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2006/04/14

『私の嫌いな10の人びと』

ビッグイシューのベンダーである「お茶の水博士」のブログで購入した。アフィリエイトでなにがしかの収入になる事を意識している訳だが、これって著者のいう鈍感な「いい人」の押し付けがましい行動だろうか。

ブログを開く事をすすめたのは私だし、開設後はアフィリエイトの相談を受けていたし、この『私の嫌いな...』は書店で手にとった事はあるし、恩着せがましく「買ったよ」と感謝を求めなければよろしいんでは?(なのに敢えてここで書くのは、他の人を誘導するため。貶される事も厭わずに他人のアフィリエイトに協力するなんて、なんと献身的な...と自己陶酔してはイケナイ訳ね。それに今ブログを見たらお茶の水博士は仕事が決まって、ビッグイシューベンダーを卒業される由。)

というわけでこれが3冊目。最初に買った『哲学の教科書』は、読むのがひたすら苦痛。そこから理解した事は、どうやら哲学者という人間は精神を病んでいる。ただし、病気との折り合いをなんとかつけているために世間からつまはじきにされる事はない。「学者先生だから」と徳俵で踏み堪えている。したがって在野の哲学者、つまりアカデミックな機関に所属していないとあっさり土俵を割る危険がある。それを地で行っているのが文学者。名乗るのが自由な分だけご利益も薄い。

それでこの『私の嫌いな...』であるが、これは読みやすい。そして声に出して笑ってしまう。たとえば30ページ、「こうできないから、私は苦労しているのです」の箇所で知人、といっては罰が当たる、旧師の一人(「あさい三人衆」の「阿」)を思い出す。言う事やる事がそっくり。本の方に脚色があるとすれば「事実は小説よりも奇なり」だし、「実は抑えて書いた」なら東西の横綱。

もう1つ『ボートの三人男』も思い出してしまった(わぉ、これってwikipediaに項目として載ってるのね)。三人男の矛盾した言動はもちろん作者ジェロームの計算づくだが、こちらはどうなのだろう。

大学の哲学教師の95%は即刻解雇して構わない、生活がかかっているからというならせめて自責の念をもてという箇所では、最近受付を手伝った葬儀の喪主である高校教師(これが遺伝研にいらした石浜明先生にそっくりなのだが)を思い出す。彼は常々、給料は半分返上しても良いと言っているらしい。もっとも仕事も減らしてほしいらしいが。

慶應大学SFCの福田ゼミで講演をしたら、女子学生三人が精神に変調をきたした(と後日パーティーで顔を会わせるや福田教授から言われたらしい)という話も愉快。

全体を通して笑い話として読めば面白いが、では趣旨についてはどうかというと、疑問符が七つほど。詳細に述べるには余白が狭すぎるので手短にまとめると、人間の捉え方が非常に静的に思える。もっと身体を動かした方がよろしいんじゃないですか? スポーツをしたまえ、スポーツを!

いろいろあるけれど、大学で「難民避難所」ないし「孤児院」として、行き場の無い学生を救済している(p.171)と言うのは立派。人はまず、自分の持ち場において闘わなければならないのだから。

また冷笑的なようでいて、差別語は「暴力的で卑劣」ときっちり釘を刺す(p.166)ので認識を改めた。

(大学の)だらだらした会議にお悩みの様子。そこで描写されているのは『すごい会議』の対極。この本を紹介してくれた人は「あなたが会議を主催する立場ならぜひ読んで実践したほうがいい本です。召集される立場だと,会議に対する不満が増大するだけかもしれません。」と書いているので...ご覧にならない方がよろしいでしょう。それにしても情景描写が上手。眼前で繰り広げられているよう。つまり私の人生ではろくでもない会議が多かったという事か。

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