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2010/12/28

企画展「全生病院」を歩く

26日に国立ハンセン病資料館(わ、URIが変わって以前のリンクは全部404エラーだ)の2010年秋季企画展“「全生(ぜんせい)病院」を歩く—写された20世紀前半の療養所—”に行ってみた。9月に開催を知り、まだ先のことと思っていたらもう最終日!

同資料館は入館無料だが、入館者カード(調査票)へ住所や性別年代、来館回数、来館目的の記入を求められる。「なにで知ったか」欄は思い出せなかったので空欄のまま。企画展目的と告げると近道の階段を教えてもらった(常設展へは建物奥の階段を使って上がる)。

国立療養所「多磨全生園(たまぜんしょうえん)」の前身は、1909年創立の連合府県立「全生病院」です。そこはハンセン病患者を隔離した場所であり、「土塁(どるい)・堀」「板塀(いたべい)」「垣根」等の遮蔽物(しゃへいぶつ)で囲われていました。そしてその外側に暮らす人々は、ほとんど足を踏み入れることのない場所でした。百年の時がたち、今では「全生病院」の時代を語れる建物や風景はほとんど失われています。本展では、療養所の設立以来の写真や構内図を利用して、「全生病院」を視覚的に復元したいと考えています。
(企画展説明)

病院設立から100年の間に、改築や拡張のため療養所に改組される以前の様子が分からなくなっている全生園だが、多数(約12,000点)残されていた古い写真(ガラス乾板)を基に往時を再現しようというもの。同館の資料館だよりの69号は本企画を一面で取り上げている。

写真というものは説明次第で印象が大きく変わる。昔の正門の写真には簡単に請願巡査が立っていると記されている。請願巡査とは町村や私人からの請願(要請)によって配置された警察官で、この制度は費用を請願側が負担したため用心棒的な性格が出て、1938年に廃止された。警備員ではなく警官が配置されたのはなぜだろうか? その説明はないが、考えられる可能性は二つ。患者(病院)を守るため、または患者や見舞客を見張るため。

病気への偏見から、患者や病院が地元民から嫌悪されていたと考えると、巡査は頼もしく見えてくる。一方、無理な強制隔離の歪みから、患者が脱走したり所内で抵抗したりすることがあり(所内には見張所や私設監獄まであった)、患者を見張る立場だと考えると、隔離収容政策の象徴にも見えてくる。

入院する患者は正門からではなく収容門から入ったという。(患者が東村山駅に着くと迎えの人力車に乗せられて病院へ連れられる。降り際にだろうか、車夫(不適切語か?)が「もう一度乗せてやる」というので退院の日ことかと思っていると、彼は死亡した患者を火葬場に運ぶ仕事もしていた云々...) その収容門の前(内側)で撮影された患者の集合写真がある。入所記念? それとも叶わぬ退所の日を夢見てか。撮影したのは職員で、撮影も現像も今とは比べ物にならないくらい手間がかかるものだから、業務として記録したのであろうが。

これは常設展にある写真だが、失明した患者が洗濯(桶に入れた洗濯物を洗い棒で撹拌)していて、その説明には患者も働かなくてはならなかったと、療養者を使役したことが批判的に書かれている。しかし、全患者(1900年で約3万人)を収容しようという以上、予算的に患者労働に頼らざるを得ないという点は措くとしても(隔離の必要性をきちんと検討する事業仕分けがあれば良かったのに!)、「病人だから治療に専念し、作業は何もしなくて結構」というのも結構辛い。なにしろ有効な治療法はなかったのだ。要するに「死ぬまでじっとしていろ」ということになる。「要らない人間」として弾き出された感覚を癒すのに、労働は有効だったのではないだろうか。(貧しい時代の慣行が後に不適切になるのは仕方がないが、遡って不適切と決めつけるのには慎重でありたい。)

所内作業(まるで刑務所だな)の写真を見ても、白い防疫服を来た職員が立ち会っていて、見張っているという説明は正しいのだろうが、ただの強制労働だったのかというと疑問が残る。たとえば築山。これを作ったのは職員の指示だろうか? 患者が全く勝手に作るということはないだろうが、患者の発案のように思う(敷地を拡張し農地を整備した際に掘り出された木の根を積み上げ、逃亡防止のために掘られた堀の残土を積み上げて作った)。

築山から撮影したパノラマ写真を使った企画展チラシ

築山と言えば、「全生園の隠れた史跡」めぐり ⑩築山(望郷台)に「登ると、所沢街道を往きかう人や車、そして富士山や秩父の山並みも見え、患者たちはここから故郷の空を眺めて家族を思い、人知れず涙を流したものであった」とあるので登ってみたが、冬でも樹々に視界を遮られてしまうので不思議に思っていたが、造成直後の写真を見て納得。周りには何もない。築山自体にも木はほとんどない。これなら見晴らしは良かっただろう。実際、企画展の第二部には築山から当時撮影した写真がパノラマで展示されている。(ときおり凝った撮影方法の写真があるのが興味深い)

地元との関係で謎なのが全生劇場。外部からも観客が来て満席になることもあったという。建てられたのが1910年で、失火で焼失したのが1944年。外部との交流は27年ころからというから結構長い。ちょっと年表でも作って整理しないと混乱しそうだが、堀と塀で外界から遮断されていたと言っても刑務所ほどではないような。もちろん堀や土塁で囲ったことは正当化できないが。


最終日にも関わらず、来館者がほとんどいなかったのは寂しい。最寄り駅からバスで10分はそう不便とは思わないが。



「全生園の隠れた史跡」めぐり ⑧最初の火葬場


大八車で遺体を運んだ丁髯頭の老人は、新入院の患者を東村山駅から人力車で病院に連れてきたりもしており、その途中で「もう一度乗せてやる」と言ったという一言は今に残る語り草である。

「全生園の隠れた史跡」めぐり ③全生劇場跡


1927年頃から、農産物品評会が近隣との融和も兼ねて開催され、出品者に全生座の招待券を渡したため、2日間の公演に院外の観衆が多いときは3000人にも及んだ。

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