« 18禁 ショパン | トップページ | 『科学との正しい付き合い方』への評価が厳しいワケ »

2010/05/09

科学との正しい付き合い方?

内田麻理香『科学との正しい付き合い方  疑うことからはじめよう』(Dis+Cover サイエンスシリーズ)を読んだ。

本書には2つ良いことが書いてある。
科学的知識よりも科学的思考が大切( p.89)
科学者といえどもいつも科学的である訳ではない(p.136)

ところが残念なことに、画竜点睛を欠くというのが読了感。なにが足りないのか。

科学者も非科学的なときがある。これは「世間で考えられている科学」と「科学」との間の齟齬を暗示していないだろうか。科学者としての自己認識も職業とか学歴といった世間からの認証に支えられているのだ。あまり科学的ではないのに、世間も本人も科学者だと誤解している例もあるのではないか。といってもニセ科学者狩りを奨励する訳ではない。安直な方法は「知識はあるが思考が科学的でない」という決めつけだ。しかしある分野ではきわめて科学的なのに、対象が変わるといきなり非科学的になる人はいる。具体例を挙げても良いのだが、科学的とは統一的な人格を意味しないという本質を離れて「本当は彼の業績ではない」とか「それは伝記作者の捏造」という横道に逸れる心配があるので割愛。科学史に明るい人は、立派な業績をあげたけれど変な宗教に入れ込んじゃった人とかを探し出してほしい。

さて、「科学者も時には科学的でない」から、「科学とは雲の上の科学者の独占物ではない」と話を持ってくれば、身近にある科学的思考へとつなげられたのではないか。

結論を言えば「科学との正しい付き合い方」と題しながらも、本書は肝心の科学についての定義をなおざりにしている。

「そんなことはない。著者は科学リテラシーとは疑う心と書いているではないか」という反論があるかもしれない。

まず、その命題に同意できない。「疑う心」には中学生でも気付くパラドクスがある。「疑っている自分は正しいの?」 ところがそのことについての言及が見られない。「今のところこれが一番『正しそう』だから、これを受け入れておこう」(p.102)は著者が言うような「疑う心」ではなくて「信じる心」だと解釈すべきだと思う。前提が揺るがない限り結論も堅固。「水は1気圧の下では100℃で沸騰する」は「水が沸騰しているからと言って100℃とは限らない」という「疑う心」での解釈もできるが、科学の世界では「1気圧だから水は100℃で沸騰する」と解釈する。そうでなければ湯煎とか水蒸気蒸留という実験操作は行えないではないか!

極度の不可知論に取り憑かれたら、実験も観測も意味をなさない。今の自分が胡蝶が見ている夢の中の存在でないとどうやって証明できるだろうか? もしかするとできるかもしれないが、証明方法を知らない以上、不可能と同じこと。そして、人はたまにそんなことを考えもするけれど、実生活に持ち込んだりはしない。

大学で私が師事した教官は、学生が実験で仮説通りの結果が出ないと悩んでいると、「実験が失敗したと考えず、新しい発見の端緒と考えなさい」と励ましてくれたけれど、実のところ手技の未熟や設計の不備が多かった。軽々に「セレンディピティだ、今までの科学常識が間違いだ」と騒がず「自分の実験に不備はないか」と疑って幸い。そういえば前世紀の末に「ニュートンの万有引力の法則を書き換える」反重力を発見したと話題になった人(工学博士)がいたけれど、実験の不備をいろいろ指摘されていた。追試は成功せず、御本人も物故されて、10年以上経った今ではまったく顧みられていない。メンデルの研究のように再発見されることもないだろう。

閑話休題。「科学的とはどういうことか」は意外と奥が深そうだ。人文科学や社会科学を除いて自然科学に絞ってみても、科学と技術の違いとか、近代科学成立以前の評価とか、実験系と理論系の違いとか、いろいろ難しい問題がある。論理的であることと科学的であることは同じだろうか?

