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2010/05/16

今度こそ来るか電子出版の時代(「電子書籍の衝撃」)

前世紀の話になるけれど、出版社に勤務していた時にいやだったことが3つある。

1つは校了(責任校了=責了を含む)してしまうと、間違いがあろうがもっと良い表現があろうが、よほどのことがない限り、そのまま本となって市中に出て行ってしまうこと。

そして人間の、しかも凡庸な人間のやることなので、いくら注意をしていても間違いは生じる。たいていは「大して実害のない」ものであるが、ある医師がしみじみと述べたように本の間違いが自然になおることはない

もう1つは、せっかく作った本も売れなければ、その運命は悲しい。返本されてきてからしばらくは倉庫で出番を待つけれど、時間が経って最終的な売り上げの予測が立つと、売れ残り確実な分は、置いておくだけでも倉庫代やらなにやらが発生するので廃棄処分されてしまう。

電子書籍がもつ可能性


3番目はここに関係ないので省略するが、上記2つは紙に印刷することにつきまとう問題だ。もし本の内容を電子データでやり取りできたらどうなるだろうかと考えた。完成版をサーバーで公開すれば、直後から読者は入手可能になる。印刷製本配送の時間が節約できるのでギリギリまで編集ができるのみならず、全国いや全世界同時発売だ。離島にいようが地球の反対側にいようがタイムラグはない。そして改訂をすれば同時に旧版の流通は止まり、動きの悪い書店で旧い物を買うことはなくなる。増補版を出したいけれど、旧版がまだ残っているから待つといった本末転倒もない。逆に品切れ増刷待ちは死語となるだろう。「倉庫代」はデータ保管料に変わるので一概に安くなるとは言えないけれど、安値を求めて不便な遠隔地に倉庫を持つ必要はなくなるし、物理的な盗難や汚損滅失の心配もなくなる。

見落としがちなのは「一冊」という概念の変化あるいは消滅。三十一文字の詩一首、五七五の俳句一つから流通が可能になる。紙の本は一冊になるのに必要なページ数があるので、出版するためだけに書き足しをしたり、紙を厚くしたり、穴埋めの写真やイラストを用意したり、といった工夫が必要だった。そしてどれも価格を押し上げる(すかすかのレイアウトなら大丈夫か?)。こういうこともなくなる。

電子出版で懸念される問題


もちろん良いことばかりとはいかない。まず印刷製本流通業界に深刻な影響が出る。ブックデザイナーも失業だ。だが、いきなりすべての本が電子化される訳ではない。紙の書籍に対する需要もすぐになくなるとは考えられない。当時のデータ回線は高いうえに帯域が狭く(kbps単位)、プリンタも貧弱であったので、専用線を引いた書店でダウンロードし、好みに応じて印刷製本するというようなサービス形態も夢想した。とにかく安く読みたい人はデータだけ買い、印刷版が欲しい人は好みの紙に好みのフォントサイズで印刷して買う。プレゼント用に豪華装丁が必要ならオプションで。書店でオンデマンド出版である。

もう1つの問題が不正コピー。デジタルデータは劣化することなくコピーを重ねることができるから深刻だ。そうでなくても「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せず」なので、作家が食い詰めてオリジナルの供給が止まればコピー文化は窮乏する。私がかかわっていた学術系の世界では、特に翻訳物は大部なうえに部数が限られているので高額化し、世の中の常で海賊版が横行していた。ただ、不正コピー対策には前例がある。コンピュータのプログラムだ。当初は正規購入者のバックアップも許さないようなコピープロテクトであったが、やがて「不正コピーもされないが、誰も使っていない」よりは「まず使ってもらい、ファンを増やす」方が有利という判断になった。また「使ってみて気に入ったら金を払う」シェアウェアというものが登場した(機能制限を解除するキーを販売する物もあるが、利用者を信頼して完成版をコピー自由とする物もある)。継続して使用するソフトウェアと1回読めば用済みの書籍は別と考えた人は、世の中には繰り返し読まれる書物もあることを知ってほしい(ついでにいうと、消費税導入の際、書籍の価格表示も内税でと決められたとき、未来永劫税率は変えないつもり、な訳はないから、何年もかけて売る本の存在に思い至らない人たちに失望したものだ。案の定、税率が変わった時に在庫は価格表示変更作業が必要になった。偏狭な書籍観の弊害。)

