« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »

2006/01/30

とっても愉快なサイト

ニュースを読んでいたら物騒なタイトル

気に入らないサイトを"攻撃"できるWebサイト

はじめはレンタルボットネットのようなものかと思ったが、記事を読むとどうも感じが違う。yahoo!uk は「Best Innovative Web Site」賞を授与したという。

で、覗いてみた。

やってみた

godalmighty

大笑い。モンティパイソンを思い出しますね。指の先からは雷光が発せられ、罪人を焼きます。


Dog poop の犬の顔も良いが、なんといってもFried Eggsが愉快。平和的なFlower Powerはビートルズ的?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/22

『犬は「びよ」と鳴いていた』

師匠からもらった山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』を読んだ。以前、「○○という言葉は平安時代に××と読んでいた」というような話を聞き、録音もないのにどうしてそんなことがわかる?と疑問に思った。しかし末子相続のときと同じく納得するまで追究する事なく、権威に寄りかかってしまっていた(いちいち納得するまで調べるのは大変なのだ)。

今回の本はまさに、その疑問に対する答え。ああ、なるほど文献でもわかりますね。辞書(のようなもの)には読み方が書いてある。もっとも「わたしは」と書いて「watasi wa」と読むから油断がならない。だが時代は限定されるものの日葡辞書はローマ字書きだから発音もわかる(ポルトガル人の耳に聞こえた音だが)。さらに伝統芸能。狂言「柿山伏」では台本に犬の鳴きまねをする所に「びよ」と書いてあるという。先日TVでは、実際にびよびよとやっているシーンが映されていた(ただ私も中学の時「柿山伏」は見た筈だが「びよ」は記憶に残っていない)。言葉遊び(p.126)も有力な証拠に。

丹念に調べた様子がうかがえる。その一つとして、今昔物語集を分析して擬音・擬態語53種類を見いだし、過半数が現在にも残っていることを示されている。これは意外。ただ、図3(pp34-35)では長寿をほこっているABAB型でも消えてしまったものがある。語型が多様化した室町を対象にするともっと面白い結果がでるのでは無いだろうか。(全体的に統一性がちょっと、という印象)

一方で、1972年からの30年間に多くの入れ替わりがあったことも示されている。今昔にも書かれなかった短命の擬音擬態語があったことだろう(冒頭、日本語には英語の3倍以上、1200種類あると—近現代限定?—紹介されている)。

なお、こういう研究はテキストが電子化されれば楽にはなるが、目のつけどころが悪かったり方法が不適切だと「パソコンで検索ができるようになったのがそんなに得意かね」と罵られるはめに。後に続く方は気をつけましょう。

第二部は動物の声がどう表記されるかの変遷を追ったもの。なかなか面白いのだが妙な違和感が。たとえばネコが日本にいつからいたか、を『国史大辞典』などに求める。まぁ化石を探す訳にも行かないだろうけれど、なんか妙な感じ。ちなみに飼いならされていない動物は「野生」です。

モモンガの声の探索でそれは頂点に達する。こういうのは国語典ではなく百科典の類いを当たってほしい。最後にようやく「アニマルライフ」などが参照されて落ち着いたが。

「どう聞いて」「どう表現したか」の追究としては著者の方法で正しいとは思うが、私の感覚だと、まず当の動物の声を自分の耳で確認すべきだと思う。あるいは飼育している人に聞いてみるとか。猿の声の表記が変わった原因(p.17)に気づいたのは偶然?

