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2010/08/08

被爆65年 ひろしま忌

去年は拘束されていて参加できなかった「ひろしま忌」に2年ぶりに参加した。


交通費を節約するため高坂駅で下車。あらかじめGoogle mapsで調べておいた徒歩1時間15分コースを歩き出す。と、東松山クリーンセンター一般廃棄物最終処分場の前で西から来た自転車のおじさんに丸木美術館の場所を尋ねられる。逆方向に進んでますね。手にした地図を見せ、大まかな説明をする。ただしGoogleの示すルートは最短距離なので後半はかなりマニアック。おとなしく県道344号を辿った方が安全。どこまで理解されたか分からないが漕ぎだして行った。(後刻、美術館で声をかけられた)

それにしても日差しが強い。帽子を忘れたのは失敗。道中ほとんど日陰がなかったため両腕が赤く日焼けしてしまった。

途中で迷ったかと思ったが、マニアックなルートを(ほぼ)正しくトレースして美術館に到着。丸木美術館の第一の欠点は交通の便であるが、つきのわ駅からなら2.5km、約30分で着く(もっともポピュラーな森林公園駅からだと徒歩約50分、タクシーで12分)。

ピースアクションの報告をする増山麗奈まずは「友の会」のテントで更新手続き。次に隣のテントで水分補給のためラムネを購入。「茶ラムネ」という不気味なものがあるのかと思ったら「茶・ラムネ 100円」だった。

庭にしつらえた会場ではすでに桃色ゲリラ、増山麗奈のNPT再検討会議に対するピースアクションの報告が始まっていた。なんともとりとめのない話に聞こえたが、芸術家だしゲリラだから許す。丸木美術館に冷房を入れよう、と過去の経緯を無視できるのも大胆で素敵。暑さの中で働く職員らも大変だが、連日35℃を超す状況では作品への影響も心配される。実際、温湿度のせいかは分からないが「水俣・原発・三里塚」では絵の具の剥がれが見られた。作品の劣化は心配。

「水俣・原発・三里塚」の中央に描かれた冷却塔の絵の具がひび割れ、剥がれかけている


美術館自体も築40年を越えて改修が必要な時期に来ているというので、大規模な太陽光発電とか燃料電池システムとかの導入も考えてもらいたい。夏の暑さもさることながら、冬の寒さも尋常でないし。...原爆の図は快適な空調の下で見るものではないという考えも分からないではないが、観覧中に熱中症で倒れられて「水をください」では洒落にならない。

会場では続いて江戸川区在住の被爆者西本宗一さんのお話。江戸川区には在住被爆者の団体・親江会があり、区内滝野公園には原爆犠牲者追悼碑が建立されている。西本さんは、原爆被害のことは知っていると思っていたけれど、初めて原爆の図を見た時には自分の知らない被爆者を見て衝撃を受けたとのこと。またマニラで被爆体験を話した時にはアジアの原爆観を突きつけられたこともあったと語られた。

その後は栗友会合唱団コンサート。曲の説明に「この歌を知らぬ者はいないほど、単独で有名になった」とあるけど、知りませんな。お互い小さな世界に生きているようで。アゴアシだけ(ひょっとしてアシだけ?)での出演ということで、終演後にカンパ袋が回される。ビールを自粛して日本茶に切り替えた差額から100円を貧者の一灯で拠出(残り50円は送迎バスにガソリン代カンパ)。

針生館長を偲ぶ会の祭壇

室内に会場を移して5月に亡くなった針生一郎館長を偲ぶ会。献花の代わりに折り鶴を捧げる。豆折り鶴を両手で掬い祭壇に捧げたが、手に付いているような気がして思わずパンパンとはたいてしまった。しまったぁと思いながら下がって見ていたら、同じようにしている人を見つけて安堵。

灯籠の流れを調整する竹竿とスタッフ

川の流れに灯籠を乗せる

最後は都幾川への灯籠流し。停留防止のため、竹竿で阻止線を張るなど前回より態勢強化。瀬の中央まで渡ってから流すようすすめられたので、裾をまくり、裸足になって川の中へ。都市生活者の柔らかい足の裏に川砂利の角はきつい。痛いので動きが鈍くなっていたら、流れる灯籠を撮影するのに夢中のカメラマンに足を踏まれた(裸足なのに向こうは長靴)。突き飛ばしてやろうかと思ったぞ>Hケーブルテレビ。