さらに学術出版の著者はpublish or perish(発表するか、消え去るか)の世界に生きている。自分の研究成果をまとめた論文が雑誌に(原稿料をもらうのではなく掲載料を支払って)掲載されると、さらに別料金を払ってリプリント(別刷り/抜き刷り)を作成し、請求があれば(なくても謹呈と称して)無料で配る世界。大切なのは情報を公開し、公開された情報が入手できることであり、雑誌の値段というのは言ってみれば仲介手数料+実費に過ぎない。電子化によって実費は大幅に下げられる。

というわけで私にとって、雑誌・書籍の電子化(電子出版)は必然的な成り行きであった。しかし現実の歩みは遅かった。

補足

一口に出版と言っても、書籍と雑誌では事情が異なる。またそれぞれいろいろな種類がある。新刊と古書は流通経路が全く違う(出版社の人は頭の中にどうやら古本というものがない、あるいは意識的に無視しているらしいと知ったときは心底驚いた、なにしろ神田の古書店街を目の前にして再販制度擁護で盛り上がるブックフェアがあったのだが、さすがにブックオフなどを無視し続けることは無理と悟ったようだ)。また実態は知らないけれど、世の中にはケータイ小説なるものがあり、これも正統派?からは「あんなものは本じゃない」と蔑まれているらしいが、これって隠れんぼをしている子供が見つからないように目をつむっているのに似ている。

一方、電子書籍もディスプレイで見るもの、音で聴くもの、紙などに出力して見るものなど多彩だ(「本」の概念の拡張)。読書(利用)形態も異なる。Twitter上では、企業が購入している雑誌が電子化されたらどう管理するのか?という問題が提起されていた。

電子書籍の議論を見ていて感じるのは、論者によって前提としている本、そして電子書籍が異なるらしいこと。ある人は携帯電話で見るマンガのことを、別の人は大判の画集、プレーンテキストで十分という人、ハイパーリンク前提の人とさまざま。共通する点もあれば、分けて考えなければならない点もある。この辺りが未整理だと混乱のもと。混乱の果てに出てくるものはショーとダンカンの子供。父親が授けるのはその頭脳かそれとも肉体か。

ここではできるだけ書物一般で考えるようにしたいけれど、読書経験の偏りから欠落する分野があることを了解されたい。

電子書籍の時代が来る


電子書籍あるいは電子新聞の発想自体はかなり古くからあるにもかかわらず、いまだに本と言えば紙の本なのはなぜか。前回紹介した佐々木の『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー携書)を読むとその理由が見えて来る。(なお本書はinbookで読者がそれぞれ気に入った部分を紹介しているので参照してほしい。さらに同感できる箇所には拍手を送ってほしい。)

1つはデバイス(装置)の問題。だがこれは本書にある通り解決の道筋が見えた。kindleやiPadが将来にわたって勝者であり続けるかは分からないが、新しい時代の幕を開けたことは間違いない。

2つ目はコピープロテクトの問題。これについては音楽の例が引き合いに出されている。ナップスターなどで違法だが無料の音楽を楽しんでいた利用者は、iTunes Storeから使いやすくて安価な正規版音楽データが提供されだすと、ちゃんと対価を払うようになった、と(緩いDRMはかかっている)。読者が作者を尊敬し作品を書き続けてほしいと願うならば、海賊版ばかり買って「金のタマゴを産むガチョウを殺す」ような愚はしないと期待できるわけだ。

書店も存在価値を問われるが、本と読者の目利きができて「お薦めの本」を提案できるならば、形は変わっても「書店」は存続するだろう。著者は「この人のお薦めは私に合う」というマイクロインフルエンサーの役割を強調するけれど、なにも高度な読み込みは不要で、「お前らにはこのくらいがちょうどいい」という「書店」もありだろう。たとえば通勤中の暇つぶしのためのワンコイン書店、お任せでダウンロードしてもいつも面白ければ客は寄り付く。