日本人のための擬音語・擬態語辞典はwikitionary式で始められる事をお勧めしたい。

丸田センセ、悪いけど山元大輔先生の方を先に取り上げさせてもらうよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/21

こういう「放送と通信の融合」はいかが

現在のアナログ受像機は数年の後に使えなくなる。はて、いつからだったか。そういうことには一番詳しそうな姪に聞いてもはっきりとしたことはわからない。まぁ、一般大衆の受け止め方なんてこんなものですよ>地上デジタル放送推進協会&総務省

彼女曰く、日本中のテレビ受像機を買い替えさせるなんて無理。対して、でも携帯電話はアナログを途中で中止したし、auはPDCを全廃したし、と私。もっともシチズンのアンケートによれば携帯電話は半数近くが1年以内に買い替えるそうだから、移行期間を2年もみれば円滑にサービス停止できるだろう。

そうだ、テレビも携帯電話方式、つまりメーカーではなくキャリア(放送局)が販売したらどうだろう。F901はフジテレビとか(違う)。ビジネスモデルは自局配信広告優先受信。NHKを見ていても商業コマーシャルが(笑)。逆にNHK仕様のテレビはCMスキップ機能付き。ただし受信料を払わないと見られなくなるとか。

上記調査によればパソコンでさえ個人は3年で買い換える人が46.5%。新規購入1円、機種変2万円なら2011年までにほとんどのテレビをデジタル対応に買い替えさせられますぜ。現在あまり買換えが進まないのはデジタル移行を理解している人も、「待てばもっと良い機械がより安く手に入るだろう」と思っているから。携帯電話ビジネスモデルならこの買い控えを抑制できます。♪

ついでだから携帯電話をテレビのリモコンにしてしまえ。同時に、テレビをつけていたら「番組からのお知らせ」をメールで届けるとか。

冗談から駒で、考え出すとなかなかイケそう、と酔った頭で考えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/18

「かまくら」だろうか?

山元先生のトークセッションへの感想に「日本酒と天ソバか何かの台抜き」と書いたのには訳がある。

先生が酒の飲み方を習った大学の先生は粋な方で、授業を終えると学生を連れて街へ繰り出すのが常だったそうだ。非常勤でフランス語を教えに来て「宵越しの金は持たない」とばかりに謝礼を使い切ってしまうとか。そして、おすすめの肴が「親子丼の上の部分」だったという。山元先生が「なんとかいう名前があった」と気にされていたので「おそらく台抜きでしょう」とお伝えしたしだい。

しかし早速いただいたコメントに「私は固有名詞を聞かされたと言う記憶」とあったので調べてみた。この場合はネットより食のエッセイの方が良かろうと、またジュンク堂に足をのばして、まず杉浦日向子さんにあたる。わからない。それらしい本を手当たり次第に開くが、見つかったのは「天抜き」くらい。そのうち無性に日本酒が飲みたくなって探索中止。

天ぷら蕎麦の場合は「台抜き」「天抜き」でも親子丼には別の名称があるかもしれない。レシピを見たら「○○をご飯に載せて出来上がり」なんてあるだろうか。あるいは親子丼の定義として「丼飯に○○を載せたもの」とあればしめたもの。だが、親子丼ではヒットが多すぎる(約 472,000)。あるレシピは「(4)丼にご飯を盛り(3)を上から形をくずさないようにのせる」、ある定義は「鶏肉の卵とじを載せたもの」。

行き詰ったときは原点に帰る。「台抜き and 天抜き」でググってみた。するとWikipediaに「天抜き」という項目が。さっそくあたると一通りの説明に続けて同様の言葉に鴨抜き(鴨南蛮の蕎麦抜き)、台抜き(天抜きと同義だが、カツ丼の飯抜きなども該当)などがある。関西地方では『すは(素は)鎌倉』の語呂からかまくらと呼ばれることもある。と。かまくらね、これなら固有名詞と言う記憶に合致する。(でも、私は「いざ鎌倉」に馴染みが)

しかしフランス語の先生、お金の使い方からすると江戸っ子ですね。かまくらではないかも。あー、鴨抜きでいっぱいやりたくなってきた。

「親子丼の台抜き」を指す名称をご存知の方は、コメントまたはトラックバックをお願いします。コメントはメールアドレス不記入でも書き込めます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/01/16

