「授業法と評価法」を聴講
6日の日曜日に先生の学校【集中講義】授業法と評価法へ参加した。
案内では「5時間がっつり集中講義で学びます」とあったが、予想通り延長戦もとい補講となって終わったのは21時を回っていた。
内容については、聴講して感動した編集者が本にまとめると言っていますし、ツダられたものがトゥギャッターにまとめられているので省略。
この先生をツイッターでフォローし始めたのは2010年の4月頃。ツイートだけ見るとなんとも高飛車な感じの人だが、我慢して読んでいると筋は通っている。
そして東京都庁で開かれた講演会「twitter微分論からtwitter身体論へ」をUSTで見て評価が変わった。面白い。
そして8月に夏期「哲学」特別講義を聞いて、確信に変わった。
残念ながら、肉声に触れない人には伝わりにくいようではある。これは単なるネット弁慶、オンラインで態度のデカイ奴は会ってみるとおとなしい、というのとは違う。まるでジャイアン(「ドラえもん」に出てくるガキ大将)と言われるツイートだって、注意して読めばとても温かな気配りのあることが分かるのだが。
それを私は優しいけれども甘くない人と読み取った。
今回の講義中にもそれはうかがえた。話しながら次第に涙声になり、ほとんど嗚咽のようになりながら、それでも板書を止めない姿にはもらい泣きしそうになってしまった。ツイッターでの「アホか」の芦田先生しか知らない人はもったいない。
以下、備忘録。「」の使い方がおかしいと叱られるかもしれないが。
『学問のすすめ』(福沢諭吉)を読む。青空文庫に収められているが、現代語訳の方が理解が確かになるだろう。
「グランドデザインが重要」
「教育目標を共有して議論する」
「作成した試験問題に教師の力量が現れる」
「家庭科の習熟度を測定できるペーパーテストを開発できるのが家庭科教師」
「どんな境遇にあっても、一流を目指しうるというためにこそ、〈教員資格〉は存在する」
「学校は最後のセーフティネット」
「社会の役に立つとは無縁なのが学校の意義」
「ブレーキが効く理屈を知らないままブレーキパッドを交換できたとしても自動車整備士としては不十分」
「ペーパーテストでは測れないものの重要性をいう人は、それをどうやって測ろうというのか」
「マークシートは最も反身分制的な試験(受験生の出自階級を反映しにくい)」
「家族とは反社会的な存在」
「ハイパーメリトクラシーは教師の責任逃れ」
いかん、どんどん増えてくるので打ち止め。
「相手(児童・生徒・学生)がバカ」で済むなら教師は楽な商売。バカな相手に分からせるのが教師の職分。同様のことは他の分野でも言えることで、「○○がバカ」と口に出そうになったら、そのバカをどうにかするのが自分の務めと思い出そう。(どうにかするとは穴を掘って埋める、ではない)
もっとも現場の先生は、親がバカ、主任がバカ、校長がバカ、教委がバカ、文科省がバカ、政治家がバカなどなど闘う相手が多くて、それは同情してしまう。しかしそれらと闘う最大の武器は自らが教えた子供であり、そのために心血を注いだ教材なのだろう。
高校生のころ、人権教育をどう進めるかを教師が話し合い、結局は自分の教科を一所懸命教えるというところに落ち着いたという話を聞いて、なんかピンぼけだと思ったものだが、今にして思うと正解だったのかもしれない。ごめんね、センセ。
あと、軽くググった範囲で見つけたエントリーを紹介。
芦田さん(@jai_an)の「授業法と評価法 『学校』における教育目標とは何か」を聴いて
芦田先生 授業法と評価法(マインドマップ■)
「先生の学校」授業法と評価法
8時間のその後
2月7日(月) ロゼッタストーン日記…ジャイアン先生の本を出版します
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