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2010/04/19

チェーンメールとRT

しばらくTwitterをやっていて気になる現象がある。RT(リツイート)だ。

Twitterのヘルプではリツイートは以下のように説明されている。

「リツイート」は、あるユーザーが投稿した好きな情報を再投稿し、みんなに広めたいときに使います。 投稿の「リツイート」ボタンをクリックすることでその投稿が、自分をフォローしているユーザーのタイムライン(画面)に表示されます。

※この「リツイート」では、自分のコメントを追加することはできません。

Hootsuiteなどのウェブクライアントを使うとリツイートする際にコメントを付加できる。たとえば「この意見に賛成」あるいは「バカ発見」と。しかし素のブラウザで実行すると元のツイート(原義は「さえずり」、日本では「つぶやき」と訳された140字の投稿)の冒頭に「RT」と付加されたものだけが再投稿される。

メールで言えば転送である(佐々木俊尚『電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)』の冒頭に引用されている通り、昔はe-mail(電子メール)と区別していたが今ではmailといえば電子メールを意味する)。そして転送メールの徒花がチェーンメール。

チェーンメールと言っても「なにそれ? 食べられるの?」という人も増えたようなので、まずここから解説。

中年以上には「不幸の手紙」のメール版といえばお分かりになろう。「この手紙を受け取ったら、×人に同じ文面で送ること」というアレである。人数は5人とか10人とか(郵便料金の値上げに伴って変化したことだろう)。送らなかったら不幸になるぞ、という脅し付きだったので「不幸の手紙」。

これが電子メールの時代になると、転送には手間も金もかからなくなったので「できるだけ多くの人に転送してください」となった。また「新種のコンピュータウイルスが流行しています」「コンピュータウイルスへの対策はこうです」「手術用の血液が不足しています。助けてください」など、転送するのは良いことだ、人のためになると誤認させる内容になってきた(もちろんほとんどの内容はデタラメで、嘘の「ウイルス除去操作」を実行してPCが動かなくなった例も)。

Wikipedia日本語版の解説(2010年4月3日 13:46 (UTC))では、多数の人への転送を促せばチェーンメールだとしているが、それだけではチェーンメールにはならないと考えている。

1.情報の発信源(責任者)が明確で裏付けがとれるか
チェーンメールの大きな特徴は、情報の出所(=責任の所在)が不明確なこと。典型的なのは「友達がその友達から聞いた」。「新種のコンピュータウイルス」では、IBMなどの名前が出されたが、IBMのウェブサイトで確認することはできない。逆にいえば、そのメール以外でも確認がとれる情報ならチェーンメールではない(「被災地で紙おむつが不足しています」はチェーンメールになるが「赤十字のサイトで被災地で必要な物資を確認しましょう」を転送してもチェーンメールではない)。

2.情報の有効期限は明白か
「××病院で○型の血液が不足」のような話が典型で、発信日も手術予定日も不明確。そのため数年前のメールが漂っているようだ。年月日が明記してあれば古い情報か新しい情報か判断できる(悪意のある人間が操作しない限り)。本当に血液が必要な場合なら、「*年*月*日(曜日)までに」と明記することで野放図な拡散を防止できる。(脱線するけれど、ビジネスの世界ですら、この年月日の明記が疎かなのは呆れるばかり。たとえばウェブページに最終更新日が明記されていないのは珍しくない。)

つまり「いつ、誰が言い出したか明確でない話(したがって責任の所在も不明)を、どんどん広めてね」の3つがチェーンメールの条件。

残念なことに、発端は善意のメールなのに、無責任な転送でチェーンメール化することがある。転送をする人はその結果についての責任を負う覚悟をしてほしい。「善意だから」「有用だと思ったから」は言い訳にならない。

チェーンメールはなぜいけないか


「チェーンメールがどういうものか分かったけれど、それの何がいけないの?」「嘘の情報を流すのは悪いけれど、良い話を転送するのは構わないんじゃない?」という人もいるだろう。