以前の私が全く見落としていたのが取次の問題(第四章)。本のニセ金化! たとえ売れずに返本されて来ようとも、本という物は出せば当座の金になるという。取次は売れた分ではなく、預かった分の代金を前払いしてくれるという太っ腹。しかし返本の際には精算しなければならない。そこでまた新刊を依託して見込み代金を受け取ってしのぐ。ニセ金というよりは多重債務。なるほど、そういう仕組みがあるならば出版不況と言われながら出版点数が増えているというのもうなずける。本が売れないからこそ本を出さざるを得ない自転車操業。

そうすると取次を経由せず、書店や読者に直接コンテンツを届ける電子出版など「冗談じゃない!」ということになる。98年に発足した電子書籍コンソーシアム行き詰まりの原因の一つに取次への遠慮があげられている。

しかし、そんな状況が長く続くのだろうか? 本書によればすでに1967年には山本夏彦がこの自転車操業を批判しているという。40年以上前の話だ。間に好景気の時期があったとはいえ、多重債務状態がそんなに続けられるとは信じ難い。この謎を解く鍵は2つ。記号消費による売り上げと雑誌による広告収入。記号消費とは、読まないけれど所持することに意味のある(=格好になる)書籍を購入すること。うん、これには思い当たる節がある。ところが記号消費が終焉し、不況で広告収入が落ち込んだ今は大手の出版社さえも危うくなってきた(中小はすでに倒産し始めている)。

逆にいえばとうとう日本にも電子出版の時代が来るということか。

電子出版時代の出版人


ただ、ジャンルによっては解決しなければならない問題がある。本書では主に文芸書を念頭においているように感じたが、たとえばノンフィクションの場合、取材費の先渡しが必要になろう。国内の旅行記程度ならネットで協力者を募れば済むかもしれないが、長期取材や海外出張を支えられるだろうか。あるいは助手を大勢雇う必要がある調査とか。さらにノンフィクションでは校閲が重要だ。事実関係の誤りがあれば訴訟沙汰になる危険がある(ネットで大勢に見てもらうという手法はここでアウト)。

体系的なものを企画する場合、「すでにあるもの」を寄せ集めるだけでは不十分で、依頼して書き下ろしてもらう必要が出て来る。「お仕着せのシリーズはいらない。読者が自分でシリーズにする」とは言っても、やはり人の意見は参考になる。マイクロインフルエンサーが「この本とこの本に加えて、後こういう本が書かれていればなあ」と考えた時に、その「こういう本」を実現する存在が求められるわけ。

おそらく既存の出版社は解体し、編集や営業が機能ごとに新しい会社になるだろう。営業の仕事は発掘されてきたモノになりそうな作品(作者)に、きちんと完成させるのに必要な費用を集めて前払いすること。作品・作者ごとの出版投資組合の運営だ。編集者(こちらは編集プロダクションや編集者組合)の紹介も仕事になる。今まではどんなに有望な企画があっても、社風に合わないとか編集者の力量が足りないとかで涙を飲むこともあっただろう。そういう制約がなくなる。

専門分野の出版人よ、うかうかしていると最大公約数的な、平板なプラットフォームができてしまいますよ。少なくとも著者と権利関係をはっきりとさせておきましょう。本が出てから出版契約の締結という慣行、R.ファインマンさんには喜ばれたらしいけれど、これは改めた方が良い(今は変わっているのだろか)。

なお、発行元からT-Time形式のデジタルブック版1000円600円で提供されている(iPhone用ビューワあり)。

ある学会誌の話


会員一万超のある学会の、委任状で成立した閑散とした総会で、担当役員が「学会誌は紙での発行を続けます」と宣言したのを聞いた事がある。「未来永劫」とかそれに類するような強い表現だったと記憶する。あれはなぜだったのだろう。ちゃんと理由を質問すれば良かった。今となっては誰の発言だったかも定かでない。