ようやく流れに乗せた灯籠は100mほど下流で回収された。

丸木のイベントは参加者の高齢化が目立っていたが、今年も爺婆が目立つ中、20代30代とおぼしき人も増えていたように思えた。帰りのバスで聞いた話では、今回初めてという参加者も多かったとのこと。誰かが「丸木美術館は広島・長崎まで行かなくても窺える原爆被害」といっていたが(富士塚かよ)、東日本の住民にとっては手頃な入門コースである。被爆者の生の語りが聞けるのも後せいぜい十数年。歴史的使命はまだ終わっていない。

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2010/08/01

私たちは騙されている、のだろうか

ディスカヴァー・トゥエンティワン主催のサイエンスカフェ「味だけではない「おいしさ」の裏側」に行ってきた。サブタイトルは「食感性工学が解き明かす、食品と私たちとのコミュニケーション」。

受付を済ませ会場に入るとなんか様子が変。部屋が左右に仕切られていて、私は右側に誘導される。席には評価記入シートなるものがあり、聴衆参加の実験をするらしい。やがて液体の入ったコップが2つ配られる。注意書きにしたがって飲みながら評価を記入。こちらはブラインドテストだが、部屋の左側の人たちは同じものを市販のPETボトルから注いで飲んでいた。

2つのコップと評価記入シート

この結果はすぐに集計され、後半になって発表されたが、結論から言うと「見事騙されましたね」。講師自らが、「この人数(サンプル数)でこれだけハッキリ出るとは」と呆れるほど、ブラインドテスト組とパッケージを見て飲んだ組とでは味の評価が違っていた。まさに美味しさは味だけではない。見た目とかCMのイメージとかも一緒になって総合的に「味わって」いるわけだ。...これって高度な情報処理とも言えるけど、やはり「騙されて」るような気もする。

会場では質問し損ねてしまったが、つまり、お客様には湯呑みやコップでお茶を出すよりも、PETボトルのまま出した方が「おいしく」感じていただけるということだろうか。とはいってもPETボトルをどすんと出されるよりは、湯呑みを笑顔で「どうぞ」とすすめられた方が「おいしく」ないだろうか。ミス茶摘み娘級でなければPETボトルとコップの方が「おいしく」感じるかな。

話がずれた。中身が同じならば認知されたパッケージを前面に出した方が「おいしく」感じる。ある指標に至っては、CMの作り方で感じ方が違ってしまったらしい。だとすると、安いお茶を有名な茶飲料のボトルで出したら、やはり「おいしく」感じるのではなかろうか。それで代価を取ったら詐欺だけれど、もともと無料で出すお茶ならば、主観的であれ「おいしく」飲んでいただいた方が好ましくないか。

いま「代金を取ったら詐欺」と書いたけれど、値段も「おいしさ」に影響する(これを認知的要因と呼ぶ)。民放テレビでやっていたことなので話半分八掛け二割引ではあるけれど、2回に分けてミカンを食べさせ、その間に高級品だと値段を告げると2回目は美味しく感じるという「実験」を見たこともある。

ならば高価格と誤認させることもサービスと言えなくはない? 道徳的な人にも納得していただくには「高いものだけど特別に」と安い(適正な)料金を取るのが落としどころだろうか。でも本物ならば原価の何倍の料金をとっても(合意の上だから)合法と言うのとややバランスを欠くような。

人気のあるモデルや女優を採用した広告を打てば、その好感度に応じて「おいしく」感じられる。それが邪道のように感じるのは古典的もの作り観に毒されているからか。成分分析の結果から作り直したCMで売れ行きが伸びたというのは論理の勝利で喜ばしいことなのだが。そうだよ、「おふくろの味」や「愛妻の手料理」は(客観的にはどうであれ、なんて書くとまたトゲがあると言われるかもしれないが)美味なんだよ。

書ききれないほど興味深い話のオンパレードであった。いくつか箇条書きすると


  • おいしさとは五感のコミュニケーションで決まる (これだけは覚えて、と言われた)
  • 苦味はもっとも人間らしい味覚(かもしれない)
  • ストローの径で味は変わる
  • リンゴの歯ごたえ感は化学成分(酸味)の影響を受ける
  • 食感性製品の開発は一点突破(これに全面展開と続けたら某派のスローガンそのまま、と講師)

なお、10年前に出された食品感性工学の本(A書店)は「内容が古いので買わないように」とのこと。正直な方だ。

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