理由は3つ。
まず、デマ(流言飛語)に対する抵抗力が落ちる。嘘ばっかり聞かされていると、騙されにくくなるという見方もできるが、周りの人がみんな言い出したことに「それはおかしい」というのは、実は非常に難しい。だからデマを流布させてはいけない。そのためには「ちょっと良い話」であろうが「バトン」であろうが、転送する前によく考える習慣が必要。相手を選んで、不必要な拡散を防ぐ手段を講じていれば、転送上等だ。正確な情報を、必要な期間、適切な範囲に流すならばチェーンメールと非難されることはない。

次に、ネットワークに負荷をかけ、サーバーを圧迫し、検索の精度を下げる。「できるだけ沢山の知り合いに転送」するのはネズミ算なのだ(ネズミ算を知らない人は、マルチ商法なんかに引っかかって借金を作り友達をなくし親類から義絶される前に自力でお勉強しましょう)。

三番目。そういうチェーンメールを転送すれば、あなたに対するまともな人たちの評価は低下します。受け取った人が「これで20通目(うんざり)」「この話はもう解決済み(ウンザリ)」「私にどうしろと?」と嫌がって、つまりスパム(spam;迷惑メール)扱いしていなくても、あなたは立派なスパマーです。その他にもいろいろとありがたくない称号を奉られることでしょう。いわく「情報通気取り」「はしゃいでいる初心者」「無免許運転」「ジョージャク」...


リツイートとチェーンメール


で、ようやくリツイートに戻る。

リツイート好きのフォロー相手が、集中的なリツイートをしたとき
複数のフォロー相手が、同じツイートをリツイートしたとき
ハッシュタグ付きのツイートがそのままリツイートされたとき

鬱陶しいなぁと感じた。まるでチェーンメール。中には教えてもらってありがたいツイートもあるし、賛同表明が心強いリツイートもある。また140字の応酬で話がそれ気味になった時に、第三者が元のツイートをリツイートすれば軌道修正に役に立つ。そういうメリットもあるのだが...

あるハッシュタグ(フォローの有無に関係なくツイートを閲覧するための検索目印)を追っていて、同じツイートが繰り返し、かつ集中的にリツイートされているのに遭遇すると、本当に読みにくい。なんのためのハッシュタグなのか。これにはテーマ別のメーリングリストにチェーンメールをマルチポストされたような憤りを感じる。しかも(仕様上やむを得ないとはいえ)「同意上げ」なのか「晒し上げ」なのかはっきりしないし、中には野次的なリツイートもあるようだ。ちなみにそこでは私のツイートも51人にリツイートされているけれど、正直そんなメルクマールになるような内容ではない(参考にはなる)。リツイートの際にハッシュタグは自動的に削除されるか、無効化(タグの告知には使えるが検索はされない)してくれればと願う次第。手動であれば、#の前の1バイトスペースを削除すれば拾われなくなる。

もちろんハッシュタグがついていなかったものにタグをつけてリツイートするのは、内容がふさわしければ好ましい行為。

ネットの噂とリツイート


さらに今日(2010/4/19)、Twitter内のストーカーに注意を促すリツイートを受け取った。女性と見るとP2Pのチャットに誘い、断ると誹謗中傷のツイートを垂れ流す云々。調べてみると、オリジナルは約12時間前で、すでに100人以上がリツイートしている。しかもリツイートのリツイートもある。連鎖反応(chain reaction)を起こしているのだ。

ツイッターの場合、フォローしていなくても、ユーザー名が分かればその人のツイートは誰でも確認できる。発信者は「当該アカウントを知りたい方は、俺がフォローしているリストをご覧ください。」というが、1005人(14:51現在)もいる。(仮にそのアカウントを確認できたとして、自作自演でないという保証もない)

ここで問題を切り分ける。
「事実を確認できない噂、あるいは悪意のある個人攻撃」の場合と「被害は事実」の場合。前者の場合は簡単だ。広めてはいけない都市伝説と切り捨てることができる。リツイート禁止。では、後者なら?