想像すれば広告収入がなくなるのを心配したのだろうか。しかし各論文にマッチした広告を載せることだって可能でわけで、有効期限を設定し、CI(citation index)の大きな論文につける広告から更新料収入を得ることも夢ではない。あるいは「この論文を読んだ方はこちらの論文も取り寄せています」とレコメンドするとかして、学術上の利便性向上と収益を一致させることだってできる(この場合、他誌掲載論文を紹介して口銭をとる手もある)。もし「紙でなければ広告を載せられない」と思い込んでいたなら残念なことだ。natureなどの電子版では広告はどうなっているのだろうか。

2010.5.17 改稿
2010.5.18 修正
2010.12.22 修正

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「くすりと健康2010」を聴いて

講演者本人のツイートで日本薬学会関東支部の市民講演会「くすりと健康2010春季講演会」があるのを知った。「当日直接会場へお越し下さい (申込不要)」に惹かれて聴きに行くことに(先日の星新一展の記念座談会は開催を知った時には申し込み受付日を過ぎていて悔しい思いをした)。

久々の渋谷。会場の日本薬学会長井記念館に入ろうとすると、玄関前に立っていた2人から、講演会は地階と案内された。うーん、いかにも講演会を聴きに来た風に見えたか。玄関の反対側の階段を下りると、あろう事か喫煙場所。息を止めて通り過ぎ、中に入ると、不思議なことにそこが地下二階。受付では今後の案内を希望する場合は記帳をということなので資料だけもらって入場する。

早めに着いたのでまだ人は少ない。前方の席に座り、資料に目を通す。メインはあらかじめ印刷してきたPDFと同じなので、ざっと目を通してから持参した『未来への周遊券』を読み始める。


定刻に開始。資料で名前を誤記された荻原委員長の挨拶に続いて、医薬品食品衛生研究所の花尻室長による「身近に迫る薬物乱用」が始まる。法律を中心とした乱用薬物の概説に続き、その実態、最後に毛髪分析法が話された。

毛髪分析法は血液や尿の検査と異なり過去数か月の薬物利用歴がわかる。血糖値におけるヘモグロビンA1cみたいなもの(ちがうか)。頭髪以外でも分析できるので、摘発前に丸刈りにしても無駄だとか。最後の分析例は物悲しい。覚せい剤中毒の産婦で、出産の一か月前になって薬をやめたけれど手遅れ、新生児の毛髪からもしっかりと覚せい剤が検出された(胎内暴露)。その直接の影響かは不明だが子は健康とは言い難い状態らしい。

残念だったのは、「なぜそれらの薬物の使用や所持が法律で制限されるのか」の説明が乏しく感じられたこと。モルヒネ類と覚せい剤と幻覚剤では話が違う。医薬品と非医薬品でも話は違う。その辺を区別しないで一律にダメというから、講演でも指摘されたように緩和ケアのような適正な麻薬使用までもが世界的に見て少ないと言う日本の状況を生んでいるのではないだろうか。

個人的には違法薬物の害は3種類
1)依存性
2)闇社会の資金源
3)急性・慢性の毒性

麻薬と言うとまず思いつくのが依存性だろう。同じ量では効かなくなる耐性とあいまって、薬漬けという恐怖のイメージがある。ところが逆に「1回だけなら大丈夫」という安易な発想には歯止めにならないし、実際問題すべての薬物が激しい禁断症状を示す訳でもない(らしい)。

依存が生じれば売り手市場になる。「インストールベースビジネスモデル」には独占禁止法の睨みがあるし、適正な価格帯というものがあるけれど、乱用薬漬けの場合は上限がなく「身体で払う」に至ることもある。そしてニコチンならば代金は国庫に入るけれど、それ以外の多くは地下経済に流れてしまう。消費税はもちろん、所得税さえかからない。地下経済と言っても焼け跡闇市程度ならいいが、闇社会つまり暴力団とか犯罪組織が絡んで来ると厄介だ。覚せい剤代金の何割かは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に流れていることだろう。犯罪組織の資金になると知ってか知らずか、金を渡してしまう無思慮の罪深いことよ。(無思慮は時に命に関わる。麻薬などに対して厳しい国で捕まってから「そんなはずでは」と慌てる死刑囚が後を絶たない。)

