思い込みの悲喜劇
とある単語を検索していて見つけた「教えて!goo」上の質問「手作りパソコンの価格が納得できません。」 。自称「詳しい人」が「買い換えるくらいなら作リましょう。」とPCを組み立ててくれたが、明細の内容が納得できないので金を払うのが躊躇われる、と言うもの(どうやったら「り」だけカタカナにできるんだろうな。)。
根本的なところ(リサイクルとリユースを混同)で勘違いし、誤った前提で(訳の分からない)疑問を提示した上に、口先だけは一丁前(“どうみても三流です”)という、それ自体が分析のしがいのあるケースですが、少し違った角度から見てみたい。
それは、ここでは蚊帳の外の「作った人」。親切で(下心はあったかもしれないが)、ひょっとしたら出血サービスをしているかもしれないのに、この言われよう(質問者からは“自称「詳しい人」”、回答者の一人からは“ろくなのはいません”)。最終的には誤解も解けて、“代金とは別に食事でも付けようか”と再評価されているけれど、無責任に煽る回答ばかりだったらどうなっていたことやら。当人の全く知らない所で展開というのが恐ろしい。PC組み立て素人にも内容が分かるよう、あるいはせめて誠意が通じるような詳細な説明をすれば良かったのだろうが、持ち出しを隠そうとした親切心が仇になったのか。
今回は、親切な人たちがよってたかって誤解を解いたので、喜劇に終わった(当人は「皆様から無知を指摘され、非常に悔しくも恥ずかしくもあります。」と悲劇のつもりらしいが)。だが、納得しないまま(質問すれば誤解も解けるのにそれをせず)金を払い、以後関係悪化というケースだって考えられる。作った方も、期待した感謝の代わりに手切れ金みたいな金の渡され方をして憮然とするとか。同じことはパソコン以外でも起きているだろうな。
あとで調べたら、あの記事は「パソヲタと一般人の意識ギャップ」の例として有名らしいと分かった。
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