「本当だったらリツイートしても良い、いやリツイートすべき」と考える人もいるだろう。でもね、そのリツイートでどんな効果を期待しています? ストーカーに気をつけましょう? 具体的に、どうやって気をつけるのか。分かっているなら、それをツイートすべきではないか。たとえば「フォローは慎重に」とか「0.1%に紛れ込ませて無視する」とか。


ネットで自分の名前を検索したことのある人の多くは、思わぬところで名前が挙がっているのに驚く経験をお持ちだろう。中には不本意な誹謗中傷を受けていることも。だが虚実を問わず事実を挙げられている場合は別として、いちいち評判に食って掛かる必要はない。そんなことをすれば「痛い人」としてさらに祭られる危険すらある。また「おかしい人」から「おかしい」と罵られたら、それは「おかしくはない」という勲章みたいなもの。気にしないで放置すればよろしい(信用調査をされていて変な評判があると困るなど気になる事情がある人は、たとえばgoogle アラートで自分の名前を提起定期検索すると良い)。

つまり「ストーカーみたいなのがいます」という注意は流してもほとんど意味がない。悪口を垂れ流す以上の悪さはできないし、それを止める手段がない(悪口の程度によっては名誉毀損などで訴えることも理論上は可能だが)。そんなものは無視しても大丈夫。レアケースを心配しだせばきりがない。

ただ、昔は「ネットで態度のでかい奴も、会ってみるとおとなしい」と言われていたが(ネット弁慶)、西鉄バスジャック事件や秋葉原無差別殺傷事件のような例もあるので、リアルでの遭遇には気をつけたい。もっともTwitter上で「隙」を感じさせるようであれば、身近な野獣に狙われていることだろう。敵は本能寺にあり。

ちなみにリツイートは重ねるたびに中継者情報が付加されるので、140字を越えた分から末尾が削られて情報の欠落が起きる。自分の名前が付加されて肝心の部分が欠落するのも気付かずにリツイートする人も多いだろうな。ほんと無駄。

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ほめる覆面調査

2009年にmixiの日記に書いて、そのままになっていたので手を加えて公開する。


昨日(5/29)NHK総合のニュースで「ほめる覆面調査」を取り上げていた。ぼーっと見ていたら、いつもより2本後の電車で出勤するはめになってしまったが、それだけの価値はあった。

覆面調査とは経営者の依頼により、調査であることを隠し、客として企業(店舗)に接触し、その対応を評価するもの。

ニュースで取り上げられた会社は、客として店に行き、従業員の対応の良いところを報告する。意表をつかれた思いがしたのは、こういう調査(テスト)は問題点を発見するものだという先入観があったから。なるほど、見落としていた長所を指摘されれば人事評価は公正になるし、スタッフ間で共有させて個人プレーからチームプレーに発展させれば店舗自体のサービスも向上する。

逆に、ダメ出しばかり受けていると人間は萎縮してしまいがち。

そういえば「やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ」(山本五十六)もよく引かれる。原理そのものは古くから知られている。

ただ、相手の心理に配慮は重要だし、丸い卵も切りようで四角、わざわざ角の立つ言い方をしないようにするのは賢明ではあるが、あざといという印象も拭いきれない。

また、これはこの会社の調査に関して言えば的外れのようだが、慎重=臆病・優柔不断、迅速=拙速・早とちり、明るい=軽佻浮薄、重厚=愚鈍・権威主義、融通無碍=場当たり的・ご都合主義、基本に忠実=石頭・教条主義...のように言い方一つで同じことが誉めもできれば貶しもできる。ものの見方が柔軟と言えば聞こえは良いが、一歩間違えばレトリックを弄ぶだけに陥りかねない。

身を切るような反省と改革が必要な時に、幇間のおだてに満足していたら身の破滅。

(反省も度が過ぎれば自滅への片道切符になるけれど)


さて、仕事はできて当たり前、本当のことを言ってもお世辞にはならんぞ、褒められたら裏があると思え、大したことのない連中から大したもんだと褒めそやされるのは苦痛、誤りの指摘と人格の否定は別、という貶(けな)しの殿堂の住人であった私だが、それが世間では通用しないことは重々承知している。

