『99.9%は仮説』『否定学のすすめ』
『99.9%は仮説』
とくに目新しいことは書かれていない。印象的には『新しい科学論—事実は理論をたおせるか』の焼き直し(材料には新しいものも仕込まれているが)。
冒頭の「飛行機はなぜ飛ぶのか」。著者はあとがきで「漫才や落語の「つかみ」と同じで、わざと挑発的に書いたものです(腹が立った人がいたら、ごめんなさい!)」と記しているが、御期待通り不快に感じた。だから(大人は穏便に済ませるだろうが)こちらも挑発的に。
p.20の、翼のところでわかれた空気が同時に合流する必要はあるか? 計ってみたら同時ではない、だから...のところで「コイツ(=著者)はおかしい」と感じた。別に厳密に同時でなくても、同じ速度で流れた場合の到達時刻より早ければ、上を通った空気は速く流れているといえるではないか。実際測定してみれば速いという。ならこれ以上何が必要なのか?
という訳で、悪いけど以後すべてが胡散臭い。「世の中すべて仮説」は研究上の態度として有益なこともあるが、一歩間違えればズブズブの相対主義の泥濘だ。というか、すでに一知半解の哲学小僧の観念談義に足をとられているような感じがする。
わからないことはわからないと言えばよろしい。怪しげな「かもしれない」をアクロバチックに積み重ねれば「買ってはいけない」になってしまう。科学のものは科学へ、神のものは神へ。だから創造説の第五列を「科学上の大仮説」の仲間入りさせる必要はない。
エピソードの数々も、吹聴すれば街の物知りとして「へぇ」と感心してもらえるかもしれないが、眉唾な感じがしてならない(翻案され過ぎ)。
そろそろ誉めないといけないかな? でも世間の評判は好意的なようなので割愛。
こういう本が平積みで売られているって... 日本の未来は暗い、と言ってやろう。少なくとも精神的中学生には読ませたくない本。
あー、そうそう、p.126の「専門化のまちがいだ」は「専門家」のまちがいだろう。一斑をもって全豹を知る。:-p
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『否定学のすすめ』
返す刀、ではなくてお口直しに『否定学のすすめ』。出版社は社名を冠した雑誌の表紙を戦国武将にしていたことのあるプレジデント社だし、エジソンやアインシュタインを表紙に持ってくるセンスはアレだけれど、主張はまとも。
当節の軽佻な「ポジティブ」礼賛の中にあって珍しい書名である。否定文で考えると思考が限定されて創造性が発揮できなくなる、というのが通説だが、著者は「創造は否定から始まる」と意気軒昂。
曰く、科学上の発見には先行してパラダイムの転換(第一の発見)がある
曰く、知の創造の要件は「革新性」「原理的」「根源的異質性」「社会的価値」
二番目はちょっとわかりにくいが、著者は何度も繰り返している。そして注目したいのはその4番目。『99.9%は...』が下手すれば「眼前のこともすべて一炊の夢」と邯鄲の世界に簡単に陥りかねないのに対し、こちらは「創造は否定に始まる」とし、目指すは新しくて有用なものや考え方を作り出すことだと明快。
さて面白いのは、自然と一体化し現状肯定から始まる日本の思想構造からは創造は難しいという議論。欧米がノーベル賞受賞者輩出なのはキリスト教の云々だけど、日本人はキリスト教に帰依しなくても創造性を発揮できる、それが否定学だと。
著者は企業人で、その会社ではいくつもの新製品を出している。ウェブサイトには一見眉唾的なものもあるが、mupidを作っている会社といえば、分子生物学者ならば一目置こう。
ちなみにこのmupid、「アメリカに持って行って役に立ったもの」にも取り上げられているし、それはmixiのコミュでも好評。
というわけで、無責任な机上の水練でもないし、畳の上の空論でもない(ぉぃぉぃ)。
ただ、キリスト教は2000年前に成立し、5世紀にはローマ帝国の国教となっているのに、科学の時代を迎えるのはずっとずっと後。三大発明だって輸入物。キリスト教にドライビングフォースを求めるのはおかしくないか。
なにせ聖書にはこんな言葉すら書かれている。
かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。(コヘレトの言葉 / 1章 9節)
それで思い出すのが『科学と西洋の世界制覇』。海の彼方は奈落へ落ちる巨大な滝と信じ、産まれた土地で神を敬いながら死ぬのが一番と考えていた暗黒の中世ヨーロッパの住民が、突然、何かに憑かれたように外へ外へと進出をはじめる。その過程を追いながら、もし同じ技術が地理的または時間的に別の民族にもたらされたとして、同じように世界制覇に乗り出しただろうか? いやそうはなるまい、というのが主張の一つだったと記憶している。だいぶ前に読んだので自信はないが。
先に挙げた三大発明、すなわち火薬・羅針盤・活版印刷。いずれも中国で発明されたもので、考えようによっては「ルネサンスの三大改良」。ただ、本場では火薬はお祭りの爆竹、羅針盤は風水ってな具合に、呑気というか平和的に使っていたのが、禍々しい世界征服の道具になったのだから、これはコペルニクス的転回とも言えよう。
著者も、キリスト教徒でなければ創造性は発揮できないとは言ってないし、むしろ「創造に当たってヨーロッパ精神の視座は一切求めない」「自然とともにある日本人的精神の基盤の上に構築する」と書いているので本質的問題ではないのだが、気になったので付言しておく。
なお、文章は全般に読みにくい。「否定学」というネーミングも、クレタ島の嘘つき的な誤解を与えやすい。実際、ネット上には「こういうワンマンタイプの人は、自分だけは否定できませんからね」という、たぶん読んでない人の意見があった。
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著者は作曲家メンデルスゾーンの一族らしい。 ボッティチェッリのヴィーナスの誕生のモデルはアメリゴ・ベスプッチの娘(※)とか、こちらの方が雑学的にも楽しい。
※:これは記憶違いか。モデルは後のシモネッタ・ヴェスプッチ。アメリゴの遠縁と結婚したとか。本を箱から取り出して当たってみなくては。
ひょっとするとブルーバックスの「絶対零度への挑戦」もこの人の著? これも面白かった。
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