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2006/05/10

「風の又三郎」を観てから読む

誘われて、映画「風の又三郎」を今年末に閉館となる三百人劇場で観てきた。

原作は1931年〜1933年にかけてまとめられたものだと言う。映画は1940年製作、ではあるが戦争の影は感じられない(37年の盧溝橋事件から宣戦布告のないまま日中は全面戦争状態)。生徒は登校すると国旗掲揚塔にお辞儀はするものの、それ以外に国家を想起させるようなものは出てこない。複式学級(全学年一教室)で先生も住み込み一人という小規模校という点を考慮してもちょっと不思議。原作に忠実であろうとしたためか。そういえば教師も、威厳はあるが優しく教導するタイプで、生徒が騒いだり怠けたりしても手を上げる事はもちろん、声を荒げる事さえほとんどない(原作の先生はもっと現実離れしている)。

そういえば大人たちも、面食らうほど物わかりが良い。わずかに実際には登場しない「専売局の役人」だけが恐い大人で(村の大人にとっても恐い存在?)、「遊んでないで手伝え」なんて言わないし、馬を逃がしても迷子になっても叱らない。そういえば子供も言われなくても農作業を手伝う物わかりの良さ。ひょっとして都会の映画人が夢見た「理想の農村?」(原作には汚れた足で床を汚す子供らは出てこない)。

風の効用問答で、映像化された風のする悪さには苦笑。帽子を飛ばされる、傘を壊されるくらいならまだしも、家が壊れる、屋根まで飛んだを実写する事はあるまいに(「シャボン玉」の歌詞勘違いを思い出す)。それに比べて、風車の効用はアニメーションで教科書的。

原作には無い鉛筆の後半エピソードは「又三郎は風の神の子ではない」を暗示しているようだが、相撲後に風を起こすところはいかにも「風の神の子でござい」で謎(この島耕二版を「原作の雰囲気をよく伝えている」映画と評価している風の又三郎の世界では「三郎が密かに空の雲行きを計算して歌を歌い出したことを明示的に描写しており、ここでは三郎が又三郎ではないことが示唆されている」とあるが、そこは記憶が曖昧)。

そういえば又三郎は風を起こせばよいのであって、雷雨は管轄外だと思った。

終わってから、「風の又三郎のオノマトペ表現の分析(レジュメ)」を読ませてもらう。表の作り方がイライラするほど稚拙(資料の作りは発表会でも不評だった由)なので作り直してみようか。

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