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2006/04/17

『蝿の王』

だいぶ前にclieで書き上げていたが登録に至らなかった。

飛行機が遭難し、無人島に漂着したのは少年たちばかり。そこで力を合わせて生活基盤を作って救出を待つ、となればジュブナイルの定番だろうが、こちらは大人向け小説。ヘゲモニー争い、不安からのカルト傾倒、武力衝突と「もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね」的展開(もっとも見識なく引き起こした山火事がきっかけで救出されるとは皮肉な話)。

「もっと立派に...」は救出にやってきた海軍士官があきれて発した台詞だが、ある書評に書かれている通り大人達だって偉そうなことは言えないのだ。なぜなら少年らが飛行機に乗ったのは疎開のためで、どうみても熱帯の島に不時着したという事は少なくともヨーロッパのどこにも安全地帯の無い大戦争が勃発していた...「もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね」>イギリスの大人たち

作中、リーダーに選出されたものの文明秩序が崩壊していく中で自らの非力を嘆く少年が「大人がいたら」と切望するのが痛々しいのだが、大人がいてうまくいっただろうか。無能な大人がいたらかえって悲惨なことになっただろう。

もっとも他の少年も大人が来た時の事に思慮が及べば、及ばないのが子供というものだが、あそこまで無茶はしなかっただろう。実際、軍人が救出に来て「リーダーは誰か」と尋ねても、それまで多数派を率いて祭政一致を実現していた少年は、悪戯を見つけられた子供と同じで名乗りを上げられなかった。

別に彼らは「もう救出は来ない」と絶望していた訳ではない。いくぶん長い「休暇」に遊び呆けていただけだ。好意的に見れば、いつ来るかわからない救出に備えるよりも、エキサイティングで腹を満たしてくれる野ブタ狩りに力を注いだのは賢明かもしれない。ブタを絶滅させてしまう危険性があるとは言え。

トリフィド時代」では、市民のほとんどが一夜にして失明してしまうという未曾有の事態に際し、わずかに残った晴眼者は二派に別れる。できるだけ多くの盲人を保護して救援を待つべきとする労働運動活動家と、救援を期待せず精鋭(晴眼者と技能のある盲人)で新社会建設に臨むべきとする軍人と。こちらの物語では後者の選択が正しかった。いつでも救援が来ると思ったら大間違い。

「大人」の援助を期待できない私たちはどうすべきだろうか。振り返れば学校で職場で地域で、規模こそ違え同じような狂態は起きているのだ。

ところでこの話では少年ばかりで少女がいなかったけれど、その不自然さはさておき、いたらどうなっていただろう。あの年頃は女子の方がませているから、うまく切り盛りしただろうか。しかし女子も派閥を作るし、男女比にもよるだろうが、それはそれでまた「もっと立派にやれそうなもんじゃ」的世界になったと思うのは偏見か。

それと「狩猟隊」は合唱隊にしてはマッチョ(「歌って踊って楽しい」と揶揄されたミンセーも黄ヘル部隊は強かったらしいがw)なのはイギリスパブリックスクールは文武両道ということ? それにしてもなぜ彼らは一度も歌わなかったのだろう。

映画にもなっているが未見。こちらではアメリカの陸軍幼年学校生徒になっているらしい。


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