しかしそれでも薬物乱用は止まらない。「自家製なら問題ないっしょ?」というわけだ。最近は大麻栽培のニュースが多いが、化学系の学生だと合成もお手の物。その筋では有名な話だろうが、自家合成の麻薬を使ったところ副生物の毒性でパーキンソン病になった学生がいる。純正品でも油断はできない。覚せい剤は使用を続けると神経が変性し、幻覚などの症状が現れる。実験動物に精神病(のような症状)を起こすのに使われるほど。

以上とは別に「幻覚に耽る」「多幸感に浸る」という行為そのものを、宗教倫理や勤労精神から問題にする立場もある。賭博と同じ扱いだ(賭博依存症の脳内で起きている現象は麻薬中毒と似ているらしいが)。この場合は「安全な」麻薬も非合法になる。非合法にされれば闇社会の資金源になりやすいのは禁酒法が示す通り。(タバコを非合法化して、そちらにシフトさせるのが覚せい剤対策の決め手になったりして)

2番目の講演は熊本大学医学部の粂准教授による「体内時計と病気の深い関係。この日は土曜日の市民講演会ということで比較的若い人から高齢者まで年齢層が幅広かった(平日午前の市民講演会だと高齢者ばかりだとか)。そのため年齢差の大きい睡眠の話(青少年は早寝早起きが望ましいが、年寄りは宵っ張りの朝寝坊でも問題は少ない)は難しい、と。

まず睡眠とは何かというお話。睡眠不足の悪影響。学習後に睡眠を取れば、復習しなくても4日目に効果最大となるという話など。

手を上げて質問しにくければツイッターでツイートしてくれれば、と事前にツイートされていたが、会場は地階のため電波が入りにくく、リアルタイムチェックはできなかった由(講演中のツイッターチェックはよろしくないんじゃありません?)。

帰ってからお言葉に甘えてメモしておいた質問を連続ツイートしたけれど、落ち着いて考えると「ググれカス」レベルのものもあるな。

ツイートしなかった分も含め疑問は以下の通り。
学習のリプレイについて
 自転車に乗るとかバッティングのような、あまり考えないでする行動にも当てはまるか(はじめは計算問題のようなトレーニングを想定しながら聴いていたのでピアノ(?)を例に出されてアレッと思い、続けてマウスの例を示されて混乱)。

体内時計(生物時計)について
 進化上、体内時計が出現するのはどの辺りか? 脳がない生物にもあるのか? 神経のない生物にも? 大腸菌の増殖に日周期がある? 植物を24時間照明し続けたら絶え間なく成長するか。

 地中にいるセミの幼虫は外界刺激と無関係な体内時計で羽化すべき時を知ることができるのか(そもそも時計の動き始め=孵化がまちまちで地上の時刻と同期していないのでは?)。

 体内時計の光補正は、時期によって「進める」「遅らせる」と逆に働くと言うが、その切り替えはいつ?(後から考えると体内時計の0時を境とすれば辻褄は合う? もっとも機械時計と違って0時はそんなに明瞭ではないだろうが)

 そもそも体内時計の「進んだ」「遅れた」はどうやって測定するの?


終わりの睡眠薬の話のところで、今の睡眠薬は過剰に飲んでも死にません、長く眠るだけ、と言われたのが印象的。そうすると睡眠薬を要指示医薬品(2006年の薬事法改正で処方せん医薬品)にしていた根拠はどうなるのか...