ほめる覆面調査を紹介するニュースを見ていて、前職での頓挫した新サービス開発を思い出した。一言でいえば「ウェブサイトの日本語の質の向上」(まるで日本ウェブ協会「日本語のウェブサイトの質の向上」の双生兄弟)を目指すもの。

組み立てている段階から枝葉末節の間違い探しと受け取られることは想定できた。マイナスをゼロに引き戻すだけで、新しい価値を生み出す訳ではない。そこで、「言葉の誤りは致命傷となりうる」を訴求ポイントに「こんな店からものを買いたいと思いますか?」と「鳥龍茶」(烏でなくて鳥、まるで紛い物と告白しているような字の間違い)「脅威の洗浄力」(驚異が正しい)などの例を集めて営業資料を作った。

日経BPから「秘匿を「ひじゃく」と読む会社のセキュリティは大丈夫か?」という記事を見付けて、一人説でない証拠としても添えた。

人間は脳内補正してしまうが、セマンティックウェブを目指すうえでは重大な障害、なんて書いたかもしれない(ところが検索エンジンの「もしかして」が先に発達してしまった)。

それでも「経営者は分かってくれるだろうが、担当者はいやがるだろうな」という心配があった。だからチョコレートのCMではないが「お口でとろけて、手にとけない」工夫(サイト担当者が喜んで導入を起案し、経営層も納得するような二段階のサービスメリット)が必要だと訴えていたのだが、けっきょく私に妙案はなく、営業サイドからの支援もなく、売れ行き不振を理由に縮小に追い込まれてしまった。

「ほめる」要素を組み込んでおけば良かったかもしれない。「誤解される可能性」を指摘することは簡単だが、「誤解されないことを保証」するのはきわめて難しい。そのため「問題はありません」判定には二の足を踏んでしまった。ギャランティーなしの「よくできています」「わかりやすい」なら大盤振る舞いしても良かったなぁ。

けっきょく知恵は後から湧いて来る。でも、人生に遅すぎることはない、と重い鯛。

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2010/04/09

『電子書籍の衝撃』出版記念講演会

佐々木俊尚『電子書籍の衝撃 本はいかに崩壊し、いかに復活するか?』の出版記念講演会に行って来た(6日)。通常は「読者会」なのだが、発行前(書籍版は15日発行予定、電子版は7日から公開)なので記念講演会。

Twitter上に著者と編集者のやり取りがあると聞いたので、佐々木さんのtweetを去年の11月までさかのぼって取得。スキルがないのでブラウザで「もっと読む」を繰り返してwebarchiveとして保存(htmlソースで保存すると最初の1ページしか保存されない!?)して約5M。ところが他の話題も面白いし、リンク先に飛ぶとまた話が広がるので遅々として読み進まない。そうこうしているうちに当日になってしまった。印刷して持ち出そうとすると色文字のため白地に印刷すると読むに堪えない(モノクロで印刷すると灰色文字に)。某テキストエディタに貼り付けると文字コードが絡む不思議なエラー。全選択だとおかしくなるが、手で範囲指定をしてペーストすると何とかなる。とはいえところどころに地雷が埋まっているらしく、エラー頻発。それでもなんとか2月以降のtweetをプリントできた。しかし時間順に読もうとするとまた大変(結局全部は読み切らないままに講演に)。


この日はまず、新宿でビッグイシュー日本版を購入することにした。新宿東南口駅前広場でも売っているはずだが販売者の姿が見えない。仕方ないので大塚家具前まで行って購入。売り慣れていない様子だが「精一杯」が感じられる接客態度に感心。ところが行動規範第2条(IDカードの提示)を守っていない。注意すると、風が強くてバタバタするのでとかなんとか言い訳をする。「あんた何者?」と思われるのが嫌で、深くは追及せずに辞去。でも通報しておいた方がビッグイシューのためになる。

