今度こそ来るか電子出版の時代(「電子書籍の衝撃」)
前世紀の話になるけれど、出版社に勤務していた時にいやだったことが3つある。
1つは校了(責任校了=責了を含む)してしまうと、間違いがあろうがもっと良い表現があろうが、よほどのことがない限り、そのまま本となって市中に出て行ってしまうこと。
そして人間の、しかも凡庸な人間のやることなので、いくら注意をしていても間違いは生じる。たいていは「大して実害のない」ものであるが、ある医師がしみじみと述べたように本の間違いが自然になおることはない。
もう1つは、せっかく作った本も売れなければ、その運命は悲しい。返本されてきてからしばらくは倉庫で出番を待つけれど、時間が経って最終的な売り上げの予測が立つと、売れ残り確実な分は、置いておくだけでも倉庫代やらなにやらが発生するので廃棄処分されてしまう。
電子書籍がもつ可能性
3番目はここに関係ないので省略するが、上記2つは紙に印刷することにつきまとう問題だ。もし本の内容を電子データでやり取りできたらどうなるだろうかと考えた。完成版をサーバーで公開すれば、直後から読者は入手可能になる。印刷製本配送の時間が節約できるのでギリギリまで編集ができるのみならず、全国いや全世界同時発売だ。離島にいようが地球の反対側にいようがタイムラグはない。そして改訂をすれば同時に旧版の流通は止まり、動きの悪い書店で旧い物を買うことはなくなる。増補版を出したいけれど、旧版がまだ残っているから待つといった本末転倒もない。逆に品切れ増刷待ちは死語となるだろう。「倉庫代」はデータ保管料に変わるので一概に安くなるとは言えないけれど、安値を求めて不便な遠隔地に倉庫を持つ必要はなくなるし、物理的な盗難や汚損滅失の心配もなくなる。
見落としがちなのは「一冊」という概念の変化あるいは消滅。三十一文字の詩一首、五七五の俳句一つから流通が可能になる。紙の本は一冊になるのに必要なページ数があるので、出版するためだけに書き足しをしたり、紙を厚くしたり、穴埋めの写真やイラストを用意したり、といった工夫が必要だった。そしてどれも価格を押し上げる(すかすかのレイアウトなら大丈夫か?)。こういうこともなくなる。
電子出版で懸念される問題
もちろん良いことばかりとはいかない。まず印刷製本流通業界に深刻な影響が出る。ブックデザイナーも失業だ。だが、いきなりすべての本が電子化される訳ではない。紙の書籍に対する需要もすぐになくなるとは考えられない。当時のデータ回線は高いうえに帯域が狭く(kbps単位)、プリンタも貧弱であったので、専用線を引いた書店でダウンロードし、好みに応じて印刷製本するというようなサービス形態も夢想した。とにかく安く読みたい人はデータだけ買い、印刷版が欲しい人は好みの紙に好みのフォントサイズで印刷して買う。プレゼント用に豪華装丁が必要ならオプションで。書店でオンデマンド出版である。
もう1つの問題が不正コピー。デジタルデータは劣化することなくコピーを重ねることができるから深刻だ。そうでなくても「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せず」なので、作家が食い詰めてオリジナルの供給が止まればコピー文化は窮乏する。私がかかわっていた学術系の世界では、特に翻訳物は大部なうえに部数が限られているので高額化し、世の中の常で海賊版が横行していた。ただ、不正コピー対策には前例がある。コンピュータのプログラムだ。当初は正規購入者のバックアップも許さないようなコピープロテクトであったが、やがて「不正コピーもされないが、誰も使っていない」よりは「まず使ってもらい、ファンを増やす」方が有利という判断になった。また「使ってみて気に入ったら金を払う」シェアウェアというものが登場した(機能制限を解除するキーを販売する物もあるが、利用者を信頼して完成版をコピー自由とする物もある)。継続して使用するソフトウェアと1回読めば用済みの書籍は別と考えた人は、世の中には繰り返し読まれる書物もあることを知ってほしい(ついでにいうと、消費税導入の際、書籍の価格表示も内税でと決められたとき、未来永劫税率は変えないつもり、な訳はないから、何年もかけて売る本の存在に思い至らない人たちに失望したものだ。案の定、税率が変わった時に在庫は価格表示変更作業が必要になった。偏狭な書籍観の弊害。)