あとは「快眠を得たければ脳を使え(身体の動作も脳の疲労を引き起こすので有効)」「夜眠れなくとも、昼間の調子が良いなら不眠症ではない(不眠症の国際的な定義の変更)」がためになった。朝のツイッターを見て、思い立って出かけて良かった。

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2010/05/09

『科学との正しい付き合い方』への評価が厳しいワケ

前のエントリーはあまり建設的でないという自覚はある。それでも厳しく書かざるを得なかった。理由は3つ。

・期待をもって読み始めた
可愛さ余って憎さ百倍、である。

・細かい間違いが目につく
たとえばポリペプチドのことをポリアミドと書いている(p.75)。ポリアミドでも間違いではないようだが、イラッと来る。用語が変わって最近はポリアミドというの?と焦って調べたから余計腹立たしい。しかも次の行には「DNA。これも「核酸」が連なって」なんて書いてある。おい、「タンパク質はプロテインが連なって」と同じくらいひどい間違いだぞ。DNAはヌクレオチドが連なったもの! ちなみにヌクレオチドという単語はマンガ「The・かぼちゃワイン」にも登場します。

・科学の考え方が見えて来ない
前のエントリーに書いた以外にも、たとえば洗濯ボールの話。理系大学院を出ているのに3000円払って購入し、周囲にも薦めている知人がいて「個人的にはかなりショック」と書いている(p.119)。あれあれ、効き目がないなら分かりますよ。効果の有無を調べました? 薦めている本人の弁はカットですか? それこそ「まだ確定していない事柄に対して決めつけて判断してしまう「非科学的」な態度」(p.151)ではありませんか。


こうなると著者の信頼性に黄信号が点く。あばたもえくぼの逆で毛を吹いて疵を求めたくなる。エントロピー増大の法則の話(p.158)も、放っておけば乱雑になるという展開で問題は無い。なのに「こじつけ」と逃げてしまう。そこは「だから自由エネルギーを投入(=整理整頓掃除)しなければなりません」としめるところ。このようにいいところまで近づくのに、詰めが甘い。焼き芋の話(p.50)はβアミラーゼの最適温度が70℃前後という重要事項を省略されたら何の話か分からない。いろいろ「身近な科学」をあげているようだが、どうもどれも知識の問題ではないかと思えてならない。

あまり誉められた読書態度ではないことは承知の上。それで冒頭に「良いことが書いてある」と肯定評価を入れた訳だが。

振り上げた拳のやり場に困っていたところ、「科学なんて、騙されない程度の知識があれば十分じゃない?」というアンチテーゼまで出てくる始末。さあ、どう収束させようか。

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科学との正しい付き合い方?

内田麻理香『科学との正しい付き合い方  疑うことからはじめよう』(Dis+Cover サイエンスシリーズ)を読んだ。

本書には2つ良いことが書いてある。
科学的知識よりも科学的思考が大切( p.89)
科学者といえどもいつも科学的である訳ではない(p.136)

ところが残念なことに、画竜点睛を欠くというのが読了感。なにが足りないのか。

科学者も非科学的なときがある。これは「世間で考えられている科学」と「科学」との間の齟齬を暗示していないだろうか。科学者としての自己認識も職業とか学歴といった世間からの認証に支えられているのだ。あまり科学的ではないのに、世間も本人も科学者だと誤解している例もあるのではないか。といってもニセ科学者狩りを奨励する訳ではない。安直な方法は「知識はあるが思考が科学的でない」という決めつけだ。しかしある分野ではきわめて科学的なのに、対象が変わるといきなり非科学的になる人はいる。具体例を挙げても良いのだが、科学的とは統一的な人格を意味しないという本質を離れて「本当は彼の業績ではない」とか「それは伝記作者の捏造」という横道に逸れる心配があるので割愛。科学史に明るい人は、立派な業績をあげたけれど変な宗教に入れ込んじゃった人とかを探し出してほしい。

さて、「科学者も時には科学的でない」から、「科学とは雲の上の科学者の独占物ではない」と話を持ってくれば、身近にある科学的思考へとつなげられたのではないか。

結論を言えば「科学との正しい付き合い方」と題しながらも、本書は肝心の科学についての定義をなおざりにしている。

「そんなことはない。著者は科学リテラシーとは疑う心と書いているではないか」という反論があるかもしれない。

まず、その命題に同意できない。「疑う心」には中学生でも気付くパラドクスがある。「疑っている自分は正しいの?」 ところがそのことについての言及が見られない。「今のところこれが一番『正しそう』だから、これを受け入れておこう」(p.102)は著者が言うような「疑う心」ではなくて「信じる心」だと解釈すべきだと思う。前提が揺るがない限り結論も堅固。「水は1気圧の下では100℃で沸騰する」は「水が沸騰しているからと言って100℃とは限らない」という「疑う心」での解釈もできるが、科学の世界では「1気圧だから水は100℃で沸騰する」と解釈する。そうでなければ湯煎とか水蒸気蒸留という実験操作は行えないではないか!

