名を取って実を捨てる
先日、私的な勉強会で、某放送局の記者を話題提供者にして報道における実名・匿名問題を議論した。
テキストは『報道被害』。著者は弁護士で、誤報やメディアスクラムなどの被害者の側に立って来た人。で、当然、(私人の)犯罪報道の匿名化を主張。
一方、記者さんは実名報道の擁護者。で、話を聞いてみると確かにメリットはある。納豆騒動の某番組に限らず、モザイクと音声変換を使えばいくらでも架空の話が作れてしまうと言う。名前を出して顔を映すのが報道の真実性の担保である、と(私はそう理解した)。
ただ、なぜか話は少年犯罪の匿名問題にそれて行き、いつ実名報道に踏み切るか、という興味深い話を聞いた。少年法が少年の氏名などの報道を禁止するのは更正の可能性を保証するため。それゆえ更正の可能性が断たれた場合、被疑者死亡とか死刑確定とか、は堂々と実名報道できると手ぐすねを引いているらしい(社によって方針は異なる)。
またかつて凶悪事件を起こしながら、少年故に匿名扱いだった男が成人後にまた事件を起こした例。もちろんネットでは過去の事件と実名(と称するもの)バンバンだったが、マスコミは対応に苦慮したらしい。二度目も同じ凶悪事件なら躊躇はしなかったが、微妙な粗暴犯だったとか。さて少年時代の事件に触れて良いものか。結局、その社では今の事件は実名報道する代わりに過去の事件には触れなかったそうだ。うーん、ニュースとしては「かつての少年凶悪犯が、性懲りもなく」の方が報道する価値があるのだから、匿名にして少年時代の事件に触れた方が良かったのではないだろうか。「そんな悪い奴をなぜ匿名にする」という感情論に押されたのだろうが。これを名を取って実を捨てると言う。
あと、実名原則と言いながら、実際には微罪は匿名化に向かっている。問題は被疑者が公人、あるいは公人に近い場合。事件の性格や規模、被疑者が私人かどうかを勘案し、偉いさんが毎回合議で決めているらしい。でも、そんなものは「アキレスはカメに追いつけない」。「これは実名、これは匿名」と規準を決めたところで、その中間は必ずあるのだ。傍目には甚だしく労多くして実りの少ない仕事に思えた。
この本の80ページは注目に値します。優秀な日本の裁判所は、事件の起きる一か月前に犯人に死刑判決を出しています。どうしたの、岩波書店。
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