昆虫の図鑑、青臭い恋愛小説、心と遺伝子(+同性愛)を聴いてきた

ジュンク堂トークセッション「昆虫の図鑑、青臭い恋愛小説、心と遺伝子(+同性愛)」を聴いてきた。企画は台場にある日本科学未来館らしい。

前半は演者である山元大輔教授が何をしているのか、という行動遺伝学の紹介。これがうけて、終了後の質問も大半が同性愛の遺伝子に集中。少しは本の質問もしましょうよ。

遺伝決定論は忌み嫌う人がいるし、虫の話をしているのにヒトのことだと誤解して怒り出す人もいるから少し心配だったが、軽妙に、慎重にさばいていたのはお見事。

少女^h^h^h^hショウジョウバエの性行動変異の話はもっと聞きたかった。特にsatori変異の脳の話は、聞き違いとは思うが合点がいかない(脳が雌化しても雄を追いかけるようにはなるまい)。また性行動異常で不妊になる変異系統の維持は大変だろう(「禁欲主義は遺伝しない」)。

さて、本のお話。ご自宅と研究室の書棚の写真を示しながら読書遍歴の紹介。実にいろいろな本をお読みになる。しかし「本はためない」主義で、引っ越しの度に処分するというのに、高校以前の本も残されている。どういう淘汰圧に耐えたのか、は興味深い。これについて「いろいろな本を読まれているが、共通点は?」という質問があったけれど、一つの共通点を求めるのは無駄だろう。読み手の心の琴線にしても一本とは限らない。

むしろ読み手の精神状況によって読みたい本が変わるのではないか。実験がうまくいってアイデアが次々湧いてくるような時はあまり本は読まないだろうし、論文が受理されて一段落という時と、行き詰まってしまいグラントの心配がのしかかっている時とでは、読みたい本は自ずと異なると思う。その辺りが意識化できれば、逆に手にとる本によって意識を変える事ができたりして。

また読書は個人的な営みと思われているが、友人等の影響が意外に大きい事を再認識した。

最後にお薦めの本の紹介。
いち・たす・いち」(中田力)
ヒトゲノムとあなた」(柳澤桂子)
まだあったかな? 柳澤さんは何となく避けていたけれど、ああ誉めるのなら読んでみようか、という気になった。これも他人の影響の重要性の証左?

後は雑感。
・やはりコーヒーやお茶ではなく、ビールか焼酎を前に聞くのがふさわしいと思う。(欲を言えば日本酒と天ソバか何かの台抜き関東だと天抜き?で)
・書棚の写真はプロに撮らせなさい。せめて撮影術を伝授して(ストロボが反射して書名が見えない)。
・一日は24時間、一週間は7日と平等に与えられている筈なのに...時間にも人によって濃淡がある。
・恋愛小説を読んだり、女性誌に連載を持ったりすることで脳が刺激されているだろうな(参考「男性なら、無作為に女性誌を買ってみよう」)
・生物系の人はSF嫌い、という事はないと思う。たとえば遺伝研にSF好きの人がいるのを知っている。
・研究室の机に載っているのはG4cubeだろうか。液晶モニタの前に小型ノートPC(Let's note?)がタンデムになっているのがカコイイ。
・館内放送で女性が「昆虫の図鑑、青臭い恋愛小説、心と遺伝子、同性愛」と繰り返していたのはなんとも。

終了後は即席のサイン会。並べて販売されていたうちから「男と女はなぜ惹きあうのか—「フェロモン」学入門」(+「ミーサイマガジン9」)を購入。先生、私の事は覚えていてくださいました。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2006/01/12

FYIトラックバック、か

前のエントリーで擁護した言及無しトラックバックは、FYIトラックバックと呼べるだろう。但し、この場合のyouは、トラックバック(TB)先のブログ主限定ではなく、そこの読者が含まれる(「どっちが主だ」とは突っ込まないで)。

TBは読者のためでもある論は独り説かと暗澹たる思いでいたが、松永さんのエントリーへのTBを粘着にじっくりと見ていたら、同じ考えの人を発見して半分安堵(半分は己の独自性が下がったと)。