極度の不可知論に取り憑かれたら、実験も観測も意味をなさない。今の自分が胡蝶が見ている夢の中の存在でないとどうやって証明できるだろうか? もしかするとできるかもしれないが、証明方法を知らない以上、不可能と同じこと。そして、人はたまにそんなことを考えもするけれど、実生活に持ち込んだりはしない。

大学で私が師事した教官は、学生が実験で仮説通りの結果が出ないと悩んでいると、「実験が失敗したと考えず、新しい発見の端緒と考えなさい」と励ましてくれたけれど、実のところ手技の未熟や設計の不備が多かった。軽々に「セレンディピティだ、今までの科学常識が間違いだ」と騒がず「自分の実験に不備はないか」と疑って幸い。そういえば前世紀の末に「ニュートンの万有引力の法則を書き換える」反重力を発見したと話題になった人(工学博士)がいたけれど、実験の不備をいろいろ指摘されていた。追試は成功せず、御本人も物故されて、10年以上経った今ではまったく顧みられていない。メンデルの研究のように再発見されることもないだろう。

閑話休題。「科学的とはどういうことか」は意外と奥が深そうだ。人文科学や社会科学を除いて自然科学に絞ってみても、科学と技術の違いとか、近代科学成立以前の評価とか、実験系と理論系の違いとか、いろいろ難しい問題がある。論理的であることと科学的であることは同じだろうか?

著者は「あとがき」で、読者(非専門家)に科学技術の監視団になってほしいと書いている。それは「科学技術アレルギーという眼鏡を外して」つまり科学リテラシーを身につけることが前提だ。そして著者のいう「疑う心」に対して、何かを信じなければ疑うこともできないという問題を指摘した。

著者は「科学的なものの考え方とは?」に「中級編」の一章を割いている。
・答えが出せないことはペンディングする
・「わからない」と潔く認める
・人に聞くのを恥ずかしいと思わない
・失敗から学ぶ

どれも大切なことではある。しかし、なにか変だ。これは科学に限らない話ではないか? たとえば敬虔な宗教者。宗教と科学は必ずしも排他的な関係にはないけれど、ここでは反科学的な神秘主義的な人に登場してもらおう。この人の目には木の葉が風にそよぐことさえ神の啓示に見える。しかしニセ預言者のように安直に解釈はしない(答えが出せないことはペンディング)。神の意図するところが分からないのは信仰が足りないからだと悩む(「わからない」と潔く認める)。同輩や先達をたずねて教えを請う(人に聞くのを恥ずかしいと思わない)。不信仰の行いを懺悔し信仰を新たにする(失敗から学ぶ)。おやおや、冗談から困ったになってしまった。


では「科学的な考え方」とは具体的にどのような考え方だろうか。


科学は統一した説明を求める

「大腸菌にあてはまることは、ゾウにもあてはまる」(モノー)に象徴される考え方。理論を打ち立てようとするのが科学の大きな特徴だろう。そして理論の内部での整合性(辻褄の合うこと)を重視する。「人は特別」と考える宗教と大きく異なるところ。

科学は権威主義的であるが権威主義ではない

突然の飛躍や瓦解はあるとはいえ、科学は基本的に積み重ねだ。多くの反証の試みに耐えた理論は(反証される日まで)事実として認められる。反証可能性があるものだけが科学とする立場がある。