さらに学術出版の著者はpublish or perish(発表するか、消え去るか)の世界に生きている。自分の研究成果をまとめた論文が雑誌に(原稿料をもらうのではなく掲載料を支払って)掲載されると、さらに別料金を払ってリプリント(別刷り/抜き刷り)を作成し、請求があれば(なくても謹呈と称して)無料で配る世界。大切なのは情報を公開し、公開された情報が入手できることであり、雑誌の値段というのは言ってみれば仲介手数料+実費に過ぎない。電子化によって実費は大幅に下げられる。
というわけで私にとって、雑誌・書籍の電子化(電子出版)は必然的な成り行きであった。しかし現実の歩みは遅かった。
補足
一口に出版と言っても、書籍と雑誌では事情が異なる。またそれぞれいろいろな種類がある。新刊と古書は流通経路が全く違う(出版社の人は頭の中にどうやら古本というものがない、あるいは意識的に無視しているらしいと知ったときは心底驚いた、なにしろ神田の古書店街を目の前にして再販制度擁護で盛り上がるブックフェアがあったのだが、さすがにブックオフなどを無視し続けることは無理と悟ったようだ)。また実態は知らないけれど、世の中にはケータイ小説なるものがあり、これも正統派?からは「あんなものは本じゃない」と蔑まれているらしいが、これって隠れんぼをしている子供が見つからないように目をつむっているのに似ている。
一方、電子書籍もディスプレイで見るもの、音で聴くもの、紙などに出力して見るものなど多彩だ(「本」の概念の拡張)。読書(利用)形態も異なる。Twitter上では、企業が購入している雑誌が電子化されたらどう管理するのか?という問題が提起されていた。
電子書籍の議論を見ていて感じるのは、論者によって前提としている本、そして電子書籍が異なるらしいこと。ある人は携帯電話で見るマンガのことを、別の人は大判の画集、プレーンテキストで十分という人、ハイパーリンク前提の人とさまざま。共通する点もあれば、分けて考えなければならない点もある。この辺りが未整理だと混乱のもと。混乱の果てに出てくるものはショーとダンカンの子供。父親が授けるのはその頭脳かそれとも肉体か。
ここではできるだけ書物一般で考えるようにしたいけれど、読書経験の偏りから欠落する分野があることを了解されたい。
電子書籍の時代が来る
電子書籍あるいは電子新聞の発想自体はかなり古くからあるにもかかわらず、いまだに本と言えば紙の本なのはなぜか。前回紹介した佐々木の『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー携書)を読むとその理由が見えて来る。(なお本書はinbookで読者がそれぞれ気に入った部分を紹介しているので参照してほしい。さらに同感できる箇所には拍手を送ってほしい。)
1つはデバイス(装置)の問題。だがこれは本書にある通り解決の道筋が見えた。kindleやiPadが将来にわたって勝者であり続けるかは分からないが、新しい時代の幕を開けたことは間違いない。
2つ目はコピープロテクトの問題。これについては音楽の例が引き合いに出されている。ナップスターなどで違法だが無料の音楽を楽しんでいた利用者は、iTunes Storeから使いやすくて安価な正規版音楽データが提供されだすと、ちゃんと対価を払うようになった、と(緩いDRMはかかっている)。読者が作者を尊敬し作品を書き続けてほしいと願うならば、海賊版ばかり買って「金のタマゴを産むガチョウを殺す」ような愚はしないと期待できるわけだ。
書店も存在価値を問われるが、本と読者の目利きができて「お薦めの本」を提案できるならば、形は変わっても「書店」は存続するだろう。著者は「この人のお薦めは私に合う」というマイクロインフルエンサーの役割を強調するけれど、なにも高度な読み込みは不要で、「お前らにはこのくらいがちょうどいい」という「書店」もありだろう。たとえば通勤中の暇つぶしのためのワンコイン書店、お任せでダウンロードしてもいつも面白ければ客は寄り付く。
以前の私が全く見落としていたのが取次の問題(第四章)。本のニセ金化! たとえ売れずに返本されて来ようとも、本という物は出せば当座の金になるという。取次は売れた分ではなく、預かった分の代金を前払いしてくれるという太っ腹。しかし返本の際には精算しなければならない。そこでまた新刊を依託して見込み代金を受け取ってしのぐ。ニセ金というよりは多重債務。なるほど、そういう仕組みがあるならば出版不況と言われながら出版点数が増えているというのもうなずける。本が売れないからこそ本を出さざるを得ない自転車操業。