トラックバックを打つのは、読者のためである。(略)トラックバックを打つというのは、言及先の文書の読者に対してさらなる掘り下げを目にする機会を提供することであり、結局単方向リンクを張るのと同様の「よりよいコンテンツを提供するための活動」の一環にすぎない。

トラックバックの想定する受益者

また、「トラバ先のリンクは記事に入れるべき派」の中にも留保をつける人はいた。


何か間違っている記事に対し、親切で事実を教えてくださるようなトラバがつくことがありますが、こういうトラバによって私も何度も救われたことがあります。私はそういうトラバにリンクが無くても、感謝こそすれ、「リンクがねえよ!」と怒る事はありません。

そのトラバに愛はあるのかい?

先にリンク無しTB排除はスパマーとの軍拡競争を招く危険があると指摘したが、この方もこの記事のケースのような場合、例えリンクが入っていても、私はダメなトラバだと思います。言及リンク有りアフィリエイト馬鹿に否定的。それはそうでしょう。本当の敵は、言及リンクの有無で判別するものではないのですから。(いいTBの条件として「面白い記事なら、関連が薄くてもリンクがなくてもうれしい」(関連がありリンクされていればもっとうれしい)という 「トラックバック無党派」は見識だと思う。)

ちなみに今回は「あなたに同意」TBになります。でも多数派工作ではありません。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2006/01/09

私は言及リンク文化圏情報非等価派(?)

トラックバックをめぐる4つの文化圏には賛否寄せられ盛り上がっている模様(こころなしか賛成が多いような...私も全面的に反対という訳ではない)。

なお、発端となったライブドアブログの「リンク無しトラックバック(TB)拒否」は選択制らしい。「リンク無しTBも無条件に受け入れるべき」派ではないから、これはこれで妥当な判断かと。

いくつかのエントリーをつまみ食いしたところ、
1)やはり「アクセスを奪う」論には批判がある
2)TBスパム(無関係TB)を擁護する人は見当たらない
3)読者の視点欠落の指摘もちらほら

1)については松永さん自身が補足説明をアップしている。だが、これを読むと、喧嘩を売る事はあるまいと私が敢えて公言しなかった皮肉、TBがなかった時代、この人はよそへリンクするたびに相互リンクの申し入れをしていたの?が冗談でなくなってしまう。

「アクセスが奪われる」というのは決して「自分のブログの読者が減る」という意味ではないということだ(これは文脈から理解していただけると思うが)。これは、あくまでも「一方通行の道筋が作られてしまう」という意味である。
「言及リンク文化圏」では、「一方通行ではなく、等価な相互通行」を作ることを求める。

一方的なリンクでは一方通行だから、「私からリンクしたからそっちからもリンクして」(相互リンク強要)は論理的帰結だ。(もちろんウェブの二つの文化圏の衝突【前編】無断リンク禁止問題にみるリンクする側・される側の論理からは、そうは思っていない事が読み取れる。そしてそれには異論はない。でも矛盾してない?)

なお、


言及リンクしないことは、自分のブログの読者に対して情報をたどるルートを示さない不親切なもの

については、既に書いたように、それもアリというのが私の立場。ただ、お前のところの読者には私のブログは読む価値があり、私のブログの読者には君のブログは読む価値が無い、と言われたら不愉快という気持ちはわかる。「価値」でなく「意味」とすると和らぐかな。

私が駄文をものするにあたり専門家のブログが役に立ったとする。当然、本文から言及リンクをする。しかしTBをかけようなんて厚かましい事は考えない(むろんあちらに対して何らかの新しいものの提供が可能と考えれば別)。もし、私が専門家のブログを見落として的外れな事を書いていたとする。それを偶然発見した専門家が、義侠心に駆られて「まず私のブログを読みたまえ」とTBをかけてくれたなら、感謝こそすれ、「なんでそっちの本文に私への言及リンクがないのか」などと逆切れはしない(「世間にはこんな勘違いもある」と馬鹿の代表にされたら、いくら事実とはいえ恥ずかしい)。双方は非等価なのだから読者が一方通行だって当然だ。