科学は事実に基づき、好悪や価値判断に左右されない

「事実に基づき」にはいろいろ議論はあろうが、少なくとも「好き嫌い」や「善悪」が正面切って持ち出されることはない。また物に意思を仮定はしない(擬人化・目的論の否定)。これが科学の訓練を受けていない人にとって、もっとも取っ付きにくい点ではないだろうか。本書にも「ジャガイモは、水分の豊富な地下で育つので、ジャガイモデンプンは水を取り込みやすい性質になります」(p.133)などと書いてある。水が豊富なら吸水性は低くても構わないのでは?という点を脇に置いても、まるでデンプンに意志があるかのような書き方(もっともこれを科学的に「環境に適合したデンプンをつくる植物の一種がジャガイモになった」と書いても、たいていの人は「はぁ?」だろうからやむを得ないか)。ただ、擬人化や目的論を持ち込んでも、それで直ちにおかしくなってくる訳ではないから悩ましい。喩え話で考えるのは必ずしも悪いことではないし(分野による)。

こうして見ると、実は考え方は科学的でなくてもあまり問題はない、という意外な結論が見えて来る。人間の生活は矛盾に充ちていて、いつも整合性を求められたら窮屈で堪らない。葵の印籠が使えるなら使うのが人間だ。好き嫌いを忘れて公正な判断を求められるシーンはそんなにはない。むしろ愛情とか義侠心といった非論理的なものこそ人間社会では必要ではないか。


8日に著者も登場する創刊記念トークイベントに参加してきた。それについては別エントリーとしたい。

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2010/05/08

18禁 ショパン

4日から5日かけて、東京オペラシティコンサートホールで開かれた横山幸雄のショパン・ピアノソロ 全166曲コンサートを聴いてきた。

朝9時から始まり終演は25時という、なんともすごいコンサートだ。いくらショパン生誕200年記念の年とはいっても、ふだんなら「ふーん、すごいね」ですませてしまうのだが、今回はなぜか通し券を購入していた。魔がさしたとしか思えない。

深夜にかかるため第四部は「18歳未満お断り」というのはいいのだが、チケットにも「公共交通手段は無い場合があります」と書かれているように帰りの足が問題。結局、会場の近くのホテルを予約した。ネットカフェやカプセルホテルで十分だったかもしれないが。

まるで耐久レースのような166曲演奏、しかも総暗譜とは際物企画のようにも思えたものの、ベートーベンのピアノ協奏曲全5曲連続演奏の経験を読んで、なんとなく納得できた。ランナーズハイにも似た感覚があるようだ。ある種の憑依を期待しているのかもしれない。

実際、終盤になると音の響きが変わってきた。華麗と言う言葉しか思いつかないけれど、とにかく響き渡る。ほかの聴衆は大喜びで、最後はスタンディングオベーションだったけれど、個人的にはちょっと響かせすぎに感じた。もとの曲からしてそうだったのかもしれないが、いささか鼻白む思いで「アマデウス」のローゼンベルク伯爵の台詞「音符が多すぎる!」を思い出してしまった。ピアニストの名誉のために付け加えておくと、終盤でも静かな曲は静かに弾いていたし、最後の幻想ポロネーズもオーバーアクションではなかったが。

「あれ、こういう曲だっけ?」というところがあったとはいえ、集中して全部というのは、聴く側にとっても得難い経験であった。惜しむらくは、曲についての予習が不足していたこと>自分 (軍隊ポロネーズを聴きながら、mixiの「灰とダイヤモンド」コミュで間違ったことを書いたかなどと心配するのは誉められたことではない)

なお24時間以内でもっとも多い曲数を1人で弾いたアーティストとしてギネス記録の認定を受けたけれど、これはいわば余興であって、多く弾けば良いという話ではない。多くの曲をちゃんと芸術的に演奏したことが素晴らしいのだ(加えて構成を考え楽譜を吟味した点も)。数とか時間ばかりを取り上げるのははしゃぎ過ぎだし演奏家に対して失礼だろう。カウントダウン的な場内放送も興ざめだった。


なお、演奏家の模様はTOKYO FMで生中継されたほか、5月11日フジテレビ「めざましテレビ」で特集されるとのこと。

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