そうすると取次を経由せず、書店や読者に直接コンテンツを届ける電子出版など「冗談じゃない!」ということになる。98年に発足した電子書籍コンソーシアム行き詰まりの原因の一つに取次への遠慮があげられている。
しかし、そんな状況が長く続くのだろうか? 本書によればすでに1967年には山本夏彦がこの自転車操業を批判しているという。40年以上前の話だ。間に好景気の時期があったとはいえ、多重債務状態がそんなに続けられるとは信じ難い。この謎を解く鍵は2つ。記号消費による売り上げと雑誌による広告収入。記号消費とは、読まないけれど所持することに意味のある(=格好になる)書籍を購入すること。うん、これには思い当たる節がある。ところが記号消費が終焉し、不況で広告収入が落ち込んだ今は大手の出版社さえも危うくなってきた(中小はすでに倒産し始めている)。
逆にいえばとうとう日本にも電子出版の時代が来るということか。
電子出版時代の出版人
ただ、ジャンルによっては解決しなければならない問題がある。本書では主に文芸書を念頭においているように感じたが、たとえばノンフィクションの場合、取材費の先渡しが必要になろう。国内の旅行記程度ならネットで協力者を募れば済むかもしれないが、長期取材や海外出張を支えられるだろうか。あるいは助手を大勢雇う必要がある調査とか。さらにノンフィクションでは校閲が重要だ。事実関係の誤りがあれば訴訟沙汰になる危険がある(ネットで大勢に見てもらうという手法はここでアウト)。
体系的なものを企画する場合、「すでにあるもの」を寄せ集めるだけでは不十分で、依頼して書き下ろしてもらう必要が出て来る。「お仕着せのシリーズはいらない。読者が自分でシリーズにする」とは言っても、やはり人の意見は参考になる。マイクロインフルエンサーが「この本とこの本に加えて、後こういう本が書かれていればなあ」と考えた時に、その「こういう本」を実現する存在が求められるわけ。
おそらく既存の出版社は解体し、編集や営業が機能ごとに新しい会社になるだろう。営業の仕事は発掘されてきたモノになりそうな作品(作者)に、きちんと完成させるのに必要な費用を集めて前払いすること。作品・作者ごとの出版投資組合の運営だ。編集者(こちらは編集プロダクションや編集者組合)の紹介も仕事になる。今まではどんなに有望な企画があっても、社風に合わないとか編集者の力量が足りないとかで涙を飲むこともあっただろう。そういう制約がなくなる。
専門分野の出版人よ、うかうかしていると最大公約数的な、平板なプラットフォームができてしまいますよ。少なくとも著者と権利関係をはっきりとさせておきましょう。本が出てから出版契約の締結という慣行、R.ファインマンさんには喜ばれたらしいけれど、これは改めた方が良い(今は変わっているのだろか)。
なお、発行元からT-Time形式のデジタルブック版が1000円600円で提供されている(iPhone用ビューワあり)。
ある学会誌の話
会員一万超のある学会の、委任状で成立した閑散とした総会で、担当役員が「学会誌は紙での発行を続けます」と宣言したのを聞いた事がある。「未来永劫」とかそれに類するような強い表現だったと記憶する。あれはなぜだったのだろう。ちゃんと理由を質問すれば良かった。今となっては誰の発言だったかも定かでない。
想像すれば広告収入がなくなるのを心配したのだろうか。しかし各論文にマッチした広告を載せることだって可能でわけで、有効期限を設定し、CI(citation index)の大きな論文につける広告から更新料収入を得ることも夢ではない。あるいは「この論文を読んだ方はこちらの論文も取り寄せています」とレコメンドするとかして、学術上の利便性向上と収益を一致させることだってできる(この場合、他誌掲載論文を紹介して口銭をとる手もある)。もし「紙でなければ広告を載せられない」と思い込んでいたなら残念なことだ。natureなどの電子版では広告はどうなっているのだろうか。
2010.5.17 改稿
2010.5.18 修正
2010.12.22 修正
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