著者は「あとがき」で、読者(非専門家)に科学技術の監視団になってほしいと書いている。それは「科学技術アレルギーという眼鏡を外して」つまり科学リテラシーを身につけることが前提だ。そして著者のいう「疑う心」に対して、何かを信じなければ疑うこともできないという問題を指摘した。

著者は「科学的なものの考え方とは?」に「中級編」の一章を割いている。
・答えが出せないことはペンディングする
・「わからない」と潔く認める
・人に聞くのを恥ずかしいと思わない
・失敗から学ぶ

どれも大切なことではある。しかし、なにか変だ。これは科学に限らない話ではないか? たとえば敬虔な宗教者。宗教と科学は必ずしも排他的な関係にはないけれど、ここでは反科学的な神秘主義的な人に登場してもらおう。この人の目には木の葉が風にそよぐことさえ神の啓示に見える。しかしニセ預言者のように安直に解釈はしない(答えが出せないことはペンディング)。神の意図するところが分からないのは信仰が足りないからだと悩む(「わからない」と潔く認める)。同輩や先達をたずねて教えを請う(人に聞くのを恥ずかしいと思わない)。不信仰の行いを懺悔し信仰を新たにする(失敗から学ぶ)。おやおや、冗談から困ったになってしまった。


では「科学的な考え方」とは具体的にどのような考え方だろうか。


科学は統一した説明を求める

「大腸菌にあてはまることは、ゾウにもあてはまる」(モノー)に象徴される考え方。理論を打ち立てようとするのが科学の大きな特徴だろう。そして理論の内部での整合性(辻褄の合うこと)を重視する。「人は特別」と考える宗教と大きく異なるところ。

科学は権威主義的であるが権威主義ではない

突然の飛躍や瓦解はあるとはいえ、科学は基本的に積み重ねだ。多くの反証の試みに耐えた理論は(反証される日まで)事実として認められる。反証可能性があるものだけが科学とする立場がある。

科学は事実に基づき、好悪や価値判断に左右されない

「事実に基づき」にはいろいろ議論はあろうが、少なくとも「好き嫌い」や「善悪」が正面切って持ち出されることはない。また物に意思を仮定はしない(擬人化・目的論の否定)。これが科学の訓練を受けていない人にとって、もっとも取っ付きにくい点ではないだろうか。本書にも「ジャガイモは、水分の豊富な地下で育つので、ジャガイモデンプンは水を取り込みやすい性質になります」(p.133)などと書いてある。水が豊富なら吸水性は低くても構わないのでは?という点を脇に置いても、まるでデンプンに意志があるかのような書き方(もっともこれを科学的に「環境に適合したデンプンをつくる植物の一種がジャガイモになった」と書いても、たいていの人は「はぁ?」だろうからやむを得ないか)。ただ、擬人化や目的論を持ち込んでも、それで直ちにおかしくなってくる訳ではないから悩ましい。喩え話で考えるのは必ずしも悪いことではないし(分野による)。

こうして見ると、実は考え方は科学的でなくてもあまり問題はない、という意外な結論が見えて来る。人間の生活は矛盾に充ちていて、いつも整合性を求められたら窮屈で堪らない。葵の印籠が使えるなら使うのが人間だ。好き嫌いを忘れて公正な判断を求められるシーンはそんなにはない。むしろ愛情とか義侠心といった非論理的なものこそ人間社会では必要ではないか。


8日に著者も登場する創刊記念トークイベントに参加してきた。それについては別エントリーとしたい。

|

« 18禁 ショパン | トップページ | 『科学との正しい付き合い方』への評価が厳しいワケ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 科学との正しい付き合い方?:

» 本の評価が厳しいワケ [Before C/Anno D]
前のエントリーはあまり建設的でないという自覚はある。それでも厳しく書かざるを得な [続きを読む]

受信: 2010/05/09 20:44

« 18禁 ショパン | トップページ | 『科学との正しい付き合い方』への評価が厳しいワケ »