その足で模索舎に立ち寄る。今年で創立40周年を迎えると言うのに、中小書店の例に漏れず経営は逼迫状態だと聞く。3月の40周年イベントをコロッと忘れてしまった埋め合わせに書籍を購入。「電子書籍」という文字が目に留まって「週刊読書人」も合わせて買う。

失業中なのにこうして予定外の出費が重なったので、そのまま会場のある九段南まで歩くことにする。

早めに会場に着いたので、ロビーで週刊読書人を読む。閉鎖されたフランス国立印刷所(世界最古の印刷所、ただし名称は「印刷局」が正しいらしい)の話とか活版本中心の書店とかの話は面白いことは面白いのだが、なんとも言えぬ苛立ちを感じさせられる。対談している当人もペシミスティックと自認し、「(新しい)世代に対して、印刷された本と電子化された本の違いを訴えることには、意味がないような気がします」とか「しかし、そう思うのは僕らの世代までなのかなあ」などとは言っているのだが、どうも現実認識に差があるように思えた。一つには「アウラ」とか「アティチュード」といったカタカナ語のせいかもしれない。活版印刷には哀惜があっても日本語にはそれを感じないのですか、と不毛な煽りをしたくなる。

現実認識の差と言えば、たとえば検閲の話。たしかに電子書籍の場合、検閲は容易になり得る。アマゾンが、読者の手元のキンドルから書籍を消してしまった事件は有名だ(その消された書物がオーウェルの「1984」とは出来過ぎの気もするが)。しかし、だから紙の出版は自由を守る、なんてのは自由ボケした寝言だろう。言論の自由のない独裁国家では、地下出版物はまず配布ルートが絶望的に弱いけれど、それ以前に、紙や印刷機を政府に抑えられているから地下出版そのものがまず困難なのだ。その点、電子出版であれば全国のPCやネットワークがISMS(情報セキュリティマネジメントシステム)を取得した企業のように管理されていない限り(そして、そんなことは不可能に近い)誰でもデータを作り、全国に配布することができる。winnyでも使った日には回収不可能(警察も配布に協力してくれる w)。

「検閲は、これをしてはならない」(日本国憲法第二十一条)が蔑ろにされるようになるとしたら、それは技術のせいではない。政治の問題だ。

とまれ、この後で聴いた佐々木さんの講演と比べ、いろいろな点で対比的なので、稿をあらためて考えてみたい。

さて『電子書籍の衝撃』出版記念講演である。イントロが痛快だった。「電子出版なんて...」という言説をいくつか取り上げては、「太陽の下に新しいものは何もない」「歴史は繰り返す、二度目は茶番」とばかり、活版印刷登場時に写本派が持ち出した理屈と並べて一刀両断。

これは既に見たことのある光景。ワードプロセッサ普及期に、「ワープロで手紙なんて失礼千万」のようなことが大真面目に主張されたことがある。じゃあ、なにが礼儀に叶っているのですかと問うと「便箋に万年筆」というお答え。すると博識な人が鼻で笑って、その万年筆も初めは毛筆派から「あんなもの」と誹られていましたね、と。

そうそう「ワープロで書けるのはビジネス文。小説は無理」なんてことも真顔で言われていた。安部公房がワープロで長編小説を書き上げた時には話題になり、宣伝惹句もなった(はず)。今となっては信じられませんよね。

閑話休題。次にデバイスとコンテンツの関係(p.17の図)。「書籍は脳がオフ」には違和感があったが、書籍で確認すると「文字などを入力している訳ではない」つまり受け身という意味。そして書籍や雑誌を電子化した際のリーダーは「近くで見る、大きな画面」である必要がある(したがって携帯電話は画面サイズで脱落)と。(パソコンがオンのデバイスであることを認めても、なぜそれでオフのコンテンツを楽しむことができないかは説明できていないような....まぁ確かにパソコンで長編小説を読む気にはならないけれど)

その次のマトリクスではさらに疑問が。図そのものは手元に無いが、「線的/リンク的」「フロー/ストック」の4象限だったと思う。雑誌はフロー、書籍はストックと言われ「んー」と思っていると続けて「ウェブはフロー」と。待て待て、ウェブだってストックはあるだろうと思っていると、フロアから「wikipediaは?」という質問。「あれもフローです」とあっさり退けられる。普通に辞書事典と言えば良いのに(たとえばyahoo!百科事典は小学館の日本大百科全書(全26巻)がベースになっている)、wikipediaを持ち出すなんてビョーキじゃないの。ところで「辞典は読むもの」と喝破したのは誰だっけ?