2)はまぁ当然だろう。私もまるっきり無関係なエントリーにTBをかけるのはどうかと思う。まして架空請求やワンクリック詐欺への誘引は論外。これはTBを削除するだけでは不十分で、サイト閉鎖に追い込むべき。とはいえ、これも疑問を呈したように、spamメールほどの実害があるか疑問。もちろん品位は下がるから我慢する必要はないが、ひっかかってクリックするような人っているのだろうか(絶無に決まってるとは言わないが)。

むしろ心配なのは、こちらへのリンクを含まないTBは拒絶なんて仕様が広まったら、軍拡競争を刺激、つまりスパマーはほぼ確実に自動取得したリンクを本文に貼付け、ついでに一覧に表示される冒頭部分を相手の引用にしてくるだろう。フェイクブログ(パクリブログ)を見ていればそのくらいは朝飯前のはず。すでにspamメールでも冒頭をニュースにして偽装してくるものが出ている。

3)の例としては「トラックバックは「受け手」の問題」など。世の中には、僕のように、その文化を二つ含んでいる人もいるとか「私のトラックバックポリシーは・・・」と書いたりしてもさ、訪れた人全員がそれを読むとは限らないわけじゃんとか嬉しい事が書いてある。

以上、言及したサイトには敬意を表してTBしません。(^^)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

書籍が二冊

旧師から小包が届いた。

開けてみると本が二冊。

山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社)
丸田敬『工場はなぜ燃えたか?』(エネルギーフォーラム)


山口先生は師匠が現在大学院生として師事している方。丸田センセは***

中国の蝉は何と鳴く?言葉の先生、北京へゆく」が面白かったので、とりあえずは山口大先生の本から読み始める。


| | コメント (0) | トラックバック (1)

トラックバックは読まれているのか?

一昨日のエントリーは、自分が「関連仲間文化圏」に押し込められ、無意味にトラックバック(TB)を乱発しているとの烙印を押されていたので反発が先に立ってしまい、「TBにはリンクが必要」派の意向を3/4尊重しつつも、1/4揶揄したのは大人気なかった。

ところで、そもそもTBした記事は読まれるのだろうか。どれほどの読者がTB元まで辿ってくるだろうか。TB先のブログ主は辿ってくるだろうし、TBはSEO(サーチエンジン最適化)効果もあるので、「TBしたらアクセスアップ」は頼りにならない。

なぜこういう疑問をもったか。TBをしても、それを辿ったアクセスが(少)なければ、そもそも「アクセスを奪うのはけしからん」という「言及リンク文化圏(異論もあるようなのでその一派)」の言いがかり懸念は意味がなくなってしまう。本当にビジターまでTBを辿ってきているのだろうか。

というのも、TBの一覧を見て「読む価値があるか」を判断できる場合はかなり少ない、という印象がある。一目でTBスパムとわかれば避ける。既に知っているブログからのTBなら判断できる。だが引用から始まるTBがずらずらと並んでいたら? あるいは内容との関連がわからない枕の羅列だったら? 数が少なければ一つ一つクリックもしよう(ところが管見の範囲では...リンクはしている、TB先に言及もしている、だが新しい発見や思考の発展系がある訳では無い、というものが多い...「筋の悪い」ブログばかり見ているからだろうか?)。

TBも数が多くなると辿ってもらえなくなるのでは無いだろうか。埋没せずに読んでもらうためにはエントリータイトルやリードに工夫が必要だ。メールの作法で散々「真っ先に結論を」と言われているが、ブログの多くは起承転結を意識して?前置きが長い。それが美学だという方は、「要約」を活用してほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/07

