにでも分かるようにできないだろうか。別にウソつき認定をする必要はない。いいものにだけマークを提供すれば良いのだ。

"e-science"とは何か


松林麻実子 (筑波大学大学院図書館情報メディア研究科)

DNAらせん構造に関するデータアーカイブというのは謎だが、医学生物学系ではだいぶ前からデータバンクが整備され、CSPすなわちクローニング(Cloning)して配列を決めて(Sequencing)論文にする(Publishing)は二流の仕事扱いだった。もちろん制限酵素が自家製で、ゲルのラダーを目視していた時代には花形だったけれど。

そういえば20世紀のことになるが、DDBJの人が、データベースではありません、データバンクですと強調していたものだ。データをただ保管するのではなく、活用しますという自負。

そういう世界に馴染んでいたので、天文学分野でデータの共有が進んでいないというのは驚き。SETI@Homeのイメージがあったからなおさら。原因の一つが機器(メーカー?)によってデータの形状が違うため、というのは納得。配列データはなんのかんの言っても所詮は一次元、最後はテキストデータに還元できる。そういえば生物学系でもイメージングデータの互換性が問題になったことがあったような...

もう一つの障害要因としてデータの提供を渋る天文台があるという。レジュメでは「無償提供することに難色を示す」とあったが、有償ならば問題はないのだろうか。論文抜き刷りを請求したら代金を請求されるような印象をうける。そもそもデータの代金の内訳はなんだろうか。もしデータ取得にかかった経費を負担してもらったら、もうデータの所有権を主張することはできなくならないだろうか。これ次の「データはだれのものか」につながる問題。

日本の研究者にとって「情報共有」が意味すること:e-Scienceに向けての予備的調査結果


倉田敬子 (慶應義塾大学文学部)

まさに「データはだれのものか」。研究代表者による、e-Scienceあるいはcyberinfrastructureの実態を明らかにするための研究者の意識調査。

データを「出し惜しむ」理由として、すぐ思いつく「競争相手に知られたくない」の他に知財絡みでの権利防衛術としての原則非公開もあるらしい。また共同研究の場合は全体の合意が必要で、この場合は一番厳しい基準に揃えざるを得まい。

それ以前の問題として、標準的なデータ形式にして入力する費用の問題もあげられている。

論文誌が投稿受理の条件としてデータの公開を求めることにも、面白くないという感情を抱くらしい。つまり「データは自分のもの」意識。この裏返しで、人のデータは信用できないという意識もあるらしい。必ず追試をする、と。研究によっては、たとえば試料が希少な場合、すごい無駄が生じるような。

公的な研究費を使って得たデータは公のものと決められないだろうか。期限を設けて原則公開とすれば、優先権を保護しつつ死蔵も避けられる。費用は研究費に組み込みで。

ところで第2表にあったIT技術ってなんだろう。普通TはTechnologyなんだけど。IC技術(Information and Communication Technology)なら分からないでもない。

ビックサイエンスも謎。スラングで「中身を伴った大きさ」という意味があるらしいけど。あと雄性性器もビックというらしい...

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