ともあれ、電子書籍は「リンク的なストック」になるだろう、と。enhanced book(拡張された書籍)、たとえば音声の出る本、である(このあたりは記憶が曖昧。「書籍はアプリになる」という言い方をしていたかもしれない)。しかし、と佐々木は言う。実用書なら動画付きも便利だが、たとえばお仕着せのBGM付きの小説は読まれるだろうか、と。だから雑誌の電子化は進むけれど、書籍、特に著者の思想が貫かれた小説などは話が別だろう、と。

そうかな? 映画なんてのは、まさにお仕着せBGM満艦飾だ。それどころか歌劇・楽劇なんてものもある。ちなみにニーベルングの指輪は通しでやれば約15時間はかかるという。アルバムというパッケージが壊れて個々の曲がバラバラに購入されると言うマイクロコンテンツ化は進むにしても、“指輪は指輪”(全体で一つの作品であり、たとえば「ワルキューレの騎行」を指して指輪とは言わない)、ではないだろうか。むしろ「ペレアスとメリザンド」を読むのに音楽をフォーレにするかドビュッシーにするか選べるなら自由度の向上で、それは歓迎されるだろう。また、たまたま前日のクイズ番組で知ったのだが、JTBパブリッシングは夏目漱石や太宰治らの小説に旅行ガイドをつけた『名作旅訳文庫』なんてものを出している(番組では売れていると言っていたが真偽は不明)。

それを軽薄に感じて眉をひそめる人もいるだろう。好きだった小説の装丁が後からできた映画のスチール写真になるとげんなりする、という読書家もいる。舞台版の「アマデウス」に涙を流すほど感動し、決して安くはない公演を何度も見たが、映画の換骨奪胎(脚本が同じシェーファーとは!)には失望し、劇書房発行の『アマデウス』の新装丁にがっかりした記憶が私にもある。拡張された書籍もこうなるだろうか? 要は作り方の問題だろう。センスの良い作りを発行者に期待するのではなく、読者が主導権を握る。購入してからテキスト部分だけ分離できるなら、単純に文章を楽しむことも、自分好みにリッチコンテンツ化(カスタマイズ)することもできる。従来の紙書籍ならそれぞれ別に印刷製本せねばならないから難しかったことだ。使い勝手(ユーザーインターフェイス)とあわせて、この自由度は重要な要素になるような気がする。...著作者人格権は弱められるだろうか?

また、聞き漏らしでなければテキストの音声化(読み上げ)には触れられなかったようだ。『電子書籍の衝撃』の中ではキンドルストアのオプションにあることがさりげなく紹介されているけれど。音声データをつけるか、読み上げエンジンが認識しやすいように手を加えたテキストを陰に用意するか、技術的な話はさておき、朗読してもらえれば「読書」の機会は増える。別に視覚障害者に限った話ではない。満員電車や布団の中など本を開くのが難しい場所、暗い場所でも「読める」。そしてこの場合、大きな画面は必要ない。デバイスとしての携帯電話の優位性が一気に高まる。iPod shuffle でも十分。