トラックバック文化考

知人の紹介でトラックバックをめぐる4つの文化圏の文化衝突を期待して読んだ。ところが私は4つのいずれにも属さない。

「内容さえ関連していれば条件を満たしている」派ではあるが、トラックバック返しには批判的なので「関連仲間文化圏」からは遠い所にある。

「相手への言及(リンク)」をトラックバックの必要条件とはしない理由は勤務先アカウントのブログで書いたが、会社が倒産して近々閉鎖されるだろうから一部引用しておこう。真っ先にリンクをトラックバックへの必須条件としたはてなダイアリーへの批判。なお、原文では強調表示はない。

トラックバックspam対策として有効なのは認めるけれど、ガイド自身直前で「こちらの記事に関連した記事があります。(関連記事紹介)」をトラックバック要件に挙げている。これなら一方通行でも問題はないだろうに。それに個別に名指しにしたらトラックバック送信元の性格が限定されてしまうではないか。場合によっては送信先に恥をかかせてしまうかもしれない。

たとえばあるblog(blogA)にしょーもない勘違いというか質問が書かれていたとする。それに同情して、詳しい解説をしてあるblogBからトラックバックをすると、blogAを読んだ人はblogBに辿りつけて蒙を啓くことができる。ここまでは良い。blogBを読んでいる人にはblogAは意識されない。

ところがもしblogBからblogAへのリンクが必須条件になっていると、blogBを読んだ人には、blogAが「バカの例」として血祭りに上げられているように見えるだろう(同じ間違いをしているblogは他にもあるのに、よりによってblogAだけを名指しにするなんて!)。そして一般的な解説であったblogBは単なるblogAへの嫌がらせに成り下がってしまう。

blogAの内容がそれほど恥ずかしくない場合でも、blogBはblogAへの回答が主目的ではない。

blogBはblogAを書いた人のため(だけ)にトラックバックした訳ではない。blogAを読んだ人のためにトラックバックをしているのだ。そしてまたblogAにリンクをしないのも、blogAを書いた人の名誉のため(だけ)ではない。自分のブログを読んだ人に意味の無いリンクを提示しないためだ。

トラックバック返しには批判的なのも同じ理由。

しかし二番目の問題として、トラックバックのループが浮かんでくる。書いてる当人はあまり気にしていないようだが、後から読む側にとって、トラックバックを辿っていったら元に戻ってくると言うのは非常に腹立たしい。実際のところ、トラックバックスパムも相まって、議論が深まるどころか迷路に陥りそうになったことがある。まるである種のサイトの広告をクリックしたみたいだ(ぉぃぉぃ)。

常に考えるべきなのは読む側の利益、だと思う。読者あってのblogでしょ。以下もその立場で書いたもの

さて、この機会にblogへ情報処理技術者試験の問題を載せている人へ一言。「問題だけ」は止めてほしい。調べ物をしていて、そういう無内容なページがヒットすると、こう黒い情念がむらむらと。問題に続けて自分の回答を、オリジナル表現の根拠を添えて書き込んであれば、これは「引用による利用」で大手を振って公開できる。間違えていた場合は恥をかくかもしれないが、失敗を恐れていて前進はありえない。その緊張感を維持してしっかり考えたまえ。公明正大かつ勉強になる。どうか問題だけのblogは止めてくれ。

私が「4つの文化圏」の考察から除外されてしまった理由が見えてくる。あそこに登場する作者が考えるのは自分の都合だけ。だからトラックバックが「相手の記事からアクセスを奪ってくるもの」という、私にとっては不可解な考えが出てくる。コメントでアクセス至上主義みたいだと批判されて、アクセスが「一方通行」になるというか、不均衡になるのがよろしくないと感じると弁解しているが、それこそ「違う文化の人だなぁ」としか感じられない。

「アクセスを奪う」を正確に理解すれば、本来こちらに来るべきアクセスをよそへ誘導してしまうことで、トラックバックをされても自分へのアクセスは減ってはいないのだから、「奪う」とは言いがかりにしか思えない。相手のアクセスのおこぼれに与れないのは確かだが、それって権利として主張すべき事? 相互にアクセスを融通するって、下手したら上に書いたように読者をループに誘い込んでぐるぐる回すことになるんですけど。