さてマイクロコンテンツ化と並ぶ電子書籍のもう1つのキーワードがアンビエント(ambient)。元の意味は「周囲の, あたり一面にある」(プログレッシブ英和中辞典)だが、意訳すれば「どこででも」か。「遍在」だとubiquitousと区別がつかないし、なにより「偏在」と誤変換される危険が大きい。(アンビエントは手垢にまみれたユビキタスの改装版という穿った見方もできるが、KDDIでは「いつでも、どこでも」を一歩進めた“「今、ここで、私が」必要とする情報を提供する”と定義している。別のところでは「今だけ、ここだけ、私だけ」とも。なるほどねぇ。) iPodによって音楽がアンビエントになったように、iPadやkindleによって雑誌・書籍がアンビエント化するだろう、と。アンビエント化と脱パッケージの関係がよくわからないが、「私だけ」が関係するのだろうか。

音楽にせよ書籍にせよ、親しんだジャンルの違いは案外大きいかもしれない。オペラの中から一つの歌を取り出すことはあるけれど、ブルックナーの一節を取り出して「フェイバリットメロディー」を作る人はいるだろうか? もちろんいるし、着メロなんてその最たるものだろう。もしかすると多数派を占めるかもしれない。ベートーベンの第五交響曲は、第1楽章冒頭なら知っている(それしか知らない)という人も多い。全曲知っている人の数倍はいるだろう。だからといって今後その傾向が強まり、あの交響曲がバラバラにされ元のパッケージがなくなる運命にあるとは思えない(ここが私の限界か...シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」も今や****(自粛)の間では「2001年の音楽」だし...もちろん冒頭だけ... orz)。

それから大きいのがコンピュータやコンピュータネットワークの経験の差。無知や誤解が前向きな議論の障害になっていることは疑いようがない。そして無知無理解誤解は嘲笑するものではなく、丁寧に説明すべきもの。そうでないと感情的な軋轢に発展しかねない。もっともそれは「前向きか後ろ向きか」の差に飲み込まれてしまうものかもしれない。旗幟の種類は少ない方が良い。旗印が多いと微少な差を言い立てて、際限なく分裂してしまう恐れがある。(この論の難点は、多数派を占める一般消費者は条件が示されなければ前向きでも後ろ向きでもないこと。また同じ前向き派の中にも同床異夢が紛れ込んでしまうこと。)

話戻って、新しいパッケージ(リパッケージ)の核になるのがキュレーション(curation)。目利きと言ったら良いだろうか。この辺りでも「××さんのお薦めも一種のパッケージングではないのか?」「プロモーションが時代遅れなのとプロモーションが無意味なのとでは意味が違うのでは?」と本題を離れて思考は旋回。違いはつまりスケールというか規模。マスプロモーションによるパッケージ化の終焉ということらしい。しかしミドルとマスって、どこら辺で区切るのだろうか? 日本語の文章ならば顧客は最大でもせいぜい1億人。音楽ならば65億人が対象になり得る。

それにしても聞いていて呆れるのは、(日本の)出版関係者って、どうしてそんなに保守的なのだろうか? あ、こういうと「大手出版社と限定して」と注意されるかな? でも中小もずいぶんコンサバな感じがする。取次システムには苦労させられているはずなのに。たとえば、何の工夫もないテキストだけの電子ブックにも紙と比べて大きな利点があることに気付かないのだろうか? 一例を挙げれば盗用の発見が格段に楽になる。盗用だけではない。原稿の使い回しも容易に発見できる。小細工を施したところで悪あがき。すでに大学などには糊紙細工のレポートを発見するノウハウが蓄積しつつあるのだ。紙の本なら解析用のデータを作るだけで一仕事だったが、これからはすぐ解析できる。そして、これは同時に知らずに盗作本を出す危険を回避する助けにもなる。出版前の原稿と既刊本のマッチングテストは必須になるだろう。駄本の多くはこの段階でリジェクトになり、良貨が悪貨を駆逐するようになったりして。こういうシステムがあればセルカン事件も防げたかも。てなことは考えないのかな。

あと余談。オアゾにある丸善丸の内本店正面の品揃えを罵倒していたのが小気味良い。特に勝間本の版元ではっきり言っちゃうところが素敵。

ところで最近、本を読む量が激減していないか?>自分  とまれ『電子書籍の衝撃』を読んでみよう。新書一冊にそんな時間はかからないはず。

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