とはいえ、マトリックスで4つに分類したのは議論を整理する上で有効だと思う。それにしてもspam文化圏からの「宣伝させろ」トラックバックに対してごあいさつ文化圏からの返礼が「トラックバックありがとうございま〜す」というのには笑った。

住み分けるのは摩擦を避ける方法にはなるが、たこ壷にはまる危険もある。「郷に入りては郷に従え」で、異文化圏を見て回る余裕も必要だろう。ネット上の争いで血が流れる事は無いとはいえ無用な文化摩擦は避けたいもの。そのためには自らの属する文化圏を明示(「リンクのないトラックバックお断り」など)するのは有効だろうが、そういう言明をしないという文化もあり得るな。これは空気読め(暗黙知)派とお知らせ読め(形式知)派の争い。まぁ、皆さん、自分が世界の中心にいるとは思い込まない事ですね(←これすら、「自分が中心と思えないようではダメ」という考えの人には受け入れられないだろうな。それ以前に「仕切るな」と石が飛んでくるかも)。


最後に禁じ手?を披露。ライブドアの仕様は知らないが、はてなの場合、トラックバック先URLをコメントアウト等で不可視にしていても受付けてもらえる。「知人の紹介で松永さんの【絵文録ことのは】掲載のトラックバックをめぐる4つの文化圏の文化衝突を期待して読んだ。」とすれば目視確認でもすり抜けるだろう。これでおわかりのように、冒頭のリンクは一つに見えるけど実は2カ所向けなのだ。もっと悪戯して、正しいリンクは最初の一文字(あるいは半角スペース)だけ、残りは軒並み無関係サイトという手も考えたが、こちらが冗談と思っていても、世の中の人すべてが理解・同意してくれる訳ではないのでやめておく(真面目にリンクを辿ろうとする読者も混乱するだろうし...意図を見抜いてニヤリとする人ばかりでもない)。

| | コメント (3) | トラックバック (6)

2006/01/03

岸信介はA級戦犯 ではなかった

お屠蘇で緩んだ頭を引き締めるため少し堅めの雑誌を手にとった。月刊「論座」(2月号)。

巻頭記事が「渡辺恒雄氏が朝日と「共闘」宣言」と刺激的なタイトル。これなら読めそうだ。

読売新聞は昨年6月の社説で、「A級戦犯が合祀されている靖国神社に(首相は)参拝すべきでない」と主張した(p.28)...知らなかった。(少しネットを調べると梯子を外されたといわんばかりの発言が発見できた)

岸信介はA級戦犯ではない(p.35)...エッと思って調べると、確かに戦犯容疑者として拘束はされているが、訴追はされていない。しかしニキサンスケと呼ばれた男に責任がない筈はないし、日本人として戦争責任を追及すれば東京裁判に訴追されていないからといって見逃すわけにはいかないというのだから、あまり重要視する事では無いだろう。ただ不用心に「岸は」とやれば突かれるだろう。用心用心

吉田茂は自衛隊を「戦力なき軍隊」と言っていた(p.36)...これまたエッ。そっか、憲法九条二項が否定するのは「戦力」と「国の交戦権」だから、戦力なき軍隊なら問題ない(ワケネーダロ)。某自衛隊基地のウェブサイトがair base(空軍基地)と書いているのは勇み足でもなんでもなく、政府の公式見解に沿っての事だったのね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/01/01

一年の計

元日は早くも残すところ二時間あまり。

この調子で2006年、また人生も暮れてしまうのではないかという危惧が脳裏をよぎる。

一年の計は元旦にありという。とりあえず今朝思いついた事を書き付けておこう。

もっとも昨年読んだある本に、「目標というものは達成できたかどうか客観的に検証できなければならない」という趣旨の事が書いてあった(と思う)。いわゆる数値目標だ。それはまた、努力すれば何とかなりそう、くらいの難しさでなければならない。難易度を具体的にどの程度に設定するか、というのは難問。

というわけで数値(達成検証指標)は追々定めるとして、まず全体的な方向性を確認しておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »